
ん?って思える瞬間に私の気持ちは立ち止まる・・・
【まだ、自分をあきらめていない証拠】
――私が、私と一緒に生きるという選択
寝る前の本のひと時、ふと考えることがある。
何を着よう、何を言おう、どこまで笑おう――そんな“誰かの目”に合わせた思考の中に、
小さな違和感が、沈殿物のように残っているのに気づくことがある。
「これって、私の望んだ日常だったっけ?」
何かが、ちょっとだけズレている。
大きな痛みじゃない。誰かに言っても「気のせいじゃない?」って言われるような、ささいなズレ。
でも、たぶん、それが大事なんだと思う。
それが、まだ自分をあきらめていない証拠なのかもしれない。
■不満は、魂の“反応”かもしれない
「このままでいいのかな」
「こんな自分でいいのかな」
「どうして、満たされないんだろう」
そんな風に思うときって、どこかネガティブに感じてしまうけど、
それって、もうどうでもよくなった人には湧いてこない感情だったりする。
本当に諦めた人は、不満さえ感じない。
興味も、欲も、怒りも、なくなるから。
だから、不満ってもしかしたら、“まだ自分に期待している”というサインかもしれない。
例えるなら、眠っていたはずの種が、土の中でじわっと動き出している感じ。
芽が出るのはまだ先だけど、もうそこには生命がある。
■人の言葉に揺れるのは、傷つきたくない自分が生きているから
誰かのひと言に過剰に反応してしまうことがある。
なんでもないようなアドバイスが、急に胸に刺さったり。
気にしてないふりをして、帰り道でリピート再生してしまったり。
それって、「人の評価に振り回されてるな…」って落ち込んだりもするけど、
実はその裏には、“自分を守ろうとする健気さ”が隠れてるような気がする。
私たちは、自分を大切にしたいから、傷つくことを避けようとする。
自分の輪郭を見失いたくないから、人の言葉を測りに使う。
それって、そんなに悪いことなんだろうか。
でも、問題は――
“聞こえた言葉”だけを信じて、“自分の声”を無視してしまうとき。
それは、もう“自分の舵”を手放してしまった状態。
自分という船に乗っているはずなのに、どこへ向かってるのかわからなくなる。
■考えること、それが“置いていかない”ってこと
「私はどうしたい?」
「本当は何が嫌だったんだろう?」
そんな問いを自分に向けるのは、めんどくさいし、怖い。
でも、それをするってことは、まだ“自分と一緒に生きよう”としている証拠なんだと思う。
たとえば、台所の隅に置きっぱなしの観葉植物に、ふと気づいて水をあげるみたいに。
葉っぱはしおれていても、根っこさえ生きていれば、また立ち上がれる。
「考える」ということは、水やりみたいな行為なんだと思う。
それは“自分と関わろうとする意志”であり、自分を見捨てていないという事実。
■自分軸がなくても、迷っていても、それでいい
こじらせていたっていい。
人の顔色をうかがってしまう日があったっていい。
自分らしさを見失う日があっても、それを「ダメ」と決めつける必要なんてない。
だって、迷っているということは、まだ立ち止まっているということ。
立ち止まって、自分の足元を見ようとしているということ。
つまり、まだ自分をあきらめていないということなんだと思う。
✦最後に✦
自分を大切にするって、
もっとすごく具体的で、地味で、地道な行為なのかもしれない。
「ちゃんと考える」
「気にしてあげる」
「違和感に気づく」
その一つひとつが、“私は私の味方です”という静かなメッセージなのかもしれない。
だから、今日も迷っていい。こじらせてていい。
そのままの自分と、一緒に生きる方法を、まだ探している私たちは――
きっと、ちゃんと生きようとしている。
✦シンプルフレーズの一言✦
「私は、私を置いていかない」
[いつでもシンプル!笑顔のシンプル!]
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