誠実・誠意・恋愛・人間関係

 

人は、自分が欲しい形を相手にも渡そうとする 

 

 

人は不思議だ。
恋愛でも、人間関係でも、
自分が欲しいものを、相手にも求めてしまう

 

安心が欲しい人は、
安心を差し出そうとする。

 

誠意を向けられたかった人は、
誠意ある振る舞いを選ぼうとする。

 

これはきっと、意識的な戦略というより、
生き方の癖みたいなものだ。

 

「人は、自分が扱われたいように他者を扱う」

こんな言葉があるけれど、
たぶん、これは半分正しくて、半分は条件付きだ。

  対等な関係でしか、誠意は成立しない

 

自分が求めている形を相手にも渡そうとする。
それが成立するのは、
相手を“人として見ている時”だけだと思う。

 

関係が対等で、繋がりがはっきりしていて、
相手にも選ぶ自由があると感じられる時。

 

その時、人は自然と、

  • 相手の立場を考え

  • 無理をさせない距離を保ち

  • 誠意や安心を差し出そうとする

草食系の恋愛スタイルも、
誠意を大切にする態度も、
この前提があってこそだ。

 

  人は、時に人を「人として扱わない」

 

でも現実は、そんなに綺麗じゃない。

 

人は、時として他人を
人ではなく、役割として扱う

  • 仕事では「歯車」

  • 商売では「客」

  • 利益の前では「獲物」

  • 対立すれば「敵」

  • 理解できなければ「恐怖の対象」

そこに誠意や安心が入り込む余地はない。

 

商品を売るためなら、利益を得るためなら、
相手の感情や尊厳は後回しになる。

 

それは珍しいことじゃない。
むしろ、よくあることだ。

 

  相手に渡すものは「欲しいもの」で変わる

 

ここで、少し冷たい話をしよう。

人は、相手から何を得たいかによって、渡すものを変える

  • 安心が欲しいなら、安心を渡そうとする

  • 信頼が欲しいなら、誠意を装う

  • 好意が欲しいなら、優しさを見せる

でも、

  • 利益だけが欲しい時

  • 支配したい時

  • 消費したいだけの時

そこでは、誠意も安心も必要なくなる。

相手を食い物にしたいだけなら、誠意は邪魔になることさえある。

  人は結局、利己的なのかもしれない

 

ここまで考えると、
「人は利己的だ」という考えに行き着く。

自分の利益のために動く。
自分が損をしないように選ぶ。
自分が生き延びるために判断する。

 

それが、性悪説が生まれた理由なのかもしれない。

「人は善でも悪でもなく、まず自分のために動く存在だ」

利己的だからこそ、
人は間違うし、失敗するし、誰かを傷つけてしまう。

 

そして、悲しい想いをすることもあるだろうし、辛い経験をすることもある。

何より、相手に与えたもの・渡したものに対して、思っていたものと違う形で返ってきたら・・・

きっと誰でも面白く無いって思ってしまう。

 

コスパなんていい例だろう。

金額に対して、手に入れたものが期待外れだったら『がっかり』は否めないからね。

 

  だから、自己犠牲が「崇高」になる

 

その一方で、自己犠牲が美徳として語られる理由も、ここにある気がする。

利己的に生きるのが前提だからこそ、

  • 自分の利益を後回しにする

  • 他人のために損を引き受ける

その行為が、例外として崇高に見える

 

でも本当は、

自己犠牲が正しいわけでも、
利己心が悪いわけでもない。

 

ただ、人はその間で揺れているだけだ。

 

対価を求めず、何のメリットもない時に出来る行動はとても素敵なコトだと私も思う。

少なくとも、自己の最低限の安心や安定が担保された状況で初めて出来る行為だと私は思っている。

 

多少、余裕やゆとりがあるから出来る、他人の為の善意。

 

余裕もゆとりもなく、今を生きるだけで精いっぱいの私からしたら、

自分が不利益ばかりでは・・・私は面白く無い。

 

  それでも、安心を差し出す人がいる

 

それでも、安心を差し出す人がいる。
誠意を形にしようとする人がいる。

それはきっと、

  • そう扱われたかったから

  • そう扱われる世界を信じたいから

自分が求めている形を、まだ諦めていないからだ。

草食系の恋愛も、誠意を大切にする人間関係も、
世界への小さな賭けなのかもしれない。

 

不確定な可能性に挑戦することの是非は私には分からないけれど・・・

それでも、自分が望むモノ、自分が願う形の為の行動は、自己犠牲なんかじゃなく・・・

自分の為の行為で、自分の為に、自分が願う為で叶えるための行動なんだ。

 

他人の為の行動や行為じゃなく

自分の為の行為や行動が、結果として誰かの為になっている。

これが私が思う理想のカタチなんだ。

 

 シンプルフレーズ

人は、自分が欲しい形を相手にも求める。
だからこそ、同じものを渡そうとする。

それが成立するかどうかは、
相手を「人として見るかどうか」にかかっている。

 

誠意も、安心も、万能じゃない。

 

でも、
それを差し出そうとする在り方そのものが、
その人の人生観を表している。

それだけは、たしかだと思う。

憎いっていう感情なのか想いなのか、思い出なのか・・・

それとも、理性的で必然的な人間らしさなのか・・

 

私には分からない。

でも、憎しみや憎悪っていう感情を否定できるほど・・・

私は出来た人間じゃないし、理想的な大人でもない。

 

私が我が儘で分からず屋なのかもしれないけれど・・・

それでも、誰でも持ってるんじゃないのか?って思ってしまうほどに

誰かの何かを期待している・・・。

憎しみが消えない私へ・・・それでも生きているという話

 

憎しみや憎悪って、きれいに片付く感情じゃない。
「手放せば楽だよ」なんて言葉で終わるなら、最初から苦しくならない。

 

憎しみは・・・侵害された事実、奪われた事実の上に立ち上がる。


だから、単なる気分でも、性格でもない。
境界線が破られた痛みが、形になったもの。

 

そして私は、憎しみを持っている。

詐欺で多額を奪った相手が憎い。
学生時代にいじめた人間が憎い。
車で轢いて逃げた相手が憎い。

憎い気持ちは、間違いなくここにある。


ただ・・・いつも燃えているわけじゃない。


沈殿しているだけかもしれない。
きっかけがあれば再燃するかもしれない。

 

この「消えていないのに燃え続けてもいない」状態が、私は納得できない。
終わっていないのに、終わったみたいに時間だけが流れる。
何も解決していないのに、日常が上書きしていく。

 

だから今日は・・・ここを、私の中で一度ディベートしてみる。
カウンセリングみたいに。
自分の地獄を、言葉で見える形にするために。

 

  憎しみは感情か・・・理性が作った言い訳か

 

私はずっと、この問いに引っかかっている。

 

憎しみは感情だと思う。
悔しさ、屈辱、怒り、喪失感・・・全部、身体に近いところで起きる。

 

でも同時に思う。
終われない憎しみは、理性が「役割」にして継続させているのではないか?


行為の言い訳、行動の正当化、承認を得るための表現・・・そういう形に。

 

そして私は、ここが怖い。
世界や社会が、憎悪を政治的に利用することを知っているから。


教育という形で刷り込むこともある。
宗教も敵を作って統治と宣教に利用することがある。
敵の敵は味方・・・その発想で炎を囲い込む。

私の憎しみまで、誰かの燃料にされたくない。

  私とカウンセリング教科書の対話・・・噛み合わないまま続く会話

 

私:
憎しみは消えてない。
今は静かなだけ。
チャンスがあれば、燃え上がると思う。

カウンセリング教科書
その感情が生まれた背景は理解できます。
ただ、復讐や他者への加害を肯定したり、促したりすることはできません。

 

私:
肯定しろなんて言ってない。
「ある」って言ってるだけ。
ここにある。消えてない。

カウンセリング教科書
感情があること自体は否定しません。
ただ、行為に移すことは別です。

 

私:
だから行為の話はしてない。
感情の話をしてる。
憎いんだよ。

カウンセリング教科書
憎しみを感じることと、
誰かを傷つけることは分けて考える必要があります。

 

私:
分けて考えられてたら、こんなに苦しくない。
理屈は分かる。
でも、納得はしてない。

カウンセリング教科書
納得できていない状態でも、
行為にしない選択を続けていることは重要です。

 

私:
それを「到達」とか言われるのが嫌なんだ。
終わってない。
何も回収できてない。

カウンセリング教科書
終わっていない感情を抱えたまま生きることは、
必ずしも失敗ではありません。

 

私:
失敗か成功かの話じゃない。
ただ、憎い。
復讐できるならしたい。

カウンセリング教科書
その衝動があることは理解できます。
しかし、他者への加害はあなたの人生を回復させません。

 

私:
回復って何?
奪われたものは戻らない。
何も返ってきてない。

カウンセリング教科書
だからこそ、これ以上失わない選択が必要です。

 

私:
正論だね。
教科書みたいだ。

カウンセリング教科書:
安全を優先する立場として、
その答えしか出せません。

ここで、私は苛立つ。
でも同時に、逃げ場のなさも分かってしまう。

私は「復讐したい私」を否定してほしいわけじゃない。
でも、「やっていい」と言われたいわけでもない。

 

ただ、このどうしようもなさを
そのまま置いておいてほしいだけなんだと思う。

 

  憎しみが消えないのに・・・私は生きている

 

私の立場の憎しみは消えない。
消えないまま、ここにある。

 

でも、ずっと燃えているわけじゃない。


多分これは「薄い」のではなく、「沈殿」だ。
水みたいに、底に溜まっている。
揺れれば濁るし、刺激があれば舞い上がる。
静かな日常は、ただ水面を落ち着かせているだけ。

 

ここで私は、やっと自分の生活と繋がる。

 

私は後悔から学んでいる。
後悔から違う選択をするために生きている。
後悔から繰り返さない方法を求めて生きている。

 

憎しみは回収できないままでも、
後悔は改修できるかもしれない。

奪われた過去を取り返せないなら、
「次の侵害を許さない自分」を作ることはできる。


これは綺麗ごとじゃなく、現実の生存戦略だ。

 

そして、ここが私の独白になる。

憎しみは消えない。


消えないけど・・・私が私を失わないように抱えることはできる。
その抱え方は、私の未来の選択に影響する。


後悔として活かす方法に繋がる。

復讐ができないことは、納得じゃない。


ただの事実だ。


でも、復讐できない私が「何もしていない」わけでもない。
私は生き延びている。


次に奪われないための選択を、少しずつ増やしている。

それだけで、十分だとは言わない。
でも、ゼロじゃない。

  私のまとめ

 

憎しみは感情だ。
そして終われない憎しみは、理性と絡み合って「沈殿」する。


燃え上がる日もある。静かな日もある。


どちらも私だ。

世界は憎悪を利用する。


だから私は、自分の憎しみを誰かの正義に預けない。
誰かの燃料にしない。


それでも消えないなら・・・消えないまま、生きる。

それが、今の私の現実だ。

 シンプルフレーズ

憎しみは消えない・・・でも、渡さない。
消えない感情ごと・・・私の未来を選び直す。

  目的地までの移動は、だいたい楽しい

目的地に向かうドライブや移動時間って、不思議と苦にならないことが多い。

 

渋滞することもあるし、

疲れることもあるし、
トイレを我慢して焦る時だってある。

 

それでも、
道中でラーメン屋に寄ったり、
お土産屋をのぞいたり、
コンビニで無駄に時間を使ったり。

 

好きな曲を流して、
誰かと他愛ない話をしながら走る時間は、
振り返ると案外、良い思い出になっている。

 

目的地に向かっている時、人は「ちゃんと今を使っている」
という感覚を持てるからだと思う。

 

  目的がなくても、移動は楽しい

 

面白いのは、目的地がなくても成立すること。

なんとなくのドライブ。
あてもないサイクリング。
意味のない散歩。

 

どこに行くか決めていなくても、風景を見たり、道草をしたり、
「今日はここまでにしよう」と引き返したり。

 

それだけで、「何かをしている」という実感が生まれる。

無駄に見える時間なのに、虚しさはあまり残らない。

 

  「何かをやっている感覚」があると、人は満足できる

 

移動時間が楽しく感じられる理由は、楽しいことをしているからだけじゃない。

自分で選んで、自分で今を使っている感覚があるから

 

たとえ疲れても、
たとえ大変でも、
主導権が自分にある時間は、
「振り回されている」とは感じにくい。

 

逆に、
忙しく動いていても、何かをしているはずなのに、
満たされない時間もある。

 

そこから、「振り回されている感覚」が生まれてくるのかもしれない。

 

未来のために今を使う・・・その思考が、今を空白にしていないか

 

振り回されていると感じる時、人は必ずしも忙しすぎるわけじゃない。

 

時間はある。
動いてもいる。
それなりに頑張ってもいる。

 

それなのに、
「今を生きている感じがしない」
「満たされていない」
そんな感覚だけが残る。

 

その正体の一つが、「未来のために今を使う」という思考なのかもしれない。

  未来のために、今を犠牲にするのが当たり前になっている

 

貯金。
保険。
教育。
キャリア。

どれも間違っていない。


むしろ、正しいと教えられてきた。

 

将来の不安を減らすために、

今は我慢する。
今は耐える。
今は後回し。

そうやって生きてきた人は多いと思う。

でも、ここで少し立ち止まって考えてみる。

未来のために今を使うって、
本当に「自分が選んだ使い方」だろうか?

 

  自分の未来のはずなのに、今が自分のものにならない理由

 

未来のためなのだから、
自分のためのはず。

自分で選んでいるはず。
自分の時間のはず。

 

それなのに、
今が楽しくない。
今が苦しい。
今を大切に出来ない。

 

このズレはどこから来るのか。

それは、
「未来のために今を使え」という考えそのものが、

他人から与えられている場合があるから

親。
先生。
先輩。
上司。
会社。
社会。
テレビ。
歴史。

誰かの後悔や失敗や犠牲を通して、「こうしないと大変なことになるよ」と・・・不安が手渡されてきた。

 

だから、未来のために今を使っているようで、

主語はいつの間にか自分じゃなくなっている。

  苦しんでいることが正しい、という安心

 

もう一つ、大きな要因がある。

それは、「自分だけ楽しんではいけない」という空気

自分だけ助かったらダメ。
自分だけ楽していたらダメ。
みんなと同じように苦しんでいる方が安心。

 

苦しさを共有していると、

「間違っていない」と思える。
置いていかれない気がする。

 

これは正義というより、連帯から生まれる安心だ。

でもその安心の代償として、今を自分のものとして使う感覚を、少しずつ手放してしまうこともある。

 

  不安は、本当に自分から生まれているのか

 

未来への不安は、誰もが持っているものだと言われる。

 

でも、よく考えてみると、その不安は本当に「自分の内側」から生まれただろうか?

多くの場合、

・誰かの後悔
・誰かの失敗談
・誰かの警告

を受け取っているだけかもしれない。

 

不安は、自分で発明したものというより、受け取ったもの

 

だからこそ、未来のために今を使うという行為も、
最初から「与えられた選択」になっていることがある。

 

  人の話を聞くことと、主語を渡すことは別

 

もちろん、人の話を聞くこと自体を否定するつもりはない。

先人の知恵も、
失敗談も、
助言も、
大切だ。

ただ、それとこれとは別だと思っている。

 

それをどう使うか
今をどう使うか
どこまで不安を引き受けるか

 

それを決めるのは、自分であっていい。

 

もし何かあったらどうするか、
そう思うなら、その不安ごと引き受けて今を選べばいい

それなら、主語は自分のまま、自分の時間を使っていることになる。

  「もし・たら・れば」だけで生きないために

 

他人から渡された情報だけで動くと、
人生は「もし」「たら」「れば」で埋まっていく。

 

失敗したらどうしよう。
うまくいかなかったらどうしよう。
損したらどうしよう。

 

でも、今を自分のものにしたいなら、少しずつでも・・・

・〜したい
・もっとこうしたい
・〜してみよう

そんな言葉を使ってみてもいい。

不安を消してから生きるのではなく、不安を抱えたまま、主語を持って選ぶ

  世界が嫌なら自分を変えろ、じゃなくて

 

よく言われる言葉がある。

「世界が嫌なら、自分を変えろ」

でも、私はこの考え方があまり好きじゃない。

 

無理に自分を削って、合わない世界に合わせるよりも、

自分に合った世界を探す方が、
生き方として誠実なこともある

 

世界を全否定する必要もない。
自分を全否定する必要もない。

「もっと合う場所があるかもしれない」
そう思って見てみる。

それだけでも、今の時間は少しずつ、自分のものになっていく。

 

  今を大切に出来ないのは、あなたがダメだからじゃない

今を楽しめない。
今を大切に出来ない。

それは、怠けでも、甘えでもない。

ただ、今がまだ、自分のものになっていないだけ

未来のために今を使うのか。
今を生きた延長として未来を迎えるのか。

その選び方を、もう一度、自分の手に戻してみてもいい。

 

今が私のものなら、楽しさは後から来る。

自分の時間は、思っているより“もうある”

 

一人の時間を大切にしよう。
そう言われると、多くの人はこう思う。

「そんな時間ない」
「一人になれる余裕なんてない」

確かに、仕事、家事、育児、人付き合い。
自分の意思とは関係なく、時間も体力も奪われる場面は多い。

 

でも少し視点を変えてみると、
自分だけの時間は、意外ともう存在している

 

移動中にスマホを見ている時間。
音楽を聴いている時間。
何かに集中して作業している時間。
考え事をしている時間。

 

一人きりじゃなくても、

周囲が騒がしくても、

意識が自分の内側に向いている時間は確かにある。

 

それなのに、
なぜ人は「自分の時間がない」と感じるのだろう。

 

  空白や無駄だと感じる理由

 

その理由は、
自分の時間を“自分が選んだ行為”として認識していないからかもしれない。

 

他人が用意した情報。
他人が与えてくれる娯楽。
他人の評価や反応。

 

そうしたものを消費していると、時間の主役が「自分」ではなく「他人」になる。

すると、その時間は
・空白
・無駄
・奪われた時間
として感じられてしまう。

 

そして次第に、

「環境が悪い」
「世界が冷たい」
「人間関係がしんどい」

そんな感情に変わっていく。

  お金と等価交換のズレ

現代は、
楽しむにも、出会うにも、癒されるにも、
お金が必要な時代だ。

 

動画を見るにもサブスク。
ゲームも課金。
人と会うにも、時間もお金も使う。

 

問題は、対価を払ったのに、思った結果が得られなかった時

人はその不満を、

・環境
・運
・世界
・関係性

に向けたくなる。

 

でも本当は、
「自分が思っていた等価交換」と
「相手や世界が提示していた等価交換」の

レートが違っていただけなのかもしれない。

 

奪われたのか。
それとも、自分で手放したのか。

この違いを見失うと、世界は一気に敵になる。

  それでも、逃げ場所が必要な現実

 

もちろん、
すべてを「自分の認識の問題」で片づけられるわけではない。

 

育児はしんどい。
家事は終わらない。
仕事は休みや手抜きを許さない空気がある。

 

人間関係では、自分の意思とは無関係に
尊厳を傷つけられることもある。

 

そんな状況で、
「自分時間あるでしょ?」と言われても救われない。

逃げ場所は、確かに必要だ。

 

  振り回されている感覚の正体

 

「なんだか最近、振り回されてる気がする」
「自分の人生なのに、他人に引っ張られてる感じがする」

 

こう感じる時、本当に“誰かに強制されている”こともあるけれど、
実はもっと日常的な理由で起きていることも多い。

 

たとえば、こんな場面。

例① 予定が頭の中を占領する

 

今日はやっと自分の時間。
なのに、頭の中はこんな感じ。

「明日の仕事、大丈夫かな」
「さっきのLINE、変な返事じゃなかったかな」
「あの人、どう思ったかな」

体は自由。
時間も空いている。
でも、意識はずっと“誰かの反応待ち”。

この状態だと、
何をしていても落ち着かない。

それは、
自分の時間にいるのに、中心が他人にある状態

 

例② お金を使った後のモヤモヤ

楽しむために払ったはずのお金。

・動画のサブスク
・イベント
・誰かとの食事

なのに、終わったあとに残るのは、

「こんなもんか…」
「思ったほどじゃなかったな」
「なんか虚しい」

この時、人はよくこう思う。

「環境が悪い」
「時代が冷たい」
「世界がつまらない」

でも実際は、
自分が何を期待して払ったのかが曖昧だっただけかもしれない。

 

例③ 人の頼みを断れなかった後

「ちょっとお願い」
「今だけ助けて」
「お金、少し貸して」

断れずに引き受けたあと、
あとからじわじわ来る違和感。

「なんで私が…」
「また同じことしてる」
「振り回されてるな…」

でも冷静に見ると、
その瞬間は“自分で選んでいる”。

選んだ自覚が弱いと、
後から「奪われた感覚」に変わる。

 

  円の中心がどこにあるか、という話

私たちは、一つの場所だけで生きているわけじゃない。

・仕事の自分
・家庭の自分
・誰かに頼られる自分
・一人で考えている自分

 

それぞれに“円”があって、本来は行き来できる。

 

でも、

・評価される円
・期待に応える円
・断れない円

ここに居続けると、他の円が見えなくなる。

 

すると、

「逃げ場がない」
「ずっと誰かの都合で動いてる」

そんな感覚が強くなる。

  実は「動けない」のではなく「移動していない」

 

振り回されている感覚は、
必ずしも“選択肢がない”状態じゃない。

多くの場合、

円の中心を変えていいことに気づいていない

 

・今日は評価される円から降りる
・今日は一人で考える円に戻る
・今日は何も期待されない場所に立つ

それだけで、
呼吸が少し楽になることがある。

  振り回されている=弱い、ではない

ここは大事なところ。

振り回されていると感じるのは、あなたが周囲をよく見ている証拠でもある。

 

ただ、他人の円に立ち続けていると、
自分の時間まで“誰かのもの”に見えてしまう。

 

だから必要なのは、世界を否定することでも、
人間関係を全部切ることでもない。

「今、自分はどの円の中心に立っているか」を
一度立ち止まって確認すること。

  自分の時間に意味を与えるという選択

自分の時間を
「空白」や「無駄」と見るか、
「自分が選んだ行為」と見るか。

 

それだけで、
世界の見え方は変わる。

 

人は一人では生きられない。
でも、決断も後悔も、意味づけも、
最後は一人で引き受けて生きていく。

だからこそ、
自分の時間を自分のものだと認識できることは、
自分を大切にする回数を増やすことにつながる。

 

振り回されているのではなく、円の中心を選び直しているだけ

そう思える瞬間が増えたなら、世界は少しだけ違って見えるかもしれない。

Official髭男dismの言葉は雪の結晶。
松下幸之助の素直な心は水。

 

とても魅力的な比喩だと思う。

私には・・・

  • 雪=言葉(儚い・消える・積もると危険)

  • 水=心(在り続ける・混ざる・形を変える)

こう聞こえてくる。すごく私の見えている世界はあやふやだ。
 
それは本当に、人が水で出来ているって表現しているように感じられてままならん。

人は、水みたいな存在なんだと思う

 

蛇口をひねれば水が出る。
コンビニに行けば、当たり前のようにペットボトルが並んでいる。
水があることを、わざわざ意識する日はほとんどない。

 

でも、一日でも水が止まったらどうだろう。

料理もできない。
顔も洗えない。
トイレも流れない。
「困る」なんてレベルじゃない。


生活そのものが止まる。

 

水は、無いと生きられないのに、
在ることが前提すぎて、評価も感謝もされない存在だ。

そこが人も、似ていると思う。

 

  評価されないのは、価値がないからじゃない

 

職場でも、家庭でも、社会でも。
「ちゃんとやっている人」ほど、何も言われない。

 

ミスをすれば注意される。
成果を出せば数字で測られる。
でも、毎日きちんとそこに居て、回して、支えていることは、
だいたいスルーされる。

 

それは、
価値がないからじゃない。
前提として組み込まれているからだ。

水と同じだ。

在るのが当たり前。
止まらないのが当たり前。
だから、無視される。

  人は「流されやすい」から弱いんじゃない

 

よく言われる。
「流されるな」「自分を持て」「芯を持て」。

でも、人ってそんなに固い存在だろうか。

転職したら考え方が変わる。
人間関係で価値観が揺れる。
環境が変われば、性格だって変わる。

 

それは弱さじゃない。
適応しているだけだ。

 

水は、下に流れる。
それは「従っている」んじゃない。
重力という物理に反応しているだけ。

 

人も同じ。
圧がかかる方へ流れ、生き延びられる方へ動く。

それは、生き物として正しい。

  型に入れたがる世界と、流れたい人

世界は、人の流れをそのままにはしない。

 

組織。
制度。
教育。
評価基準。

 

「この形に入れ」
「この通りにやれ」
「こうあるべきだ」

そうやって枠を作る。

 

水は、枠があれば、そこに収まる。
人も、枠があれば、そこで息をする。

 

でもそれは、「それしかない」わけじゃない。

 

川は、増水すれば形を変える。
雨が降れば、水たまりができる。
蒸発して、空に戻ることだってある。

今いる場所がすべてじゃない。

 

  流れない部分も、人らしさ

 

全部が流れるわけじゃない。
どうしても譲れない場所。
変われない考え。
動かない感情。

 

それを
「頑固」
「扱いにくい」
「社会不適合」
と呼ぶこともある。

 

でも、それは水が凍る場所だ。

全部が溶けたら、形は残らない。
全部が固まったら、動けなくなる。

流れる部分と、留まる部分。


その配分こそが、人それぞれ違う。

  当たり前に無視されるものほど、根源的

 

水は、評価されない。
点数もつかない。
ランキングにもならない。

でも、無いと終わる。

人の価値も、本当はそれに近い。

 

目立たなくても、
派手じゃなくても、
説明できなくても、

そこに在ること自体が、世界を支えている。

 

それは証明するための価値じゃない。
交換するための価値でもない。

 

奪われがちで、
無視されがちで、
でも、確かに在る価値だ。

 シンプルフレーズ

評価されないから、価値がないんじゃない。
前提すぎて、見えなくなっているだけだ。

水みたいな存在であることを、
そろそろ、思い出してもいい。