命令は聞ける。けれど、責任を隠したお願いは聞けない。

「分かって欲しい」なんて論外だ。

 

分かって欲しいって何だろう?

命令やお願いなら、相手の意図を知ることが出来る。

 

でも、「分かって欲しい」って・・・恋愛ならまだギリ分かる。

どれだけ忖度しても答えにたどり着ける自信が無い。

 

私は人の感情が分からないから・・・

優しい言葉ほど、無責任なことがある

  「お願いだから」がしんどい理由。命令のほうがまだ誠実だと思う話

 

世の中では、命令する人より、
お願いしてくる人のほうが優しいことになっている。

 

強く言う人より、
柔らかく頼む人のほうが感じが良いことになっている。

 

そして、
「分かって欲しい」と言う人は、
傷ついた側で、繊細で、真っ当な人みたいに扱われやすい。

 

でも、私はずっとそこに違和感があった。

むしろ逆じゃないかと思うことが多かった。

命令のほうが、まだ筋が通っている。
お願いのほうが、よほど無責任なことがある。
「分かって欲しい」は、相手に責任を押し付ける言葉になりやすい。

 

そんなふうに感じる場面が、
仕事でも、人間関係でも、何度もあった。

今日はその違和感を、
ちゃんと言葉にしてみたいと思う。

 

  命令は乱暴でも、責任を持つという表明がある

 

命令と聞くと、あまり良い印象はないと思う。

偉そう。
高圧的。
支配的。
上から目線。

たしかに、その通りな部分もある。
命令には圧がある。
重さがある。
言われた側は気分の良いものではない。

 

でも、それでもなお、命令にはひとつだけ・・・
お願いよりも明確なものがある。

 

それが、責任だ。

「これをやれ」
「こうしろ」
「これで進めろ」

命令するというのは、
相手を動かすということだ。
相手に負荷をかけるということだ。
その結果、失敗もあれば、不満もあるし、反発だって返ってくる。

 

それでも言う。
それでも指示する。

ということはつまり、
少なくとも建前の上では、
命令する側が責任を持つという表明なんだと思う。

 

有名な言葉を借りるなら、まさにあの感じだ。

「撃って良いのは、撃たれる覚悟のある奴だけなんだ」

命じて良いのは、
命じた結果を自分に返される覚悟がある人間だけだ。

だから命令は怖いけれど、
まだ分かりやすい。
誰が言ったのか。
誰が決めたのか。
誰に返せばいいのか。
そこが見える。

この「見える」というのは、案外大きい。

  「お願いだから」は、優しさじゃなく責任回避になることがある

 

一方で、お願いはどうだろう。

「お願いできる?」
「できたらでいいんだけど」
「無理なら仕方ないんだけどさ」
「ちょっと頼んでもいい?」

言い方は柔らかい。
角も立ちにくい。
いかにも優しそうに聞こえる。

 

でも、ここにずっと引っかかっていた。

お願いって、
やってもらうことは求めるのに、責任は持たない形になりやすい。

できたら、相手の善意のおかげ。
できなかったら、
「いや、お願いしただけだし」
「無理なら仕方ないって言ったよね」
で終われてしまう。

これ、かなり便利なんだよね。

人を動かしたい。
でも、命令した責任は持ちたくない。
失敗した時に、自分の指示だったとは言いたくない。
相手が動かなかったとしても、強制はしていないと言いたい。

 

その逃げ道を、
優しい言い方で確保しているように見えることがある。

つまりお願いは、
優しい顔をしているけれど、

責任を受けない指示

になりやすい。

ここがしんどい。

 

命令なら、まだ腹を立てやすい。
「ああ、この人が言ったんだな」と分かるから。

 

でもお願いは違う。
断ると、こちらが冷たく見える。
空気が悪くなる。
気が利かない人みたいに扱われる。
善意が足りない人みたいに見られる。

 

だからお願いは・・・
柔らかいのに逃げ場がない。

そのしんどさを、優しい言葉は隠してしまう。

そのせいで、凄く息苦しくなってしまうのは私だけなんだろうか・・・?

  「分かって欲しい」は、理解できない責任を相手に押し付ける

 

そして、もっと厄介なのがこの言葉だと思っている。

「分かって欲しい」

この言葉は、とても切実に聞こえる。
苦しさや寂しさもにじむ。
だから否定しづらい。
むしろ、否定したら自分が冷たい人みたいに感じてしまう。

でも、この言葉もまた、
かなり危うい構造を持っている。

 

なぜなら、
理解できなかった責任を相手に押し付ける言葉になりやすいからだ。

 

本来、何かを伝えるなら、
まず責任があるのは伝える側のはずだ。

どう言えば伝わるか。
何を省かずに話すか。
どこで誤解されるか。
どんな言葉を選ぶか。

その責任を引き受けた上で話すのが、本来の順番なんだと思う。

 

なのに、
それを飛ばして
「分かって欲しい」と言われると、分からない側が悪者になりやすい。

察せない人。
冷たい人。
鈍い人。
思いやりのない人。

でも、違うはずだ。

分かることは義務じゃない。
理解は強制できない。
共感は命令できない。

それなのに「分かって欲しい」は、その義務のないものを、
相手の責任に変えてしまう。

 

だから私は、この言葉がしんどい時がある。

切実な言葉だからこそ、なおさら重たい。
そして、重たいくせに責任の向きが曖昧なんだ。

  本当に怖いのは、強い言葉じゃなくて、責任を隠した言葉かもしれない

 

世の中はよく言う。

命令するな。
もっとやさしく言え。
気持ちを分かってあげろ。
察してあげろ。
思いやりを持て。

 

もちろん、それがちゃんと成立する関係もあると思う。


断っても責められない関係。
分からなくても怒られない関係。
お互いに責任の線を越えない関係。

そういう相手なら、
お願いも優しさになるし、
「分かって欲しい」も対話の入口になる。

 

でも、現実はそんなにきれいじゃない。

 

職場でも、家庭でも、人間関係でも、
責任を取りたくない人ほど、
やさしい言い方を使うことがある。

「お願いね」
「できる範囲でいいから」
「このくらい分かるよね?」
「普通ここまで言わなくても察するよね?」

こういう言葉のほうが、
怒鳴り声より長く残ることがある。

 

強い言葉は傷として見えやすい。
でも、責任を隠したやさしい言葉は、
こちらが悪いのかもしれないと錯覚させる。

それが一番やっかいだ。

 

  だから私は、命令のほうがまだ誠実だと思ってしまう

 

誤解してほしくないのは、
命令が好きだと言いたいわけじゃない。

命令は重い。
嫌だ。
怖い。
疲れる。

でも、それでもなお、
お願いや「分かって欲しい」より、
まだましだと思う時がある。

 

なぜなら命令には、
責任の所在が見えるからだ。

誰が言ったのか。
誰が決めたのか。
誰が引き受けるのか。


そこが見える。

でもお願いは見えにくい。
「分かって欲しい」は、もっと見えにくい。

 

見えない責任は、
気づかないうちに相手へ流れていく。
だから人は疲れる。
だから苦しくなる。
だから、やさしい言葉なのに息苦しくなる。

 

私はたぶん、
命令が好きなんじゃない。

責任を隠して人を動かす言葉が嫌いなんだ。

ただ、それだけなんだと思う。

  優しさより先に、責任を見たい

 

言葉の温度と、誠実さは一致しない。

冷たい言葉でも誠実なことはある。
やさしい言葉でも無責任なことはある。

命令は、命令する側が責任を持つという表明だ。
お願いは、責任を受けない指示になりやすい。
「分かって欲しい」は、理解できない責任を相手に押し付ける常套句になりやすい。

 

だから私は、
やさしい言い方かどうかより先に、
その言葉の責任を誰が持つのかを見たい。

本当に優しい人は、
口調が柔らかい人じゃない。
自分の言葉の責任から逃げない人だと思う。

 

やさしい口調で責任を逃がすくらいなら、
重たい言葉でも責任を引き受けるほうが、
まだ誠実だ。

そういう人の言葉なら、私はまだ聞ける気がする。

たぶんさ。

自己否定って、謙遜という名の美徳として・・・かなり広く浸透してるんだと思う。

「私なんて」
「全然ダメで」
「まだまだです」

これ、もう癖みたいなものだよね。

 

その上に、「人に迷惑をかけちゃいけない」

っていう刷り込みがある。

執着を捨てろ。
自己を捨てろ。
欲を捨てろ。

それが正しい、みたいな空気。

 

仏教的価値観って言えば綺麗に聞こえるけど、
言い方を変えれば、状況と環境に流される他力本願な生き方
って、言ったら怒られるのかな?

 

でも、現実ってそうじゃない?

過剰な謙遜は美徳のように扱われるが、それは時に「言い訳」の隠れ蓑になる。

「自分は選んでいない」「できないから」「悪い奴だから」……。 

そうやって自分を低く見積もることは、結局、何かあった時に「人のせい」にする理由を作っているだけではないか?

 

世の中は、何かを「できる」ように、何かを「持つ」ようにと急かしてくる。 

仕事の成功、家族の感謝、人より優れた立場。

 

自分のことを自尊して、
少し誇って、
尊ぼうとした瞬間に、

自己中。
わがまま。
ナルシスト。
「めんどくさい。」って言われるのが世の常だろう。

 

でも私は思う。己惚れているくらいが丁度いい。

己惚れって、他人を下に見ることじゃない。

自分を評価するときに、+αで見るってことだ。

 

どうせさ。

自分の自己評価と、他人の評価が一致することなんてない。

 

他人から見たら、十分魅力的な部分もあるかもしれない。

肩書きで持ち上げられることもある。
リップサービスもある。
先入観もある。

それも全部、自分に向けられた評価だろ?

 

だったら、それも含めて自分だって
言い切っていいんじゃないか・・・?ダメかな?

 

己惚れているって聞くと、なんか痛いイメージが浮かぶ。

でもさ。

己惚れている人って、

行動力あるよ。
発言力あるよ。
意欲あるよ。

 

何より、ミスも後悔も「自分が選んだからだ」って受け止められる。

これ、めちゃくちゃ大きい。

自己否定や謙遜が過ぎると、

「自分は選んでない」
「出来ないから仕方ない」
「環境が悪い」
「誰かのせい」

って、そっちに流れやすい。

 

私はね・・・それでは耐えられない。弱いから・・・

 

世界の不条理も、苦しみも、悲しみも、全部人のせいにし始めたら、

私はたぶん・・・復讐の鬼になってる。

善悪とか関係なく、行為に走る未来が見える。

それくらいの波乱は、正直楽しませてもらったからね。

 

でも、そうならないのは、

きっと私は・・・自分に酔ってるからだ。

己惚れて、
自惚れて、
うぬぼれている。

 

それは、不安と不満に押し潰されそうな現実の中で
生きるために必要なんだと思っている。

自分を少し高く見積もらないと、この世界は重すぎる。

 

「自分を大切に出来ない人は他人も大切に出来ない」

って言葉、よく聞くけどさ。

そこまで難しくなくていい。

マキャベリも言ってる。

人は利己的だ。

 

マルクスだって、
行為の結果は本人が受け取るって話だし。

 

ハイデガーだって、
話せる間は生きているって言ってる。

 

formyselfでいいじゃないか。

DIYだよ。

 

己惚れって、DIYなんだと思う。

Do It Yourself。

自分の人生は、自分で作っていい。

他人の評価に合わせて削らなくていい。
謙遜という名のヤスリで、
自分を削り続けなくていい。

 

己惚れているくらいが、ちょうどいい。

それは傲慢じゃない。

責任を引き受けるための、
最低限の自己肯定だ。

私は今日も、少しだけ自分に酔って生きる。

その方が、復讐よりずっと健全だから。

できないことを、できないと明らかにして、受け入れる。 

ありのままを目指すのではなく、自分の器の分だけで満たされる道を選ぶ。

私は今日も、自分のために用意した「うぬぼれ」という名のペンキを塗り、ピエロとして舞台に立つ。 

それが、この不条理な世界を生き抜くための、私なりの誠実さなのだ。

生きにくいって、貧乏とか忙しいとかだけじゃない。

“私が私でいると、迷惑になる”
この事実が、生きにくさの正体だと思う。

  • 正直に言うと角が立つ

  • 疲れたと言うと甘えになる

  • 嫌だと言うと協調性がない

  • 泣くと情緒不安定

  • 怒ると器が小さい

  • 黙ると不機嫌

  • 元気だと調子に乗ってる

  • 頑張ると「もっとできるでしょ」

詰んでる。
何しても詰む。

この社会、人生をループゲームにするの上手すぎる。
バグじゃない。正規の世界の使用になっている。

「使われない方法」なんか知らない。「私は私を消さない」ただそれだけ。

 

人間関係も、会社も組織も、何もかも自分らしさを認めてくれない。

だから、個性を語るだけでマイノリティーになってしまう。

 

アクセサリーを付けて、オシャレに気を使ったら?・・・チャラい。遊んでそう・・・

真面目に、ルールを守っていたら?・・・面白みがない。真面目で付き合いにくい・・・

上司の顔を立てたら?・・・忠犬。

コミュニケーションが苦手なら?・・・変な人、何考えてる分からない・・・

家族を大切にしたら?・・・付き合いが悪い。

仕事を頑張ると?・・・家族を放置して仕事ばかり・・・

 

正解が無さすぎる。

程よく丁度いいなんて、それこそ誰に合わせた回答なんだ?

誰かに合わせれば、誰かの批判の対象になり・・・

自分を優先すると、自己中と言われる。

 

そりゃ生きにくくて当たり前。八方塞がりとはこのことだろう。

  それでも私は順応しない・・・というか、できない

 

世間に順応するのが賢い。
うん、分かる。

「順応できないなら、社会に向いてない」
たぶんそう。

 

でも私には向いてない。

順応しようとすると、
心の奥が拒否する。

「それ、あなたじゃない」
「それ、あなたの人生じゃない」
「それ、誰のための“正解”?」

そう言われる気がする・・・。

 

だから私は、搾取されない方法を探すより、
順応して賢く生きるより、もっと単純なことを守りたい。

 

私を消さない。

 

社会が生きにくいって、結局こういうことだ。

生きるために順応しろと言われるのに、
順応した瞬間、私は私じゃなくなる。

 

  「搾取されない方法」を探すのが、もう搾取

 

自己啓発本が言う。
「搾取されないスキルを身につけよう」
「価値を上げよう」
「市場価値を高めよう」

・・・うん。分かる。正しい。賢い。

でも、その時点で詰んでるんだよね。

だってさ、
“搾取されないために努力しろ”って、
もう搾取じゃない?

生き延びるために努力して、
努力するために時間を売って、
時間を売るために心を削って、
心が削れたら「自己管理が足りない」って言われる。

 

この世界、ほんとコスパが良い。
社会にとってはね。

 

私のコストを搾取する社会と世界ですよ。

  シンプルフレーズ

 

先人たちが作り出そうとした「理想の人材」になれなかった私。 

有用性も、有能さも、責任感も、どこかに置き忘れてきた私。

 

ごめんね。社会には私の居場所が無いみたいだから。

とりあえず、散歩して寝ます。

自分のコトが一番分からない・・・

自分自身を客観的に見ることが出来ない。

自分はこういう人間だって思いたいって言う感情がある

出来る人でありたいと、優秀な人でありたいと、願う自分が居る。

 

しかし、現実はそうじゃないっていう事実を突き付けてくる。

 

だから、言い訳できるように、被害が少なく済むように

自分が出来ない人間だってアピールもして、

誰かの助けが無いとダメな人だっていう、印象を持ってもらえるように振舞って

どうしようもないっていう自分を演出している・・・

 

っていう、つもりになって、

その実、どうしようもない自分を認めたくなくて

 

社会で上手く生きられる人間でありたいって思う自分が居るのに、

社会なんかで生きていける訳が無い!って批判する自分もいて

 

要するに、自分は常に相反する感情と思考のせめぎ合いで・・・

 

本当の自分の気持ちなんか置き去りにして、

常に他人にどう見られるか?どう見られたいか?に注目していて、

 

自分がどうしたいか?

 

を、見つめられていない。

例えば・・・

将来の夢・・・5年後・10年後自分が何をしているか?想像なんて出来ない。

ここで簡単に、もういなくなっていればいいなんて思ってしまうのは・・・

私の弱さなのか、現実を受けとめた事実なのか

お金の使い道だってそうだ。

貯金する?私は苦手だし嫌いだ。

投資する?私の運は最低ランクだ。買った株が終値で暴落なんてよくある。

趣味に使う?アクセ?服?靴?もちろん使います。

お酒を飲みにも行けば、ご飯だって食べに行きます。

美術館は好きだし、神社に行けば御朱印は必ず貰います。

娯楽と道楽に逃げている・・・っていう現実と、株やらなんやらにも手を出して・・・

どうしたいの?って言われたら、どうにかしたいです。

 

独立して、事業を起こしたいと思いはするが・・・

仕事をして、ブログを書いて、SNSを見て、運動をして、友人と遊んで、

時間があるようでない。

 

正直、私も良いお年頃です。

残りの人生の時間を考える時が増える。

 

いつまでも過去に囚われていても進めない。

かといって、過去無くして今も無ければ未来もない。

 

私はどこに進んで行くんだろうか?

どうしたいんだろうか?

自分自身に聞いている・・・

 

とりあえず、やりたいコト、やってみたいコト、挑戦できること、始められるコト

を、順番に進めていく。

本も出した。

安価なフランチャイズなら加盟金を用意できるくらいにはなった。

歳は重ねて、体力は減って、余裕は減って、無茶が出来ない気がしている。

しかし、これ以上選択肢が減るのは楽しくない。嬉しくもない。面白くもない。

 

出来ることは出来る事だけ・・・

それは、今なら出来ること、今しか出来ないコトが含まれる。

だとしたら・・・

 

どうせ私は、どうなったって後悔する。

それなら、踏み出してから後悔しようって思っている。

 

今が奈落の底の地獄の一歩手前で、もう失うモノは無い。

保険?ダメだった時どうするのか?

どうせ、ダメじゃなくても、ダメだったとしても、時間は限られている。

終わりのある人生だ。

 

終わり方を学ぶにはいい機会でしょって思ってる。

 

生きやすい世界なんて無いんだよ。

世界は不条理で、残酷で、無常だ。

社会は人間を道具としてしか価値を見出ださない。

人は他人の目の中に自分を見るから、人の目ばかりのぞき込んでいる。

 

人が生きている間に救われる方法を私は知らない。

だから、自分が自分を抱きしめても良いかなって思ってる。

私の場合は1人だからね。

誰も抱きしめてくれはしないからね。

だからだろうさ、自分を自分で何とかしないとダメなのはね。

「ゴッホ展に行ってきた」

 

そう言うと、なんだか美術に詳しい人みたいに聞こえるかもしれない。
でも実際の私は、専門的なことをたくさん知っているわけじゃない。

ただ、念願だったゴッホ展にやっと行けて、そこで思った。
有名な絵を見たというより、ひとりの人間が何を取り入れ、何を悩み、どう変わっていったのかに触れられた時間だったと。

 

『ゴッホ展 家族が繋いだ夢』

 

小学校の頃、美術の教科書で見ていたゴッホの絵は、正直に言えば
「色が濃くて目立つな」
くらいの印象だった。

大人になってからも、今度は作品より先に「高額な絵」「有名な画家」という情報が入ってきて、人物や絵画そのものを、ちゃんと見ようとしていなかった気がする。

でも今回、彼の年齢を越えた今だからこそ、初めて見えたものがあった。
技法の工夫。
試行錯誤の跡。
感情のうねり。
そして、作品の奥にある“人間らしさ”。

そんな時間を過ごせたことが、とても嬉しかった。

 

 

  私が最初に惹かれたのは、あの独特なタッチだった

 

今回、特に印象に残ったのは、ゴッホ独特のタッチだった。

小さな点や線を無数に重ねていくような表現。
あれを見て私は、勝手な感想かもしれないけれど、版画や印刷物の影響を連想した。

 

※ハッチングというらしい。「細い線の集合(ハッチング)」

影響を受けたかどうかは本人に聞いてください。

 

彼が絵を描き始める前から、あるいは初期の頃から集めていたという版画や印刷物。
そうしたものを見てきた感覚が、あの細かな線や点の重なりに繋がっているんじゃないか。

 

そんなふうに思えた。

もちろん、これは美術史の断定ではなく、私の感想だ。


でも、ただ「激しい筆致」として見るより、何かを取り入れて、自分の表現へ変えていった跡として見ると、ぐっと魅力が増した。

ただの才能ではなく、試行錯誤の痕跡に見えたからだ。

 

  浮世絵の影響は、色だけじゃなかった気がする

ゴッホが浮世絵を好んでいたのは有名な話だし、色使いへの影響もよく語られる。

でも今回、私が面白いと思ったのは、色だけじゃなかった。
対象を線で囲って、その中に色を入れていくような表現。
あの“縁取りして塗る”感じに、私はどこか浮世絵らしさを感じた。

 

※「クロワゾニスム」というらしい。影響を受けたかどうかは本人に聞いてください。

 

今の感覚で言えば、ちょっと漫画っぽいとすら思った。
輪郭をしっかり立てることで、形も印象も強くなる。


それが当時の印象派の絵の中では、私には少し異質に見えて、そこがすごく嬉しい発見だった。

「有名だからすごい」じゃなく、
あ、自分はここに惹かれるんだな
と気付けたことが嬉しかった。

好きになるって、そういうことなのかもしれない。

 

  完成した名画より、“そこへ向かう工夫”が印象に残った

 

今回の展示で強く心に残ったのは、完成した作品だけじゃなかった。
むしろ私は、そこへ至るまでの工夫や試行錯誤に惹かれていた。

とても印象的だったのが、デッサンだ。
ランタンとつるはしを持っている工夫のデッサン。


あれは単純に「うまい」と思った。

でも、それだけじゃない。
どう持たせるのか。
どう立たせるのか。
どう見せれば伝わるのか。

 

「貧しい人々への憐れみと感情」工夫や農夫へのなんだろう・・・モヤモヤを表現したんだろう。

何をどう伝えたかったのか、単純に過酷な状況でも生きている事の証明?

しかし、表情はみんな暗い。刻まれた皺、睨むような瞳、不満を感じるが、怖さは無い。

不思議な表情なのか、表現なのか・・・

 

ただ、そういう描く前の思考が見える感じがして、すごく面白かった。

 

さらに、手紙に描かれていたデッサンも印象的だった。
完成作ではないのに、いや、完成作ではないからこそ、線の巧さや観察の鋭さがそのまま見える。

 

名画の前で「すごい」と立ち尽くすのももちろん良い。


でも私は今回、そこへ辿り着く前の、少し泥くさい工夫や模索に強く惹かれた。

たぶんそれは、上手くいった結果より、上手くいかせようとする過程に、人間らしさを感じたからだと思う。

 

  後期のオリーブ畑に見た、“らしさ”といううねり

『オリーブ園』

後期の作品では、やはりオリーブ畑がとても印象的だった。

あのうねり。
あれは、まさに“ゴッホらしさ”だと感じた。

 

ただ風景を描いているだけじゃない。
木も、空気も、風も、感情も、一緒に動いているように見える。
景色の再現というより、景色を見た時の内側の揺れまで描いているように思えた。

 

よく、晩年の作品は精神的なものと結びつけて語られる。
たしかに、そう言いたくなる迫力もある。

 

でも今回の私は、単なる不安定さより、それでも表現しようとする熱量の方を強く感じた。

うねりや躍動は、壊れそうな苦しさだけじゃない。
 

見たものを、自分の中を通して、どうにか形にしようとした痕跡にも見えた。

だから惹かれたんだと思う。

 

  色を使って“透明”を求める、その感覚に惹かれた

『コップのある静物』※調べたよ!

もうひとつ、とても印象的だったのが、
色を使って透明を求めたという話だった。

 

透明を表現することに夢中になった。
机の上に水が置いてある絵を見ながら、その説明がとても強く残った。

作品名を忘れてしまったのは、ちょっと悔しい。


でも、名前を忘れても、心が動いたポイントは覚えている。
それで十分なんじゃないかと今は思う。

 

透明は、本来“見えない”ものだ。
なのに、それを描くために色を使う。
そこに私は、ただ物を描くのではなく、見えにくいものをどう見せるかに取り憑かれたような執着を感じた。

 

見えるものをそのまま写すだけでは足りない。
空気や光や透明感まで掴みたい。
そんな欲望が滲んでいて、すごく良かった。

 

芸術って、上手い下手だけじゃなくて、
何を見ようとしていたのか
が見えると、一気に近くなるんだなと思った。

 

  荒々しさの奥に、繊細で不器用な人間がいた

私は勝手に、ゴッホという人に対して、
情熱的で、荒々しくて、感情に飲まれるタイプの人、というイメージを持っていた。

 

もちろん、その印象は完全には間違っていないのかもしれない。


でも今回の展示では、それだけじゃない姿が見えた。

繊細で、葛藤があって、不器用で、それでも何かを表現し続けようとする人。


そんな人柄が、作品の変化や、残されたものの端々から伝わってきた。

そして何より、支えていた弟夫婦との関係が、なんだかとても良かった。

唯一の理解者である弟テオに必死に何かを伝えようと手紙を書く、もはや「報告」を超えて「共有」の渇望。


詳しく語りすぎなくても、そこに温度がある感じがして、少しほっこりした。

天才とか狂気とか、強い言葉だけで片付けると見えなくなるものがある。


むしろ私は、そういう大きな言葉の陰に隠れた、人間らしい小さな揺れに親近感を覚えた。

激しい人だった、では終わらない。
ちゃんと悩み、ちゃんと支えられ、ちゃんと揺れていた人だった。
だからこそ、作品にも惹かれるのかもしれない。

 

  37歳という年齢が、今の私には重く見えた

享年37歳。

この数字が、今回とても重く残った。

小学校の頃に見ていた時は、そんなことを考えもしなかった。
大人になってからも、「有名」「高額」「すごい画家」という情報の方に意識が向いていた。

でも今は違う。
彼の年齢を越えたからこそ、初めて感じるものがあった。

たった37年。
その中で、これだけ模索して、取り入れて、変わって、描き続けたのかと思うと、作品の見え方がまるで変わる。

そして同時に、私は思った。
今の自分だからこそ見付けられる時間があったのだと。

 

昔は分からなかった。
でも、その分からなかった時間も無駄じゃなかった。
子どもの頃に“色が濃くて目立つ絵”としてしか見られなかったことも、
大人になって“高額な名画”としてしか見られなかったことも、
全部ひっくるめて、今この瞬間に繋がっていた気がした。

ゴッホを見に行ったはずなのに、気付けば私は、
これまで自分が生きてきた時間の意味まで噛みしめていた。

それが、今回いちばん大きかったことかもしれない。

 

昔は分からなかった。
でも、分からなかった時間にも、ちゃんと意味はある。

そんなことを思えた展示だった。

 

  名画を見る時間というより、“変化と人間らしさ”に出会う時間だった

 

今回のゴッホ展は、ただ有名な絵を見る時間ではなかった。

変化を見られた。
工夫を見られた。
迷いも、模索も、うねりも見られた。
そして何より、作品の向こうにいる“人”を感じられた。

ゴッホの魅力は、完成された天才らしさだけじゃない。
ずっと何かを取り入れて、ずっと変わり続けて、ずっと表現を追いかけていたところにあるんだと思う。

 

だから今回の展示は、とても素敵だった。
ただ絵が上手いとか、有名だとか、そんな話だけでは終わらない。
人間らしさごと味わえる展示だった。

 

最高です。
かなりおすすめです。
ぜひ行ってみてほしいと思える展示でした。

 

 

  ただ一つの誤算は、帰り道の寒さだった

 

そして最後に、唯一の誤算がある。

寒さ対策を、完全に怠ったことだ。

 

昼間はそこそこ暖かい。
だから軽装で出かける。
でも美術館を出たのは17時過ぎ。

 

そりゃもう、寒い。
最高に寒い。
「この時期ならもう少し暖かいのでは?」という私の甘さは、夕方の冷気に一瞬で叩き潰された。

そこから晩ご飯を探して、少しゆっくりして帰った。
でも、その寒さも含めて、なんだか“その日の記憶”としてすごく残っている。

感動して、冷えて、晩ご飯を食べて帰る。


芸術も現実も、だいたいそんなふうに混ざっている。

それも含めて、楽しかったです◯