誰も認めて貰えない
誰も彼もが、自分を見付けて欲しいと願ってる
私は誰を見付けられるんだろうか?
それとも、私が見つけられたいのか?
私は、誰かに見つけられたいわけじゃない。
誰かに認めて貰いたい気持ちは否定できない。
でも・・・私はまだ、私を見つけていない。
哲学に出会うのは必然だった
正直・・・なにかを頼ろうなんて思ったことは無かった。
なにかを望んでいたわけでもなかった。
私は何も分からないし、何も知らない。
ただ、私は状況に流されながら・・・誰かの言葉に流されながら・・・
いろいろ話を聞いて、同じように行動して・・・
でもさ?結局、価値観も考え方も変えられなかったの。
スピリチュアルの海で溺れたことがある
「スピリチュアルとか、怪しいでしょ?」って笑う人もいるけど、
私はむしろ、その世界の住人だった。
パワースポット、引き寄せ、前世、魂の声。
ちゃんと信じてたし、真面目に聞いてた。心の底から。
だって、誰かに「あなたはそのままで大丈夫」って言ってほしかったんだ。
それが宇宙でも天使でも、もう何でも良かった。
必要だったのは、「ここにいていい理由」。
でも、ある日ふと気づいた。
“聞けない”のだ。私は、私自身の声が。
耳を澄ませば澄ますほど、「それ、誰の言葉?」と、自分の中の何かがザワついた。
スピリチュアルの海は、美しかった。
でも、私にとっては少し深すぎて、底が見えなかった。
泳ぎ方を教えてもらえなかった私は、ただ漂っていただけだったのかもしれない。
自己啓発という名の正解工場
次に試したのは、自己啓発。
「こうすればうまくいく」
「成功者はこう考える」
「考え方を変えれば人生が変わる」
うん、全部正しい。すごく納得できる。
でも、なんだろう…飲み込んでも、消化できない感覚。
例えるなら、栄養満点だけど味気ないスムージーを毎日飲まされてる感じ。
確かに身体にはいいのかもしれない。でも、心は空腹のまま。
私は誰かの人生のレシピを読んでるだけで、自分の台所に火をつけていなかった。
そして、また思う。「それ、誰の答え?」って。
自分に問いかけてるようでいて、実は“選ばされた答え”ばかり並べてた。
「あなたにもできますよ」と言われるほど、私はできない気がして落ち込んだ。
やる気が足りないの?覚悟が甘いの?
いや、きっと私が悪いんだ。
……って、自己啓発で自己否定してたら、もう本末転倒じゃない?
問いだけが、私を許してくれた
そんな中、出会ったのが「問い」だった。
正解のない世界。
“それって本当?”と、自分に問いかけていい自由。
答えがないのに、落ち着く不思議。
「なぜ?」を抱えて生きていてもいいと許されたとき、
私は初めて、息ができた。
哲学って、すごく地味。
でも、静かに効く。まるでお味噌汁みたいに。
一口飲んだだけでは分からないけれど、毎日の食卓にあってほしい温度。
「なぜ私は、私なのか?」
「なぜ生きるのか?」
「なぜ誰かの目を気にしてしまうのか?」
問いは、私を責めない。
問いは、私を急かさない。
問いは、私が私であることを、決して否定しない。
誰にも説明しなくていい。
誰にも理解されなくていい。
問いの中には、「私にしか見えない景色」がある。
その静けさに、私はいつしか安心していた。
正しさより、自分らしさを問い続けたい
哲学って、結局は地図を描く作業なのかもしれない。
誰かに配られた完成品じゃなく、白紙から自分で線を引く。
時にはぐちゃぐちゃ、時には真っ白、でもどこかに“私”がある。
正解を探す旅じゃない。
“納得できる違和感”を育てていく旅。
スピリチュアルも自己啓発も、必要だった。
だって、それを経て、「問いたい自分」に気づけたんだから。
だからね、私はこれからも問い続けていきたい。
上手く言えないけれど、
「自分で考えたい」って、きっとそれだけで、すごく人間らしいじゃない?
「答えがないなんて、不安」
うん、わかる。私もずっとそうだった。
でもね、
「答えがないままでも、生きてていいんだよ」って、
問いはいつだって、そう言ってくれる気がするんだ。
……違うかな? いや、そうじゃない?
シンプルフレーズ
「私は、問いながら、私になっていく」















