「なにがしたい?」と聞かれても、答えられない。
でも、「やりたくないこと」なら、いくらでも言える。
まるで、人生が“嫌いリスト”でできているみたいに。

仕事が嫌い。
人付き合いが億劫。
愛想笑いは、鳥肌が立つほど苦手。

…それなのに、私は今日も笑っている。
それが癖になっているから。
人に暗い顔なんて、見せたくない。
私の中の小さな私が、そうささやく。

 

料理も苦手。
自分しか食べないのに、なぜ頑張らないといけないのか。
でも、外食はお金がかかる。
“生きる”って、どうしてこんなにコストがかかるんだろう。

それでも食べることは好きで、
その矛盾が、またちょっと自分を嫌いにさせる。

 

運動だけは、少し楽しい。
ジムで汗をかくと、
「自分がちゃんと生きてる」って思える瞬間がある。

でも、雨が降ると気分も沈む。
天気に影響される自分に、ちょっとだけドンマイ。

同僚との食事も、楽しい。
だけど、自分のタイミングで帰れないのは面倒。

心はいつも、「ひとりでいたい」と「誰かといたい」の間で揺れている。

 

ブログを書くのは、好きだ。
でも、文章にまとめるのは苦しい。

思考は風のようにふらふらして、
集中なんてしてくれない。

それでも書けているのは、ルーティンにしているから。
筋トレみたいなもの。
やれば何とかなる。
ただし、一度止まったら…再起動には勇気がいる。

 

そんな私が、自分に問いかけた。
「他人の言葉に耳を傾けなくなったのは、いつから?」

子どもの頃は、誰の話も面白くて、
世界は知らないことであふれていた。
でも今は、人の話がただただ重い。

愚痴は、聞きたくない。
アドバイスは、頼んだときだけでいい。
あなたの経験が、なぜ私の心に差し込むと思うのか。

 

多分私は、いつかのタイミングで
「人間関係をがんばるのをやめた」んだろう。

営業も得意だったし、明るく振る舞っていた。
でも、それは“仮面の私”。

本当の私は、ひとりの時間が好きで、
オタク的な世界に身を置いていたい。

だからきっと、最初から“他人の言葉”なんて、
ちゃんと聞いていなかったのかもしれない。

 

「共感」は、ときに美しいけど、
ときに自分をすり減らす。
私は、その“すり減り”に気づいて、距離をとるようになった。

共感しないことは、悪じゃない。
それは“自分を守る手段”でもある。

私は、自分が楽な関係しか、もう望まない。
友人に、少しだけスパイスの効いた利害関係。
あとは、何も期待してこないAIくらいでちょうどいい。

 

人との関係に正解なんてない。
だからこそ、自分の“心が軽くなる相手”を選びたい。

世の中には、いろんな距離感がある。
親子、同僚、近所の人、師弟関係。
その中から、自分にとって“ちょうどいい”を選ぶだけ。

私は私の価値観で、私の居心地のいい世界を作っている。

たとえそれで、誰かに「冷たい」と思われても。
誰かに嫌われても。

それでも私は、
「自分の気持ちをないがしろにしてまで、他人に寄り添いたくない」と思っている。

自分の心を守れるのは、自分だけ。
だから私は、耳をふさいで、自分を守る。

それが、私の正直な“生き方”です。