心に残る言葉がある。
響く言葉は、自分で選べる
同じ言葉なのに、こんなにも違う
「頑張ったね」
この言葉を、私はある日、二人の人から受け取った。
一人は、職場の上司。
やりきったプロジェクトのあと、肩を叩かれた。
「頑張ったね。助かったよ」
心がふっと軽くなった。
やっと認めてもらえた気がして、涙がにじんだ。
もう一人は、母。
同じタイミングで、電話で話したときに言われた。
「ふぅん…頑張ったんだね。でも、最初からそれくらいやって当然だと思ってた」
その瞬間、胸の奥がズンと重くなった。
同じ「頑張ったね」なのに、どうしてこんなに違うの?
それはたぶん、私がどう受け取ったかなんだと思う。
上司の「頑張ったね」は、私を見てくれたうえでの言葉だった。
母の「頑張ったね」は、“もっとやれるでしょ”の下に敷かれていたような気がした。
どちらが正しいか、ではない。
どちらが「今の私」に響いたかだけなんだ。
「言葉は心の温度で意味が変わる」
── ある作家の言葉が、ふと蘇る。
同じ言葉でも、温かくなるときと、冷たくなるときがある。
それを決めるのは、いつも私の心なのだ。
遊びの誘いすら「重荷」にも「救い」にもなる
友人からのLINEに、こう書かれていた。
「今度、飲みに行こうよー!ひさしぶりにさ!」
通知を見た瞬間、思わずスマホを伏せた。
そのときの私は、疲れていた。
誰とも会いたくなかった。
口角を上げるのも、声を張るのも、しんどかった。
「また今度ね」と返信し、罪悪感とモヤモヤが残る。
でも、数日後。心が少し晴れたときに、ふと同じメッセージを見返した。
「ああ、声かけてくれて、ありがたかったな…」
そう思った。心が動いた。
状況や気分によって、同じ言葉でも感じ方は変わる。
それはきっと、私たちが“心で生きている”から。
煩わしいと思ったあの日の私も、
嬉しいと感じた今日の私も、どちらも本物だ。
どちらも否定しなくていい。
だから、思うんです。
「物事の意味は、それをどう見るかで決まる」
── ストア派哲学の教え
言葉の意味は、言葉そのものにあるんじゃない。
それをどう意味づけするか?それを決めるのは、いつも“自分自身”。
言葉が、人生の方向を左右するなら
私は昔、こんなことを言われた。
「君は人を元気にする力があるよ」
その言葉がずっと心に残っている。
落ち込んだときも、もうダメだって思ったときも、思い出す。
一方で、過去にはこんな言葉もあった。
「なんでそんなにいつも調子に乗るの?落ち着けないの?」
何年経っても、その言葉は心の片隅でチクチクする。
結局、どちらの言葉が心に残るかも、私が選んでるのかもしれない。
前向きな言葉を“支え”にするのも、
否定的な言葉を“呪い”にしてしまうのも、
私たちには、どちらも選ぶ自由がある。
「選択こそが、人間の最大の自由である」
── ヴィクトール・フランクル(『夜と霧』の著者)
誰かの言葉が私の人生を決めるんじゃない。
どう受け取り、どう活かすかを選ぶ自由が、私にはある。
世界は、自分の心のレンズでできている
「言葉に意味を持たせているのは、いつも私自身なんだ」
このことに気づいたとき、私は少しだけ、生きやすくなった。
もう、「誰かのせいで傷ついた」「あの人のせいでこうなった」と
いつまでも責め続けるのをやめようと思えた。
もちろん、傷つくこともある。落ち込むこともある。
でもそのあとに、どう受け取るかを選ぶことは、私にしかできない。
正しさなんて、状況によってコロコロ変わる。
大事なのは、「今の私に、どの言葉が響くのか」。
そして、響いたその言葉を**“光”にするのか、“影”にするのか**。
言葉は、私の世界をつくる“素材”みたいなもの。
それをどう使うかは、私次第。
だったら私は、
優しい世界を、自分の手でつくっていきたい。
正しい言葉を探すより、
今の自分に響く言葉を、大切にしたい。
だってその選択こそが、
私たちに与えられた、最高の“自由”なんだから。
「どんな言葉も、受け取り方次第で未来を変える力を持つ」
──だから、今日も私は、自分の心の声に耳をすませていよう。



