生物としては、人間は群れの動物で、幼少期は単独で生存しづらい。


だから子どもは「一緒に居たい」というより、一緒に居ないと死ぬに近い。

一方で親は、子を守るために「一緒に居る」を選ぶ。


でも同時に、個体としては「一人の時間」が必要になる。
ここで起きるのは、愛の矛盾じゃなくて、生存要件の衝突。

 

子は「近接」を求める。
親は「近接」と「離脱」を同時に求める。
どっちも正常。だから・・・悲しい。

最初の世界

 

  人と一緒に居るのって、地味で面倒じゃない?

 

正直、人と一緒に居るのって面倒だ。

 

気を使う。
疲れる。
距離感を測り続ける。
黙れば気まずい。
話せばズレる。

だから思う。
「地味で面倒でも、人と一緒に居ないとダメなの?」って。

 

でも一方で、完全に一人だと落ち着かない日もある。
この矛盾が、もう人間っぽい。

 

  その矛盾、親子の間で一番ハッキリ見える

矛盾が一番むき出しになるのが、親子だと思う。

 

子どもは「親と一緒に居たい」と思う。
親は「自分一人の時間が欲しい」と思う。

 

ねぇ、これって冷たいの?
親失格なの?
……違う。たぶん、これは“人間の仕様”なんだ・・・

 

ここだけ切り取ると冷たく見えるけど、たぶん違う。

 

子どもが求めるのは、愛情というより安心。

・目が届く距離
・声が届く距離
・戻れる距離

それがあるだけで、世界は少しマシになる。

子どもにとって「一緒に居る」は、
「甘え」じゃなくて生存の設計みたいなもの。

 

親だって人間だ。

気を張り続ければ疲れる。
ずっと“誰かのため”で居れば、息が詰まる。

一人になりたいのは、逃げじゃない。
むしろ、壊れないためのメンテナンス。

「離れたい」と思う瞬間があるのは、
愛がないからじゃなくて、人間だから。

 

つまり同じ出来事を、子どもは“生存”として求め、
親は“維持”
として距離を必要とする。

 

同じ家にいて、同じ時間を過ごしてても、
見えてる世界が違う。
まさに「異国」。

 

  それでも結局、人生を変えるのは“他人”だった

 

ここで、私が最近いちばん痛感したことがある。

人生を変えるのは、言葉でも、環境でも、状況でも、習慣でもなく・・・
他人なんだって。

 

なぜなら、言葉も環境も状況も習慣も、大概の場合「他人」が運んでくるから。

 

・誰かの一言で、価値観が変わる

 言葉は、他人の口から出る。


・誰かの都合で、生活が変わる

 環境は、他人が作っている。


・誰かとの摩擦で、習慣が変わる

 状況は、他人の都合で変わる。

 

人間は、自分だけで完結してない。

どれだけ「自分の人生」って言っても、他人の存在に触れた瞬間に自分の意思に関係なく変えられてしまう。
面倒で、窮屈で、正直気乗りしないけど・・・

誰か、自分以外の存在と関係した瞬間に、自分が更新されてしまう。

 

  そして、その“最初の他人”は誰?

 

ここまで来ると、次の問いが出てくる。

「人格を最初に作り上げるのは誰?」

親?それとも本人?

私は、最初は親だと思う。

 

本人は、生まれた瞬間には世界を選べない。
どの家に生まれるかも、誰に触れられるかも選べない。

 

だから最初に入る情報は、ほぼ強制的に刷り込まれる。
いわゆる・・・インプリンティングみたいに。

そしてその刷り込みが、
「普通はこうだよね」
「こうしたら怒られる」
「こうしたら愛される」
みたいな認知のクセ(バイアス)になっていく。

 

本人が「自分で自分を作る」のは、もっと後。
だから「最初の世界」は、ほぼ親が作ってしまうと、感じている。

 

  でも「親」って、肉親のことじゃない気がする

でも、ここが大事。

 

親は、血のつながりだけじゃない。
育てた人だけでもない。

施設や里親でもいいだろうし、あるいは祖父母でも、兄姉でもいい。

 

血のつながりより、役割の方が大きい。


私が思う親という存在?立ち位置?は・・・

親=最初に世界を代表した人。

 

「この世界は安全だよ」
「この世界は怖いよ」
「こうしていれば愛されるよ」
「こうしたら捨てられるよ」

 

そういう“世界の見え方”を最初に渡してくる存在。
それが親。

  「親」という漢字が、全部を説明してる気がする

 

ここで、「親」という漢字が妙に刺さる。

 

親という字。
よく「木の上に立って見る」って言う。

でも私は、
「木の上に立っている姿を見ている」
とも取れると思ってる。

どっちにせよ、共通してるのは・・・観察者ってこと。

 

親は子を見ている。
子は親に見られている。

 

その「見られている感覚」が、
いつか子どもの中に移植される。

 

親がいなくなっても、
子は“親の目”で自分を見てしまう。

 

だから親って、育てる人である前に、
子どもの中に「自己観察の目」を作る存在なんだと思う。

 

  地味で面倒でも、人は他人で変わる

だから最初の問いに戻る。

地味で面倒でも、人と一緒に居ないとダメなのか?

 

「ダメ」ではない。


でも、人は他人に触れることでしか、更新できない部分がある。

 

そしてその最初の他人が親で、
親という観察者の目が、
自分の“内側の目”になっていく。

 

 シンプルフレーズ

親・人の目は、檻にも灯台にもなる。
だから私は、灯台を目指す人でありたい。

「もし、叶わなかったらどうしよう?」

そう思って準備する「保険」や「予備の道」。

とっても、素晴らしい心がけですね。

 

おかげで、あなたの夢は 「叶わないこと」が前提になりました。

 

失敗した時の準備を完璧にするほど、 私たちの脳は、律儀にその「失敗」へ向かって 全力疾走してくれる。

これぞ、効率化の極み。 最高に皮肉な成功法則だと思いませんか?

【夢】保険をかけるほど、遠ざかる怪。

子供の頃の夢、覚えていますか?

「夢は追いなさい」って言うわりに、同時にこうも言われる。

失敗するな。
道を踏み外すな。
保険をかけろ。
現実を見ろ。

 

……ねえ。
それ、どっちに向かって生きろって話?

私たちはいつの間にか、 夢を追う方法ではなく、 「道を踏み外さない方法」を叩き込まれました。

 

私は最近、ずっと引っかかっている。
夢を叶えたいはずなのに、叶わなかった時の準備を同時にしていると、結局どこへ向かってるのか分からなくなる。

引き寄せの法則みたいな話をしたいわけじゃない。

 

不満を抱えながら働き、 給料明細を見てはため息をつき、 週末には自己啓発やスピリチュアルに救いを求める。

なんて完成されたシステムなんでしょう。

みんなと同じ道を歩んで、 みんなと同じように絶望する。

これこそが、現代の「スタンダード」な幸せ ……なのかもしれません。

 

もっと現実的な話。

「叶えるための行動」と「叶わないための行動」を同時にやったら、
人間のエネルギー・・・どっちに割れると思う?

多分、割れる。
そして割れた分だけ、夢は遠のく。

 

  夢を後回しにして、保険を先に用意してしまう理由

 

夢って、持ってたはずなんだよね。
子どもの頃の夢。
学生の頃に抱いた希望。
社会人になって見つけた「こう生きたい」。

 

でも気づくと、夢は「贅沢」になって、
希望は「現実逃避」になって、
いつの間にか私たちは“生きるための正解”を暗記する側に回ってしまった。

 

失敗しないように。
恥をかかないように。
迷惑をかけないように。

その結果どうなった?

仕事をしていても不満。
給料を見てため息。
人間関係で削れて、立ち止まって、
自己啓発を探して、
見えない世界に救いを求める。

 

「正解」を踏んだのに、
心だけが置き去りになってる。

……これ、私たちの“よくある人生”だよね。

 

  学校の価値は否定しない。でも、万能だとも思えない

学校に行けば、人間関係が学べる? 人脈が広がる?

それ、20世紀の話ですよね。

 

コミュニティを学ぶ。
人間関係を学ぶ。
知識を得る。
先達の人脈を得る。

うん、分かる。否定しない。
ただ、私は思う。

 

ほとんどの人が同じ道を歩いているのに、
夢を叶えてる人が少なすぎない?

同じ道を進む人が全員ライバルだとして、
叶えられるのが一部なら、残りはどうなるの?

じゃあ、学校に行けない子は、夢も希望もないの?

……そんなの、悲しすぎる。

 

今の時代、コミュニティは画面の中に溢れています。

「顔が見えないと不安」なんて、 化石のような悩みはもうおしまい。

 

  「学校に行かない」は、終わりじゃなくて選択肢になり得る

 

今はネットがある。
知識も、経験も、教材も、先生も、
いくらでも転がってる。

コミュニティだって作れる。

リアルの狭い教室で、 たまたま隣り合わせた40人と馴染めなかっただけで 「人生終了」なんて、あまりにコスパが悪すぎます。

みんなが学校で同じことをしている間に、 全然違う道を選択する。


顔が見えないからダメ?
それって、本当に“ダメな理由”になるのかな。

 

結局、人間関係って「場所」じゃなくて「選び方」なんだと思う。
リアルでも、ネットでも、
自分が何を選び、誰と繋がり、何を信じるか。

 

先達の人脈?
確かに強い。
でも今は、SNSで自分を売り出す時代でもある。
企業ですら高額を払って宣伝してるのは、そこに力がある証拠だ。

そう思うと、学校に行くことが「唯一の正解」には見えなくなる。

 

むしろ、
みんなが学校に行ってる時間に、
自分の夢のために積み上げられるなら。

 

それは「逃げ」ではなく、ただの「戦略」です。

「学校に行かない」は、夢を叶えるための“戦略”にもなり得る。

  「行けない」子たちに必要なのは、絶望じゃなくて言葉

 

学校に行ける子は、行けばいい。
行く理由があって、夢に繋がる明確な目的があるなら、最高だと思う。

 

正解なんて、どこにも落ちていないから。

 

でも、行けない子はどうする?

社会は平気で言う。
「レールに乗れ」
「普通になれ」
「将来困るぞ」

……それってさ。


困るのは誰のため?
その子の人生なのに、誰の都合で脅してるの?

私が伝えたいのは、これだけ。

 

学校に行かない。 レールから外れる。

それで絶望する必要なんて、1ミリもありません。

むしろ、保険を全部脱ぎ捨てて、 「これしかない」と笑える人の方が、 案外、ひょいっと夢を掴んでしまうもの。

たとえ掴めなかったとしても、 それはそれで、ひとつの面白い結末です。

 

行けなくても、大丈夫。
夢は終わらない。
方法は一つじゃない。

夢を叶える方法に、正解なんか存在しない。
だからこそ、自分の選んだ道を信じる力が必要なんだと思う。

  シンプルフレーズ

 

保険があるから、安心できる。
それも事実。

 

でもね・・・
夢に必要なのは“安心”だけじゃない。
「私はこの道でいい」って、決める勇気。

 

世界がどう言おうと、
学校がどうであろうと、
あなたの人生は、あなたのもの。

 

選んだ道を、恥じなくていい。
行けない日々を、負けにしなくていい。

 

夢は、学校に通うことで生まれるんじゃない。
夢は、「自分の気持ちを捨てない」ことで残り続ける。

 

最後に一言だけ置いておくね。

「夢は、保険で守るものじゃない。覚悟で育てるものだ。」

どうせ最後は、みんな同じ場所に行き着くんですから。

それなら、誰かが決めた「正解」を演じるより、 自分の選んだ「間違い」を愛した方が、 よほど明るい諦念に浸れると思いませんか?

学校に行ってもいい。 行かなくてもいい。

あなたの絶望も、あなたの希望も。 全部、あなたの自由です。

さあ、今日はどの「保険」を捨ててみましょうか?

 

 

私はこの年で、40歳で新しく軟骨のピアスを開けてみた。

もともとピアス穴は開いていたけど、なんというか・・・アクセサリーが好きなわけですよ。

勢いで・・・

と言うより、もともと、軟骨にピアス穴は開けたいと思っていた。

 

10代20代前半戦、アクセサリーが好きで、シルバーアクセを粘土で手作りしていた時期もある。

でも、何故か軟骨や口、ボディピアスは開けていなかった。

正直痛いのは嫌いです。

怖いんですよね・・・

弱虫で臆病なんですよ私・・・

 

でも、考えるんです。

 

あと何年生きられるのか?

終わる時・・・最後の日に、笑って終われるのか?って・・・

 

正直、無理です。今はまだそんな余裕も満足感も達成感も持っていません。

 

でも、それでも・・・

興味のある事、関心のあったこと、出来ることは出来る事だけなんだとしたら・・・

出来ることはやっておいて損は無いかな?って思った。

 

ピアス

たったそれだけのコト。誰もが何気なく着けているアクセサリーの一つ

 

それなのに、周囲からは・・・

「歳考えて笑」「今更ですか?笑」「意味あります?笑」っていう反応だ。

これが、世間の反応なんだろう。

 

分かる。分かるけど、その年甲斐もなくって何ですか?

『青春とは人生の或る期間を言うのではなく心の様相を言うのだ』

サミュエル・ウルマンも言っているじゃないか!

心なんだよね。青春とか若さとか歳なんて関係ない。

思い残すことがあるくらいなら、やってみても良いんじゃないだろうか?

 

ただ心に残る言葉は他にもある。

『若さとは、誰もが一度は持つ才能だ』

コロ先生が言っていた。

その通りだと感じるし、これが大事だと思う。

若さとは誰もが持てる才能・・・それは、間違いを躊躇うことを必要としない。

失うものが無い・・・言い方が悪いね。失っても取り返す時間がある。

なにより、周囲と世間が若さを理由に許してくれる。

 

これは、青春とは違う問題だ。

サミュエルが青春を人生の期間と言わず、心次第だと言ったことに対して

若さが許されるのは、年齢による周囲の評価なんだろう

要するに、年が・時間が・年齢が直接的に世間と周囲の評価や判断基準になっているっていう事実だろう。

 

それがあるから、年甲斐もなくなんて言われてしまう。

 

ごめんね?

未だに、子供?青春?を求めていて。

 

ピアス一つ増やすだけで、周囲は・・・職場の同僚たちは批判と嘲笑で忙しい。

そりゃ生きにくい。

やりたいことも出来ない世の中で・・・

言いたいことも言えない世の中で・・・(POISON)

 

歳なんか気にして生きてたら、残り時間に何が出来るんだよ。

限られた時間

有限の時間、出来ることは出来る事だけ

 

終わった後に楽しかった(ヒンメル)って言える世界の歩き方をしたいなら、

世界の評価や、周囲の反応なんか気にしていたら出来ないことだらけだ。

そんなの私には向いてない。

出来る事しか出来ないのに、時間には限りがあるのに、余裕も余白もなく生きるだけで精一杯なんだ。

その時に、年を言い訳にして、出来ない理由を増やしていたら楽しめない。

だから、私は歳なんか関係ない。

体力?視力?聴力?もちろん落ちてるさ(笑)

もうね、肉体もそこそこ疲弊してますよ。髪だって薄くなってますよ。

それでもね?

 

年甲斐なんて気にして行動しないなんて

私には必要ない選択だね。

 

うん。ピアス空けたらね?治りが遅い。

うん。若さの余裕感が無いね、痛いよ?

うん。治るかな・・・困ったな・・・消毒します・・・( ´∀` )

 

 

そのうち、自撮りも載せるかもね・・・

「助けてほしい」って言葉は、
本当は、弱さじゃない。

生き延びたいっていう、
ただの本能だ。

 

でもさ。
助けが来ないとき。
人は、世界を悪にする。

 

その瞬間、自分の心の中に
“敵”が増え始める。

前回の続きとして言うなら・・・
救済と悪認定は、切り離せない回路なんだ。

「救済」という名の鎖を断ち切れ

 

「誰か助けて」と空を見上げている間、君の首には見えない鎖がつながっている。 

その鎖の先を握っているのは、SNSで君をあざ笑う誰かか、

あるいは君を「かわいそうな弱者」として利用したがる、どこかの誰かだ。

「自分を不幸だ」と名乗った瞬間、君は他人の顔色をうかがう家畜になる。

 誰かに正義を求めている限り、君は一生、その誰かの「悪」に縛られ続けるんだ。

 

自由っていったい何だい? 自由になりたくないかい? 

(尾崎豊『Scrap Alley』より)

 

自由とは、誰かに優しくされることじゃない。 

誰からも期待されず、誰のせいにもせず、ただ一人で闇の中に立っていることだ。

 

 

  「正しさ」という名の窓ガラスを叩き割れ

 

善悪は、神の判決じゃない。
多くの場合、権力のラベルだ。

 

多数派が貼る。
構造が貼る。
社会が貼る。

従わないものに、「悪」を貼る。

貼った瞬間に、排除が正当化される。

 

勝った奴が「正義」という旗を振り、負けた奴が「悪」という泥水をすする。 

そんな出来レースの物語に、君の貴重な感情を1ミリだって預ける必要はない。

 

不幸をスパイスにして愉悦に浸る世界なら、こっちだってその「不幸」をゴミ箱に捨ててやればいい。 

自分を正当化するための理由なんて、もう探さなくていいんだ。 

**「悪いのは俺じゃない、世界だ」**なんて叫ぶのは、もう卒業かもしれないね。

 

そんな「負け犬の遠吠え」を、世界は一番喜んで消費するのだから。

  支配からの卒業

 

だから、「悪だ」と言うのは負け犬の遠吠えじゃない。
まずは強者の特権なんだ。

・・・でも面白いのは、ここから。

弱者も、貼り返す。

「私は正しい」
「だから世界が悪い」

この瞬間、
善悪は裏表になる。

 

たとえ弱者だろうが、孤独だろうが、 「俺を救えるのは、俺だけだ」 そう腹の底から思えたとき、君はもう誰にも捕まらない。 他人が書き換えた過去も、押し付けられた恩義も、全部バイクの後ろに乗せて、夜の向こうへ置き去りにしてしまえ。

 

  不幸は、消えない。だから物語の主役になる

 

幸福は溶ける。
消える。
後に残るのは、ベタつき。

恩も消える。
忘れる。


でも押し付けられた恩は消えない。
残るのは、引け目と負債。

一方で、不幸は消えない。

消えないどころか、次から次へと襲ってくる。

だから人は、不幸を材料にして、物語を作る。

 

事実を脚色する。
意味を足す。
人生の糧にする。

・・・ここまでは、まだいい。

 

問題は、その糧が「正当化」に変わるとき。

「悪いのは私じゃない」
「誰かが悪いんだ」

不幸が、正義になる。
正義が、敵を呼ぶ。

 

世界を壊すんじゃない。
世界に従う自分を壊す。

これが革命。

 

  十五の夜は、まだ終わらない

 

大人たちは「現実を見ろ」と言う。 

でも、彼らが見ている現実なんて、誰かが作った都合の良い物語だ。

君が感じているその「痛み」や「苦しみ」は、物語の材料にするためのものじゃない。 

君が生きているという、たった一つの、熱い証拠・・・

 

幸せがアイスクリームのように溶けて消えても、 孤独という風がどれだけ冷たくても、

自分の足で立っている限り、君は「強者」の支配から逃げ切れる。

 

さあ、スマホを消して、自分だけの夜へ。 


「運命」なんていう言い訳を笑い飛ばしながら、誰もいない道を走り抜けようぜ。

 

・・・まだ世界は不条理だ。
でも、従わないだけで景色は少し変わる。

私たちは、殴らなくても反抗できる。

 シンプルフレーズ

「世界で生きなくていい。世界に従う自分を壊せ。」

 

皆さん、こんにちは。 

今日は、大正・昭和を代表する詩人、佐藤春夫のちょっと切ない一節から、

私たちの「生きづらさ」の正体をのぞいてみましょう。

 

なぜ「幸せ」は一瞬で、「不幸」はずっと居座るのか?

 

  幸せはアイスクリーム、不幸はダイヤモンド?

 

佐藤春夫は、こんなニュアンスのことを書き残しています。

 

「幸福はアイスクリームのように溶けやすいから、すぐ忘れてしまい、詩や物語の材料にならない」

 

これ、核心を突きすぎていませんか? 

美味しいものを食べた喜びや、恋人と過ごした穏やかな時間は、口の中で溶けるアイスのようにあっけなく消えてしまいます。

後には「なんだか甘かったかな?」という、ぼんやりした記憶(残滓)が残るだけ。

 

逆に、**「不幸」や「怨嗟(えんさ:うらみ嘆くこと)」**はどうでしょう? 

これらは溶けるどころか、時間が経つほどカチカチに固まり、私たちの心に居座り続けます。

 

だからこそ、ドラマや小説のネタになりやすい。

私たちは、消えない「苦しみ」を材料にして、自分の人生という物語を必死に編み上げているわけです。

  「恩」を売る人、捕食される弱者

 

さらに厄介なのが、人間関係のドロドロです。 

私たちは、受けた恩を忘れるくせに、人から押し付けられる「お節介」には敏感です。

  • エゴイストの正体: 「助けてあげる」という善意の顔をして、実は相手を自分より「下の存在」として固定し、優越感に浸る人々。彼らにとって、他人の不幸は最高のスパイスです。

 
  • 弱者のリアル: 押し付けられる側は、ただ振り回されるだけ。多数派のルール(公共性)という名のもとに、自分の感情や記憶さえも、都合よく書き換えられて(改ざんされて)しまいます。

 

まさに「人は、人にとって狼である(Homo homini lupus)」という古い言葉通り・・・

微笑みながら近づき、相手を都合よく利用する捕食者のような側面が、人間にはあるのです。

 

  「運命」という名の、自分への言い訳

 

私たちは、自分の不幸を「誰かのせい」にしたり、あるいは「これは運命なんだ」と呼んだりします。 

でも、ちょっと立ち止まって考えてみると、残酷な真実が見えてきます。

 

「運命とは、自分の愚行(バカな行い)の別名である」

 

耳が痛いですね。

でも、そう思わないとやっていられないのが人間です。 

自分のミスを「運命」という大きな言葉でラッピングして、「悪いのは私じゃない、世界が不条理なんだ」と正当化する。

 

そうやって、過去を自分勝手に彩り、利己的に生きていくこと。 

それは、決して「間違い」ではありません。

 

そうでもしないと、一瞬で溶けて消えてしまう幸福を追い求めて生きていけるほど、私たちは強くないからです。

 

  狂気の一歩先へ

 

天才は狂気の一段上にいる、なんて言われます。

もし、今の世界が「最低だ」と感じるなら、それはあなたが世界の不条理を真っ直ぐに見つめている証拠かもしれません。

全部やり直したい、記憶を書き換えたい——。 

 

そう思うほど辛いときは、いっそ「極限の開き直り」を持って、

この不条理な世界をあざ笑うくらいが丁度いいのかもしれません。

 

どうせ幸福は溶けてしまうのですから、せめて自分だけの「都合の良い物語」を、明るく、図太く、書き換えていこうではありませんか。

  シンプルフレーズ

幸福は溶けて消えてしまう。
後に残るのは、残骸か、残滓か。
甘さじゃない。手のベタつきだ。

 

恩も忘れてしまう。
けれど、無理やり押し付けられた恩は忘れられない。
残るのは、感謝じゃない。
お節介か、相手への引け目だ。
――つまり「負債」だ。

 

不幸はいつまでも残る。
消える間もなく次から次へと現れて、襲い来る。
それは苦行か、人生か。
もはや違いが分からない。

 

人は後から物語として語ることで、事実を脚色して、意味を追加して、人生の糧にしていく。
そのはずだ。
でも人は利己的な生き物で、自分勝手に都合の良い解釈で彩っていく。

 

そのとき残っているのは、いつも不幸と悲しみと苦しみ。
だって消えないから。
そこにばかりフォーカスして、残している。
そして正当化が始まる。
悪いのは私じゃない。誰かが悪いんだ。
言い出す始末。

 

自分の不幸は最悪だ。
でも、人の不幸は蜜の味。
利己的な人間が他人の不幸をスパイスにして愉悦に浸るのは、きっと合理的な生存戦略なんだろう。

そうでもしないと、世界は不条理すぎる。

 

人は、消えてしまう幸福を求めて生きていけるほど強くない。
自分のためだけに生きられるほど強くない。
だから、他人を理由にして、他人に都合を押し付けて、エゴイストに生きていくのは、間違いじゃない選択なんだろう。

 

……だからといって。
押し付けられる側になったら最悪だ。
振り回す方はいい。
私たち弱者は、常に振り回される側だ。
他人の都合を与えられる側なんだ。

 

他人が都合よく改変した過去も、事実も、悲しみも、苦しみも。
全部、押し付けられる。
最低だ。

 

ポリスと他者性と公共性が、無理やり押し付けてくる。
多数派が強者の社会契約論は、弱者とマイノリティを活かさない。
――活かさないどころか、「黙れ」に変換する。

 

そして弱者に残るのは、いつも不幸だけ。

 

私の感情を改変して、記憶を改ざんして、都合よくするには。
きっと全部やり直すしかない。
そう思ってしまうのは、仕方のないことだろう。

 

天才は、狂気の一段上に居るらしいじゃないか。
もう一歩踏み出したら、変わった世界の見方で過ごせるのかもしれないね。

 

ただ、大抵の場合・・・
運命って呼ぶのは、自分の愚行らしい。
そこが、いちばん辛いところさ。