― 自分を生きるという選択のために ―
静かな夜、心が騒がしくなる
一日を終えて、部屋が静かになると、心の中が騒がしくなる。
「今日も何かできなかったな」
「まだやれることあったんじゃないか」
「もっとちゃんと、頑張らなきゃ」
そうして、自分を責めるような“反省会”が始まる。
誰に求められたわけでもないのに、
「こうでなければならない」と、自分に言い聞かせている。
「ねばならない」に取り憑かれる日々
― 私を動かすのは、理想か、不安か ―
朝、目が覚めた瞬間から、やることが浮かぶ。
洗濯、食事の支度、家族の世話、仕事、そして自分磨き。
どれも、私が選んできたはずのこと。
けれど、どこかで息が詰まる。
まるで、「理想の自分」を演じ続けるために毎日があるみたいで。
演じるのが苦しいときでさえ、「もっと頑張らなきゃ」って思ってしまう。
その正体を見つめてみると、「恐れ」があった。
誰かに認められたい。
取り残されたくない。
ダメな人だと思われたくない。
まるで、自分の価値を証明するために生きているような気がした。
でも、本当にそれって“私”の望みなんだろうか?
例え話:空のコップに水を注ぎ続ける私
― それって、もう溢れてるかもしれないよ?
「もっと注がなきゃ、もっと満たさなきゃ」って、
私はずっと空のコップに水を注いでいるつもりだった。
でも、もしかしたら、
そのコップ――とっくに満たされていたのかもしれない。
いや、それどころか、とっくに溢れていたのかもしれない。
だけど私は、それに気づかず、注ぎ続けていた。
なぜって、「まだ足りない」と思い込んでいたから。
他人と比べると、自分が空っぽに思えてしまう。
SNSの誰かがキラキラして見えると、自分はまだまだだと思ってしまう。
だから、「もっとやらなきゃ」「ねばならない」って自分に言い聞かせて、
もう入らないコップに、水を注ぎ続けていた。
そして、気づくと疲れきって、
「自分が何のためにやってるのか」さえわからなくなる。
迷いと葛藤の中で、自分に問いかける
― 本当に必要なのは「正しさ」じゃなくて「納得」
正直言って、「もう頑張りたくない」と思う日もある。
理想通りにいかない日が続くと、
「私は何をやってるんだろう」と呆然とする。
でも、それでも、やめられなかった。
なぜか?
それは、「やめること」が、
“自分を諦めること”のような気がしたからだ。
だけど本当は――
立ち止まることも、迷うことも、弱さを見せることも、「自分を信じる一歩」なのかもしれない。
だから私は、問いかけてみる。
「これは私が、本当に望んでやっていること?」
「誰かに褒められるためじゃなく、自分にとって必要なこと?」
その問いを繰り返すうちに、
「正しいかどうか」よりも、
「自分が納得しているかどうか」が、
生きていく上で一番大切な軸なんだと気づく。
「自分で選ぶ」ということの尊さ
― 不完全なまま、自分を生きていい
結局のところ、私たちは誰かの人生を生きるわけじゃない。
自分の人生を、自分で選んで、自分で歩いていくしかない。
それは、完璧な選択じゃないかもしれない。
ときには間違えたり、遠回りしたり、後悔したりもする。
でも、「自分で決めた」って思えることは、心の奥に静かな誇りを残す。
家事も、育児も、仕事も、自己啓発も――
誰かのためのものじゃなくて、
「自分らしく在るため」の選択であってほしい。
そのために、迷っていい。立ち止まってもいい。
「やらなきゃ」じゃなくて、「やりたいからやる」に変えていけばいい。
私はこれからも、自分に問い続けたい。
「これは、誰のための選択?」
「これは、私が“生きたい人生”に繋がっている?」
そして、胸を張って言えるようにしたい。
「これは、私の人生だ」と。
「ねばならない」を卒業していい
誰かの言葉に揺れてもいい。
理想と現実の狭間で、苦しんでもいい。
でも、最後に自分で選び取ること。
それだけが、あなたの人生をあなたのものにする。
「正しく生きなきゃ」と頑張りすぎているあなたへ。
もうそろそろ、「これでいい」と言ってあげてもいいかもしれない。
だって、あなたがあなたを大切にするために選んだことなら――それが正解なんだから。


