頑張りたいんじゃない。許されたいだけなんだ。

 

「変わりたい」とか「理想を叶えたい」とか、
そんな立派なことを言ってるけど、
本当はただ──
誰かの優しさに甘えていたいだけじゃないかって。

「頑張ってるよね」って言ってほしくて、
「分かるよ、その気持ち」って言ってほしくて。
それだけのために、
“理想”とか“努力”とかを都合よく持ち出してる気がする。

  他人の正しさに疲れた日

 

会社で、また小言を言われた。
家庭でも、空気を読まなかった自分にイライラされた。

私なりに気を使ってるつもり。
頑張ってるつもり。
だけど「つもり」だけで、相手には伝わらない。

正しさに沿って動けなかった私が悪いの?
それとも、正しさを押しつけてくる社会が悪いの?

そんな風に、正しさの“せいくらべ”に負ける日々。

 

  「諦める」は、ただの敗北じゃない。

 

誰かが言ってた。

諦めるって、「明らかにして受け入れる」ことなんだって。

──それって、敗北じゃないんだよね。
自分をよく見て、正直に理解して、
「あぁ、私はこれが限界だったんだな」って言えるってこと。

 

でも、それってつまりさ、
選択肢がもうない時の話じゃない?

どこにも行けない。
誰にも頼れない。
理想も夢も全部、遠すぎて笑っちゃう。

 

そういう時に、どうしようもなく
「もう、いいかな…」ってなるだけなんじゃないかな。

  弱さに甘えてるって、分かってる

 

私は、理想を語ることで、
「それでも諦めてない私」になろうとしてるだけ。

理想を追ってるように見せて、
「でも、現実もちゃんと見てるよ」って言い訳できる場所をキープしてる。

つまり、どっちつかずの安全地帯に居座ってる


だって、その方がラクだから。

誰かが優しくしてくれるし、
「そんなに頑張らなくていいよ」って言ってくれるし。

変わりたいんじゃない。
頑張りたいんじゃない。
私はただ、許されたいだけなんだよ。

 

  それでも、今日も生きてる自分に言いたい。

 

それでも、私は今日もなんとか、
目覚ましを止めて、
ちゃんと布団から出て、
無難な服を選んで、
無表情で電車に乗って、
何事もないように一日を過ごしてきた。

…それだけで、本当は、充分すごいんだよね。

 シンプルフレーズ

「諦めた」って言える時は、きっともう、何かを超えた時。


でも今の私はまだ、「逃げてる」って分かってて、
それでも、少しずつ歩いてる。それでいい。そう思っていたい。

 

職場でも、家庭でも、近所づきあいでも。


どうして私は、「我慢する側」ばかり選ばれるんだろうって、ふと考えてしまう。

いや、選んでなんかいない。
ただ、そうせざるを得ない空気があるだけ。
言い返したくても、波風立てたくなくて。
角を立てないようにって気を遣って、
誰にも逆らわずに、いつも“いい人”でいた。

生きづらさを抱えて

 

「もっと自分を大事にしなよ」
そんなアドバイス、もう何回聞いただろう。

でもね。
言葉で自分の気持ちをいくら立て直したって、
現実は変わらないんだ。

私がどれだけ整理しても、整えても、
まわりの空気も、人の都合も、変わらない。

 

我慢してることにさえ気づいてもらえない。
耐えてるのは私だけ。
それでも「あなたは強いね」なんて言われて、
もう、笑うしかない。

 

正直に言うと、私はただ…
もう、誰かの言葉に振り回されたくないんです。

だったら、いっそ——
自分の気持ちに振り回されて生きていくほうがマシなんじゃないかって思った。

 

泣きたくなったら泣く。
悔しかったら、黙って悔しがる。
でも、自分の気持ちをちゃんと感じていたい。

誰にも理解されなくても、
「それでも、私はそう感じた」ってことだけは、
大事にしたい。

 

人の正しさに従って、自分を失っていくくらいなら、
私は、自分の感情にだけは素直でいたい。
たとえ、それで不器用だと言われても。

 

私は、これからも“我慢してる人”に見えるかもしれない。
だけど、もう違う。

 

沈黙しているのは、
他人の言葉を飲み込むためじゃなく、
自分の気持ちを聞くため

 🌱今日のシンプルフレーズ

「誰かに理解されなくても、
自分の気持ちを疑わないでいよう。」

静かに、でも確かに胸で灯る、小さな決意の物語。

 

  ある一幕の物語

 

朝5時。まだ薄暗い部屋で、眠たい目をこすりながらキッチンに立つ。
前の晩に炊いたごはんを冷蔵庫から取り出して、おにぎりを握る。
「あと10分……」と寝ぼけ眼の子どもたちの声を聞きながら、お弁当箱のすみに色を加えていく。
この静かな朝が、私の「戦いの始まり」だと誰が気づくだろう。

職場では「時間に余裕がある人」と思われている。
“定時で帰る人”=“責任感がない人”という、よくあるレッテルが貼られているのも、知っている。


でも、本当は違う。
夕方5時半には帰らないと、塾に行く子どもの送り迎えが間に合わない。
寝たきりの父の介護で、夜間の見守りが必要な日もある。
家族にとっての私の役割は、会社の評価には載らない。

昇進の話が出たこともあった。
でも、それを断ったのは他でもない私自身だ。
あの春の発表会、息子が初めて「舞台で演奏するんだ」と言ってくれた。


その一言に、私の優先順位がはっきりした。
「キャリア」より「たった一回の思い出」を選んだ自分を、私は誇りに思っている。

 

けれど、それを誰かに伝えることはない。
この選択に込めた思いは、私だけが知っていればいい


だからこそ、「頑張ってないよね」「もったいないよね」と言われても、心の底で揺れないようになった。
だって、あのときの私は、私のすべてを使って選んだから。

  他人の目は、あくまで外からの印象

 

私たちは、日々「評価される側」として生きている。
学生ならテストの点数、社会人なら成果、数字、売上、昇進。
家の中にいても、SNSでは「いいね」の数、ママ友の間では「しっかりしたお母さん」かどうかのラベリング。

 

でも、評価されるのはいつだって、結果だけ
努力の過程も、背景も、葛藤も、誰も見ていない。

——子どもの夜泣きで3時間しか眠れなかった朝。
——親の病院の送迎と仕事を両立させようとして、電車で泣きそうになった帰り道。
——家族を養うためにやりたい仕事を諦めた日。

 

どれも、評価に反映されることはない。
それどころか、「もっと頑張れるんじゃない?」「なんでそうしたの?」という言葉で、さらに追い打ちをかけられることすらある。

でもそれって、ちょうど映画のワンシーンだけを観て「この映画つまらない」と言ってしまうようなものじゃない?
ストーリー全体を知らないのに、ラストの一言を切り取って物語のすべてを決めつけるようなこと。

 

私の何かを知っているわけじゃない。
だから、外からの声にすべてを左右される必要なんて、本当はどこにもないんだよね。

 

  自分で意味をつけることが、生きる力になる

 

どんなに他人から批判された選択でも、私には「選んだ理由」がある。
「それしかなかった」と思うような状況だって、何度もあった。
だけど、そのたびに私は、何かを守るため、誰かを思うために、自分なりの決断をしてきた。

 

あの日。
どうしても外せない会議がある日だった。
でも、子どもが高熱を出して「ママ、そばにいて」と言った。
会社に電話して、「今日は休みます」と伝える瞬間、心がちぎれるようだった。

後日、上司から「君に任せようと思ってたんだけどね」と言われた。
悔しかった。
でも、それ以上に、あのとき子どもの額に手を当てて、「いてくれてよかった」と泣きながら眠った姿が忘れられない。
その記憶が、私にとってはすべてだった。

 

自分で意味をつけること。
それは、人生の中でいちばん大切な“選択の根拠”になる。

誰も評価してくれなくても、
誰にも理解されなくても、
私が「それでよかった」と思えるなら、それでいい。

  間違いさえも、私だけの正解にできる

 

人は、間違えないように生きたいと思う。
でも、間違いだったとしか思えない選択に、後から意味が宿ることもある。

あのとき言い返せなかった私。
あのとき手を離してしまった私。
あのとき夢を諦めてしまった私。

それでも、そこにいた私には、私なりの理由があった。
そしてその理由を知っているのは、今もこれからも、私だけ

 

もう会えなくなってしまった子どもたちに、
何もしてやれなかった私が、唯一できること。
それは、この時間に、意味価値をつけること。

 

「私は、あなたを大切に思っていた」
「あなたを選んだ。だから今がある」
そう言えるように、生きていく。

他人に理解されなくても構わない。
他人に評価されなくても構わない。

私が、私の選択を肯定できるなら、それが私にとっての正解。
他の誰にも見えない形でも、それは確かにここにある、かけがえのない“私の価値”なのだから。

 💡シンプルフレーズ

「私だけが知る選択が、私の価値になる」

 

もし今日、誰かの言葉に心が揺れたら、
誰かの評価に立ち止まりそうになったら、
そっと目を閉じて、自分だけが知る“選択の理由”に耳を澄ましてみてください。

あなたの価値は、あなたの物語の中にあります。
他の誰かじゃなく、あなたにしか見えない形で、静かに、でも確かに生き続けています。

 

過去と向き合いながら、いまを動かすために

 

  過去に置き去りにした “痛み” と “願い”

 

  • 「やり直したい」「忘れてしまいたい」──そう感じるのは、
    過去がまだ現在に仕事を残している サインかもしれません。

  • その胸のチクリは、ただの後悔ではなく、
    「ここに問いがあるよ」と知らせる ベル のようなもの。

願い = 問い
「どうしてもこうなりたい」「もう二度と繰り返したくない」
その奥には「私は何を大切に思っているのだろう?」という問いが眠っています。

   問いが “修行” をくれる理由

  1. 気づき

    • 過去を思い出す → そこで感じた感情・価値観に気づく

  2. 選択肢

    • 「同じ選択をしない」と決める/「別の行動を試す」と決める

  3. 実践

    • 実際に動いてみることで、問いが “経験” に変わる

この3ステップが 小さな修行
仏教で言う “煩悩” も、見方を変えれば「行動を生むエンジン」です。

 

  具体的にどう意味をつくる?

 

── 過去の“傷あと”を、“物語”に変えるレシピ

過去の出来事に意味を持たせるって、
「それって自分の糧になったんだよね」って言える状態にすること。
でも、それってすごく抽象的ですよね。

だから、こう考えてみてください。

 

■ 傷は、“まだ途中”の絵本みたいなもの

 

たとえばあなたが、
大切な人に誤解されたまま関係が終わってしまったとします。
そのページだけ見ると、**「後悔の物語」**で止まっています。

でも、そこにあなたが今、
「次は大事な人に、ちゃんと思いを伝えよう」って思ったとしたら――
それだけで、物語は続きが生まれるんです。

🖋️ 絵本でいうと、「つらい場面でページが破れていた」だけ。
でも、あなたがまたペンを持てば、次のページに絵が描ける。
それが、意味をつくるということ。

 

■ 意味は“振り返り”じゃなく、“未来の使い道”で決まる

 

「自分はあのとき、あんなことをしてしまった」
「もっとちゃんとできていれば…」

そんな風に、過去を何度も巻き戻して見てしまうのは、
“意味”ではなく“評価”をつけようとしているからかもしれません。

でも本当に大事なのは、こう問い直すこと。

  • 「次、同じような場面に立ったとき、自分はどうしたい?」

  • 「あのときの自分の選択が、今の私にどんな影響をくれてる?」

🧭 たとえば、道に迷った経験は“失敗”じゃなくて、
「次は地図を見るようになった」という“学びのスタート地点”。

それって、過去の失敗に「ナビ機能」を追加したってことですよね。

 

行動という “アウトプット” が加わると、
過去は 「未完了な物語」から「続きが書けるシリーズ」 に変わります。

 

  お金や成果は “後からついてくる領収書”

 

  • もちろん、行動が収入や評価に結びつく瞬間は嬉しいもの。

  • でも本質は、行動によって「私はもうあの日と同じではない」と確信できること

  • その確信こそが、過去を色あせさせる “一番の報酬” です。

見返りはモチベーション、行動は証明書。
どちらも揃ったとき、痛みは価値に変わる。

   願いは行動のスタートボタン

 

  1. 願い=問い と捉える

  2. 問い=行動計画 に細分化する

  3. 行動=過去の意味づけ を書き換える鍵になる

そして、小さな一歩でも踏み出した瞬間、
あなたの過去は 「やり直したいページ」から「必要な伏線」 へとタイトルが変わります。

 

 🌱 今日のシンプルフレーズ

「願いは、行動前夜の合図」

さあ、あなたの“問い”は何を知らせていますか?
そのベルに耳を澄ませて、できるところから一歩。
未来のあなたが、きっと “続き” を書き加えてくれます。

 

~小さな選択で、窮屈な毎日をほどいていく方法~

  選ぶことの怖さと勇気

 

「自由になりたい」と願うたび、ふと思う。
選ぶって、こんなに難しいことだったっけ?
“自分で選べばいい”“自分で決めれば自由だ”――そんな言葉を聞くたび、私は胸の奥で立ちすくむ。

だって、選ぶということは「今より悪くなるかもしれない」っていう不安と向き合うこと。
本当にできるだろうか。思った通りになるだろうか。


今の居心地の悪さを捨てて、もっと居心地が悪くなったらどうしよう――
そんな心の声が、私の中で静かに渦巻いている。

 

だからこそ、選ぶには大きな勇気が必要になる。
現状の不満をしっかり見つめて、
「何がダメなのか?」
「どうして不自由だと思うのか?」
「どこでつまずいているのか?」
――ひとつひとつ、自分の気持ちと向き合ってみる。

不要なもの、もう我慢できないこと、逆に本当に欲しいもの。
その取捨選択こそが、自分の「優先したい気持ち」を浮き彫りにしてくれる。

 

そして、その想いを選ぶことこそが、
不満に向き合いながらも、自由を目指して歩き出すための一歩。


たとえ小さなことでも、何かを選び取る勇気――
それが、これからの自分を動かす「意欲」になっていく。

 

   優先したものの正体に気付く

 

自由を感じられない理由は何か?
それは、自由よりも「他の何か」を優先して、今の状況を自分で選んでしまったからかもしれない。

 

たとえば――
毎朝ぎゅうぎゅう詰めの満員電車に揺られながら、「こんな生活は嫌だ」と心のどこかで不満を抱えている。

 

でも、なぜその仕事を選んだのか?
給料、安定、世間体、家族のため、過去の自分の期待…。
「自由」よりも、もっと大切にしたい何かが、その時の自分には確かにあった。

住む場所も同じ。都心の小さな部屋を選んだのは便利さや通勤時間、もしかしたら「孤独が怖い」からかもしれない。
本当はもっと自然の中で伸び伸び暮らしたかったのに、今の自分には「それ以外の何か」を選ぶ理由があったのだ。

 

そのことに気づけたとき、「ああ、私が自由じゃないのは、自分が“自由じゃないこと”を選んでいたからなんだ」と、ちょっとだけ納得できる。

 

でも、それに気付いた今こそ、「もう一度選び直してもいいんだ」と思える瞬間なのかもしれない。
自分の本心と向き合う――それが、行動する意欲や勇気を手に入れるタイミングになる。

 

   簡単に行動できない葛藤

 

とはいえ、「よし、選び直そう!」と簡単にはいかない。
今ある暮らしや仕事を手放してまで、すぐに新しい自由を手に入れるなんて、やっぱり怖いし不安だ。

 

選んだものには理由があって、理由にはメリットがある。
 

いまの仕事には「安定」があるし、いまの場所には「安心」がある。
たとえるなら、檻の中の鳥。外に出れば空は広いけれど、天敵や飢え、嵐が待っているかもしれない。

「このままじゃ不自由だ」と思いながらも、いまの生活のメリットを捨てる勇気はなかなか持てない。


「本当に新しい世界で自由を得られるのだろうか」
「今よりもっと苦しくなってしまうんじゃないか」


――そんな葛藤が、頭の中でぐるぐると回る。

それでも、今の不自由さには確かに苦しみを感じている自分がいる。
「現状維持」と「新しい自由」――その間で心が千切れそうになるのも、人間らしさだと思う。

  小さな自由の積み重ねが、今を生きる力になる

 

この苦しさの正体は、たぶん「取捨選択が足りていない」ことにあるのかもしれない。
本当は不要なものまで全部抱え込んで、一緒くたに「これが現実」として見てしまう。


そうすると、捨てられるものまで手放せず、重荷ばかりが増えていく。

たとえば、古びたクローゼット。
もう着なくなった服や使わないカバンを、もったいないからと詰め込んでいるうちに、本当に必要なものがどこにあるか分からなくなる。


人生も同じで、不要な物やしがらみまで抱え込んでしまうから、自由が遠のいていく。

でも、本当に必要なものだけを選び取っていけば、少しずつ空間が生まれ、身軽になれる。
大きな自由を一気に手に入れるのは難しくても、小さな自由を一つひとつ積み重ねていくこと――

 

たとえば、
・朝のコーヒーをゆっくり淹れる
・仕事帰りに好きな道を歩く
・夜の静かな部屋で自分だけの音楽を聴く

そんなささやかな自由が、「今を生きる力」になっていく。

大きな自由を手に入れるより、小さな自由を積み重ねることが、

今を生きる自由につながる。

“全部”を一気に変えようとしなくていい。
「今、自分が選べること」に目を向けて、一つでも選び取る勇気を持つ――
それが、窮屈な毎日の中でも「私は私の人生を生きている」と思える、小さな自信や希望になる。

 

 

 シンプルフレーズ

全部は選べなくても、ひとつは選べる

 

こんなふうに、日常の中の小さな自由を大切にすることで、少しずつ「自分らしさ」や「心地よさ」を取り戻していける――そう信じています。