朝の挨拶はできる。
雑談もできる。
でも「昼休み、どこで食べる?」ってなった瞬間に、ちょっと悩む。

 

輪に入るのがイヤなわけじゃない。


ただ、無理に混ざると疲れる日もある。
逆に一人でいると「大丈夫?」って心配されたりもする。

主婦だと、ママ友とかご近所とか。
会えば話すし、笑うし、感じよくできる。


でも、深くなるほど「うっかり何か言ったらどうしよう」とか、
距離の取り方に気を使ってしまうこともある。

 

休日もそう。
一人でカフェに行きたい日もある。
でも、ふと「これを誰かと共有できたらもっと楽しいのにな」って思ったりもする。

……この“ちょっとした揺れ”って、
たぶん、誰にでもある。

  一人は、平気なんかじゃない

 

「一人で平気そうだよね」
そう言われることがある。

でも、平気なわけがない。

 

一人って、
共感を得られない寂しさであり、
感情を打ち明けられない寂しさであり、
助けが欲しい時に頼れない不安であり、
弱音を吐ける安心感がない時間だ。

 

一緒に楽しみたい、盛り上がりたい、感動を分かち合いたい。


そんな瞬間に、向けどころがない寂しさもある。

そして何より、夜に訪れる言葉にならない感情。
不安や後悔を紛らわせられず、負の感情が内側に向く時間。

これが、私が感じる「寂しさの辛さ」だと思う。

人はそれを全部抱え込んで生きていけるほど強くない。


少なくとも私は、そんなに強くない。

だから、吐き出す場所を探してしまう。
SNSでも、文章でも、言葉でも。


「弱いだけなのかも」って思いながら、
それでも、どこかで救いを探してしまう。

  寂しさの正体は「共有できない感情」

 

寂しいのは、単に「一人」だからじゃない。

たぶん、
感情を共有できないことが辛いんだと思う。

 

嬉しかったのに言えない。
頑張ったのに言えない。
しんどいのに、笑ってしまう。

 

誰かがいれば全部解決するわけじゃないけど、
「今の気持ち」を置ける場所があるだけで、
人って少し楽になる。

 

だから「一人は平気?」と聞かれたら、答えはNO。
平気なわけがない。

 

  それでも誰かを傷つける方が怖い

 

それでも私は、こう思ってしまう。

誰かを傷つけるくらいなら、そのリスクは避けたい。

 

誰かを悲しませて、傷つけて、
取り返しがつかない状況になって、
謝罪も贖罪もできないまま、
後悔だけが残ってしまうくらいなら。

 

それなら、
一人の方がまだましだと思ってしまう。

 

ここ、誤解されたくない。

「自分が壊れる方を選んだ」んじゃない。


私は、ただ——
誰も壊れない選択をしたいだけだ。

 

  一人を選んだのではなく、距離を選んだ

 

私は「一人が好き」な人間ではない。

他者に依存することで得られる共感や救いを、
自己の中で完結する方法を探している。

 

自己理解。
否定や後悔を、学びや経験に変える。


それは、私なりの“生き方の整え方”だと思っている。

私は常に取捨選択に重きを置いている。
優先順位なんだ。

 

他人との繋がりで得られるメリットより、
傷つけないメリットを選ぶ。

そして、自分だけでは乗り越えられない葛藤や寂しさの中から、
自由という可能性を見出していく。

だから私は、「一人」を選んだんじゃない。


距離を選んだ。

近すぎない距離。
深く入りすぎない距離。
でも、ゼロじゃない距離。

 

  一期一会で十分だと思っている

 

特別な関係にならない。
深い関係にもならない。

でも、仲の良い人がいないわけじゃない。

 

ただ、深くならない。
そしてそれは「なれない」ではなく、望んでいない

 

適度でいい。


その時その時に、ちゃんと誠実でいられたらいい。

一期一会。
それ以上でも、それ以下でもない。

「長く続けること」が正解じゃないなら、
「その場でちゃんとすること」も正解でいいと思う。

 

  マイノリティとして生きる選択は、意味がある

 

社会的には、こういう生き方は「失敗」に見えるのかもしれない。

繋がり、関係、他者性、社会性、公共性。
そういうものがあって初めて、共同体に属せるのだとしたら。

 

私はその設計から外れている。
マイノリティかもしれない。

 

でも私は思う。

マイノリティとして生きる選択にも、ちゃんと意味がある。

 

誰も傷つかない。
傷つけない。
悲しまない。
そこにピントを合わせて生きる。

 

それは言い訳でも自己都合でもない。
「自分が望んだ未来の願いの叶え方」だと思っている。

 

自分の人生を自分のために生きて、
その結果、どこかで誰かと繋がるなら、それは素敵。

 

でも、繋がるために生きるんじゃなく、
自分のために生きることが最初の優先順位に来ているだけ。

理解してもらう必要はない。


でも、私はこれを「意味と価値がある行為」だと思っている。

  1人の自由は、孤独と同義じゃない

 

寂しい夜があるのは当たり前。
苦しい時間があることも知っている。

 

でもそれ以上に——
自分のために、自分に使える時間がある。

 

休日の過ごし方も、
食事の内容も、
お金の使い方も、
時間の使い方も。

誰かがいるときに得られる選択肢と、
一人だから得られる選択肢は、きっと違う。

 

私が選んだのは、
「一人だからできる選択肢」を
ちゃんと自分の優先順位の上に置くこと。

 

それを“強がり”じゃなく、
“合理的な選択”にしていく。

そうやって、今日も生きている。

そして最後に、これだけは言いたい。

一人でいることは、寂しい。


でも同時に、
自分に使える時間が増えるのは、私にとって最高のご褒美だ。

 シンプルフレーズ

孤独と自由は同義じゃない。

自分の為の生き方と他人が歩む道が交わる時もある。

その時々に、選んで、取捨選択するのが生きるっていうことだ。

生きるって、幸せになることだと思っていた

 

朝、目覚ましで起きる。
仕事に行く準備をして、電車に乗る。
給料日まであと何日かを数えて、
今日も「ちゃんと生きる」ことを目標にする。

多くの人が、そんな日常を生きている。

「何のために生きてるの?」
そう聞かれたら、
うまく言葉にできなくても、
たぶん心のどこかでこう思っている。

幸せになるため。

私も、そうだ。

  欲望って、たぶん幸せのこと

 

いい仕事をしたい。
ちゃんと稼ぎたい。
安心できる人間関係が欲しい。
誰かに必要とされたい。

どれも、欲望だ。
そして同時に、幸せの形でもある。

幸せの形は人それぞれ。


だから、欲望の形も人それぞれ。

ここまでは、普通の話。

 

  でも、現実はいつも思い通りにならない

 

仕事で頑張っても、評価されないことがある。
お金の不安は、真面目に働いていても消えない。
大切にしていた人と、すれ違って終わることもある。

「ちゃんとやってるのに」
「悪いことしてないのに」

そう思う瞬間は、誰にでもある。

ここで、多くの人は気づいてしまう。

幸せは、単独では存在しない。

 

  幸せは、誰かの幸せとぶつかる

 

私が昇進すれば、
誰かは昇進できない。

私が選ばれれば、
誰かは選ばれない。

私が安心を手に入れれば、
誰かの我慢の上に成り立つこともある。

そうやって、
幸せは、どこかで衝突する。

壊れた幸せを、
人は「不幸」と呼ぶ。

  人生は、最初から重たい

 

「不幸を天秤に乗せたら?」
そんな問いを立てる必要はない。

もう、乗っている。

  • 理不尽な経験

  • どうにもならなかった過去

  • 後悔

  • 折れた気持ち

人生は、
最初から軽くなんてない。

だから人は、
幸せを目指す。

 

  生き延びたという事実

 

「生き延びられたんだから、良かったじゃない」

そう言われることもある。

でも、生き延びたということは、
無傷だったという意味じゃない。

生き延びたということは、

  • 何かを諦めた

  • 何かを失った

  • 何かを引き受けた

ということだ。

不幸が残った証拠であり、
後悔が残った証拠であり、
この世界の不条理を、
自分の人生として背負った証拠。

 

  それでも、もう一度天秤に乗せたい

 

じゃあ、どうするのか。

不幸を消す?
なかったことにする?
それはできない。

それでも私は、思う。

もう一回、賭けたい。

失敗するかもしれない。
また壊れるかもしれない。

それでも、
人生を、もう一度
幸せの側に乗せてみたい。

 

  私にとっての幸せ

 

私にとって幸せとは、
楽になることじゃない。
軽くなることでもない。

この重さを、
意味として回収できること。

  • 後悔を、経験にする

  • 不幸を、物語にする

  • 壊れた痕跡を、層として残す

そして、

「それでも、やってみたい」

そう思える自分でいられること。

  生きるとは

 

生きるとは、
幸せになることじゃない。

幸せが壊れたあとでも、
それをもう一度、
天秤に乗せようとすること。

完全な幸福なんて、信じていない。
誰も傷つかない幸せも、信じていない。

それでも、
もう一度やってみようと思える。

それだけで、
今日はちゃんと生きている。

 

 シンプルフレーズ

生きるとは、壊れた幸せを、
もう一度信じてみること。

 

泣いている人を見た時、
困っている人を見た時、
胸の奥がザワつく瞬間ってある。

「声をかけた方がいいのかな」
「でも余計なことになるかな」
「迷惑って言われたらどうしよう」
「拒絶されたら、私の方が壊れる」

そんな葛藤を抱えたまま、結局なにもできずに通り過ぎて、
家に帰ってから、じわじわ自己嫌悪になる日もある。

 

優しさって、きれいなもののはずなのに。
なんでこんなに扱いづらいんだろう。

  優しさは、他人のためじゃなく「自分の欲望」から始まる

 

私は思う。
優しさって、結局、自己満なんだ。

誰かを助けたい。
笑わせたい。
この世界で“冷たい人間”になりたくない。
目の前の痛みを見ていられない。

 

それって全部、「自分がそうしたい」っていう欲望だ。

 

相手が何を求めているかなんて、分からない。
分からないまま動けば、「それじゃない」「そうじゃない」「迷惑」って拒絶されることもある。

そして、その拒絶が一番刺さる。
善意が悪に変換される瞬間が、いちばん壊れる。

だから私は最近、こう思うようになった。

優しさの使い方は、欲望のままでいい。
ただし、結果は保証されない。

 

  理性の仕事は「破綻しない型」じゃない

 

世の中ではよく言う。
「優しさは設計しよう」
「制度に繋ごう」
「ルールを決めよう」

確かに、それが正しい場面もある。
でも、私の中で理性がやってる仕事は、それじゃない。

理性の仕事は、もっと泥臭い。

 

自分が壊れないために、自分が自分にする言い訳を作ること。
「自分は満足した」「これでよかった」って、自分で笑うために、落としどころを作ること。

 

優しさを使った後、
あるいは使えなかった後、

「それでも、私はこうしたかった」
「今日はこれが限界だった」
「ここまでやれたなら十分だ」
「誰も救えなくても、私は私を見捨てなかった」

そうやって辻褄を合わせて、
自分が次の日も生きられるようにする。

 

理性って、正しさを作るんじゃない。
生き延びるための“後付けの意味”を作る。

 

  優しさの最適化はAIでいい

 

「どうやったら誤解されないか」
「どうしたら炎上しないか」
「どういう言葉が適切か」
「誰に繋げば安全か」

そういう“制度としての型”は、AIが得意だと思う。
合理的に、確率的に、リスクを下げる方法を提示できる。

 

でも人間は、そんなにきれいに運用できない。

だって、優しさは欲望だから。
理屈じゃなく、衝動だから。

衝動で動いて、
失敗して、
拒絶されて、
それでもまた優しくしたくなって。

 

その繰り返しが人間で、
その傷の回収をするのが理性なんだと思う。

 

  「誰のため?」に決着をつけないまま、それでも手放したくない

 

優しさは誰のためにあるのか。
自分のための優しさは、相手に伝わるのか。

たぶん、基本うまくいかない。
伝わらないことの方が多い。
むしろ悪になることだってある。

 

それでも私は、手放したくない。

 

拒絶される可能性も、
負担になる可能性も、
負債になる可能性も、
全部ひっくるめて、手放したくない。

だってそれを手放したら、
私は「駆け引き」と「自己防衛」だけで生きることになる。

自分のために生きたいのに、
誰かとの駆け引きで生きたくない。

私の優しさが、たまたま運よく誰かのためになったら素敵。
それで十分。

ヒーローになりたい人は目指せばいい。
助けたい人は助ければいい。

私はただ、
壊れながらでも、
優しさを持っていたいだけだ。

  結局、人生は足掻くしかない

 

落としどころなんて、最初から用意されていない。

欲望で動いて、
理性で言い訳して、
「これでよかった」って自分に言って、
また次の日を生きる。

 

苦みと苦しみと悲しみと、ダンスしながら。

それが、私の生き方なんだと思う。

大切なモノを大切にしたいと思ったら。どうしますか?

 

心配して、いっぱい言葉をかける?

絶対安全な場所に囲って、護る?

それとも、自分の一番近くに置いて、いつも一緒に居る?

 

出来ない時ってあるくない?

大切なモノを大切にしたいと思う

 

 

大切なモノを大切にする方法

護る為に、無くさなないために、

傷つけて、壊したり、失ったり、大切だと思えなくならない為に

 

試行錯誤を繰り替えす。

 

そして、一つの方法として、シンプルフレーが伝える大切にする方法。。

それは、

 

大切なモノとの時間を共有すること。

一緒の時間が長ければ長いほうが、きっと大切にすることが叶うだろう。

 

●旅先で財布を無くさないようにするために、肌身離さず持つように。

●出先で子供が迷子にならないように

●自分が知らないトコロで、傷つかないように

●なにかあっても、すぐに助けられるように

 

同じ時間を共有して、モノだろうと人だろうと、自分の手や目が届くところにある事が

一番安心できる

 

  逆に、大切にされたいって思っている人も

 

同じ時間を共有したいと感じているんじゃないだろうか?

大切な人との時間を共有することが、大切にする方法なら、大切にされる方法も同じく時間を共有すること。

たとえすれ違いの時間が多くても、事情や都合があるから別々の時間があったとしても、

共有する時間を大切にすることが、モノじゃない人を大切にする方法。

 

大切にされたいと思うなら、その願う相手との時間を大切にするしかないだろう。

どんな時間を共有するのか?

どうやって共有するのか?その時に何をするのか?何を言うのか?

その答えは無いのかもしれない。

 

でも、出来るんなら見つめてあげるのが良いんじゃないかな?

目の届くところ・・・手の届くところ・・・

それが、安心できる一つの方法だからね。

 

  一方通行で大切に出来ないってよくある事

 

大切だと思えるモノ

それが人の時は、簡単には時間の共有も出来ない。

 

相手が受け入れてくれないと・・・・・・・・

ただのストーカー(切ない)

 

自分がどれだけ大切にしたいからって、同じ時間を共有しようとしても、

相手が居やがっていたら、

相手にとっては、辛く楽しくない時間。

 

自分が楽しい時間が、相手にとっても楽しい時間とは限らない。

(実際そうなんよ)

 

大切にしたいからって、声を掛けたり、目をかけたりしても

「縛られている」って言われたらそれで終わり。

(子育てあるあるだけど、そうじゃない時もいっぱいよ)

 

どれだけ『大切だから』って言っても、伝わらない。相手が望んでいないから。

 

もう、その時は方法を変えるしかない。

時間の共有が出来ない時にも、大切にしたいって気持ちは変わらないから。

 

 

目が届かなくても、手が届かなくても、出来ることはある

 

同じ時間を共有して、

目が届いて、声が届いて、手が届く

その距離感で、一緒に居られるなら、それが一番素敵だし、大切に出来ている実感が出来る。

 

でも、実際にはそうもいかないことが多すぎる。

 

自分がどれだけ望んでいても叶わない時なんて多すぎて、どうにもならない。

 

それでも何とかしたいって、一緒に居たいって思うのはエゴなのかな?

良いか悪いかは別にして、その気持ちだけは素敵だと思う。

 

じゃあ、どうするのか?

 

信じてあげるしかないよね。

そして、出来る時に出来ることをするしかない。

 

同じ時間を共有できるのが少ないなら、共有出来る時をより充実できるように

心にも、記憶にも残る方法を探すだろう

 

目も手も声も届かないトコロなら・・・

信じて待つしかないのかもしれない。

あとは、なにかあった時には、全力で手をかけてあげればいいじゃないか。

 

常に把握することは困難かも知れないけれど、出来る限りをしてあげることが

気をかけてあげるってことなんじゃないかな?

 

時間を共有することが出来ないなら、

大切なモノへの気持ちを常に向けてあげておくこと、気にかけてあげていることが、

大切にする方法なんだろう。

 

気持ちは自由で、心は自由なんだから、

時間の限り、相手を思ってあげることが、大切にする方法の一番必要なコト

思いがあるから

行動になって

行動があるから

結果がある。

大切にしたい想いがあるから、大切に出来るんだから

その想いを向けてあげることが、きっと一番重要なのかもしれないね。

 

出来ないと失っちゃうから

毎日つまらない。
仕事ばっかり。
面白いことがない。

そう思う日って、ある。
というか、むしろそれが「普通」なのかもしれない。

 

でも、そんな時ほど私は思ってしまう。

人生って、結局“自分の行動”でしか変わらない。
行動しないことも含めて、ぜんぶ「選択」なんだって。

 

  「選べない」と「選ばない」の間に、人生がある

 

私たちはよく言う。

「選べない」
「自由がない」
「仕方がない」

うん、分かる。
自由が無い時期って、本当にある。

 

お金がない。
時間がない。
家族がいる。
子どもがいる。
責任がある。
体力も気力も削れている。

「動けない」が現実として存在するのは、事実だと思う。

 

でも同時に、私はこうも感じている。

選択肢が少ないだけで、“選べない”わけじゃないんじゃないか?

選べないんじゃなくて、
本当は「選びたくない」だけの時もある。

告白するのか、しないのか。
出会いの場に行くのか、待つのか。
変えたいと思いながら、今日も何もしないのか。

「選べない」は、
ときどき「怖い」の言い換えになる。

 

  未来を変えるのは、大きな決断じゃない

 

人生を変えるっていうと、
転職とか、引っ越しとか、離婚とか、独立とか、
大きな決断を想像しがちだけど。

本当はそんな“派手な話”じゃない。

 

未来を変えるのは、スマホの更新ボタンみたいな

小さい行為の繰り返しなんだと思う。

 

しかも前提がある。

失敗する前提。

 

一回で大当たりなんて、引けない。
初手で正解に辿り着くほど、人生は甘くない。

なのに、なぜか人生になると
「最初から当てたい」と思ってしまう。

 

  行動しない人ほど、一発逆転を信じたくなる

 

ちょっと意地悪な言い方になるけど、
行動しない人ほど、ギャンブルをする。

 

それは、「回さないと当たらない」ことを
本当は知っているからだと思う。

当たるまで回す。
当たるまで買う。
情報を集めて、確率を上げて、またベットする。

 

それを人生でもやればいいのに、人生ではなぜか、回す前に止まる。

そして言う。

「面白いことないっすか?」
「何かいい話ない?」
「誰か誘ってくれない?」

いや・・・誘ってるのに来ないじゃん、ってなる。

 

面白さは、配達されない。
自分が“参加”しないと、始まらない。

  「やった後悔」は、血肉になる・・・でも記録が辛い

 

よく言うよね。

やらなかった後悔より、やった後悔。

 

私もそう思う。
でも、正直に言う。やった後悔はしんどい。

 

記憶が消えないのも辛いけど、
今は「記録」まで消えない。

履歴、データ、過去の投稿、失敗の痕跡。
世界に刻まれる。

 

ぶっちゃけ、事故情報は何年も消えない・・・まだ私はブラックのままだ。

 

だから、人は動けなくなる。

「動いたら傷つく」
「動いたら敵が増える」
「動いたら失う」

その怖さは、甘えじゃない。
現実だ。

そりゃそうだ・・・どれだけ何が出来て、何を持っていて、何を目指していようが・・・

ブラックは何も出来ない。社会的信用が無い。認められていないっていう証拠を突き付けられているんだ。

まるで、社会悪・・・新しい職場で聞かれたさ・・・「何でこの年で?」って・・・ブラックだからさ・・・

他に行く場所が無いんよ。ごめんじゃん。

 

もう、後悔とか懺悔とかじゃない。磔にされてるようなもんよ。

ハードモード?っていうより、マゾモード。

 

周囲からは冷たい視線・・・笑ってごまかすのは私の理性。

共感も同情も何もいらない。私が笑うから一緒に笑ってくれ

 

  それでも「行為」は、勝者の理論じゃない

 

ここで私は、勝者の自己啓発が嫌いになる。

「行動しろ」
「自分次第」
「努力は裏切らない」

・・・いや、裏切るよ。普通に。

 

キリストは磔だし、
ブッダは餓死しかけたし、
ナポレオンは投獄されてる。

柳井会長だって、成功したのがユニクロだっただけって言ってる。

私は離婚で破産でブラックで独身でちょっと変わってるマイノリティ・・・

 

それもこれも、行為した結果の現状だ。

 

いきなり成功する人なんて、いない。

 

だから私は思う。

行為は「勝つため」じゃない。


生きる意味と価値を見つけるための探索なんだ。

 

冒険だよ?とレジャーハントだよ?

ハイリスクだよ?リターンは生き残れたらlucky。

もうムリゲー・・・

ゲームならダークソウルかエルデンリング?周回必須の・・・いや、途中で飽きるっていうか、諦めますわ

  「思いやり」も「おもてなし」も、結局は自分の物差し

後悔って失敗や、他人に迷惑を掛けたっていうことでしょ?っていう現実。

だからこそ、後悔したくないし、負債は背負いたくないし、ミスはしたくない。

上手く生きて生きたいんだ。

 

それは、他人の関係する事でも同じことなんだよ。

他人との関係で、共感したり、共有したり・・・

誰かの為に行動したい!とか、誰かの為に・何かの為にっていう行動ってするでしょ?

 

でも、それは自分の為なのか?他人の為なのか?っていうところ・・・

「おもいやり」は、誰かの為の行動?

「おもてなし」は、自分の為に誰かにする行動?

さらにややこしいのが、ここ。

 

自分を大切にするって、何?っていう矛盾。

自分の気持ちに正直にって言ったら、
ただの自己中になりそうで怖い。

 

でも、考えた。

 

人は結局、自分の物差しでしか他人を見られない。

「助けてほしそう」も、
「共感してほしそう」も、
見ている側の価値観。

 

その物差しを
「思いやり」って言葉で相手に押し付けてるだけかもしれない。

そして面白いことに、

  • 行為したい時は「おもてなし」を使う

  • 行為したくない時は「思いやり」を使う

理性って、いつも後出しでうまい言い訳を作る。

自分を正当化して、他人に押し付けて、分かり易くそれっぽく、なんとなく「やったたぜ!」感を出す。

 

結局、
欲望で動いて、理性が意味をつけるだけなのかもしれない。

 

  だから私は、「選択した事実」を持っていたい

 

人生はどうせ後悔する。何かをしようがしまいが、行為だろうが、行動だろうが、発言だろうが、見て見ぬふりだろうが、しらを切ろうが、言い訳しようが・・・なんなら、夜に寝ても後悔、寝なくても後悔。人って面白い。

 

しなくても後悔。
しても後悔。
なんでもかんでも、選んだこと自体を後悔してる。

 

生きた結果って、常に「別の可能性」に惹かれるから。

選ばなかった可能性に、出来なかった可能性に惹かれるの。

無いものねだりは、人の本質。無いから欲しいって思うから、欲しいから後悔するのは必然で人らしさなんだよ。

 

だから私は、こう思う。

後悔を消すために生きるんじゃなくて、
「選んだ」という事実を持つために生きたい。

自分の人生は、自分の選択の結果でしかない。

する?しない?
やる?やらない?

その全部を、私は自分の裁量で決めている。


そして、決めたあとに、理性が整った顔でこう言う。

時間が無い。
お金が無い。
余裕が無い。

でも、それは「出来ない理由」じゃない。


本当はただ、やらないを選ぶ理由を、あとから理性が用意しているだけだ。

 

私たちは、何もしていないようで、ちゃんと選んでいる。
逃げているようで、ちゃんと守っている。
止まっているようで、現状維持という行為をしている。

だからこそ、ここが一番大事になる。

あなたも私も、何かをやらないっていうのは、それより優先する「何か」があるだけなんだ。

 

その「何か」は、世間の正しさでも、他人の期待でもなく、
自分の中の優先順位だ。

それを知ることが、「自分を大切にする」っていうことなんだと思う。

やるか。
やらないか。
どっちでもいい。

ただ、どっちに転んでも、「私は選んだ」と言えるように。
自分の人生を、自分の選択として引き受ける。

それが私の、最初の矜持だ。

 シンプルフレーズ

 

自分の人生は、自分の選択の結果でしかない。

する?しない?・やる?やらない?すべての選択は自分の裁量で決められる。

あとから、出来ない理由ややらない理由や原因を理性が用意しているだけだ。

時間が無い?

お金が無い?

余裕が無い?

それは、出来ないんじゃなく、やらないを選ぶ理由であって、出来ない理由じゃない。

 

あなたも私も、何かをやらないっていうのは、それより優先する「何か」があるだけなんだ。

それを知ることが、自分の大切を知るっていうことだ。