「情熱がある人って、すごいよね」
そう思う自分がいる。

でも正直に言うと、ちょっと苦手だったりもする。
なんだかまっすぐすぎて、私とはスピードが違う気がするから。
置いていかれそうで、焦って、比べてしまって、
それなのに、どこかで憧れている

情熱がある人って、なんだか輝いて見える。
やりたいことがあって、それに向かって突き進んでる感じ。
迷いがないように見えて、自分の“好き”をちゃんと知っている。

だけど私は、
自分の「やりたいこと」が分からない。
「これだ!」って言えるものもないし、
何かに夢中になってる実感もあまりない。

「私には情熱がない」って、そう思ってた。

「情熱がある人って、こわいくらい速い」
そんなふうに感じたこと、ありませんか?
私はまさにそれで、
彼らは “新幹線”、私は “各駅停車”
景色をゆっくり眺めたい私に、
「次は終点! 乗り遅れるな!」と通過音だけが響く――
その速度差が、ちょっと苦手でした。

 

情熱って、“気づくもの”であって、
“探すもの”じゃないのかもしれない。

 

「私は情熱家です!」って名乗ってる人より、
必死で何かに取り組んで、ふと立ち止まったときに
「そうか、私あの時、夢中だったんだな」って思う人の方が多いのかもしれない。

 

情熱は、“燃えてる最中”には意外と分からない。
だって夢中の真ん中って、案外地味だし、
やってる本人は必死すぎて、自分が“光ってる”なんて思ってないから。

  情熱的な人が怖いんじゃない。情熱が分からない自分が逃げたい。

 

情熱的な人って、どうしても周囲を巻き込もうとする。

部活でも、行事でも、仕事でも・・・

 

「やろう!」みたいな全体圧力をかけてくる。

それに巻き込まれて同調できる人たちは、一緒に盛り上がって楽しめるんだろうし、青春をして情熱をして輝いている。

 

でも、私は持っていない。

共感も協調も正直苦手・・・

 

そうなると、みんなで一緒にが苦行でしかない。

賛同しないと冷たい目線・・・

 

だから情熱的な人を見ると、自然と距離を取りたくなってしまう。

これが私の防衛本能なのかもしれない。

なのに・・・・

私は憧れている。情熱?っていうものに・・・

 

SNSで輝いている人

人の輪の中心にいる人

何かに熱中して生き生きしている人

私は、どうしても見てしまう。見たくないのに、見てしまう。

 

そして、比較して・・・自分との違いを痛感して苦しくなる。

私は情熱が嫌いでも、情熱的な人が嫌いなわけでもない。

 

そうなれない自分が辛いから、嫌おうをしているんだ。

  生きやすくなるために、私は情熱の“火を探す”んじゃなく、“温度”を感じてみたい。

 

情熱がないからって、何かを諦める必要もないし、
情熱があるからって、すごい人ってわけでもない。


ただその人は、何かに心が動くタイミングが、
私よりちょっと早いだけかもしれない。

 

もしかしたら、情熱を“持っている”ことよりも、

情熱に“気づける”自分でいることの方が、
ずっと大事なのかもしれない。

 

情熱に憧れる気持ちがあるなら、それで十分。
“燃えるほどじゃないけど、ちょっと気になる”
そんな気持ちに、そっと目を向けてあげる。

それこそが、
「置いてあった情熱」に気づくきっかけになるのかもしれない。

 

  • 朝 7:00
    コーヒー片手にメールチェック。「返信しなきゃ」に追われるだけの日課。
    → ふと、ドラマの挿入歌を鼻歌で口ずさみ、気づけばピアノアプリを開く。
    “没頭スイッチ”が入る瞬間は、予定表外からやって来る。

  • 夜 20:00
    家族の食器を洗いながら、いつものYouTuberを流し聞き。
    → 動画で料理の盛り付けテクを見て「試したい!」と急に台所を片づけ始める。
    これ、第三者には「ただの思いつき」でも、当人にとっては立派な火種

 🪄シンプルフレーズ

私の情熱は、ないんじゃない。
ただ、まだ名前をつけてないだけ。