・・・でも、それでも、それなのに、花は咲く。

image

なんでだろう?

人はどうなんだろう?

いや、私だけなのかな?

 

雨の時期は、とても憂鬱だ。

空は重く、湿度はまとわりつき、朝は起きられない。

やたらと眠いし、仕事にも行きたくない。

 

それなのに、花は咲く。

 

冬だってそうだ。

動物は眠り、虫は消え、人は籠る。

寒さに背中を丸めて、なるべく外に出ないようにする。

 

それなのに、花は咲く。

 

炎天下だってそうだろう。

地面はひび割れ、水は消え、動物は日陰に逃げ込む。

そして私は溶ける。

もう、比喩ではなく溶ける。

 

それなのに、花は咲く。

 

なんて所業なんだ。

まさに諸行だね。

いや、修行なのかな?

 

それなのに、花は咲く。

 

夜に咲く花もある。

冬に咲く花もある。

雨に輝く花があり、太陽に必死にアピールする花もある。

花は、自分に与えられた季節の中で咲いている。

それが好きな環境なのか、苦しい環境なのかは分からない。

 

でも、それなのに、花は咲く。

 

私だったら逃げ出したくなるような場所で、ちゃんと咲いている。

雨だから嫌だ。

冬だから無理だ。

夏だから動けない。

夜だから寂しい。

そんな理由を並べて、私は何度も目を背ける。

 

もちろん、人間には人間の事情がある。

体調もある。

気分もある。

仕事もある。

生活もある。

「花は咲いているんだから、人間も頑張れ」なんて、そんな雑な根性論を言いたいわけじゃない。

花には花の生き方があって、人には人のしんどさがある。

そこをごちゃ混ぜにしたら、ただの綺麗ごとになる。

でも、それでも思ってしまう。

それでも、花は咲く。

 

花は咲くのに、私は目を背けてしまう。

きっと、これが無いものねだりなんだろう。

雨の中で輝く花は、雨を恨んでいないように見える。

冬に咲く花は、寒さを否定していないように見える。

夏に咲く花は、太陽から逃げるより、太陽に向かっているように見える。

もちろん、本当のところは知らない。

 

花に聞いたわけじゃない。

聞いたところで、返事をされたらそれはそれで怖い。

 

でも、私はそう見てしまう。

あるモノを享受できる時に、花は輝く。

雨なら雨を。

冬なら冬を。

夜なら夜を。

太陽なら太陽を。

その時、その場所、その季節にあるモノを受け取って、花は咲く。

 

一方で私は、ないモノを求めてしまう。

雨の日には晴れを求める。

冬には暖かさを求める。

夏には涼しさを求める。

夜には朝を求める。

今ここにあるモノより、今ここにないモノばかりを見てしまう。

だから苦しいのかもしれない。

 

目の前にある季節を味わう前に、違う季節を欲しがってしまうから。

今ある時間を受け取る前に、別の時間に逃げたくなるから。

 

それでも、だからこそ、花は咲く

 

私は目を背ける。

その差は、強さの違いではないのかもしれない。

あるモノを受け取れるか。

ないモノばかりを求めてしまうか。

その違いなんだと思う。

だから、花を見ると少し痛い。

美しいだけじゃない。

責められている気もする。

 

でも、その痛みが少しだけ心に残る。

雨の季節は憂鬱だ。

冬は寒い。

夏は暑い。

夜は寂しい。

 

いつの時も、どんな時も、花は咲く。

 

なら私は、せめて目を背けずに見に行きたい。

咲けない日があってもいい。

逃げたい日があってもいい。

でも、咲いているものを見つける目くらいは、失いたくない。

 シンプルフレーズ

咲く花は、今あるモノを受け取って咲く。
私は、いつもないモノを求めて目を背ける。

 

だからこそ、花は少し痛いほど美しく輝いている。

先日、会社の同僚の赤ちゃんを見せてもらう機会があった。

 

赤ちゃんって、なんであんなに可愛いんだろうね。

目が合うと、ひたすら見つめてくる。
ウルウルの瞳で、真っすぐに見つめてくる。

本当に真っ白で、真っ直ぐな瞳。

その瞳があまりにも綺麗で、
見つめるのを躊躇いたくなるくらいだった。

正直、少し辛くなるくらいだ。

きっと私は、何か分からない負い目を感じてしまっているんだろう。


どうしようもない感情。
分からないね。

 

  他人の子供だから、可愛いと思える

赤ちゃんを見て可愛いって思えるのは、
親としての責任を負わず、
無責任な他人として、可愛い部分だけを見ることが出来るからだと思う。

 

泣いたら?
オムツ?
ミルク?
夜泣き?
病気?
将来?
お金?
親としての責任?

そこは全部、親任せだ。

 

私はただ、良いトコロだけを見させてもらっている。

綺麗な瞳。
小さな手。
触ったら壊れてしまいそうな儚さ。
ただただ愛でることが出来る余裕。

これが余裕なんだろう。

親として赤ちゃんを見た時は、きっと違う。

不安や心配。
責任。
親としての自分の像。
ちゃんと育てなきゃいけないという重さ。

 

その子の未来まで背負うような覚悟。

見るだけと、手にした時では別物なんだと思う。

  それでも、可愛いものは可愛い

でも、それでも赤ちゃんは可愛い。

それは、やっぱり純粋に赤ちゃんの可愛さがあるからだろう。

 

白紙のキャンバスのような透明感。
まだ何も書き込まれていないような可能性。
無垢な瞳。
真っ白な存在感。

だからこそ、無垢な目線で見ることが出来れば、
癒しであり、天使であり、宝石のように感じられるんだと思う。

 

ただ、私はその瞳を受け止めきれなかった。

 

ただ可愛いと思えばいいのに、
ただ癒されたと思えばいいのに、
どうしてもその瞳が、鏡のように感じられてしまった。

 

  見ているつもりが、見られていた

無責任な他人として赤ちゃんを見ているはずだった・・・

 

でも、その真っ直ぐな瞳と向き合った時、
私は「見つめる側」から、
「見つめられる側」になってしまった気がした。

 

自分の顔を見られているんじゃない。
自分の今だけを見られているんじゃない。

もっと奥。
もっと背後。
自分の中の暗い部分。
弱さ。
負い目。
逃げたこと。
背負えなかったこと。
守れなかったこと。

そんなものまで、見つめられているような気がしてしまった。

 

赤ちゃんは何も責めていない。
何も知らない。
何も判断していない。

 

それなのに、私は勝手に怯えてしまう。

  手に入らないから、美しく見える

触れられないから、美しく見える。
手に入らないから、眩しく見える。

手の届かない星のように。
壊れてしまったガラスの破片のように。
ブラウン管の中にある欲しいモノのように。

欲しいけど、手に入らない。
近づきたいけど、壊してしまいそうで怖い。

 

そして、もし手に入れたら、今度はその重さに負けてしまう気がする。

 

手に入らない時は、無責任な自分に負ける。
手に入れたら、負いきれない自分に負ける。

この矛盾が辛いんだ。

弱さを痛感する。
自分の弱点を見られることに耐えられない。

 

  赤ちゃんは、儚い鏡だ

赤ちゃんって、本当に儚い鏡のようだ。

 

ロックの白紙の心は、
白すぎるが故に、世界の黒さを際立たせてくれるんだろうね。

 

赤ちゃんの瞳も同じなのかもしれない。

あの無垢な瞳は、私を責めているわけじゃない。
ただ真っ直ぐに見ているだけ。

でも、その白さが、
私の中にある黒さや弱さを浮かび上がらせてしまう。

だから可愛い。
だから眩しい。
だから少し辛い。

それでも、あの瞳を見て可愛いと思えたことは、
きっと悪いことじゃないんだと思う。

私は弱い。
でも、弱いからこそ、あの儚さを愛おしいと思ったのかもしれない。

 シンプルフレーズ

赤ちゃんは、儚い鏡だ。
無垢な瞳は、私を責めない。
ただ、白すぎるキャンバスのように、
世界の黒さと、私の弱さを映えさせてしまう。

今の私なら・・・

単純な勉強の魅力を、楽しめたのかもしれない。

って思うことがある。

たぶん、今の私なら予備知識があり、予習をした状態で勉強に向き合えるからかもしれない。

 

でも、そうだとしても、勉強が好きになるとは言い切れない。

だって、嫌いなんだもの・・・

子供の頃に勉強を楽しめなかったのは、勉強が嫌いだったからじゃない。

勉強ってさ、なんであんなに強制されるんだろうか?

確かに、大学を出た人の進路はさすがの一言です。

職場にも居ますよ、大卒・院卒の方がね?

でも、人生楽しめてるのかな?って思ってしまうのは、私の負けず嫌いな性分のせいでしょう(笑)

 

  勉強って、大人になったら楽しくなるんだろうか?

40歳になった今の経験と感性を持って、もう一度学生時代に戻ったなら。
あの退屈で大嫌いだった勉強を、少しは楽しめたのかもしれない・・・

そんなことを、ふと思った・・・

 

学生時代の勉強は、本当に楽しくなかった。
意味も分からなかったし、価値も見えなかった。

英語。
数学。
理科。
歴史。
国語。

もちろん、今になって思えば面白いものもある。

 

哲学は面白い。
歴史にも興味がある。
国語っていう、言葉の色どりには楽しみを覚える。

でも、それは今だからだと思う。

 

40歳になって、人生の時間を少しは越えてきたから。
失敗も、後悔も、人間関係も、仕事も、社会の理不尽も、少しは経験してきたから。

今なら、勉強から見えてくる言葉や流れや意味を、違う見方で楽しめるんじゃないだろうか?

 

でも、ここで一つ疑問が出てくる。

じゃあ、子供の頃に楽しめなかったものが、本当に楽しいと思えるようになるんだろうか?

 

私は英語を話せるようになりたいと思う。
関心はある。
興味もある。

でも、「勉強」と思った瞬間に心が折れる。

英単語を覚える。
文法を覚える。
聞き取る練習をする。
発音を直す。

もう、その時点でしんどい。

 

学びたいという思いだけでは、なかなか先には進まない。

 

たぶんそこには、明確なビジョンが無いんだと思う。

英語を話して楽しんでいる自分の姿。
英語を使えるようになった自分の姿。
その可能性が、リアルに見えてこない。

だから動けない。

大人になると、目的や意味や価値が無いと、なかなか行動に移せない。
給料になる。
仕事に繋がる。
自分の可能性が広がる。
誰かと話せる。
どこかへ行ける。

そういう明確なビジョンがあれば、それが魅力になる。

 

嫌でも勉強できる環境になることもあるし、可能性をリアルに持てれば、自発的な勉強にも繋がるんだろう。

 

  でも、子供の頃は違った。

 

子供の頃は、目的も意味も価値も、明確なビジョンも必要なかった。

虫取り。
友達とのカードゲーム。
ミニ四駆。

そこに将来のビジョンなんて無かった。

 

虫を取ったから何になる?
カードゲームで勝ったから何になる?
ミニ四駆を速くしたから将来どうなる?

そんなことは考えていなかった。

でも楽しかった!!
前向きに、必死に、夢中になっていた。

ミニ四駆だって、私はレースにほとんど参加できていない。
家庭の事情っていうやつだ。

それでも楽しかった。

じゃあ、なぜ勉強には夢中になれなかったんだろう。

同じ子供時代の時間の中で、虫取りやゲームには時間を使えた。
でも、勉強には時間を使えなかった。

その違いは何だろうか。

私は、魅力だと思う。

子供は、魅力があるものに振り向く。

そこに余白とか余裕とか、そんな綺麗な言葉はいらない。


子供はもっと単純だ。

面白い。
楽しい。
触りたい。
やりたい。
もっと知りたい。

そのキラキラした魅力があるから、時間を使う。

限界でも、ギリギリでも、楽しみや面白さや輝きがあれば、そこに力を振り絞れる。

 

それが一生懸命なんだと思う。

命をかけるって、そういうことなんだと思う。

 

だからこそ、勉強を楽しめなかった理由は、勉強そのものが嫌いだったからではない気がする。

勉強から、楽しいという魅力を奪われたから楽しめなかったんだ。

勉強は、魅力的なものとして差し出されなかった。

「知るって面白いよ」
「分かるって楽しいよ」
「世界が広がるよ」

そういう顔ではなく、

「勉強しないと将来困るよ」
「ちゃんとやらないとダメだよ」
「今やらないと後悔するよ」
「普通はこれくらいできるよ」

そんな形で差し出された。

 

他人からの強制。
将来という漠然とした不安。
先達たちの心配。

それが勉強に貼り付けられていた。

 

もちろん、心配してくれた人たちに悪意があったとは思わない。
親も先生も、大人たちも、きっと良かれと思って言っていたんだろう。

 

でも、その心配は子供にとって、勉強の魅力にはならなかった。

むしろ逆だ。

与えられたものが魅力的じゃないから、倦厭するようになる。

楽しくない。
分からない。
出来ない。
つまらない。
嫌い。

そうやって、勉強は嫌いなものになっていく。

勉強が嫌いだったんじゃない。

勉強から楽しいっていう魅力を奪われたから、楽しめなかったんだ。

 

これは、大人でも同じだと思う。

義務や職務で押し付けられるものには、なかなか魅力を持てない。

仕事だってそうだ。

楽しいからやっているというより、給料という分かりやすいご褒美があるから出来ることも多い。

給料は大事だ。
それがあるから頑張れる。

 

でも、給料があるからといって、その仕事そのものを楽しいと思えるかは別の話だ。

楽しいと思えるかどうかは、常に飴と鞭、メリットとデメリット以外の部分にある。

 

魅力があるかどうか?

 

これが大きい。

褒められることも、点数が上がることも、評価されることも、たしかにご褒美にはなる。

でも、それは人を動かす理由にはなっても、好きになる理由とは少し違う。

好きになるには、魅力がいる。

 

だから、私は思う。

子供の頃に勉強が嫌いになったのは、勉強の魅力を見る前に、不安と心配を押し付けられたからなんじゃないだろうか。

勉強しなければならない。
将来困る。
ちゃんとしないといけない。
普通から外れてはいけない。

そんなものを背負わされた勉強を、子供が楽しいと思えるわけがない。

 

もし、あの頃。

誰にも強制されず。
将来という漠然とした不安も与えられず。
先達たちの心配も押し付けられず。

ただ、勉強そのものの魅力に触れられていたなら・・・

 

今の私の感性で、今の経験を持って、子供の頃に戻れたなら。

もしかしたら、あの退屈で大嫌いだった勉強も、楽しめたのかもしれない。

歴史を、ただの年号ではなく人間の物語として見られたかもしれない。
国語を、ただの読解問題ではなく言葉の色どりとして楽しめたかもしれない。
英語を、ただの単語と文法ではなく、世界と繋がる音として感じられたかもしれない。

数学や科学や生物は…まあ、今でも怪しいけれど。


そこは無理に綺麗にしなくてもいい。

全部の勉強を好きになれたとは思わない。

でも、少なくとも勉強を嫌いになる前に、魅力に触れることは出来たのかもしれない。

 

  大人になった今だから、そう思う。

勉強が嫌いだったんじゃない。
勉強から楽しいっていう魅力を奪われたから、楽しめなかった。

 

そして・・・

楽しくないから学べない。
学べないから分からない。
分からないからつまらない。
つまらないから嫌いになる。

この流れは、きっと子供だけじゃない。


大人だって同じだ。

だから、学び直しに必要なのは、立派な根性論じゃない。
正しい努力でもない。
綺麗な余白でもない。

まずは、魅力だ。

面白そう。
知りたい。
触ってみたい。
もう少し分かりたい。

その輝きがあるから、人は動ける。

余裕があるから楽しむんじゃない。
魅力があるから、余裕がなくても命を振り絞るんだ。

 

勉強も、そういうものとして出会えていたなら。

私は、もう少し違う学生時代を過ごせたのかもしれない。

 

 シンプルフレーズ

勉強が嫌いだったんじゃない。
勉強から楽しいっていう魅力を奪われたから、楽しめなかったんだ。

 

善意だから許されるわけじゃない。
正論だから届くわけじゃない。
心配だから人を育てるわけでもない。

むしろ、善意と正論と心配は、かなり都合よく人を縛る。

 

勉強は、魅力として渡されなかった。
不安として渡された。
なぜなら、その方が大人にも社会にも都合がいいから。
子供が楽しむかどうかより、子供が従うかどうかの方が優先された。

優しい人に憧れる気持ちは私もある

優しい人になりたいと思う

 

でも、私は優しい人にはなれないんだ。

 

だって、渡す人と、受け取る人が居ないから・・・

 

優しさを探して

 

優しさって、最初から「あるモノ」じゃないんだと思う。

渡すものでもない。
ねだるものでもない。
手に入れるモノでもない。

 

ただ、受け取った側が、

「ああ、これは優しさだな」

って感じた時に、初めて生まれるものなんだと思う。

 

強さも、勇気も、不安や心配も、きっと同じだ。
お節介も、余計なお世話も、結局は受け手次第なんだと思う。

 

だから、誰かの為に何かが出来るなんて思うのは、とても傲慢なことなのかもしれない。

それって結局、

「やってやった」

っていう押し付けになってしまうから。

 

だからこそ、優しさって、渡そうと思って渡せるものじゃない。

 

  優しさは、心の余裕だと思う

私は、優しさは心の余裕だと思う。

 

限界で、切羽詰まっている時。
もう自分ではどうにもならない時。
そんな時に、誰かが少しだけ余裕を作ってくれる。

 

その余裕を感じた時に、人はそれを「優しさ」だと思えるんじゃないだろうか?

 

例えば、手が空いている時間に、誰かの作業を少し手伝う。
自分に体力があるから、誰かの荷物を持ってあげる。
少し気持ちに余裕があるから、誰かの話を聞く。

自分の余っている何かを、誰かに渡してあげる。

 

そして、それを受け取った側に少しでも余裕が出来た時。
その余裕であり、余白のことを、人は「優しさ」だと感じるんだと思う。

  自分に余裕がなければ、誰にも何も渡せない

 

心の余裕って言葉を使っているけど、結局、自分に余裕がなければ誰にも何も渡せない。

時間もない。
体力もない。
気持ちもない。
自分自身が限界なのに、誰かに優しくするなんて、そう簡単には出来ない。

 

だから、優しさって「良い人であること」じゃないんだと思う。

渡せる心があること。
それが余裕のある心で。

余裕のある心が出来る行為が、優しさに繋がる可能性がある。

 

優しさは、渡すものじゃない。
受け取った側に余裕が生まれた時に、あとから優しさになる。

 

私は、そう感じている。

何のために生きるのか?

誰の為に?自分の為に?

自分の為だけに生きられるほど強くない

でも、誰かの為に生きられるほど器用でもない

 

何か目標や夢がある?

 

目的のある人生って何だろう?

 

ただ、流されるままに生きていけるほど柔軟でもないし

その場その場の状況に合わせて取り繕えるほど引き出しも多くない

 

だからさ、出来る事なんてそんなに選択し無いんだよ

 

何者かに成ろうとか

何かを成し遂げようとか

大層なコトを言いたい気持ちもわかるけど

 

今生きてるだけで精一杯なんだよね。

実際はさ・・・

 

だからさ、そんなに頑張らなくてもいいんだよ。

 

無理しない、頑張らない。

誰かの為に生きることは難しいけど、誰かに助けてもらいながらなら出来る事もあるだろう

自分の為に生きるのは難しいけど、自分にしか出来ない事もあるだろう

 

誰かの為に自分の出来ることが出来たらきっと素敵だろうけど、

そんなに世の中上手く回っていくわけじゃない。

 

結果論で判断するのは世界の常識かもしれないけれど、

結果が出るのなんて今じゃないんだ

判断するのも今じゃないんだ

 

だからさ、笑う方法だけ探して見るのを私はおススメするよ。

笑うって素敵だと思うからさ

笑顔が嫌いな人って少ないからさ

笑顔が下手だって言う人も居るけど、私はそんな人の笑顔も好きだからさ

 

「ごめん」って笑顔で言えたら十分でしょ?

「ありがとう」って笑顔で言えたら十分でしょ?

「またね」って笑顔で言えたら十分でしょ?

「うれしい」ってい笑顔で言われたら十分でしょ?

「よろしく」って笑顔で言われたら十分でしょ?

 

少なくとも、私はそれで十分だよ。

私は見たいんだ、あなたの笑顔がさ・・・