シンプルフレーズの哲学
私は私の見ている世界が、今まで誰かが定義してきた世界とは変わってきていると感じている。

■古代 ~ 中世
🔹ソクラテス(紀元前470頃〜399頃)
「無知の知」
「善く生きることは、ただ生きることよりも重要である」
→ 知らないことを自覚することが、真の知への第一歩。
🔹アリストテレス(紀元前384〜322)
「人間は本性上、ポリス的動物である」
→ 人間は孤立して生きられず、共同体(社会)の中でのみ自己を実現する。
🔹老子(紀元前6世紀ごろ)
「無為自然」
「足るを知る者は富む」
→ 無理に変えず、あるがままを受け入れることに価値があるという東洋的逆説。
🔹アウグスティヌス(354〜430)
「人間の心は、神のうちに安らぐまで安らぐことはない」
→ 人間の不完全さと空虚感は、超越的な何かを求め続ける本質から来る。
■近世(16〜18世紀)
🔹マキャヴェッリ(1469〜1527)
「人間は、見た目で判断されるものであり、実際よりも見せ方の方が重要である」
→ 社会的成功とは、現実よりも“印象”によって成り立つ。
🔹デカルト(1596〜1650)
「我思う、ゆえに我あり」
→ 世界がどうであろうと、「思考する自分」だけは確かな存在である。
🔹スピノザ(1632〜1677)
「自由とは、自己の本性に従って行動することである」
→ 他者の支配ではなく、自らの“本性”によって生きることが自由。
🔹カント(1724〜1804)
「人間は目的それ自体であり、手段ではない」
→ 他者を「使う」のではなく、「尊重する存在」として扱うべき。
■近代(19世紀)
🔹ヘーゲル(1770〜1831)
「主人と奴隷の弁証法」
→ 自己意識は、他者との関係(承認)によってのみ成立する。
🔹マルクス(1818〜1883)
「人間の本質は、社会的関係の総体である」
→ 孤立した個ではなく、人間は常に社会の中で形成される存在。
「哲学者たちは世界を解釈してきただけだ。問題は、それを変えることである」
→ 思索は行動へ向かうべきだという、実践の哲学。
🔹ニーチェ(1844〜1900)
「神は死んだ。私たちが彼を殺したのだ」
→ 既存の価値(宗教・道徳)が崩壊した現代において、自ら価値を創造せねばならない。
「生きるに値する人生とは、自ら選んだ人生だ」
→ 他者の物差しではなく、自分の価値で生きること。
■現代(20世紀〜)
🔹ハイデガー(1889〜1976)
「死に至る存在としての人間(=現存在)」
→ 人は死を意識することで初めて、“本来の自己”として生きられる。
🔹サルトル(1905〜1980)
「人間は自由という刑に処せられている」
→ 自由に選べるということは、同時に選んだ責任をすべて引き受ける苦しみでもある。
🔹カミュ(1913〜1960)
「不条理の世界においても、なお生きる意味を問うことが人間だ」
→ 意味のない世界に投げ出されたとしても、それを受け入れながら生きる強さ。
時代の変化で、言葉も変化しているように感じるのは、私だけなんだろうか?
古代:生きている⇒近代:生きるとは?⇒現代:それでも生きている!
っていう時代の変化を感じた。時代の流れで、人は生きているだけでは足りなくなっていったんだ。
これは、今の時代で言うなら、「生きるには?」って言うことになるんだろう。
「生きるには、なにが必要か」
古代は言った
「人は生きている」
それは当たり前のようで
確かだった
近代は問うた
「生きるとは、何か?」
思考が目を開き
世界が揺らぎ始めた
そして現代
私たちは呟く
「それでも、生きている」
壊れた社会
失われた価値
意味の剥がれた言葉たち
誰かが意味を創る側になり
多くが、与えられた意味で
自分の存在を受け入れるしかなくなった
自由は与えられたが
選ぶことは罰のように重たく
沈黙の中で
「何を選ばなかったか」が
心を蝕む
生きられる世界を
自ら見つけるか
与えられた役割に
身体だけを重ねるか
もう十分だと
静かに目を閉じるか
問いの答えは
風の中でまだ揺れている
だけど
この問いを抱え続ける者こそが
“生きている”と言えるのかもしれない

■シンプルフレーズの哲学:
「生きるには?」という問いは、
“生かされる”ことへの拒絶から始まる。
選ばされる自由のなかで、
“生きたい場所”を自ら問い続けること。
それが、壊れた時代を生きる、
私たちの“選び方”なのだ。