迷って迷って

悩んで悩んで

 

探し続けているのは、成功か?幸せか?それとも安心か

 

私がここに居るのは何故?って思うことはいつものコト

どうして?何のために?

 

答えがあるなら知りたい。

だから、自分以外の人の言葉を聞きに行く

教えて欲しいから

 

誰かの言葉に、助けてもらいたいから。

 

良いとか

悪いとか

そういうんじゃない。いつものように、当たり前に、普通に・・・

居ることが当たり前で普通だって言う

雰囲気を自分が感じて安心したいから。

 

何故?とか、どうして?とか、そんなものは分からない。

ただただ・・・

 

自分では出せない答え

答えしたくなるような、自分が望んで欲しているような

 

そんな世界が欲しいだけ

居場所が分かるわけじゃない。

理由があるわけじゃない

答えがあるわけじゃない

 

なんとなく、それっぽい何かがあれば

私は今の現実でも生きられる。

 

だって私は不器用だから

なんにもできないし、何も分からない

出来ることは、出来ることだけ

分かることは、分かることだけ

知っていることも、持てるモノも、行けるところも

何もかもに限りがある

 

だからこそ、私ではたどり着けない場所に居る人の言葉が必要になる

どれだけの経験と反省を繰り返しても

決まりや規則、個性と感性が私を縛っている

 

変わらない私は、変われない私は、変わりたいと願う私は

 

なんとなく、それっぽい何かがあれば

私は今の現実を生きている。

 

 シンプルフレーズ

ここに居るって叫びたい。

でも、居場所を自分では作れない。

居場所がなくても、私がここに居るんだから、ココが居場所だって言って良い。

だって、待っててもどうせ誰も教えてはくれないし、認めてくれる訳じゃない。

自分だけは自分の居場所を認めても良いんじゃないかな。

「自分は成功してるのか?」
「この失敗は、人生の終わりなのか?」

現代で生きていると、
成功や失敗がいつも他人の言葉や数字で決められてしまう気がしませんか?

世界には二つの“成功の世界”がある

 

 

ひとつは、
**「意味を与える側」**の世界。
彼らは、経営者や投資家、新しい価値を創る人たちです。


彼らの成功は、自分の価値観に基づくもの
他人の承認がなくても、「やって良かった」と思えれば成功です。

 

もうひとつは、
**「意味を与えられる側」**の世界。
従業員や専門家、群衆、社会に生きる多くの人たちです。


彼らの成功は、他人との共通の価値観で決まります。
役職や給料、周囲の評価があるからこそ、「成功体験」として受け入れられます。

 

  失敗の受け取り方も違う

 

  • 与えられる側は、誰かが「ダメ」と言えば失敗になり、
    「傷つけた」「嫌われた」時点で後悔に変わります。

 
  • 与える側は、失敗を経験として処理し、新しい価値を探すきっかけにします。
    他人が「ダメ」と言っても、次への手がかりに変えていきます。

  でも、本当は誰もが“選べる”はず

 

本来的には、
成功も失敗も、
「これは成功だ」「これは失敗だ」と自分で決める権利が誰にでもあります。

でも実際には、

  • 他人の目で決めてしまう人

  • 自分で選んでしまえる人

この二つがいるだけで、
世界は二つに分かれ、
お互いの世界を見比べて「ないものねだり」をしてしまうんです。

 

  だから生きにくい。でも……

個性も、不満も、失敗も、
私たちを縛る鎖のようなもの。
それを外そうと足掻けば足掻くほど、
もっと苦しくなることもあります。

それでも、
鎖を抱えたままでも飛べる人になりたいと思うことが、
この時代を生き抜くための一歩になるんだと思います。

 

 シンプルフレーズとして

「成功も失敗も、本当は自分で選べる。
でも、その選び方をうまく使えない時、世界は二つに分かれ、
その違いが、私たちを苦しめる。」

存在するだけで、価値はある。

 

「なんで私、今ここに居るんだろう」
ふと、そう思ったことありませんか?

頑張っているわけでもない
何かに貢献しているわけでもない
誰かの役に立ってるわけでもない
ただ、今日も、ここにいるだけ。

でも、そんな自分を「意味がない」と思ってしまうのは、
私たちがいつの間にか、“意味”や“価値”を「証明しなきゃいけないもの」として見てしまっているからです。

 

  「生きているだけでは、足りない」と思わされる社会

 

かつては、「生きている」だけで良かった。
それが、時代とともに変わっていきました。

  • 古代は「生きていること」が大切だった

  • 近代になると、「生きるとは何か?」と問い始めた

  • そして現代、「それでも、生きていていいのか?」と不安になる時代になった

たとえるなら、
昔は“息してるだけで存在価値アリ”だったのに、
今は「息の仕方」まで評価されてしまうような世界です。

 

  社会は「動ける人」にだけ、意味を与えてくれる

 

現代の社会では、
「行動している人」だけが“価値がある人”とみなされやすい。
たとえば:

  • 資格を取った

  • 成果を出した

  • SNSで発信した

  • 誰かを支えた

こういう“見える行動”は、価値を証明してくれます。
でも、動けない人、行動する力が残っていない人はどうでしょう?

  「意味を証明したいのは、動けない人」なのに

 

本当は、
“生きていていいって証明したい”のは、
動けない自分を感じている時の私たちです。

でも、行動できないと、意味が証明できない。
それが今の社会の構造なんです。

  • 元気な時は証明できる

  • 疲れた時は、何もできない

  • でも、疲れている時こそ「生きていていい理由」が欲しくなる

たとえるなら、
「お腹が空いてる人に、作った料理の写真だけ見せて“頑張れば食べられるよ”」って言ってるような構造です。
酷ですよね。

 

  意味を“与える人”と“待つしかない人”

 

社会には「意味を創造できる人」と「意味を与えられるのを待つ人」が共存しています。

  • 意味を創造できる人は、行動できる人

  • 意味を与えられるしかない人は、行動が難しい人

この2つは、上とか下ではなく、役割の違いにすぎません。
「太陽」と「月」のようなものです。
太陽は自ら光るけど、月は光を受けて輝く。
どちらも美しくて、大切な存在です。

 

  シンプルフレーズの哲学:存在するだけで価値がある

 

アインシュタインは言いました。
E=mc²
つまり、“存在しているもの”には、それだけでエネルギー(=価値)がある

今日、何もしていなくても、
誰かの役に立っていなくても、
自分が自分であることを証明できなくても、
あなたはちゃんと、エネルギーを放っています。

誰かに認められなくても、
意味が見つからなくても、
それでも、“在る”ことに価値がある。

 

  だから、「意味が分からない自分」を責めないで

意味を持てないことが、欠陥なんじゃない。
意味を“持たされる”ことに疲れてしまっただけ。

壊れたんじゃない。
ただ、別の世界を歩いているだけ。

「動ける人の世界」と「動けない人の世界」
「意味を作る人の世界」と「意味を待つ人の世界」
世界は、重なって見えても、別々に流れている。

あなたの世界には、あなたの時間と価値がある。

 

 最後に、シンプルフレーズを

 

「生きていていい理由」は、自分で証明しなくていい。

“今ここにいる”ということが、すでに世界を少しだけ変えてるから。

私の想う自由とは、想いを叶え続けられるコト

やりたいことを、やりたい時に、やりたいように、自分のやり方でやりたい。 

これが出来る時に自由だと感じられる。 

出来ることと、出来ない事の線引きはある。無理なコトや無茶なことはある。 

その上で、自分が出来ることを知っている。出来る可能性を知っている。

 

だから、出来ることを、やりたいことを、やりたい時に、やりたいように、自分のやり方でやりたい

 

でも、出来ないよね。

だから、世界を不条理だって叫んでるんだ。

 

自由の幻想と、私たちが選べる力

 

「自由になりたい」
誰もがそう思うのに、現実は仕事に縛られ、人間関係に振り回され、お金や時間に追われてしまう。
この矛盾の中で、私たちは自由を夢見ながら、不自由を嘆く。

 

でも、そもそも「自由」って、本当に手に入れられるものなんだろうか?
それとも、自由は幻想でしかなく、求めるからこそ輝いて見えるだけなのか。

 

  ◆自由の幻想と哲学的な視点

 

カントは「自由とは理性による自己立法である」と言った。


つまり、誰かに従わされるのではなく、自分の理性に従うときに初めて人は自由だ、と。

一方で、ルソーは「人は自由として生まれたが、至るところで鎖につながれている」と書いた。


この言葉の通り、自由を望むほど、不自由な現実が浮き彫りになる。

自由とは「見えない宝物」のようなもの。


想像できる、推測できる、夢見ることはできる。
でも、完全な自由を「経験」することはできない。
だからこそ、無いものねだりを続けてしまう。

 

  ◆日常に引き寄せて考える

 

日常でも同じです。
やりたいことをやりたい時にできる――そんな時間は確かに「自由」に感じる。


けれど、いつでも全部を叶えられるわけではない。

無理なこと、できないこと、どうしても越えられない壁がある。


その線引きを知るからこそ、**「できることをどう選ぶか」**が大切になる。

たとえば、仕事を辞めてしまえば時間は増えるけど、生活の不安が生まれる。
逆に、生活を守るために仕事を選べば、時間や気持ちの余裕を失う。


どちらにも「無理」と「限界」がある。
だからこそ、限界を理解しながら、私たちは小さな「自由」を選んでいく。

 

  ◆私の言葉

 

自由は幻想であり、夢でもある。
けれど、その幻想を夢見るからこそ、人は今を選び続けられる。

だから私は、こう思う。

 

「自由とは、出来ることを、出来る時に、出来るように選べる力だ。」
「無理を知らなければ、自由はわからない。限界を知るからこそ、選べる。」

そして、そんな限界の中で選び続ける姿こそ、あなただけの生き方。
――あなたもきっと、自分の「小さな自由」を見つけられるはずです。

 

シンプルフレーズの哲学

 

私は私の見ている世界が、今まで誰かが定義してきた世界とは変わってきていると感じている。

■古代 ~ 中世

🔹ソクラテス(紀元前470頃〜399頃)

「無知の知」
「善く生きることは、ただ生きることよりも重要である」
→ 知らないことを自覚することが、真の知への第一歩。


🔹アリストテレス(紀元前384〜322)

「人間は本性上、ポリス的動物である」
→ 人間は孤立して生きられず、共同体(社会)の中でのみ自己を実現する。


🔹老子(紀元前6世紀ごろ)

「無為自然」
「足るを知る者は富む」
→ 無理に変えず、あるがままを受け入れることに価値があるという東洋的逆説。


🔹アウグスティヌス(354〜430)

「人間の心は、神のうちに安らぐまで安らぐことはない」
→ 人間の不完全さと空虚感は、超越的な何かを求め続ける本質から来る。


■近世(16〜18世紀)

🔹マキャヴェッリ(1469〜1527)

「人間は、見た目で判断されるものであり、実際よりも見せ方の方が重要である」
→ 社会的成功とは、現実よりも“印象”によって成り立つ。


🔹デカルト(1596〜1650)

「我思う、ゆえに我あり」
→ 世界がどうであろうと、「思考する自分」だけは確かな存在である。


🔹スピノザ(1632〜1677)

「自由とは、自己の本性に従って行動することである」
→ 他者の支配ではなく、自らの“本性”によって生きることが自由。


🔹カント(1724〜1804)

「人間は目的それ自体であり、手段ではない」
→ 他者を「使う」のではなく、「尊重する存在」として扱うべき。


■近代(19世紀)

🔹ヘーゲル(1770〜1831)

「主人と奴隷の弁証法」
→ 自己意識は、他者との関係(承認)によってのみ成立する。


🔹マルクス(1818〜1883)

「人間の本質は、社会的関係の総体である」
→ 孤立した個ではなく、人間は常に社会の中で形成される存在。

「哲学者たちは世界を解釈してきただけだ。問題は、それを変えることである」
→ 思索は行動へ向かうべきだという、実践の哲学。


🔹ニーチェ(1844〜1900)

「神は死んだ。私たちが彼を殺したのだ」
→ 既存の価値(宗教・道徳)が崩壊した現代において、自ら価値を創造せねばならない。

「生きるに値する人生とは、自ら選んだ人生だ」
→ 他者の物差しではなく、自分の価値で生きること。


■現代(20世紀〜)

🔹ハイデガー(1889〜1976)

「死に至る存在としての人間(=現存在)」
→ 人は死を意識することで初めて、“本来の自己”として生きられる。


🔹サルトル(1905〜1980)

「人間は自由という刑に処せられている」
→ 自由に選べるということは、同時に選んだ責任をすべて引き受ける苦しみでもある。


🔹カミュ(1913〜1960)

「不条理の世界においても、なお生きる意味を問うことが人間だ」
→ 意味のない世界に投げ出されたとしても、それを受け入れながら生きる強さ。

 

時代の変化で、言葉も変化しているように感じるのは、私だけなんだろうか?

 

古代:生きている⇒近代:生きるとは?⇒現代:それでも生きている! 

っていう時代の変化を感じた。時代の流れで、人は生きているだけでは足りなくなっていったんだ。

これは、今の時代で言うなら、「生きるには?」って言うことになるんだろう。

 

 

「生きるには、なにが必要か」

 

古代は言った
「人は生きている」
それは当たり前のようで
確かだった

近代は問うた
「生きるとは、何か?」
思考が目を開き
世界が揺らぎ始めた

そして現代
私たちは呟く
「それでも、生きている」

壊れた社会
失われた価値
意味の剥がれた言葉たち

誰かが意味を創る側になり
多くが、与えられた意味で
自分の存在を受け入れるしかなくなった

自由は与えられたが
選ぶことは罰のように重たく
沈黙の中で
「何を選ばなかったか」が
心を蝕む

生きられる世界を
自ら見つけるか
与えられた役割に
身体だけを重ねるか
もう十分だと
静かに目を閉じるか

問いの答えは
風の中でまだ揺れている

だけど
この問いを抱え続ける者こそが
“生きている”と言えるのかもしれない

  ■シンプルフレーズの哲学:

 

「生きるには?」という問いは、
“生かされる”ことへの拒絶から始まる。

選ばされる自由のなかで、
“生きたい場所”を自ら問い続けること。

それが、壊れた時代を生きる、
私たちの“選び方”なのだ。