それは理性か、ただの自己都合か?
■ 自分軸ってなんだろう?
「自分軸を持つことが大事」
「他人の目に振り回されるな」
「自分の価値観で生きよう」
そう語られるたびに、私はどこかで立ち止まってしまう。
一見それは“強くあること”や“自由であること”のように見える。
でも、本当にそうだろうか?
◆ 「自分軸」とは誰が言い始めたのか?
考えてみれば、「自分軸を持とう」と私に語りかけてきたのはいつも「誰か」だった。
本やセミナーや自己啓発、あるいはSNS。
つまり、“他人”が“他人に向かって”「自分で在れ」と言っている。
これは奇妙な話だ。
「自分で在るために、誰かの言葉を借りてはいけない」
はずなのに。
◆ 本当に「私の軸」なのか?
私が大切にしている考え方。
私が信じている価値観。
私が選んできた生き方。
それらは本当に“私だけ”のものなのだろうか?
家庭環境、教育、社会、言葉、文化。
私の思考や信念は、他者から与えられたものの積み重ねではなかったか。
「自分で選んだ」と思っているだけで、
実は“選ばされてきた”だけかもしれない。
◆ 他人に振り回されないことは、強さなのか?
「他人の評価に惑わされない」
「自分の道を貫く」
それが本当に強さなら、なぜ私たちは
“自分らしく生きようとして孤立”したり
“自分軸”を守るほどに“他者と衝突”してしまうのだろう?
もしかしたら、「自分軸」という言葉が
「変わりたくない自分の言い訳」になってはいないか?
◆ 「自分軸」を持つことで、誰かを切り捨てていないか?
「私はこう思うから」
「私はこれを大事にしてるから」
その言葉の裏には、こういう意味が潜んでいる:
「あなたがどう思うかは関係ない」
「あなたに合わせる気はない」
「あなたの正しさには従わない」
それってつまり、
“自分の軸”を掲げることで
“他人の軸”を無視していないだろうか?
◆ 私の軸は、誰かの軸と共存できるのか?
そもそも“軸”という言葉は、一本で自立するものだ。
でも人間関係とは、交差し、ねじれ、揺らぐものであって、
軸がぶつかり合う場でもある。
だから、自分軸を持つことは、
他人軸を否定することではなく、
他人の軸とどう共存するかを考える理性のはずだ。
■ 自分軸と自己啓発は、よく似ている
「自分の価値観で判断する」
「人に流されず、自分で決める」
「習慣を変えれば、自分が変わる」
「理想の自分になるために、思考を整える」
──この辺り、自己啓発と自分軸は驚くほど重なる。
でも、よく見ると方向性が逆だ。
■ 自己啓発の理性は、自己以外の基準に支えられている
例えば、「変わるための習慣術」。
「自己肯定感を高めよう」「他人の目が気にならないマインド術」
それらは、いずれも「生きやすくなるため」の手段だ。
でもその“生きやすさ”とは結局、社会や組織に最適化された“扱いやすい人間”になることを意味してはいないか?
つまり、こういうこと:
「変われない自分」では社会で生きにくい
だから、「変わった方がラク」なんだよ、という説得
これは、“自分の理性”ではなく、“社会の理性”による設計図だ。
では「自分軸」とは何なのか?
ここで改めて問い直す。
「他人に依存しない自分の理性」って、本当にそんなものあるのか?
結局、自分軸っていうのは、
「変わりたくない自分」のままでいたいと願う、
少しだけ強気な開き直りかもしれない。
■ 自分軸という名の「これでいい」の危うさ
-
「私はこういう人だから」
-
「私はそれを大事にしているから」
-
「私は私の価値観で動いてるから」
そう言うことで、他人との衝突を正当化していないだろうか?
「変わらなくていい」という言葉が、
実は「他人に変わってほしい」という願望の裏返しではないか?
つまりこうだ:
「私は変わらない。でも、あなたが合わせてくれたらいいのに」
これって、結局「人を変えようとしてる」ことに他ならない。
■ 自分軸は、他人をバージョンアップする免罪符になる
「私はこうだから仕方ない」
「この考え方が私の軸だから」
そう言うことで、他人に適応を求めていないだろうか?
もはや「自分軸」は、自分のためではなく、
“自分の都合に合わせた人間関係”を作るための設計図に成り果てている。
その意味では、自分軸もまた──
他者という“道具”をどうアップデートするか、という支配的構造の中にある。
■ シンプルフレーズ:
「自分軸」って、他人に合わせないことじゃない。
他人に合わせさせる理由を、堂々と掲げる“名札”なのかもしれない。





