フォレストのように、簡単には笑えない

  それでも人は、囚われながら生きている

 

前回、私は『フォレスト・ガンプ』を見て思ったことを書いた。

幸せとは、悲しみと苦しみの上にしか生まれないのかもしれない。


幸せすら相対的価値で、「そうじゃない」を知った人だけが笑える感情なのかもしれない、と。

 

戦争を知ったから、平穏が分かる。
批判を知ったから、受け入れられることが分かる。
離れる現実を知ったから、一緒にいられる時間が分かる。

そんなふうに、人は失う可能性を知ったあとでしか、
目の前にあるものの価値を、本当の意味では受け取れないのかもしれないと思った。

でも、書いたあとにもう一つ、強く思ったことがある。

・・・とはいえ、
フォレストのように簡単には笑えない。

ここが、現実なんだと思う。

今日はその続きとして、
人が悲しみや苦しみに囚われることの普通さについて書いてみたい。

 

  人は、悲しみと後悔をそんなに簡単には越えられない

 

映画の中では、笑顔が象徴になることがある。
苦しみを通って、それでも笑えた顔。


それは確かに美しい。

 

でも現実の人間は、そんなに綺麗じゃない。

失った事実。
苦しかった事実。
裏切られたこと。
傷つけられたこと。
どうにもならなかった時間。
取り返せなかった過去。

そういうものは、簡単には消えない。


むしろ、ずっと残る。

 

しかも厄介なのは、
記憶として残るだけじゃなく、人を縛る形で残ることだ。

「あの時こうだったから」
「また同じことになるかもしれない」
「もうあんな思いはしたくない」

そうやって人は、過去から学ぶ。
でもその学びは、自由になるための知恵であると同時に、
次の一歩を止める鎖にもなる。

 

だから、悲しみや苦しみの上に幸せがあるとしても、
そこへ辿り着くまでには長い時間がいる。
あるいは、辿り着けないことだってある。

 

ここを飛ばして、
「辛い経験も意味があるよ」
「全部あなたの糧になるよ」
なんて言われても、正直困る。

糧になる前に、まず傷だからだ。

  人の学習は、痛みを土台に積みあがる

 

カマス効果というモノをご存知だろうか?

一度ぶつかる。
一度痛い思いをする。
一度傷つく。
すると人は、その痛みを学習する。

本来それは、生き延びるために必要なことなんだと思う。


同じ失敗を繰り返さないため。
同じ絶望に呑まれないため。
同じ苦しみを避けるため。

でも、この学習はすごく残酷だ。

 

人は、「ここまでは危ない」
ではなく、「もうやめておこう」
を覚えてしまうことがある。

 

一度の失敗が、次の挑戦を止める。
一度の喪失が、次の愛情を止める。
一度の批判が、次の言葉を止める。
一度の痛みが、次の可能性を止める。

そうやって人は、自由より先に防衛を覚える。

 

だから、苦しみと痛みは確かに人を育てることもある。
でも、それ以上にまず、人を縛る

自由と可能性を見出せないほどに、
幸せや喜びを感じられないほどに、
人を小さくしてしまうことがある。

 

これが現実なんだと思う。

 

  フォレストは、学んだけれど囚われなかった

 

フォレスト、彼は何も知らなかったわけじゃない。
ちゃんと失っている。
ちゃんと苦しんでいる。
ちゃんと別れも知っている。
学んでもいるし、経験もしている。

でも、いわゆる「普通の人」がするような仕方では、そこに囚われなかった。

 

ここがすごく不思議だった。

普通なら、止まる。
普通なら、萎縮する。
普通なら、もう一度傷つくくらいならやめようと思う。

 

でもフォレストは、そうならなかった。
彼のあの笑顔は、何も知らない笑顔じゃない。
傷つかなかったから笑えた顔でもない。

 

むしろ、学んだのに、
学習に支配され切らなかったからこそ、あの笑顔があったように見える。

 

ここに少し皮肉がある。

知能の低さと言われるものがあったからこそ、
「普通の人」が過剰に抱え込む意味や失敗や羞恥や恐怖に、
完全には囚われなかったのかもしれない。

 

だとしたら、
私たちが“普通”と呼んでいるものは何なんだろう。

  囚われるのが普通なのか、囚われないのが異常なのか

 

ここで、少し怖い問いが出てくる。

囚われる人の方が普通なのか。
囚われない人は異常なのか。
それとも、逃げ出すことこそ当たり前なんだろうか。

世間では、傷ついても前を向ける人が立派に見える。
囚われて動けなくなる人は、弱い人みたいに扱われる。
でも本当にそうだろうか。

私はむしろ逆だと思う。

傷ついたら囚われる。
痛みを知ったら止まる。
後悔を覚えたら慎重になる。
これはすごく自然だ。

 

つまり・・・囚われることの方が普通なんだと思う。

人は意味を考える。
失敗を記憶する。
痛みを一般化する。
「あの時ダメだったから、もうやめよう」
と、ちゃんと学習して、ちゃんと止まる。

 

その意味では、普通であることは、
傷をちゃんと覚えて、ちゃんと縛られることなのかもしれない。

だとしたら、囚われないことは何なんだろう。

異常というより、
世界の合理性から少し外れていることなのかもしれない。

 

学んでも、従い切らない。
傷ついても、止まり切らない。
苦しみを知っても、なお逃げる。
なお笑う。

それは危うい。
でも、だからこそ自由にも見える。

  逃げることは、弱さじゃなく自由なのかもしれない

 

私が敬愛する山下清。
彼なら笑っただろうか?
彼なら囚われて動かなかっただろうか?

 

いや、たぶん彼なら、逃げ出して笑ったんじゃないか?と思う。

 

ここで言う逃げるは、ただの敗北じゃない。
過去からも、トラウマからも、苦しみからも、
いったん距離を取るということだ。

 

普通の人は、痛みから学ぶ。
恥を覚える。
迷惑を覚える。
空気を覚える。
そしてどんどん囚われる。

 

でも、逃げる人は少し違う。


囚われる前に離れる。
縛られる前に外へ出る。
意味づけで固まる前に、身体ごと動いてしまう。

それはきっと、綺麗なことじゃない。
立派でもない。
でも、生き延びるためには必要なことなんだと思う。

 

囚われるのが普通なら、
逃げて笑うことは異常じゃなくて、自由なのかもしれない・・・

  最後まで逃げられなかっただけの話なのかもしれない

 

ただし、人はずっと逃げ切れるわけじゃない。

どこかで捕まる。
身体に。
社会に。
時間に。
老いに。
病に。
死に。

だから「逃げればいい」で全部済むわけでもない。
最後まで逃げられなかっただけの話、というのも、たぶん本当だ。

 

逃げられる間は逃げていいんじゃないか。
笑える間は笑っていいんじゃないか。
囚われる前に距離を取れるなら、それも一つの才能なんじゃないか。

 

だって、人はそんなに強くない。
後悔も悲しみも苦しみも、簡単には越えられない。
ならばせめて、そこに完全に呑まれる前に、
少しでも外へ出ることができたなら、それは立派な生き方だと思う。

 

フォレストのように簡単には笑えない。
でも、だからこそ分かる。

笑うって、何も知らないことじゃない。
苦しみを消したことでもない。
囚われなかったことでもない。

囚われ切る前に、ほんの少しでも外へ出られた瞬間のことなのかもしれない。

  フォレストのように笑えない私たちは、それでもどう生きるのか

 

前回、私は幸せとは「そうじゃない」を知った人だけが笑える感情なのかもしれないと書いた。

でも現実の私たちは、フォレストのように簡単には笑えない。


後悔と悲しみは簡単には越えられないし、
失った事実、苦しかった事実は、人をずっと縛る。

人の学習は、苦しみと痛みを土台に積みあがる。
そしてその土台は、人を育てるだけじゃなく、
自由と可能性を奪う檻にもなる。

 

だから囚われるのは、たぶん普通だ。
痛みを学習して、過去に縛られて、動けなくなるのは、むしろ人間として自然なんだと思う。

 

それでも、囚われずに逃げて笑える人がいる。
あるいは、囚われ切る前に、少しだけ外へ出られる人がいる。

 

それは異常なんかじゃない。
弱さでもない。
たぶん、自由だ。

フォレストのように笑えない私たちは、
だからこそ問われているのかもしれない。

 

痛みを抱えたまま、
囚われたまま、
それでもどこまで逃げられるのか。
どこまで自分を外へ連れ出せるのか。

幸せは、悲しみの上に咲く花なんかじゃない。
悲しみに縛られたまま、それでも一瞬だけ笑えてしまう現実のことなんだと思う。

映画を見ていて、たまに胸の奥を静かに刺してくる作品がある。

派手に泣かせようとしてくるわけでもない。
分かりやすく「感動しました」で終わるわけでもない。
でも見終わったあとに、じわじわと自分の中に残り続ける。

 

 

幸せとは、「そうじゃない」を知った人だけが笑える感情なのかもしれない

私にとって『フォレスト・ガンプ』は、まさにそういう作品だった。

見ながら思った。
幸せとは、悲しみと苦しみの上にしか生まれないのかもしれない、と。

 

さらに言えば、
幸せそのものが、絶対的な価値じゃなくて、
相対的な価値なのかもしれないとも思った。

 

戦争を知った。
批判を知った。
好きな人と離れる現実を知った。
失うこと、届かないこと、壊れてしまうことを知った。

だからこそ人は、
「そうじゃない」時間に触れた時、笑えるのかもしれない。

 

今日はそんな、
『フォレスト・ガンプ』を見て感じた幸せの正体について書いてみたい。

 

あと・・・余談だけど、トムハンクス良い体してます笑

 

  『幸せ』は、最初から置いてあるものじゃない

 

世間で語られる幸せって、どこか足し算みたいだ。

愛を手に入れる。
成功を手に入れる。
家族を手に入れる。
安心を手に入れる。
夢を手に入れる。

何かを増やして、何かを得て、何かを掴んで、
その先に幸せがあるように語られる。

でも『フォレスト・ガンプ』を見ていると、
そんな分かりやすい足し算の話には見えなかった。

 

むしろ逆だった。

失う。
離れる。
届かない。
理解されない。
時代に振り回される。
それでも生きる。

 

フォレストの人生って、決して「恵まれていたから幸せだった」という話じゃない。


むしろ理不尽や喪失や不在を抱えながら、それでも前に進んでしまう人生だったと思う。

だからこそ、彼の中にある幸せには軽さがない。

ただ楽しいとか、ただ満たされるとか、そういう単純なものじゃない。
苦しみを知ったあとに、それでも大切だと思えた時間みたいなものに見えた。

  悲しみと苦しみを知ったから、「そうじゃない」が見えた

 

今回いちばん強く思ったのはここだった。

幸せとは、悲しみと苦しみの上にしか生まれないのかもしれない。

 

これは、不幸を美化したいわけじゃない。
苦しめば苦しむほど偉い、みたいな話でもない。

 

ただ、現実として思う。

戦争を知らなければ、平穏の重さは分からない。
批判を知らなければ、受け入れられることの温度は分からない。
好きな人と離れる現実を知らなければ、一緒にいられる時間の尊さは分からない。

 

つまり人は、
「こうであってほしくない現実」を知ったあとで、
ようやく「そうじゃない今」に触れた時、幸せを感じるのかもしれない。

 

ここがすごく切なかった。

だって、それは幸せが単独で存在しているんじゃなくて、
悲しみや苦しみや喪失との比較の中でしか、形を持てないということだからだ。

 

何か特別なものを手に入れたから笑えたんじゃない。
最悪ではない今に、ふっと触れられたから笑えた。
壊れていない。
失い切っていない。
離れたままじゃない。
その「そうじゃない」が、人を笑わせるのかもしれない。

  手に入れたのは、失ったものそのものじゃない

 

ここで、もう一つ思ったことがある。

フォレストたちが手に入れたものって、新しい何かだったんだろうか?

 

私は少し違う気がした・・・

手に入れたのは、失ったものそのものじゃない。


でも、失ったことによってしか見えない価値の形だったんじゃないかと思った。

 

離れる現実を知ったから、一緒にいる時間がただの時間じゃなくなった。
痛みを知ったから、笑えることがただの明るさじゃなくなった。
批判や暴力や孤独を知ったから、静かな優しさがご褒美みたいに見えた。

 

つまり、取り戻したわけじゃない。
全部元通りになったわけでもない。
何も無かったことになったわけでもない。

 

それでも笑えたのは、
「そうじゃない」を手に入れたからなんじゃないかと思った。

 

ここがとても残酷で、とても本当っぽい。

人は何かを加算したから幸せになるんじゃなくて、
喪失を知ったあとで、
まだ残っているもの、まだ壊れていないもの、まだ触れられるものに気づいた時、
ようやく幸せを幸せとして受け取れるのかもしれない。

  幸せは、絶対的価値じゃなく、相対的価値なのかもしれない

 

だから私は思った。

幸せすら、相対的価値なのかもしれない。

絶対にこれが幸せです、という形があるんじゃない。
誰が見ても同じ幸福があるんじゃない。


そうではなくて、人は自分が通ってきた悲しみや苦しみや喪失によって、
幸せの輪郭をあとから知っていくんじゃないかと思う。

 

そう考えると、幸せって少し不思議だ。

明るい感情なのに、影がないと見えない。
温かい感情なのに、冷たさを知らないと分からない。
安心みたいな顔をしているのに、不安を知っている人にしか深く届かない。

 

「幸せは」
悲しみが消えた状態じゃない。
苦しみが無かったことになる状態でもない。

悲しみや苦しみを知った上で、
それでもなお、目の前の何かを大切だと思えた瞬間のことなんだと思う。

 

『フォレスト・ガンプ』の笑顔が静かに刺さるのは、きっとそこだ

 

あの笑顔は、何も知らない人の笑顔じゃない。
傷つかなかった人の笑顔でもない。
失わなかった人の笑顔でもない。

 

ちゃんと痛みを通ってきた人間が、
それでも少しだけ笑えた顔だったから、あんなに残るんだと思う。

  だからこそ、幸せは綺麗ごとじゃない

 

私はたぶん、幸せってもっとキラキラしたものだと思い込んでいた。

満たされること。
報われること。
手に入れること。
欲しかったものがちゃんと自分のものになること。

 

でも『フォレスト・ガンプ』を見ていたら、
幸せってそんな綺麗な完成品じゃない気がしてきた。

 

むしろ幸せは、
悲しみと苦しみの跡の上に、あとからそっと乗ってくるものなのかもしれない。

無傷のまま辿り着くものじゃない。
何も失わずに手に入るものでもない。
だからこそ、綺麗ごとじゃない。

人は、何かを手に入れたから笑うんじゃない。


失う現実を知ったあとで、
まだ失っていないものに触れた時、ようやく笑えるのかもしれない。

そう思った。

そして、それは少し寂しいけれど、
同時にすごく優しいことでもある気がした。

 

だって、完璧じゃなくてもいいから。
全部持っていなくてもいいから。
壊れたことがあっても、離れたことがあっても、
それでもまだ、幸せは感じられるかもしれないから。

 

  幸せとは、「そうじゃない」を知った人だけが笑える感情なのかもしれない

 

『フォレスト・ガンプ』を見て思った。

幸せとは、悲しみと苦しみの上にしか生まれないのかもしれない。
さらに言えば、幸せすら相対的価値なのかもしれない。

 

戦争を知った。
批判を知った。
離れる現実を知った。
失うことを知った。

 

だからこそ、


そうじゃない時間。
そうじゃない空気。
そうじゃない事実に触れた時

人は幸せそうに笑えるのかもしれない。

 

手に入れたのは、失ったものそのものじゃない。
でも、失ったからこそ見える価値の形だった。

 

だから笑えた。
だから、あの静かな幸福が胸に残った。

幸せは、人生が優しかった証拠じゃない。
人生が残酷でも、それでもなお大切だと思えた時間のことなんだと思う。

そして私は、そんな幸せなら少し信じてみたいと思った。

 

幼児期は共産、学生時代は社会、社会人は資本、老後は民主

人は、生まれた瞬間から、ずっと同じ世界を生きているわけじゃない。

同じ日本に生きていても、
同じ社会に属していても、
年齢や立場によって、
求められる価値観も、許される態度も、
まるで別の制度のように変わっていく。

最近、そんなことを強く感じる。

幼児期は、ある意味で共産主義的だ。
学生時代は、かなり社会主義的だ。
社会に出ると、一気に資本主義に晒される。
そして老後、組織から引退した時にはじめて、
人は民主主義を感じるのかもしれない。

乱暴な言い方に見えるかもしれない。


でも、これ、意外と生活感覚に近い。

今日は、責任・怠惰・主体性・権利という4つの言葉を使って、
この流れを考えてみたい。

 

  幼児期・・・存在しているだけで守られる世界

幼児期は、まだ成果を求められない

ご飯を作ってもらう。
服を着せてもらう。
泣けば誰かが来る。
何も生み出さなくても、
とりあえず「生きていていい」が先にある。

 

これは、制度としての共産主義とは違う。
でも、生活感覚としてはかなり近い。
存在しているだけで、必要なものが配分される世界だからだ。

この時期の責任は、ほとんどない。
主体性も、まだ弱い。
権利なんて言葉を知らなくても守られている。
怠惰であることすら、問題になりにくい。
寝て、泣いて、食べているだけでも、
とりあえず共同体の中で生かされる。

 

つまり、幼児期とは、

人が“役に立つ前に守られる”最後の時間なんだと思う。

  学生時代・・・守られながら、責任を学ばされる世界

学生時代になると、少し変わる。

 

学校という組織に属し、
ルールを守り、
集団行動を学び、
責任を持て、主体性を持て、協調しろと教えられる。

 

ここで面白いのは、学校はかなり厳しいのに、まだ資本主義ではないことだ。

成績はある。
競争もある。
比較もある。
部活やサークルで上下関係もある。
でも、それでもなお、
属しているだけで居場所がある

 

これってかなり大きい。

たとえ目立たなくても、
たとえ大きな成果を出せなくても、
とりあえず「生徒」である限りは、
その場にいることが許されている。

だから学生時代は、かなり社会主義的なんだと思う。

 

統制はある。
自由は狭い。
でも保護もある。
共同体に属している限り、
完全には市場に放り出されない。

ここで教えられる責任は、まだ倫理だ。
自分の行為を引き受けろ。
約束を守れ。
ちゃんとしろ。
迷惑をかけるな。
そういう、人としての責任だ。

 

主体性も同じだ。

自分から動け。
前に出ろ。
率先して行動しろ。
学生が思う主体性は、
たぶん部活やサークル、資格、進路活動みたいな、目に見える“頑張り”なんだろう・・・?

 

でも、この時点ではまだ、
責任も主体性も自分が持つものとして語られている。

 

  社会に出ると、言葉の文法が反転する

ところが、社会に出た瞬間に、同じ言葉なのに意味が変わる。

 

ここが怖い。

 

責任は、負うものから、負わせるものになる。
主体性は、持つものから、求めるものになる。
権利は、持っているものから、奪われうるものになる。
成果や報酬は、手に入れるものから、与えられるものになる。

 

同じ日本語なのに、
動詞だけが全部すり替わっている。

これが社会だ。

学生時代に教わった責任は、
「逃げないための言葉」だった。
でも社会で使われる責任は、
「逃がさないための言葉」になりやすい。

主体性もそうだ。
自分で考えて動けと言われる。


でも、実際に求められているのは「組織にとって都合のいい範囲で、自発的に動け」だったりする。

自由にやれ。
でも空気は読め。
意見を出せ。
でも面倒は増やすな。
主体性を持て。
でも責任はお前が取れ。

 

・・・うん、なかなか美しい。
ここまでくると、もはや現代詩である。

  資本主義が生むのは“下の怠惰”ではなく“上の特権の怠惰”

よく、社会主義の欠点として
「みんな平等だと怠ける人が出る」と言われる。

 

それはたしかにあるんだろう。
働きアリの法則みたいに、どんな集団でも動く人と動かない人は出る。
でも、それは選べる怠惰なんだ。

 

誰の側にも起こりうる。
共同体の中に混ざる怠惰だ。

 

でも資本主義が生む怠惰は、少し違う。

資本がある。
立場がある。
配分権がある。
評価権がある。
すると、自分は責任を持たずに済む。

命令ではなく「お願い」で動かす。
指示ではなく「分かってくれるよね」で押しつける。
成果は取る。
失敗は下へ流す。
それでも自分は、管理している側の顔でいられる。

 

これが、私には特権の怠惰に見える。

 

社会主義の怠惰は、みんなの中に混ざる。
資本主義の怠惰は、上に立つ者の特権になる。

この違いは大きい。

怠けることそのものが悪いんじゃない。
人間なんだから、怠ける。
疲れる。
サボる。
逃げる。
それは普通だ。

でも、責任を持たないまま他人を働かせる怠惰は、かなり汚い。

しかもそれが、資本がある側には許されやすい・・


ここが資本主義の怖さなんだと思う。

  マルクス・・・成果を生む者が、成果を持てない

ここでマルクスを思い出す。

マルクスは、労働者が自分の労働から疎外されることを問題にした。


自分が生み出した価値なのに、その価値の決定権も所有権も持てない。
働いているのに、働いたものが自分のものにならない。

 

これはすごく分かりやすい。

責任は取らされる。
成果は出さされる。
でも利益は上が持っていく。
自分が生み出したものを、自分で持てない。


これが疎外だ。

 

マルクスの怖さでもあり、鋭さでもあるのは、この構造が単なる金の話じゃなく、
人間そのものの問題になっていることだ。

 

働いているのに、自分の人生を生きている感じがしない。
努力しているのに、自分で手に入れた感じがしない。
頑張っているのに、評価も配分も他人が決める。

 

それはもう、
ただの労働じゃなくて、人生の外注みたいなものだ。

 

  フーコー・・・主体性は“自由”の顔をした管理になる

次にフーコーだ。

フーコーは、権力はただ命令するだけじゃないと見抜いた。
むしろ現代の権力は、
人に「自分で動いている」と思わせながら、
ちゃんと管理する。

 

これ、主体性の話にぴったりだ。

主体性を持て。
自分で考えろ。
自分で判断しろ。
言葉は自由っぽい。

でも現実には、
その主体性は、
組織にとって都合のいい自己管理として使われることが多い。

つまり、主体性は
持つものじゃなく、
求められるものになる。

しかも厄介なのは、
求めている側は責任を薄められることだ。

 

「自分で判断したんですよね?」
この一言で、組織はきれいに手を引ける。

命令ではなく、自主性。
強制ではなく、成長機会。
支配ではなく、自己実現。

いやいや、
包装紙がきれいすぎるだろう。
中身を見せてほしい。

 

フーコーを読むと、
現代社会って、ムチで叩くより、やる気を出させる方が上手なんだと分かる。

怖いのは命令じゃない。
自分の意志だと思わされることなんだ。

 

  アーレント・・・人は働くためだけに生きるんじゃない

そしてアーレント。

アーレントは、人間の営みを・・・労働、仕事、活動みたいに分けて考えた。
ざっくり言えば、人はただ生き延びるために働くだけの存在じゃない。
公の場に現れ、語り、行動し、世界に関わる存在でもある。

 

でも現実には、多くの人は働くことに追われる。

生活のため。
家賃のため。
明日のため。
組織のため。

その結果、
人は「市民」である前に「労働者」になる。

 

ここで、老後の話がつながる。

組織から引退したとき、はじめて人は
「私は会社の部品じゃなく、社会の一人だったんだ」
と思い出すのかもしれない。

 

だから老後になると、民主主義を強く感じる。
選挙に行く。
声を上げる。
権利をよこせと叫ぶ。

 

若い頃は責任を学ばされ、老いてから権利を主張する。

 

これ、ずいぶん遅れて届く民主主義だなと思う。

でもその遅さには、理由がある。
働いている間は、
人は市民である前に労働者として生きるからだ。

 

  老後・・・組織から外れて、はじめて民主主義を感じる

幼児期は共産主義的。
学生時代は社会主義的。
社会に出ると資本主義。
そして老後、ようやく民主主義。

 

この流れで見ると、人生ってずっと同じ制度を生きていない。

幼児期は、存在しているだけで守られる。
学生時代は、属しているだけで守られる。
社会に出ると、成果を出さなければ守られにくい。


そして老後、組織から外れたときに、
「私は票を持つ一人だ」と気づく。

つまり民主主義って、若い頃から持っているはずなのに、
実感するのはずっと後なんだろう。

 

だからこそ、
老後の声は大きくなる。
傲慢に見えるくらい強くなる。


それは単なる老害じゃなくて、
ずっと抑えられてきた“市民”が、最後に出てくる感じなのかもしれない。

 

  結局、私たちは何を奪われてきたのか?

こうして見ると、奪われてきたのはお金だけじゃない。

責任の意味。
主体性の意味。
権利の意味。
怠惰の意味。
それぞれの言葉の文法そのものが、人生の途中で変えられてきたんだと思う。

 

責任は、負うものだった。
主体性は、持つものだった。
権利は、あるものだった。
成果は、得るものだった。

でも社会に出ると、
責任は負わされ、
主体性は求められ、
権利は不安定化し、
成果は配分される。

このすり替えに気づかないと、人はただ「頑張りが足りない」と思わされる。


でも違う。
頑張りの問題じゃない。
文法の問題なんだ。

 

  まとめ・・・社会は、言葉の意味を変えて人を使う

 

幼児期は共産主義的な保護。
学生時代は社会主義的な所属。
社会に出れば資本主義的な交換。
老後にようやく民主主義的な要求。

 

そう考えると、人生とは成長ではなく、
守られ方と測られ方が変わっていく過程なのかもしれない。

 

そして、その途中で
責任も、主体性も、権利も、
ずいぶん都合よく使い直されてしまう。

マルクスは、成果を持てない労働者を見た。
フーコーは、自由の顔をした管理を見た。
アーレントは、労働に追われて公共性を失う人間を見た。

たぶん今の私たちは、
その全部の中にいる。

 

だからせめて、言葉の意味くらいは取り戻したい。

 

責任は、誰かに押しつけるための言葉じゃない。
主体性は、都合よく働かせるための言葉じゃない。
権利は、機嫌次第で削られる飾りじゃない。
怠惰は、下だけに貼られるレッテルじゃない。

 

そうやって見直した時、ようやく少しだけ、
自分がどこで何を失ってきたのかが分かる気がする。

 シンプルフレーズ

幼児期は守られ、学生時代は育てられ、社会では使われ、引退後にようやく叫ぶ。
それが、私たちの人生に埋め込まれた制度の流れなのかもしれない。

 

はぁ、なんて生きにくい世界なんだ・・・

学生の頃に言われる「主体性」と、
企業に入ってから言われる「主体性」。

 

あれ、同じ言葉の顔をしているのに、
中身、だいぶ別人じゃないですか・・・?

 

学生の頃の主体性は、分かりやすい。

部活を頑張る。
サークルを盛り上げる。
資格を取る。
進路のために動く。
率先して発言する。
みんなを引っ張る。

いわば、
「自分から動ける人」が主体的とされる。

 

なるほど。


青春だ。
キラキラしている。
履歴書にも映える。
面接官もニッコリである。

 

でも、社会に出た瞬間、
この「主体性」は少し様子が変わる。

 

いや、少しじゃない。
だいぶ変わる。


下手すると別の生き物になる。

企業が求める主体性って、
本当に「自分で考えて動くこと」なんだろうか・・・?

もちろん建前ではそう言う・・・。

自ら考え、
自ら行動し、
課題を発見し、
周囲を巻き込み、
成果を出せる人材を求めています・・・。

 

うん。
採用ページって、だいたいそう書いてある。


あれはもう、現代の詩だと思っている。

 

でも実際に求められているのは、
たぶんもう少し具体的だ。

チームにちゃんと入ること。
空気を読むこと。
余計な正論で場を凍らせないこと。
会社の方向性に疑問を持っても、
せめて今じゃない顔をすること。

 

つまり、
「自分を主体にする力」ではなく、
「組織を主体として受け入れる力」が求められている。

ここが、ちょっと面白い。
いや、笑えないけど面白い。

 

学生の頃は、
自分の意思で動けと言われる。

でも企業に入ると、
会社の意思を自分の意思みたいに持てと言われる。

 

このすり替え、
わりと鮮やかである。

主体性って聞いていたのに、
気づけば「協調性の上位互換」みたいな扱いになっている。

 

しかも厄介なのは、
ただのイエスマンでは足りないことだ。

黙って従うだけでは、評価されない。
「自分で考えて、この結論にたどり着きました」という顔で
元気よく同じ方向を向く必要がある。

 

そう・・・
受動的ではダメなのだ。

能動的に従わなければならない。

命令されて動くのでは遅い。
言われる前に察し、
期待される答えを先回りし、
笑顔で差し出す。

これが大人の主体性です・・・みたいな顔をされる。

 

なかなか高度である。
ほぼ職人芸だ。

つまり企業が言う主体性とは、
自由に自分を出すことではない。

組織の論理を理解し、
その論理を自分の中に住まわせ、
あたかも自分の意志であるかのように行動する能力。

 

言い方を変えれば、

「私は私の意志で動いています」
と言いながら、
ちゃんと会社に都合よく動ける人。

 

それが、社会で高く評価される主体性なのだろう。

なんとも便利な言葉だ・・・
主体性。

響きは自由。
中身は適応。

ラベルは自主性。
運用は従順。

まるで、
無糖って書いてあるのに後味が妙に甘い飲み物みたいだ。


いや、怖いのは飲み続けるうちに
それが普通の味になることだけど。

もちろん、会社という組織で働く以上、
協調や連携が必要なのは当たり前だ。

一人で働いているわけじゃない。
好き嫌いだけで動けるほど、
現実は優しくない。

だから、合わせること自体が悪いとは思わない。

 

ただ、そこで気になるのは、
「主体性」という言葉が、
あまりにも都合よく使われすぎていないか?・・・ということだ。

 

自分で考えろと言いながら、
考えた結果が会社に不都合なら嫌がられる。

意見を出せと言いながら、
求められているのは改善案であって反論ではない。

挑戦しろと言いながら、
失敗すると評価に響く。

自由にやれと言いながら、
自由の範囲はすでに引かれている。

 

すごい。
こんなに自由そうで自由じゃない言葉も珍しい。

主体性って、
ずいぶん働き者なんだなと思う。
会社の都合に合わせて、意味まで残業している。

だからこそ、
一度ちゃんと考えたくなる。

主体性とは、
いったい誰を主体にした言葉なのか?

自分を主体にして生きることなのか?


それとも、
組織を主体として受け入れることなのか・・・?

 

学生が思う主体性は、
まだ「自分」が真ん中にいる。

でも企業が求める主体性は、
たぶん「会社」が真ん中にいる。

この違いに気づかないまま社会に出ると、
多くの人は戸惑う・・・

 

主体的に動けと言われたから動いたのに、
それは今やるべきじゃないと言われる。

考えて発言したのに、
もっと周りを見てと言われる。

自分なりに判断したのに、
相談してからにしてと言われる。

 

社会って難しい。
主体性とは、前に出ることではなく、
前に出ていいタイミングを見極める能力だったらしい。

 

先に言ってほしい。
就活サイトのどこかに小さく書いておいてほしい。

※主体性には空気読み機能が必要です・・・( ´∀` )

 

って。

たぶん本当に問うべきなのは、
主体性があるかどうかじゃない。

 

誰のために動いているのか?
誰の意思を、自分の意思として引き受けているのか。
そのことを、自分で分かっているかどうか。

 

そこが曖昧なままだと、
「主体的に生きているつもりで、
ただ上手に適応していただけだった」
という、なかなか切ない話になる。

まあ、社会はそういう
“自発的に従える人”を高く評価する場所でもある。

それを大人の成熟と呼ぶのか、
上手な飼いならされ方と呼ぶのかは、
人によって違うだろうけど。

 

でもせめて、
言葉の意味くらいは見失いたくない。

主体性とは、
本来は「自分で考えて、自分で選ぶこと」のはずだ。

たとえ組織の中にいても、
流されながら流されていることに無自覚になるのと、
分かった上で引き受けるのとでは、
話がまるで違う。

 

従うことが悪いんじゃない。
合わせることが悪いんじゃない。

 

ただ、
それを「自分が選んでいる」と言えるかどうか。

その最後の感覚だけは、
たぶん手放さない方がいい。

主体性という言葉が、
会社の便利ワードとして消費される時代だからこそ。

せめて自分まで、
自分の主体を外注しないようにしたい。

そんなことを思う。

春は、希望の季節なんて綺麗に言われる。
でも実際は、選ばされて、比べられて、未来を決めろと言われる季節だ。

就職、転職、進学・・・選ばなきゃいけないものが増えるほど、人は不安になる。
そして、やっと選んだあとでこう思うのだ・・・

 

「想ってたんと違う」

「想ってたんと違う」

それは、あなたが間違えたからじゃない。
見る目がなかったからでもない。
覚悟が足りなかったからでもない。

たぶんそれは、現実が始まっただけなんだと思う・・・。

 

今回は、春の分岐で人が何を感じるのか。
そして、選んだ後に何を考え続ければいいのかを、少しだけ掘ってみたい。

 

  選ぶ時、人は何を基準にしているのか

 

就職先や転職先を探す時、私たちはいろんな条件を並べる。

給料。
働きやすさ。
生活との両立。
勤務地。
会社の知名度。
安定性。
将来性。
仕事内容。
人間関係。
自分に向いていそうかどうか?

進学だって同じだろう。
学びたいこと、通いやすさ、学費、将来の可能性、世間体・・・いろんなものを天秤にかける。

 

そして、どれもこれも決め手に欠けるなら、いっそ自分で何か始めるとか、起業するとか、誰かの枠組みじゃない選択をしたくなることもある。

 

でも、何を選んでも、その先で起きることはだいたい同じだ。

「こんなはずじゃなかった」
「想ってたんと違う」

たぶん、これは避けられない

 

  「想ってたんと違う」は、失敗じゃない

 

想像と違った。
しっくりこない。
思ったほど楽しくない。
思ったよりしんどい。
思ったより自分に向いていない気がする。

そう感じた時、人はすぐに「選択を間違えた」と思いやすい

 

でも、本当にそうだろうか?

世界は不条理だ。
人にも物事にも、良い面と悪い面がある。
予想通りの部分もあれば、予想外の部分もある。


そして何より、自分自身の反応だって、やってみないと分からない。

 

だったら、何を選んでも「想ってたんと違う」が出てくるのは当然なんだ。

 

つまりそれは、失敗の証拠じゃない。

理想が終わって、現実が始まった合図なんだと思う・・・

期待が剥がれた場所からしか、本当の選択は始まらない。

 

  大事なのは、正解探しじゃなく優先順位だ

 

じゃあ、何が大事なのか?

 

それは、
何を優先するのか。
何を我慢するのか。
何を手に入れるために、何を手放すのか。

 

そこを考え続けることなんだと思う。

どんな道にも、良い面と悪い面がある。
全部を取れる選択なんて、たぶんない。

 

高い給料を取れば、自由な時間を失うこともある。
やりがいを取れば、安定を失うこともある。
安心を取れば、刺激を失うこともある。
夢を取れば、周りの理解を失うこともある。

 

結局、選ぶというのは「何を得るか」だけじゃなく、何を諦めるかを引き受けることでもあるんだろう。

だから本当は、「自分に合う場所を探す」というより、
自分が何なら耐えられて、何だけは手放したくないのかを知ることの方が大事なのかもしれない。

  熱意は冷める。それは悪いことじゃない

 

さらに残酷な話をすると、最初の熱意は長く続かないことが多い。

どれだけ「ここで頑張ろう」と思って始めても、2か月もすれば熱が落ち着いてくる。
新鮮さも薄れる。
理想も剥がれる。
現実的なしんどさが見えてくる。

 

でも、それもまた自然なことなんだと思う。

恋愛だってそうだろう?
最初は燃え上がる。
だけど、その熱がずっと同じ温度で続くわけじゃない。
年々、静かになっていく。
粛々と日常になっていく。

仕事も、勉強も、人間関係も、たぶん似ている。

(ごめん。完全に私の主観だよ?)

 

だから必要なのは、「最初の熱意を永遠に保つこと」じゃない。
そうじゃなくて、冷めたあとに、どうやって自分をもう一度動かすか?なんだ!

そのために、こまめにリセットして、気分を一新できる方法を持っておくのはかなり大事だ。

 

  自分を立て直すには、環境を変えるのもひとつ

 

気分を切り替える方法なんて、世の中にいくらでもある。

資格や試験に挑戦する。
趣味を見つける。
休日の過ごし方を変える。
小さな目標を作る。

どれも間違いじゃない。

 

でも、正直ちょっと普通だなとも思う。

私なら、もっと手っ取り早く、人間関係を切り替えるかもしれない。

 

友人。
同僚。
いつものメンバー。
いつも同じ会話をする相手。
いつも同じ自分でいなければいけない空気。

 

そういうものを少しずつ変えていく。

それだけで、人は驚くほど違う刺激を受ける。

 

人は、他人の目の中に自分を見る
誰といるかで、使う言葉も変わる。
笑うポイントも変わる。
欲しくなるものも変わる。
当たり前だと思っていた日常の輪郭まで変わっていく。

他人を変えることで、自分が変わる。
自分が変わることで、見える世界が変わる。

これは、かなり魅力的な刷新方法だと思う。

 

しかも、案外コストが少ない・・・たぶんね?(笑)

・・・まあ、リスクはあなた次第です(笑)

 

  選択とは、違和感と付き合い続けること

 

選ぶ前の私たちは、どうしても「自分に合う何か?」を探してしまう。

 

でも、たぶんそんなものは最初から存在しない

 

どの道を選んでも、違和感はある。
どの環境に行っても、想像とズレる。
どんな人間関係にも、面倒さはある。
どんな夢にも、現実の重たさはついてくる。

だから大事なのは、違和感がないことじゃない。

 

その違和感の中で、何を守りたいのか?を決め続けることなんだと思う。

 

自分に合う道を探すというより、
違和感だらけの現実の中で、少しずつ「ここならまだ歩ける」と思える形を作っていく。

 

その積み重ねが、あとから振り返った時に
「ああ、これが自分の選んだ道だったのか」
になるんじゃないだろうか?

 

  春の分岐で大切なのは、選んだ後に考え続けること

 

春は、選択の季節だ。

でも、選んだ瞬間に全部が決まるわけじゃない。


むしろ本番は、その後に始まる。

想ってたんと違う。
しっくりこない。
熱意が続かない。
別の道の方が良かった気がする。

 

そんなものは、たぶん全部ある。

でもそれは、失敗じゃない。
現実の中で、自分の感覚がちゃんと動いている証拠だ。

 

だからこそ大事なのは、
何を優先するのか。
何を我慢するのか。
何を手に入れるために、何を手放すのか。


それを考え続けること。

選択とは、正解を引くことじゃない。
「想ってたんと違う」現実の中で、それでも自分が何を選びたいのかを、何度でも確かめ直すことなんだと思う。

 

最初からしっくりくる道なんて、きっと少ない。
でも、違和感の中で考え続けた道は、少しずつ自分の道になっていく。

そんな春があっても、いいんじゃないかな?と思う・・・

 シンプルフレーズ

自分に合う道を探すより、違和感の中で何を守るかを決めた方が、

たぶん人生は少しだけ自分のものになる。