自由って何だろう?

自由に生きている人ってどんな人だろう?

 

成長って何だろう?

成長している人はきっと、日々を精一杯生きている人だと思う。

私は成長したいと思うけど、成長って具体的なことは分からない。

 

私が分かるのは自分の欲望だけだ・・・。

辞めていく人の背中と、成長の呪い

仕事を辞めていく人が居る。
新しい道に進む人が居る。

次の仕事を決めて、進む道を決めて、目的を見つけて踏み出す人。
今の仕事をやりきって、もっといい場所を求めて、自分の可能性を模索している人。
今の仕事や職場に不満があって、そこから飛び出そうとする人。

 

理由はそれぞれ違う。
意味も違う。
価値ある時間を作るための選択も違う。

 

それでも、そういう人たちの背中はとても魅力的に見える。

まるで、変化しているように見える。
進んでいるように見える。
成長しているように見える。

だから、その背中を見ていると、いつまでも進めていない自分も「何かしなくては」と焦ってしまう。

 

でも、そこでふと思った。

これは、私も「成長の呪い」にかかっているからかもしれない。

 

  成長しろと言われてきた

学べ。
成長しろ。
大人になれ。
変われ。
進め。
挑戦しろ。

私たちは、昔からそういう言葉を刷り込まれてきた。

 

だから、変化しないこと。
変わろうとしないこと。
進もうとしないこと。
動けないこと。

それ自体が、どこか非難される世界にいる。

 

動かない自分。
出来ない自分。
変わらない自分。
進めない自分。

それらは、自他ともに否定の対象になってしまう。

 

言い訳ならいくらでも出来る。
世界の情勢が悪い。
他にいい仕事がない。
新しい仕事の準備をしている。


今はまだ時期じゃない。

理性はしっかり仕事をしてくれる。
辞めない理由も、動かない理由も、いくらでも用意してくれる。

 

でも、どれだけ正当化したとしても、動かない事実だけは残る。
そして、その事実だけが「成長していない証拠」みたいに見えてしまう。

これが、成長の呪いなんだと思う。

  私は成長が出来ないジャンルの人間だ

でも、正直に言えば、私は「成長」っていうことが出来ないジャンルの人間なんだと思う。

 

私は、自他ともに認める普通じゃない人。

 

だから、世間が言うような成長がよく分からない。
キャリアアップ。
正社員。
安定。
昇進。
評価。
市場価値。
立派な未来像。

そういう世間の正解や正しさが、どうにも理解できない。

 

もちろん、大切なことなんだろう。
多くの人にとっては必要なことなんだろう。

 

でも、私の中では、それがそのまま人生の正解にはならない。

正社員というラベルにも、そこまで興味がない。
留まることにも執着はない。
キャリアアップという言葉にも、あまり心が動かない。

 

では、私は何を求めているんだろうか。

考えてみると、それは「自由」なんだと思う。

  私にとっての自由

自由とは何だろうか?

答えは人それぞれだと思う。

好き勝手に生きること。
誰にも縛られないこと。
お金に困らないこと。
どこへでも行けること。
何でも選べること。

いろいろあるだろう。

 

でも、私が思う自由は、選択権を手放したくないということだ。

言われたからやる。
指示されたからやる。
そうしないとダメだからやる。
守る。
言うことを聞く。
従う。

大いに結構だ。
それも必要なことだと思う。

 

ルールや法律を守らないと、人権すら与えられない。
守り、従うことは、人間である以上、避けられない部分がある。

 

でも、そうじゃない部分があるだろう。

選択できるはずの部分があるはずなんだ。

誰の指示を聞くか。
どこの組織に属するか。
そのやり方で本当に守ることになるのか。
どこまでなら融通が利くのか。
どこから先は譲れないのか。

そういう線引きがあり、その線をどこに引くのかを、どこまで自分で決められるのか。

それが、私にとっての自由の権限なんだと思う。

 

  自由の領分を増やしたい

私は、極力、自由の領分を増やしたい。

 

だから、出来ることを増やしたい。
知っていることを増やしたい。
使える道具を増やしたい。
肉体を維持したい。
情報を集めていたい。

才能が無くても。
器用さが無くても。
センスが無くても。

それでも、出来る方法を見つけ出せるだけの自由の領分を守りたい。

 

だから、成長っていう変化を手に入れ続けたいのかもしれない。

でも、それは世間が言う成長とは少し違う。

偉くなりたいわけじゃない。
立派になりたいわけじゃない。
誰かに認められるためだけに成長したいわけでもない。

私が恐れているのは、選択肢を奪われることだ。

たとえば、職場で人間関係が悪くなれば、発言権がなくなる。


多少のミスも許してもらえなくなる。
何をしても責められるようになる。

 

それは自由じゃない。

 

たとえば、破産すれば、お金に関する可能性が極端に狭くなる。
でも、お金を借りることは、用途の可能性を広げてくれることもある。

だから、私はお金を借りること自体には反対しない。


・・・ただ、破産は避けたい。

取捨選択をするなら、私は可能性を広げてくれるものを選びたい。

 

  成長ではなく、自由を守るために

今のままでも、十分に生活は出来る。
生きていくことも出来る。

でも、その先に何かを思いつくかもしれない。
何かをやってみたいと思うかもしれない。
成功を渇望する日が来るかもしれない。

その時に、動けない自分ではいたくない。

 

だから、体を維持していたい。
情報を集めていたい。
考え続けていたい。
選択できる状態でいたい。

それを成長というのか。
変化というのか。
努力というのか。

正直、よく分からない。

私は何も成長していないのかもしれない。
変わっていないのかもしれない。

 

でも、もともとそういうスタンスで生きてきた。
そうありたいと思うから、そうしているだけなんだ。

 

だから、私は成長したいんじゃない。
成長しなければならないという呪いに従いたいわけでもない。

 

私は、自由でいたい。

選択肢を奪われたくない。
従うしかない場所に追い込まれたくない。
自分の線引きを、自分で持っていたい。

仕事を辞めていく人の背中は、確かに魅力的に見える。
新しい道に進む人は、確かに眩しく見える。

 

でも、私が本当に求めているのは、その背中を追いかけることではない。

私が求めているのは、私の自由の領分を守ることだ。

辞めることも、残ることも、進むことも、立ち止まることも。
それを自分で選べるだけの余地を、私は手放したくない。

成長とは、上に進むことだけじゃない。
変化とは、別人になることだけじゃない。

私にとっての成長とは、自由を失わないために、自分の選択権を守り続けることなのかもしれない。

誰にも求められず、必要とされない。

こんな楽なことは無い。こんなに自由なことは無い。

何のしがらみもなく、誰のことを気にする必要もない。

 

そして、1人にある。

その時間は、とても退屈だと痛感する日々だ。

求められない時、人はそこに居るだけに耐えられない

 

人は、誰かに求められる視線の中で、自分を作り上げていくんだと思う。

 

「こうしてほしい」
「こうあってほしい」
「こういう人でいてほしい」

 

そんな期待や役割があるから、私たちは自分の形を作ることが出来る。

 

仕事なら、仕事をする自分。
家庭なら、家族としての自分。
友人なら、友人としての自分。
恋人なら、恋人としての自分。

誰かに求められるから、そこに立ち位置が生まれる。
役割があるから、振る舞い方が分かる。
期待があるから、応え方を探せる。

そう考えると、求められることは窮屈だけど、同時に安心でもあるんだと思う。

  「素直」も、他人がいるから必要になる

よく「素直になれ」と言う。

 

でも、素直っていうモノは、本当に自分一人だけで必要になるものなんだろうか?

私は違うと思う。

一人なら、素直も本心もいらない。
ただ食べて、寝て、好きにして、生きるだけでいい。

 

・・・でも、他人がいる。
関係がある。
社会がある。

だから、探り合いが生まれる。


忖度が生まれる。
線引きが生まれる。

 

そして、相手が望んだ答えじゃない時に、
「素直になれ」
「本当のことを言え」
「ちゃんと向き合え」
と求められる。

つまり、素直とは、自分の中に最初からある綺麗な何かというより、
他人との関係の中で求められる態度なんだと思う。

 

  求められない時、人は何者にもなれない

求められている時、人は自分を作ることが出来る。

 

良い人を演じることも出来る。
普通の人を演じることも出来る。
頼れる人にも、優しい人にも、ちゃんとした人にもなれる。

 

だけど、何も求められない時はどうだろう?

役割がない。
期待がない。
答えがない。
演じる相手もいない。

 

その時、人は「素直」と同じように、何かを表現する必要すらなくなる。

 

ただ、そこに居るだけ。

 

でも、人はその「ただ居るだけ」に耐えられないんだと思う。

 

何かをしていないと不安になる。
誰かに必要とされていないと、自分の形が分からなくなる。
誰かの役に立っていないと、そこに居る理由を失ってしまう。

  ただ在ることが、一番難しい

人は、自分のためだけに生きられるほど強くない。

誰かに求められて、
誰かに必要とされて、
誰かの期待に応えて、
ようやく自分の立ち位置を確認しているところがある。

 

だから、求められない時が怖い。

 

そこには、正解も役割もない。
褒められることも、責められることもない。


ただ、自分がそこに居るだけ。

 

でも、その「そこに居るだけ」が難しい。

何者かになろうとしなくてもいい。
何かを証明しなくてもいい。
誰かに認められなくてもいい。

そう言われたところで、簡単には信じられない。

 

だって私たちは、求められる視線の中で、自分を作ってきたから。

 

だから、求められない時、
人は自分の立ち方を失ってしまう。

 シンプルフレーズ

人は、求められる視線の中で自分を作る。
でも、求められない時は、ただそこに居るしかない。
そして人は、その“ただ在るだけ”に耐えられるほど、強くはない。

最近、ストレスの正体について深く考えていた。

仕事のマンネリ、遅すぎる時間の流れ、そしてポストに届く税金という名の圧倒的暴力。 

それらも確かにストレスだが、人を本当に芯から破壊するストレスの正体は、外側にはない。 

「迷惑をかけたくない」「いい子でいたい」と仮面を被り、過去の後悔や自責の念をたった一人で耐え忍ぶ、あの「出口のない密室」こそが人を壊すのだ。

逃げ場は、自分で見つけられない

人は本当に追い詰められた時、
自分で逃げ場なんて見つけられないんだと思う。

「趣味を持てばいい」
「気分転換すればいい」
「誰かに相談すればいい」

そんな正論は、きっと間違ってはいない。

 

でも、逃げ場を求めている人は、
もう探す力すら残っていない。

 

だから、お酒に逃げる。
たばこに逃げる。
眠ることに逃げる。
沈黙に逃げる。
怒りに逃げる。
自分を責めることで、どうにか形を保とうとする。

 

それは弱いからじゃない。

手を取ってくれる人が、そこに居なかっただけなのかもしれない。

 

逃げ場は、見つけるものじゃない。

誰かが差し出してくれた「手」そのものが、結果的に逃げ場になるんだ。

 

  アニメの世界に、僕がどうしても憧れてしまう男たちがいる

シティーハンターの冴羽獠や、ルパン三世。 

彼らは社会のシステムや常識の完全に「外側」にいて、理不尽な重圧に押しつぶされそうな誰かが現れたとき、飄々とその手を取って、世界の暴力から匿ってくれる。

 

彼ら自身が「逃げ場」そのものなのだ。

 

じゃあ、僕たちのような普通の人間が、一体どうしたら誰かの「逃げ場」になれるのだろうか?

 

綺麗事のカウンセリングや、お決まりの同調(忖度)なんてクソ喰らえだ。 

「そうだね、辛いよね」と相手の言葉をそのままオウム返しにするだけのぬるま湯は、

一瞬のバイアス(錯覚)で心を誤魔化せても、密室の壁をぶち破るハンマーにはなり得ない。

 

誰かの逃げ場になるために必要なこと。

それはきっと、「自分と同じ傷を持っていること」、ただそれだけだ。

 

自分自身がかつて、何かを激しく後悔したことがあるか。 

誰にも言えない孤独の中で、仮面が割れそうになるまで耐え抜いたことがあるか。 

理不尽なシステムに踏みにじられ、乾いた笑いを漏らしたことがあるか。

同じ痛みを、同じ割り切れなさを、その身に刻んできた人間だからこそ、同じように暗闇で震えている相手の手を、迷わず握ることができる。 

 

「大丈夫、僕もその地獄を知っているよ」と。

 

最後に行き着くのは、場所ではなく、人だ。 同じ傷を持つ者が、見えない網の目のようにすれ違う現代社会で、せめて僕の紡ぐ言葉や、僕という存在が、誰かの「最後の砦」でありたいと思う。

 

  まず必要なのは、裁かないこと

誰かの逃げ場になるために、
一番必要なのは「正しい答え」じゃない。

 

裁かないことだと思う。

 

「なんでそんなことしたの?」
「もっと早く言えばよかったのに」
「それはあなたにも原因があるよ」
「普通はそうしないよ」

こういう言葉は、正しいかもしれない。


でも、逃げ場を求めている人には刃になる。

 

その人は、もう十分に自分を責めている。
十分に後悔している。
十分に苦しんでいる。

そこにさらに正しさを重ねたら、
その人は逃げ場を失う。

必要なのは、原因の分析ではなく、
まずは「ここに居てもいい」と思える場所なんだ。

 

 シンプルフレーズ

逃げ場を見つけられない人に、

逃げ場を教えるのではなく、
最後に手を取れる言葉でありたい。

 

逃げ場とは、完璧な救済じゃない。
ただ、その人が今日を壊れずに越えるための場所だ。

音楽は、自分の気分に合わせて勝手に受け取れる。

泣きたい時は、泣くための音になる。
笑いたい時は、笑うための音になる。
集中したい時は、余計な言葉を消してくれる背景になる。
戦いたい時は、背中を叩いてくれる応援歌になる。

 

音楽は、日常を一番簡単に非日常へ変えてくれる。
そして、自分の感情を、自分の好きなカタチで励ませる、
一番身勝手で、一番優しい自己表現なんだ。

いまの自分が何を求めているのかも見えてくる。

 

音楽って良いなって。・・・改めて思うんです。

だって、音楽は一番簡単にできる非日常なんですよね。

 

旅行に行かなくてもいい。
特別な場所に行かなくてもいい。
誰かと予定を合わせなくてもいい。

イヤホンをつけて、好きな曲を流すだけで、
いつもの部屋も、通勤時間も、ブログを書く時間も、
少しだけ特別な時間に変わってくれる。

 

これはすごいことだと思うんです(笑)

  好きな音楽が変わってきた

私はもう20年近く、ロックやポップロックが好きでした。

グリーンデイ、クイーン、エアロスミス、ボンジョビから始まり・・・

エルレガーデン、バンプオブチキン、ラッドウィンプス・・・


熱量があって、情熱があって、背中を押してくれる音楽が好きだったんです。

「よし、やるか」
「まだ行ける」
「負けてたまるか」

そんな気持ちにさせてくれる音楽。

 

でも最近は、R&Bや洋楽をよく聴くようになりました。

マルーン5、コールドプレイ、ワンリパブリック、ブルーノ・マーズ。
激しく奮い立たせるというより、気分を満たしてくれる音楽が心地いいって思うようになったんだよね。

 

ジョギングの時間、筋トレの時間、ブログを書いている時間・・・

コールドプレイが心地いいね

マルーン5が聞き易い

のんびりできるのに、作業もはかどる。不思議だな~って思う。

 

  老いたのか、うつろったのか

年かな?
そう思うこともあります。

昔みたいに、ただ熱量だけで走りたいわけじゃない。
周囲の雑踏より、自分の内側を満たしたくなっている。

情熱より、感性。
勢いより、余白。
勝ち負けより、心地よさ。

少し寂しい気もします。

 

でも、失ったわけではないんですよね。
きっと、求めるモノが変わっただけなんです。

花が季節によって咲き方を変えるように、
人の感性も少しずつうつろっていく。

 

それも悪くない。
むしろ、少し素敵だと思うんだけど・・・それでもやっぱり若々しくありたいと思うのも私です💦

そこそこ身勝手ですみません(笑)

 

  音楽は自分を映す鏡

音楽は、日常を非日常にしてくれるだけじゃない。

 

今、自分がどんな曲を聴いているのか。
どんな音を心地いいと感じるのか。
どんなリズムに身を任せたいのか。

それを見つめると、今の自分が何を求めているのかが見えてくる気がします。

 

昔は、背中を押してほしかった。
今は、心を満たしてほしい。

昔は、熱量が欲しかった。
今は、余白が欲しい。

そう考えると、音楽って自分を教えてくれるんですよね。

 

一人では気づけない自分の変化を、
好きな曲がそっと教えてくれる。

 シンプルフレーズ

音楽は、一番簡単にできる非日常だ。
そして、いま聴いている曲を見つめれば、
いまの自分が何を求めているのかも見えてくる。

音楽は、日常を変えるだけじゃない。
自分を映す鏡でもある。

  音楽っていいよね~

薄っぺらい共感の言葉みたいに、

「分かるよ」「大丈夫だよ」「つらかったね」って、雑に寄り添ってくるわけじゃない。

歌い手の想いがあって、メロディがあって、声があって、リズムがあって、
それを受け取る側が、勝手に自分の感情へ変換している。

 

ある意味、都合がいい。


でも、その都合のよさこそ音楽の自由なんだと思う。

説明がありすぎると、自由がなくなる。
指示がありすぎると、感じ方が縛られる。
共感や協調を求められすぎると、自分だけの楽しみ方が消えてしまう。

 

でも、ライブはまた別なんよ・・・
あれは「みんなで同じ音を浴びる」集合としての楽しさがある。
一人で聴く音楽は、自己満でいい。
ライブで聴く音楽は、共鳴でいい。

 

どっちも音楽の楽しさなんだろうね。

そして、一人で聴く音楽は、たぶん一番簡単な自己表現なんだと思う。
服を選ぶより簡単で、言葉にするより自由で、誰かに説明しなくてもいい。

 

一人で聴く音楽は、たぶん一番簡単な自己表現なんだと思う。
服を選ぶより簡単で、言葉にするより自由で、誰かに説明しなくてもいい。

 

今の自分を励ましたい。
少しだけ奮い立たせたい。
気分を変えたい。
日常を少しだけ特別にしたい。

その時、音楽はちゃんと側にいてくれる。

今が嫌いな人なんて、沢山いると思う。

仕事に不満。
学校に不満。
家庭に不満。
人間関係に不満。

誰も彼も、何かに苦しみながら生きている。

 

だから人は、「自由」に憧れる。

もっと自由に。
もっと自分らしく。
もっと好きなように。

でも、自由って何なんだろう。

何にも縛られないことなんだろうか。
全部を捨てることなんだろうか。
孤独になることなんだろうか。

私は、ずっとそこを考えている。

  自由を求めてきた人を私は敬愛する。

 

hide や 尾崎豊 を見ていると、自由を求める人ほど苦しんでいるように見える。

好きなものがあった。
守りたいものがあった。
自分らしく在りたかった。

だからこそ、苦しかった。

社会。
業界。
期待。
役割。
「こうあるべき」。

自由を求めるほど、空は遠くなる。

それでも、人は自由を求めてしまう。

 

でも私は、最近少し考え方が変わった・・・

 

自由って、永遠に続く状態じゃないのかもしれない。

流れ星みたいなものなんじゃないだろうか。

一瞬、輝く。
「あぁ、生きてる」って感じる。
でも、消える。

ただ、終わりじゃない。

星は巡る。
またどこかで流れる。
また一瞬、輝く。

自由って、そういうものなのかもしれない。

永遠に持ち続けるものじゃなく、
生き残りながら、何度も巡ってくる瞬間。

私は、そういう自由が欲しい。

 

でも正直に言えば、私は「可能性」とか「余白」って言葉が最近あまり好きじゃない。

余裕がある人が言う言葉みたいに感じるから。

今限界の人間に、
「可能性はある」
「未来は変わる」
って言うのは、時々あまりにも遠い。

だって、今苦しいんだから。

未来を担保にされても、今は助からない。

私は、今を生きたい。

 

だから私は、苦しみに意味があるとは思わない。

苦しみは苦しみだ。
悲しみは悲しみだ。

そこに無理やり価値を貼るのは、理性の言い訳にも見える。

でも、それと価値は別だと思っている。

限界でも。
壊れそうでも。
後悔していても。
上手く生きられなくても。

人の価値は消えない。

私は、それを伝えたい。

 

だから「それでも大丈夫」は、救済の言葉じゃない。

助かる保証でもない。
成功する保証でもない。

私は誰も救えないし、壊れることを止められない。

でも、それでも。

見過ごさない。
見逃さない。
見捨てない。

ただ、手を取ろうとする。

それだけじゃダメなのかもしれない。
現実はもっと厳しいのかもしれない。

それでも私は、そういう言葉を残したい。

 

全部を手放しても、
笑って手を握ってくれる誰か。

自由を求める人ほど、そういう存在を求めているんじゃないだろうか?

理解じゃなくていい。
正解じゃなくていい。
救済じゃなくていい。

 

ただ、

「お前はここに居る」
「価値は消えてない」

そう言われるだけで、人は少し呼吸が出来るのかもしれない。

だから私は今日も、シンプルフレーズ・・・

社会や世界の秩序に囚われない言葉を。

自由を求める人にも、私は伝えたい。

それでも大丈夫だと。