白紙の心と椅子取りゲームの哲学

選択の自由なんて言われてる。

でも、私達は自分で自分のコトを決められるほど強くない。

誰かに相談したいし、誰かの口コミは見たいし、評価も気になる。

 

たった一つの買い物でさえ、自由に選べない。

 

何もかもが、自分だけではどうすることも出来ない。

アーレントは複数性で個人の意味と価値を証明するって言う。

要するに、自分以外の誰かが居て初めて、自分がここに居るって言う証明になるんだってさ。

 

私が一人だったら、私はここに居ないのか。

本当に、無色透明の何かに成ってしまうような気がするよ。

 

でも、自由も意味も価値も何にもなくても、私は・・・私だけの素敵で十分だ。

自分が大切に思えるものがあるだけで、誰かも、なにもかも・・・なくてもさ

 

  名もなき紙

 

私たちは、生まれたとき真っさらな「白紙の心」を持っていました。
ロックが語ったように、心には何も書かれていない。
そこに刻まれていくのは、経験。

けれど振り返れば、その経験の多くは自分が選んだものではなかったはずです。
学校で与えられたカリキュラム、家庭のしきたり、社会のルール。
自由に選んでいるつもりでいても、最初から選択肢は並べられていた。

 

  額縁という枠組み

 

思い出してみてください。
学生時代の進路選択。
「どの道でも自由に行ける」と言われながら、実際には「安全な道」「普通の道」が勧められる。
それは自由というより「順路案内」に従っているようなものでした。

結婚、就職、家を買うか買わないか。
人生の大きな岐路でさえ、自由に選んでいるように見えて、
社会の“椅子”に座れるかどうかで決まってしまう。

そう、社会はまるで 椅子取りゲーム


椅子に座れた人は「居場所」を得るけれど、座れなかった人には「居場所がない」と烙印が押される。
自由があるように見えても、実際は「用意された椅子の中からしか選べない」。

 

「自由とは、与えられた椅子に座ることではなく、椅子を手放す勇気なのかもしれない。」

  絵具は決まってる

 

でも、その“椅子を手放す自由”すら簡単には選ばせてもらえないのです。
降りたら最後、「負け組」と呼ばれる。
再び座ろうとしても椅子は減っていくばかり。
私たちは「自由を持っている」と教えられながら、実際は“奪われた後”の自由しか残されていない。

  絵画の中の白紙のイラスト

 

どこにもない自由。
なのに、誰もが「自由」を歌い、説き、誇る。

 

誰の自由なんだろう?


あなたの自由なのか?
自由は与えられているのか?
それとも誰かから奪うのか?

 

もし「手の中にある」と言われても、見えない自由なんて“物自体”だ。
経験できず、認識できない自由なんて、自由じゃない。

なんなら、「手放す自由」ですら簡単には与えられない。


だったら、それすら自由じゃない。

 

そんな世界の不条理の中で、私は——笑っていたい。
矛盾に満ちた世界で、それでも「大丈夫」と誰かに伝えたい。
だって、私が探しているのは自由よりも、もっと素敵なものだから。

 

 シンプルフレーズ

「自由は手に入れるものじゃない。奪われても笑えるもの、それを“素敵”と呼びたい。」