朝、目を開けるたびに思う。
「今日も、また私を合わせないといけないのか」と。
SNSも本屋の棚も、
「こうすれば幸せになれる」「これが成功の秘訣」
そんな言葉で埋め尽くされている。
でも、心のどこかでつぶやく。
「私は、マニュアルじゃ動けない。」
私はロボットじゃない。
私には、過去があり、傷があり、どうしても譲れない想いがある。
だから、誰かの“正解”が、私の“正解”になることは、ほとんどない。
存在を証明する哲学:我思う、ゆえに我あり
「正解が見つからない夜」に出会ったもの
自己啓発は「前を向け」と言う。
スピリチュアルは「宇宙が導く」と囁く。
信仰は「神が救う」と告げる。
でも、そんな簡単じゃない。
「私の歴史を無視した答えは、私を救わない。」
みんなと同じようにできない
「私って間違っているの?」と自分を責めた。

哲学は、答えをくれない。でも、それが救い
哲学は、決して「これが正しい」とは言わない。
むしろこう告げる。
「答えがなくてもいい。自分だけの答えを探していい。」
過去の哲学者たちも、みんな同じだった。
絶望し、迷い、苦しみ、それでも問い続けた。
その姿は、私にこう語りかけてくれる。
「変わっていることは、欠点じゃない。
特別であることは、“私がここにいる”という証拠だ。」
デカルトの「我思う、ゆえに我あり」がくれた安心
デカルトは世界のすべてを疑った。
神も、人の価値も、現実すらも。
でも、最後に残った確かなものがあった。
「私は考えている。疑っている。だから、私は存在している。」
—それが、「我思う、ゆえに我あり(Cogito, ergo sum)」。
この言葉を知った時、私は肩の力が抜けた。
たとえ現代の神が“貨幣”で、
お金がなければ価値がないとされる世界でも、
「私は、ここにいる」という事実は、誰にも奪えない。
他人の基準で生きない勇気
「役に立たない」「価値がない」「変わっている」。
そんな言葉を浴びても、哲学はそっと教えてくれる。
「あなたの存在は、あなた自身で証明できる。」
世界が何を言っても、
私が私を受け止める限り、
存在は消えない。
その事実を知った時、私は初めて息がしやすくなった。
シンプルフレーズ
「私がここにいることは、私が証明できる。」
誰かの正解に怯えず、
自分だけの意味と価値を探すために、
私は今日も哲学の世界を歩く。


