今日も、迷うかもしれません。
今日も、悩むかもしれません。

でも、そのすべてが、
「私がここにいる」という証拠になります。

それだけは、
忘れないでいたいですね。

迷いも悩みも、私が“ここにいる”証拠

 

  立ち止まる瞬間、誰にでもある

 

仕事終わり、夜の帰り道。
電車の窓に映る自分の顔を見て、ふと立ち止まるような気持ちになることはありませんか?

朝の通勤電車で、スマホを見ても頭に入ってこなくて、
ただ流れる景色を見ている時。

 

キッチンで夕食を作りながら、
「これ、本当に私がやりたいこと?」と
唐突に浮かぶ感情が止まらない時。

そういう時、決まって頭に浮かぶのは、
「私、どうしたいんだろう?」
という問い。

 

でも、答えは出ない。


立ち止まった理由が、
「選択を決められない迷い」なのか、
それとも「生きる意味を探す悩み」なのか、
その瞬間には分からないから。

  迷いと悩み、その違い

 

迷いは、AとBの間で揺れている時間です。
「転職するか、残るか」
「謝るか、距離を置くか」
「買うか、我慢するか」

どちらを選んでも後悔しそうで、
動けなくなってしまう。


でも、選んで動いた瞬間に、
たとえ結果がどうでも、
経験というかたちで何かが残る。

 

悩みは、それより深いところにあります。
「そもそも、この会社に居たいのか?」
「なぜ、この人間関係を守りたいのか?」
「お金や安定のために、私は何を犠牲にしてる?」

答えは簡単に出ないし、
どれを選んでも空虚感が残ることもある。


だから、沈黙や問いを繰り返す時間が必要になる。

けれど、どちらの状態でも、
**「私が今、確かに生きている」**という事実だけは変わらない。

 

  想いがあるから、「私が在る」

 

デカルトの「我思う、ゆえに我あり」という言葉は、
「思考している限り、私の存在は確かだ」と証明した言葉です。

 

でも、今の私たちにとっては、
「想いがあるから、私が在る」
と言った方がしっくりきます。

 

怒りや悲しみも、
期待や不安も、
全部、外の世界に反応して湧き上がったもの。


その反応がある限り、
私たちは確かに「ここにいる」といえるのです。

もし想いを無理に捨てたら、
たしかに楽にはなるかもしれない。
でも、想いを捨てたら、
自分が「ここにいる」という実感も消えてしまう。

  じゃあ、どうやって自分を認める?

 

自分が自分を認める方法は、
**「想いを知ること」**だと思います。

 

怒りや悲しみを無視しないこと。
「やりたくない」「疲れた」という声を聞き流さないこと。
喜びや期待を小さく見積もらないこと。

それを知ることで、
初めて「私はこういう人間だ」と分かるし、
選択や決断の軸も見えてくる。

 

迷いの時は、動いてみればいい。
悩みの時は、立ち止まって問いを繰り返せばいい。


どちらも、「想い」があるからこそできること。

 

  立ち止まる時間も、進む時間も

 

迷いも悩みも、
どちらも私たちを苦しめるものだけど、
同時に、私が「ここにいる」と確かめてくれる証でもあります。

だから、立ち止まってもいいし、
前に進んでもいい。
どちらも、想いがある限り、
私が私を生きている証になるのだから。

 シンプルフレーズ

 

「想いを知ることが、自分を認めること。
迷いも悩みも、そのための大切な時間。」