【日本建国史の大真実】第7章 〜次代天皇・イワレヒコの受難と第二次連合の成立〜 | 螢源氏の言霊

【日本建国史の大真実】第7章 〜次代天皇・イワレヒコの受難と第二次連合の成立〜





目次

【日本建国史の大真実】第1章 〜アマ族の渡来とスサノオのオロチ退治〜

【日本建国史の大真実】第2章 〜スサノオの九州進攻とアマテラスとの和合〜

【日本建国史の大真実】第3章 〜裏天皇・タカミムスビの正体と忌部氏の呪い〜

【日本建国史の大真実】第4章 〜消された初代天皇・ニギハヤヒの日本建国〜

【日本建国史の大真実】第5章 〜オオクニヌシの不断と出雲・日向の暗雲〜

【日本建国史の大真実】第6章 〜継承者・タケミナカタの反骨と国譲りの真相〜




前回までのおさらい。



215年頃

末子のコトシロヌシ(日向ひむか)か、剛毅なタケミナカタ(出雲)か、出雲・日向の盟主後継問題が勃発。

タカミムスビの策により、日向は九州王朝として独立(出雲・日向連盟の崩壊)。



220年頃

ニギハヤヒ(69)、崩御。三室みむろ山(三輪みわ山)の磐座いわくらに葬られる。旧暦11月1日。

九州王朝軍、大橋川の戦いで、タケミナカタ率いる出雲王朝軍に勝利(出雲占領・出雲王朝の滅亡)[国譲り]



・盟主後継問題にはじまる、九州王朝の独立、大橋川の戦い、出雲王朝の滅亡など、出雲族と日向族の不和は極まり、日本は真っ二つに。

・だが、全ては日向の黒幕にして真の闇帝王・タカミムスビの陰謀であり、日向を操り出雲を排する、という日本征服計画は山場を迎える。





ここから本日の日本建国史。


前回の時代からすこし遡りつつ、本日の主役を紹介する。




216年頃

イワレヒコ、日向国の狭野さので誕生。父はクマノクスビ、祖母はアマテラス、祖父はタカミムスビ。





イワレヒコ(後の神武じんむ天皇)

(狭野尊、磐余彦尊、神倭伊波礼毘古命)



彼こそが、初代天皇であるニギハヤヒの婿養子となり、出雲・日向連合王朝、つまり日本国の次代天皇となった人物である。


一般的には初代天皇とされているが、実際にはタカミムスビに擁立された天皇なので、いわば乗っ取り政権によって担がれた神輿である。



ニギハヤヒは自らマツリゴト、すなわち政治を行っていたが、イワレヒコ(神武天皇)からは天皇は為政者ではなく、象徴になった。


だが、それはなにも彼に限ったことではなく、彼以降の天皇、つまり現在までの天皇も含めて同じことがいえる。





さて、今回はそのイワレヒコが天皇に即位するまでの経緯について述べたいと思う。


それを説明するにあたり、やっぱり必要不可欠なのはこの男。



真の闇帝王・タカミムスビ(肖像は若年期)



日向(九州王朝)の実権者である彼は、出雲の次は大和を征服するべく、策略を練っていた。


以下、中矢伸一なかやしんいち氏の本から引用するが、文中の「日向」は「九州王朝」に読み替えて欲しい。



◉タカミムスビの日向・大和大連合案



日向の総参謀であり、軍師であったタカミムスビは、既に次の段階のことを考えていた。


出雲はもはや陥ちた。

いまや日本は、二つの勢力によって二分されている状態にある。


それはいうまでもなく、日向と大和である。


日向は、九州全土から出雲にかけての広大な範囲を、掌中におさめた。

このまま日の出の勢いに乗って、大和まで遠征するべきか。


おそらく、出雲でタケミナカタ軍をこともなく破った日向の三武将らは、機を移さず大和へ大挙して押し寄せ、攻略することを強硬に主張したかもしれない。


大和は、日本一の米の産地であり、最大の盆地である。

いずれは出雲のように、日向の属国としたい。


しかし、大和にはニギハヤヒが既に確固たる王国を築きあげている。

もはや彼はこの世にいないが、攻め取るとなるとどうか。

百戦錬磨であったニギハヤヒの武勇は世人の知るところである。

あのニギハヤヒ仕込みの、精鋭の騎馬軍隊が、大和には残っているとみるべきだろう。


もともとニギハヤヒの大和は、日向とは親戚関係にある。

まず余計な血を流さずに大和を掌中に収める方法を画策したほうがよい。

――そうタカミムスビは考えたに違いない。


(後略)

中矢伸一『神々が明かす日本古代史の秘密―抹殺された国津神と封印された日本建国の謎を解く!』(1993年、日本文芸社)



今回は登場人物が多いので、あらかじめ系図を載せておこう。






当時の勢力図。



一方、ニギハヤヒ亡き後の大和は、その勢力を伸び悩ませていた。


このニギハヤヒが樹立した大和の王朝のことを私は「第一次 出雲・日向連合王朝」と呼んでいるが、以下「第一次連合」と省略する。



相続者は、ニギハヤヒの末娘のイスケヨリ姫

(伊須気余理比売命、媛蹈鞴五十鈴媛命)



だが第一次連合の実質的な統治は、彼女の長兄であり後見人のウマシマジが行なっていた。



(宇摩志麻遅命、可美真手命)



続き

(前略)


一方、大和では、ニギハヤヒ亡きあと、ウマシマジがイスケヨリヒメの後見人として代行政治を行なっていた。


父の出身地である出雲が日向に武力で攻められ、占領されたことは知っていたが、ウマシマジは出雲とは直接関係がない。

コトシロヌシの相続人としての正統性の主張にも、問題があるとは思えない。

よって父が没した直後に日向軍が兵を挙げたときも、ウマシマジは静観する立場を取っていたのだ。


とはいえ、大和の勢力も父の時代とは違い、伸び悩んでいた。

このまま日向が勢力を増し続け、大和までやって来るときのことを考えると、他人ごとでは済まされなかった。


ウマシマジも、何かと憂慮する日々を送っていたのではないだろうか。


そんなある日、日向から一人の使者が大和を訪れた。

それが、オオクニヌシとタギリヒメ夫婦の長男であり、コトシロヌシの兄であるタカヒコネであった。


(後略)

中矢伸一『神々が明かす日本古代史の秘密―抹殺された国津神と封印された日本建国の謎を解く!』(1993年、日本文芸社)



彼はいわば、タカミムスビのパシリである。



タカヒコネ(タケツノミ)

(阿遅鉏高日子根神、賀茂建角身命、八咫烏)



彼は記紀神話においては「八咫烏ヤタガラス」という名で記録されている人物で、のちに賀茂かも氏の養子になって、祖神として祭り上げられた。


賀茂氏といえば、忌部いんべ氏と同じレビ族なので、共に裏天皇の中核となって、日本を影から支配した一族である。



タカミムスビにこき使われた人物ではあるが、八咫烏の称号は名誉のあるものなので、決してカモにされた訳ではない。



続き

(前略)


タカヒコネが持ち込んだ話というのは、日向と出雲の連合案であった。


出雲とは、残念なことに武力を行使することになったが、大和とはできれば争いたくない。

幸いなことに、大和の相続人は、イスケヨリヒメという女子、日向のほうの相続人は、イワレヒコという男子である。

もし、彼ら二人が結婚すれば、日本の国はなんの問題もなく一つにまとまるではないか。


こういう話を、タカヒコネはウマシマジに提示したのだ。

おそらくは、アマテラスの3人の息子を、南日向の豪族たちと政略結婚させた経験をもつタカミムスビの発案であろう。


たしかに、イスケヨリヒメは結婚すべき年齢がきても、なかなか話がまとまらず、婚期を逃しつつあった(おそらくこのとき25歳くらい)。


どうせこのままなら、地元の豪族を婿にもらわねばならない。

それならば、もともとスサノオの血を引く親族同士であり、また九州・出雲と広大な範囲にまで国を拡げつつあった日向の相続人が婿として来てもらえるなら、これは願ってもない話である。


ウマシマジは、この案にけっして悪い気はしなかったはずだ。


しかも、タカヒコネは大和に大きな貢物を持参していた。

スサノオがヤマタノオロチを切った布都御魂剣ふつのみたまのつるぎである。


この神剣は、スサノオから相続人のオオクニヌシに移譲され、そのまま日向に保管されていた。

だが、日向はもはや出雲から独立を果たした。

よって出雲族の神宝である布都御魂剣は、日向で預かっておく意味がなくなった。

だから正統な出雲の流れをくむ大和にお返ししたいと、タカヒコネはウマシマジに差し出したのである。

これも、おそらく〝知恵の神〟タカミムスビの考えたことであっただろう。


ウマシマジは、これで肩の荷がおりたような気がした。

反対する理由は何もなかった。


(後略)

中矢伸一『神々が明かす日本古代史の秘密―抹殺された国津神と封印された日本建国の謎を解く!』(1993年、日本文芸社)




230年頃

出雲・日向連合王朝の後見人・ウマシマジ、九州王朝のタカミムスビ案による第二次連合条約に同意。

全面戦争回避という両者の利害が一致。タカヒコネが使者となり、出雲の神宝・布都御魂剣ふつのみたまのつるぎが返還される。





神剣・布都御魂剣。



日向族のイワレヒコと出雲族のイスケヨリ姫が結婚し、さらなる出雲と日向の和合を実現するという名目の大連合案。


私はこれを「第二次連合条約」と呼ぶ。



すでに第一次連合でも出雲族と日向族の和合が果たされていたが、さらにそれを重ねるということなので、第二次連合である。


こうしてウマシマジは、条約に同意する意思をタカヒコネに伝え、情勢は新たな段階を具体化することに向け、一気に動き出した。




230年頃

イワレヒコ、タカミムスビの命令により、連合王朝の皇位継承者として擁立される。







一見、なにもかもが丸く収まるように見える。


しかし、忘れてはいけないのは、これもすべてタカミムスビの思惑通りということである。



更なる出雲と日向の和合であるのは確かだが、日向族のイワレヒコが天皇になる以上、これは日向による第一次連合の乗っ取りだ。


しかも、タカミムスビは自分の孫を擁立して、次期天皇にすることを第一次連合に約束させてしまったのである。



恐ろしいほどの外交手腕である。


だが、出雲の相続者(イスケヨリ姫)が、女子である以上、天皇になれないのは事実なので、これまた運命のいたずらともいうべきか。



ちなみに、イワレヒコの父親のクマノクスビに注目すれば面白いことがわかる。



クマノクスビ(ウガヤフキアエズ)

(熊野久須毘命、日子波限建鵜草葺不合命)



母はアマテラス、父はタカミムスビで、海軍を率いていた人物だったようだ。



「熊野」とは、出雲の熊野で死んだスサノオを意味する名であり、実際に「熊野大神」という諡号が与えられている。



だがしかし、なぜスサノオとは血縁関係のないクマノクスビに、スサノオを表す熊野の名前が与えられているのだろうか?


それは、クマノクスビはスサノオが死んだ後に生まれた人物であること、そして皇位継承者・イワレヒコの父であることがヒントになる。





おそらく、クマノクスビが生まれる前か後に、「この子はスサノオの生まれ変わりだ」という神託があったのだろう。


この時代に、生まれ変わりや転生という思想があったかは微妙だが、おそらく「分霊」という考え方ならあっただろう。



そして、この神託を下したのは、日向の祭祀を司っていたタカミムスビ、あるいはその実弟のフトダマだろう。


どんな神託を下すかは、彼らの思惑次第だ。



クマノクスビが、スサノオ、つまり真の皇祖の生まれ変わりだとすれば、自動的にその息子のイワレヒコの皇位継承は正当化される。


タカミムスビはこんなに前から、イワレヒコが天皇になるための布石を打っていたのである。







237年

イワレヒコ(21)、第二次連合実現のために九州を出発し、大和への東遷を開始[神武東征]。旧暦10月。





イワレヒコ東遷メンバー(五伴緒神)


付添:ヒコイツセ(イワレヒコの長兄)
司祭:フトダマ(タカミムスビの弟)
祭具:タマノオヤ(タカミムスビ?)
護衛:アメノオシヒ(大伴氏の祖)
護衛:アマツクメ(佐伯氏の祖)



原田常治氏いわく、上記のタマノオヤ(玉祖)という祭具担当の本名は「高御魂タカミタマ」らしいが、これは完全にタカミムスビのことである。


にわかには信じられないが、イワレヒコ東遷にタカミムスビも同行していたのだろうか。



いずれにせよ、東遷メンバーは上記以外には、荷物持ちや船頭、雑用係や案内人を含めても、せいぜい総勢20名というところだろうか。


そもそも、戦争をしにいくわけではないので、記紀神話にあるような大軍勢ではない。





もちろん、養子になりに行くのだから、神話でいわれるような「神武東征」ではなく、実際は「神武東遷」だったのである。


イワレヒコはついに九州の日向を発ち、親戚に挨拶を済ませてから、瀬戸内海から船に乗って大和へ向けての旅をはじめた。



順調な船旅を終え、河内かわち国(大阪府)に入り、白肩津しらかたのつという港からは、陸路で大和国を目指すことにした。


当時の大阪は、大部分が水域だったので、山のふもとまで船で近づくことができた。





だが突如、イワレヒコ一行を矢の雨が襲った。


崖の上にいた大軍勢が無数の矢を放ち、それがイワレヒコの兄であるヒコイツセに刺さる。



イワレヒコ一行を襲った軍勢の大将の正体は、ニギハヤヒの忠臣であり第一次連合の最古参、ナガスネヒコだった。






230年代後半

連合反対派の老将・ナガスネヒコ、河内国の白肩津でイワレヒコ一同を襲撃し、東遷を妨害。





ナガスネヒコは、第二次連合条約が日向による第一次連合の乗っ取り策であることを憂慮し、頑固に条約合意を反対していたのだ。


そんなナガスネヒコの意義を押し切り、条約は締結されたのであった。



イワレヒコ
何故だ!? なぎを成すためではないか!


ナガスネヒコ
和などたばかりぞ! 大神おおかみはお怒りになろう!


※大神=故・ニギハヤヒ



こんなやり取りがあったかどうかは不明だが、そのままイワレヒコ一行は南に退避する。





ここからは、この日本建国史の生みの親である原田常治はらだつねじ氏の著作から、イスケヨリ姫を主役に小説風で書かれたコラムを参照しよう。


(ヨリ姫=イスケヨリ姫)
(ウマシマチ=ウマシマジ)



行方不明事件



婿養子の話には、ヨリ姫は自分のほうが年上だし、はじめから何となしに気が重かった。

イワレヒコの一行が吉備の西大寺まで来たとか、播磨の飾磨しかまに着いたとか、とうとう河内に上陸したとかいう情報が次々に入っても、何か自分に関係ない他人の話のように聞いていた。


その時、いきなり大事件が起こった。


大和川を上ってきたイワレヒコの船を見つけたナガスネヒコが、「何だこの小僧、とうとう来たのか」と、いきなり矢を射かけて、追い返してしまった。


驚いた兄のウマシマチやタカヒコネは、すぐに使いを出してその行方を追った。


大和川を下って、右は枚岡から草香くさか、それからずっと北まで湖のようになっていたので、船着き場は到るところにあるが、イワレヒコの一行はそのどこにもいなかった。


陸の羽曳野はびきのあたりの山や野を捜しても、それらしい姿はなかった。

10日たっても、1月たっても、ようとしてその消息はつかめない。

ウマシマチや、タカヒコネは、だんだんとあせり出した。


毎日のようにそれを見ていたヨリ姫は、今まで他人事のように感じていたイワレヒコのことが、だんだん心配になってきた。


イワレヒコの一行の消息がわかったのは、50日もたってからであった。


よほどナガスネヒコが怖ろしかったとみえて、大和川を下った今の柏原市から北の、船着き場の多いほうへは行かずに、南の石川をどこまでも南へ溯って、今の富田林とんだばやし、河内長野市を通り越して、遠く和泉いずみの国の、当時山城水門やまきのみなとのあった、今の仏並ぶつなみ町まで逃げ、そこに隠れていた。





ここで、九州からいっしょにきた兄のイツセノミコト(五瀬尊)が、ナガスネヒコの矢に当たったあとの傷がなおらずに死んだ、ということだった。


ようよう連絡がとれてほっとしたウマシマチやタカヒコネは、さてどうしたものかと相談したが、また大和川を上ってきては、ナガスネヒコと出会うので、二の舞になる。

仕方がないから遠く海をまわって、伊勢から大和入りをするほか方法はないという結論に達した。


イワレヒコの一行も、仕方がないからそれに同意して、仏並から川を下った。

原田常治『上代日本正史―神武天皇から応神天皇まで』(1977年、婦人生活社)



ここからもう一人、重要人物が出てくる。



タカクラジ(アメノカグヤマ)

(高倉下尊、天香語山命)



ニギハヤヒの次男、つまりイスケヨリ姫の兄、ウマシマジの弟にある人物だ。


もし第二次連合条約がなければ、おそらく彼が天皇を継いでいたかも知れない。



続きを載せる。


(アメノカヤマ=タカクラジ)



熊野の出会い



その情報が入った時、大和ほうでは、誰か途中まで出迎えに出たほうがよい、という話になって、次男のアメノカヤマ(タカクラジ)がその迎えの役を買って出た。


多分熊野あたりで出会うだろう、ということで出発することになった。


その時、初対面でもすぐに通じるようにと、タカヒコネが九州から持ってきたフツノミタマの剣を、持参することになった。


この相談が決まった時、今までうつむいて黙って聞いていたヨリ姫が、いきなり顔を上げると「私もおともつかまつります」と、はっきりいった。


みんながはっと姫の顔を見た。

ふだん口数も少ないヨリ姫が何を考えているのか、周囲の人にはうかがい知れないことが多かった。

しばらく誰も言葉が出なかった。


アメノカヤマが静かに言った。


「姫、それは無理だ。あの熊野灘の荒波を伊勢から往復することは、男でもなかなか骨が折れる。特に今は秋だから、いつ大暴風雨があるかもしれない。やはり私が一人で行ったほうがいい。姫にはこの船旅は無理だから、待っていてくれ、無事案内して来るから」


姫はそれにうなずいただけで、何も言わずに、アメノカヤマが持って行くというスサノオの神剣を、じっとながめていた。


ところが、このアメノカヤマの船が熊野へ着いた時、そこで何を見たか。


熊野灘で台風に出会って、命からがら岸にはい上がったイワレヒコの一行が、まだ蒼い顔をして土民の小屋に倒れていた姿だった。





海には経験があるといっても、瀬戸内海の静かな海上を航海しただけで、外海の熊野灘で台風に出会っては、ひとたまりもなく参ってしまった。


その寝ている所へ思いもかけず、ヨリ姫の兄のアメノカヤマが、スサノオの神剣を持って訪ねてきた。

一行は、考えてもいなかっただけに、驚くと同時に急に元気が出た。

「さあ、この神剣を渡すから、大和の相続人として堂々と乗り込んできてくれ。これから私が船でいっしょに案内するから」

と、アメノカヤマが同道を促した。


しかし、イワレヒコは首を横に振って「どうしても、もう船はこりた。ここから山を越して大和へ行く」と言って、せっかく迎えに来てくれた義兄の船に乗ることを拒んだ。

よほど台風にこりたらしい。


とうとうあきらめて、アメノカヤマは一人で帰って行った。

原田常治『上代日本正史―神武天皇から応神天皇まで』(1977年、婦人生活社)




230年代後半

イワレヒコ、迂回ルートの熊野にて、ウマシマジの使者・タカクラジから布都御魂剣を受け取る。








八咫烏



ところが、アメノカヤマの留守中、大和ではまた別の大事件が起きていた。


ウマシマチが、ナガスネヒコの館を襲って、とうとう伯父を殺してしまった。

イワレヒコ一行を追い返したあと、二人の対立がいっそう激しくなった結果で、ウマシマチとしても、我慢に我慢した結果、涙をのんでの決行だった。


ナガスネヒコはもう90歳近い老年だったので、その頑固一徹はどう話し合っても通じなかったので致し方のない成り行きだった。


この事件は、ヨリ姫にとって、何ともいえない複雑なショックだった。


そこへ、アメノカヤマが一人で帰ってきた。

イワレヒコが、どうしても船で伊勢をまわるのはいやだというので、無理でも誰か迎えに行って、山を越して大和まで連れてくるほか仕方がない。

そこで、みんなが集まって相談したが、


「今度はおれが行くほかあるまい。道があってもなくても、何日かかっても仕方がない。オレが迎えに行って連れてくる」


と言い出したのは、イワレヒコの従兄のタカヒコネである。


そして、タカヒコネは山を越し、峠を越して、陸路を熊野まで辿り着いた。


イワレヒコは、この時、熊野川の中州にいた。

熊や、いろいろな野獣を避けるためであったろう。


この中州に、熊野大社があとで建てられた。





(中略)


この中州に、タカヒコネが辿りついた時、イワレヒコがどんなに喜んだか。

タカヒコネは、自分が大和から越えて来た道を、今度はイワレヒコを案内して、逆に大和まで戻ってきた。


(後略)

原田常治『上代日本正史―神武天皇から応神天皇まで』(1977年、婦人生活社)




230年代後半

ウマシマジ、ナガスネヒコを殺害(あるいは追放)

タカヒコネ、イワレヒコを出迎えて熊野から大和までの道案内をする[八咫烏伝説]





記紀神話においては、イワレヒコ軍はふたたびナガスネヒコ軍に戦いを挑んで勝利したとか、ずいぶんと勇ましく書かれている。


だが、実際のところは上記にある通りであり、イワレヒコ一行は熊野からは事なく大和入り、首都のある三輪山麓に向かった。






関西に入ってからの東遷ルート。




神武天皇と山の神



ヨリ姫は落ちつかない気持ちで、今日は父の墓参りをしようと御殿を出た。

後から侍女が6人従った。

表へ出たところで、父が「この山全部がオレの墓である」と言って死んだその三輪山を、思わず仰いだ。

原始林が繁りに繁って、頂上近くに朝日がさしていた。


ダラダラと下がって、狭井川の橋を渡ったところで、この山のの道を向こうから武装した一群がおりてきた。

その先頭に立ったのが、25、6歳の品のある髭の黒々とした若武者で、後ろの者は皆長いヤリを立てていた。





狭い道で、バッタリ向かい合って立ち止まった2人は、しばらく無言で見合っていた。

これが噂のイワレヒコだと、ヨリ姫は直感でわかった。

若武者は無言で少し道をよけて、ヨリ姫たちを通した。


この出会いは、いつまでも二人の記憶に残ったといい伝えられている。


それから40日たった旧暦の元旦(今の2月11日)の夜、かがり火を赤々と焚いて、2枚の鉄の盾を両方に立て、100名近い参列者の前で、おごそかにイワレヒコとイスケヨリ姫との結婚式が行われた。


兄のウマシマチから父が出雲の祖父スサノオから授かってきた十種とくさ神宝かんだからが、次々とイワレヒコに渡されて、式が終わった。


この大政略結婚で、大和へ落ちついたイワレヒコがオヤと思ったのは、ヨリ姫の態度だった。


ヨリ姫が、自分は大王の相続人であり、年上女房で、家つき女房であるということは、イワレヒコは承知してきたつもりだった。


ところが、はじめからこんなにも自分のくるのを待っていてくれたかと、不思議に思うほど最初から世話女房というか、全然自分を犠牲にして、イワレヒコに尽くした。


イワレヒコにとっては、非常に意外なことだった。

従って、2人の仲はむつまじく、時折山の辺の道を2人で歩いている姿は、里人の羨望の的だった。


この山の辺の道が、それから1700年間壊されずに、延々と現在も存在していることは、日本の奇跡である。


(後略)

原田常治『上代日本正史―神武天皇から応神天皇まで』(1977年、婦人生活社)








240年頃

イワレヒコ(24)、大和国に到着し、三輪山麓の西北に居を構える。


241年

イワレヒコ(25)、十種神宝とくさのかんだからを継承し、次代天皇スメラミコトとして即位。故・ニギハヤヒの婿養子に。旧暦1月1日。(第二次 出雲・日向連合王朝の成立)

ウマシマジ、祭主としてイワレヒコとイスケヨリ姫の婚儀、ニギハヤヒの鎮魂祭を執り行う。旧暦11月1日。

以後、天皇は日向族、皇后は出雲族から輩出するという盟約が、第10代・崇神すじん天皇以前まで遵守される。





第二次 出雲・日向連合王朝」の発足だ。



これこそが、一般的に知られている日本建国の真相であり、これまで述べて来たように、実は神武天皇は次代天皇だったのだ。


イワレヒコが神武天皇になったのは、ちょうどニギハヤヒが初代天皇になって日本を建国した181年から数えて60年後のことであった。





第一次連合は、天皇が出雲族、皇后が日向族、第二次連合は、天皇が日向族、皇后が出雲族、という違いがある。


男系継承という観点からすれば、イワレヒコが天皇に即位した時点で、出雲族(スサノオ)の男系の血筋は途絶えたのである。



しかし、皇后はしばらく出雲族から輩出されていたので、女系継承においては現在の天皇までスサノオの血は流れているということになる。


いずれにせよ、第二次連合が成立してからは、天皇は日向族に乗っ取られたということだ。



第二次連合の組織図。




次回、それぞれのその後を解説してゆきたい。



これまでの相関図と対照年表。





つづく。