【日本建国史の大真実】第4章 〜消された初代天皇・ニギハヤヒの日本建国〜
目次
【日本建国史の大真実】第1章 〜アマ族の渡来とスサノオのオロチ退治〜
【日本建国史の大真実】第2章 〜スサノオの九州進攻とアマテラスとの和合〜
【日本建国史の大真実】第3章 〜裏天皇・タカミムスビの正体と忌部氏の呪い〜
前回までのおさらい。
177年頃
スサノオ(55)、
アマテラス(24)とスサノオの婚姻によって、日向王朝と
・日向の実権者であるタカミムスビは、権力の保持のために、自身の妻でもあるアマテラスとスサノオの結婚に大反対していた。
・結婚が断行されたので、タカミムスビとその弟のフトダマが呪詛をした結果、アマテラスとスサノオの間には男児(後継者)は生まれず。
ここからが今回の日本建国史だ。
180年頃
ニギハヤヒ(29)、スサノオから
ニギハヤヒ(肖像は壮年期)
(天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊、邇藝速日命、布留御魂、大歳尊、大物主)
以前に描いた肖像。
唐松神社像のニギハヤヒの肖像。
彼こそ日本の建国者であり、今回の主役だ。
ニギハヤヒはスサノオの第五子で、本名はトシ(蒙古名はフル)といい、成人後はオオトシと名乗った。
実は彼は20代の頃、父・スサノオの九州侵攻に従軍し、無敵の騎馬隊を率いてた。
ニギハヤヒ騎馬隊は九州でその武勇を轟かせ、侵略者ではなく英雄として迎えられたとか。
その続きは、
◉オオトシをニギハヤヒと改名させ、〝美しの国〟大和へ……
スサノオは、日向を抑えると、出雲は長男の八島野尊にまかせ、自分は日向に留まって統治体制の基礎づくりに励んでいる。
そのため最初の4、5年は出雲に帰らなかった。
九州の国造りには、相当力を入れたようだ。
だが、スサノオの頭のなかには、既に次の構想があった。
それは、日本一の盆地であり、日本一の米の産地である大和を勢力下におさめることである。
当時、大和は富める国という意味から登弥 の国とも呼ばれていた。
それは出雲族にとっても日向族にとっても、まさに〝美しの国〟であった。
九州の平定がほぼ終わり、統治体制が固まると、スサノオは、九州制覇に父親にひけを取らない勇猛な働きをみせ、その名を轟かせていたオオトシを、自分の代わりに大和に送り込んでいる。
西暦180年頃であったと推定される。
オオトシは30歳前後になっていた。
スサノオは、オオトシに自分の名代として全権を委任した。
その証として、「十種の神宝」を授け、このときをもってオオトシをニギハヤヒノミコトと改名させたのである。
この「十種の神宝」が、天璽の瑞宝の十種と呼ばれるもので、この神宝の授与は、皇位の継承を意味した(むろんこの頃は「三種の神器」ではなかった)。
(中略)
十種の神宝は皇位継承の証として第10代・崇神 天皇まで続けられたという。
現在でも、これらすべての神宝は奈良県天理市の石上 神宮の神庫に保管されていると伝えられる。
しかし、三種の神器とは違い、その実物はもちろんのこと、容れ物さえ見た人はいない。
スサノオは、大和の統治については、自分の器量をすべて受け継いだニギハヤヒにまかせ、自分のほうは大陸進出に思いを馳せていた。
スサノオは、日向を抑えると、出雲は長男の八島野尊にまかせ、自分は日向に留まって統治体制の基礎づくりに励んでいる。
そのため最初の4、5年は出雲に帰らなかった。
九州の国造りには、相当力を入れたようだ。
だが、スサノオの頭のなかには、既に次の構想があった。
それは、日本一の盆地であり、日本一の米の産地である大和を勢力下におさめることである。
当時、大和は富める国という意味から
それは出雲族にとっても日向族にとっても、まさに〝美しの国〟であった。
九州の平定がほぼ終わり、統治体制が固まると、スサノオは、九州制覇に父親にひけを取らない勇猛な働きをみせ、その名を轟かせていたオオトシを、自分の代わりに大和に送り込んでいる。
西暦180年頃であったと推定される。
オオトシは30歳前後になっていた。
スサノオは、オオトシに自分の名代として全権を委任した。
その証として、「十種の神宝」を授け、このときをもってオオトシをニギハヤヒノミコトと改名させたのである。
この「十種の神宝」が、天璽の瑞宝の十種と呼ばれるもので、この神宝の授与は、皇位の継承を意味した(むろんこの頃は「三種の神器」ではなかった)。
(中略)
十種の神宝は皇位継承の証として第10代・
現在でも、これらすべての神宝は奈良県天理市の
しかし、三種の神器とは違い、その実物はもちろんのこと、容れ物さえ見た人はいない。
スサノオは、大和の統治については、自分の器量をすべて受け継いだニギハヤヒにまかせ、自分のほうは大陸進出に思いを馳せていた。
中矢伸一『神々が明かす日本古代史の秘密―抹殺された国津神と封印された日本建国の謎を解く!』(1993年、日本文芸社)
ニギハヤヒは末子ではなかったが(この時代は末子相続)、まさしくスサノオの継承者としてふさわしい器量をもった人物だったようだ。
そうして「十種神宝」(とくさのかんだから)という皇位継承アイテムをスサノオか授かり、彼は大和国(奈良県)へと向かった。
181年頃
ニギハヤヒ(30)、河内国(大阪府)の
大和国に入り、現地の豪族であり日向族系のナガスネヒコを臣下とし、彼の妹であるミカシキヤ姫と結婚。
ナガスネヒコ(肖像は老年期)
(長髄彦、登美能那賀須泥毘古)
ミカシキヤ姫
(三炊屋媛、鳥見屋媛、長髄媛)
大和に着いたニギハヤヒは、すでに現地を統治していたナガスネヒコと話し合い、十種神宝を見せて同族であることを証明した。
同族というのは、同じアマ族という意味だ。
というのも、おそらくナガスネヒコとその妹のミカシキヤ姫は日向族系である。
なぜならば、ミカシキヤ姫=「三炊屋姫」で、名前に三が入っているのは、三を象徴数とする日向族である証拠だからだ。
出雲族のニギハヤヒ、日向族のミカシキヤ姫が結婚することによって、大和においても出雲と日向の和合が成し遂げられたのだ。
そして…
181年頃
ニギハヤヒ(30)、大和国で初代天皇として即位し、
こうして、日本国が誕生したのである。
ニギハヤヒこそが初代天皇だったのだ。
十種神宝を継承する者が日本でスメラ(天皇)となり、出雲族と日向族とが和合する、というアマ族の使命が達成された。
この時の王朝を私は「出雲・日向連合王朝」と命名したが、もちろん国家としては今の日本と連続性のある同一の国である。
普通に大和王朝と呼ぶこともできるが、やはりこの当時は、出雲と日向の連合が守られていたという意味で、連合王朝としている。
「〝第一次〟出雲・日向連合王朝」とあるが、当然、第二次の前段階という意味である。
ではなぜ、ニギハヤヒ王朝である第一次連合が終わって、第二次連合になってしまったのか?それは今後の記事でわかると思う。
ニギハヤヒがどれだけ偉大な王であったかは、以下の由緒ある有名神社と、実質的な主祭神を見ればわかる。
実はこれらの神は、すべてニギハヤヒの別名なのである。
とくに、日本最古にして日本最大の神社である
当時は、「神」といえばスサノオ、「大神」といえばニギハヤヒを指したらしい。
ニギハヤヒの
「
実は、ヒミコにアマテラスという名が贈られたのは奈良時代になってからで、太陽神を冠した「天照」という名は、ニギハヤヒが先なのだ。
天皇の位のことを
具体的にいえば、通史で初代天皇とされている神武天皇(イワレヒコ)は、実際にヒミコの孫である。
だが、ヒミコよりもずっと先に、ニギハヤヒが「天照」の名を冠していた以上、彼こそが真の太陽神=皇祖だったことの証なのだ。
しかも、ニギハヤヒは皇祖どころか、初代天皇であり、その位が後にイワレヒコに譲られた。
ニギハヤヒの存在は、記紀神話にもさりげなく登場するという程度で、もはや歴史から消されていると言ってもよい。
では、ニギハヤヒの存在を消したのは誰か?
まず初めの犯人は、アマテラスの先夫であり、イワレヒコ(神武天皇)の祖父でもある、あのタカミムスビである。
言うまでもなく、彼は日向の黒幕であり、その後継者(
タカミムスビは、レビ族という呪術特権階級の出自であり、日向の王でさえ逆らえないほどの権力者だった、ということは前回述べた。
そして、権力を保持するためには、日向族から天皇を輩出するのが最善の策であり、そのため邪魔になる出雲族を排斥することを企んだ。
ほどなくタカミムスビは、ニギハヤヒの死後、自らの孫であるイワレヒコを擁立して、天皇の位に押し上げた。
イワレヒコ(この時代はまだ生まれていない)
イワレヒコは、ニギハヤヒの養子となってその皇位を継承した、というのが形式上の話だが、実質的には日向による皇位簒奪である。
その辺の詳しい事情はこれから述べるとして、日向族が出雲族から天皇の座を奪ったのは事実だが、それもタカミムスビの陰謀なのだ。
ニギハヤヒは初代天皇ではあるが、現在に至るまで男系継承においては、誰ひとり彼の子孫が天皇になっていないので、皇祖とは呼べない。
出雲側の真の皇祖と呼べるのは、ニギハヤヒの父親であるスサノオだが、彼は記紀神話が創作されるにあたって不良神にされてしまった。
男系継承ではタカミムスビこそが皇祖神だが、影にいてこそ黒幕なので、彼は自らの後継者に「歴史上から私の存在を隠せ」と指示した。
そして奈良時代になり、皇祖神はタカミムスビからアマテラスにすり替えられ、歴史書である記紀神話にもアマテラスが皇祖だと記された。
ちなみにタカミムスビは、記紀神話においては
つまり、彼を至高の神にすることで格を上げ、うまく皇祖であることを隠したのだ。
アマテラス(ヒミコ)に、「天照大神」という大層な神号が贈られたのもこの時代である。
古来から男=陽、女=陰とされており、太陽神になれるのは男性だけであり、女性が太陽神になるのは男女逆転はなはだしい。
アマテラスが皇祖神として祭り上げられたのはタカミムスビを格上げにする、という理由だけではないのだ。
それは他でもなく、先に「天照」の名を冠したニギハヤヒの存在を消すためである。
ニギハヤヒの子孫の女子が、崇神天皇時代まで皇后となっていたので、女系継承においては、ニギハヤヒも間違いなく皇祖である。
にも関わらず、その存在が消されているのは、忌部氏(裏天皇)による日向先制と出雲排斥の陰謀の一環だからである。
日本建国から約500年後の奈良時代。
アマテラスを皇祖神として祭り上げ、記紀神話によって歴史を改竄し、出雲族やニギハヤヒの存在を抹消――。
こんな離れ業ができるのは、日本でたった一人しかない。
そう、あの
彼がニギハヤヒを消したもうひとりの犯人だ。
彼はおそらく、裏天皇、つまりタカミムスビの後継者の指示によって祭祀と歴史を捏造して、日向先制と出雲排斥を完成させたのだ。
というか私は、もしかしたら不比等は忌部氏の血筋ではないかとも憶測することがある。
それから、タカミムスビが日向を牛耳れた理由として、彼は日向族の王・イザナギの婿養子となったからではないかとも私は睨んでいる。
よくよく考えれば、日向の相続者が女子であるアマテラスしかいなかった時点で、もう日向の男系継承はすでに途絶えていたのだ。
王族において男系継承の断絶は、正当後継者の不在を意味するが、この点に気づいた古代史の研究家は私の知る限りはいない。
そして、タカミムスビがアマテラスの夫となり〝婿入りすることで日向族を継承してやった〟見返りとして、最高権力者となったのだ。
普通、婿なら立場が低いが、そこは特権階級・レビ族出身のタカミムスビ、その立場を惜しみなく利用したのである。
すなわち、タカミムスビの孫であるイワレヒコ(神武天皇)は、日向の男系継承者ではなく、レビ族の男系継承者だったのである。
イワレヒコが次代天皇に即位したのは、すでに先代天皇であり養父のニギハヤヒが他界した後であり、両者は会ったこともないだろう。
結果的に、日向による出雲の皇位簒奪の象徴になってしまったイワレヒコであるが、実は彼はとてもニギハヤヒを尊敬していたという。
その人徳と影響力ゆえに、タカミムスビからは目の上のたんこぶ扱いされたニギハヤヒだが、彼は紛うことなき名君であり英雄である。
建国記念日(イワレヒコの即位日)を記念して始まった当シリーズだが、日の丸を見るたびに日本建国の父・ニギハヤヒを偲んでほしい。
ちなみに、ニギハヤヒの新肖像画には、あえてアマテラスの肖像画でたびたび見られる日輪の金冠をつけた。
これはもちろん、彼が真の太陽神であることを示すためである。
本日の内容のまとめ。
本日までの系図。
つづく。