【日本建国史の大真実】第2章 〜スサノオの九州進攻とアマテラスとの和合〜
目次
【日本建国史の大真実】第1章 〜アマ族の渡来とスサノオのオロチ退治〜
古代史研究に没頭してすっかり忘れていたが、2月16日は旧正月だったようだ。
無論、私にとっての本当の正月はこれなので、新年、誠にお慶び申し上げる。
去年の抱負は「人間失格」だったが、まさしくこれに相応しい一年だったかもしれない(笑)
そして、今年の抱負は・・・
『
である。
これは日本神話において、この世が初めて誕生したときのことを示す言葉だ。
願わくは、本当の日本建国史を究明することによって、真の日本が復活することを。
そのためには、日本建国の契機となった大英雄であり、日本建国者の父親でもあるスサノオを再び、神として高く祀る必要がある。
前回のおさらい。
157年頃
スサノオ(35)、須佐を拠点に出雲を統治。
山陰地方一帯で名君と仰がれ「
スサノオは、出雲国(島根県)だけではなく、山陰や北陸も統治したらしいので、出雲王朝の領域はかなり広かったことがわかる。
そして、ここからが今日の日本建国史。
173年頃
スサノオ(51)、騎馬隊を率いて九州進攻を開始[倭国大乱]
まずは九州北西部を統治し、善政を敷く。
そして、スサノオの率いる出雲王朝は、当時は「西洲」と呼ばれていた九州も併合するため、無敵の騎馬隊を進撃させた。
157年頃〜177年頃の勢力図。
なぜなら、九州で最も権勢を誇っていたのが、出雲族と同じ「アマ族」の同胞である、
本来、出雲族と日向族は日本で合流して、共に国をつくる約束だったのに、なぜか日向は拒否したため、出雲は実力行使に踏み切ったのだ。
スサノオはこう思ったはずだ。
「日向の
◉「倭国の大乱」はスサノオの九州進攻を意味する
アーリオーンによれば、スサノオが出雲を制覇した頃、父親のフツはまだ生きていたようだ。
そしてフツは、諸国平定の雄として、スサノオを九州の地に送り出すことにしたという。
九州は、イザナギ・イザナミの国があり、2人の間にはアマテラスという、たいへんに賢く強い娘がいた。
フツの死後、スサノオは第5子のトシを伴って、九州制覇に乗りだしたという。
こうした話も、おおよそのところ裏づけが既に取られている。
スサノオが、実際に九州へ向けて動きだしたのは、西暦170年の後半と推定される。
(中略)
なぜ九州に進攻する必要があったのか。
これにはさまざまな理由が考えられる。
(中略)
また、当時は稲作文化である。
食糧となる米がよく取れる地帯を確保することは、むしろ死活問題であった。
この点、寒冷地にあり、食糧不足に悩まされることもあった出雲より、温暖で、豊かな穀倉地帯であった日向を掌握できれば、何も問題はなかった。
勇猛果敢なスサノオとしては、出雲を平定したうえは、是非とも九州をも制覇したい思いにかられたことだろう。
アーリオーンによれば、海路で日本に入ったグループ(出雲)と、陸路で入ったグループ(日向)は、当初力を合わせて日本という国を制定し、文化の発展と人類進化のために邁進するはずだったが、陸路のグループは自分たちの権利を優先したいがために、協力を断る者も出始め、これがスサノオの九州進攻を誘発したとしている。
アーリオーンによれば、スサノオが出雲を制覇した頃、父親のフツはまだ生きていたようだ。
そしてフツは、諸国平定の雄として、スサノオを九州の地に送り出すことにしたという。
九州は、イザナギ・イザナミの国があり、2人の間にはアマテラスという、たいへんに賢く強い娘がいた。
フツの死後、スサノオは第5子のトシを伴って、九州制覇に乗りだしたという。
こうした話も、おおよそのところ裏づけが既に取られている。
スサノオが、実際に九州へ向けて動きだしたのは、西暦170年の後半と推定される。
(中略)
なぜ九州に進攻する必要があったのか。
これにはさまざまな理由が考えられる。
(中略)
また、当時は稲作文化である。
食糧となる米がよく取れる地帯を確保することは、むしろ死活問題であった。
この点、寒冷地にあり、食糧不足に悩まされることもあった出雲より、温暖で、豊かな穀倉地帯であった日向を掌握できれば、何も問題はなかった。
勇猛果敢なスサノオとしては、出雲を平定したうえは、是非とも九州をも制覇したい思いにかられたことだろう。
アーリオーンによれば、海路で日本に入ったグループ(出雲)と、陸路で入ったグループ(日向)は、当初力を合わせて日本という国を制定し、文化の発展と人類進化のために邁進するはずだったが、陸路のグループは自分たちの権利を優先したいがために、協力を断る者も出始め、これがスサノオの九州進攻を誘発したとしている。
中矢伸一『神々が明かす日本古代史の秘密―抹殺された国津神と封印された日本建国の謎を解く!」(1993年、日本文芸社)
もちろん、スサノオの出雲進攻には、経済的な動機もあったのかもしれないが、一番の動機は〝出雲と日向の和合〟という信仰上の使命だ。
なぜなら、そもそもアマ族とは、人類の進化と真の繁栄を促すために、パミールから高原から日本に旅立った部族だからだ。
先述の通り、既に九州の日向(宮崎県)には、日向族による王国、日向王朝が成立していた。
日向族のシンボル、日向王朝の国旗。
王のイザナギ。
(伊弉諾尊、伊耶那岐命)
イザナギの妃のイザナミ。
(伊弉冉尊、伊耶那美命)
この二人の娘が、アマテラス。
(天照大神、大日霊女貴尊)
彼女こそが、あの有名な
そして、今日の主役でもある。
アマテラスといえば、
本当の最高神はスサノオであるべきだが、まぁ彼女の孫であるイワレヒコが神武天皇になり、今の皇室に繋がっているので無理もない。
引き続き、中矢氏の本から。
◉イザナギ・イザナミの国、日向へ入る出雲族騎馬隊
陸路を渡って来たかどうかは不明だが、アーリオーンのいうとおり、日向の国はイザナギ・イザナミによって治められていた。
二人の間には娘がいた。
アーリオーンは長女といったが、下に弟がいたともいわれ、一人娘だったという説もある。
彼女の正式名は、「大日霊女貴尊 」。
アマテラスというのは、のちに呼ばれた名前である。
西暦153、4年頃、宮崎市の東端に位置する阿波岐原 町のあたりで生まれた。
(中略)
『魏志倭人伝』によれば、「倭人は帯方(朝鮮)の東南大海に在り、山島に依りて国邑を為す。旧百余国」とあり、当時の倭国(九州地方)は、百ヶ国以上に分かれていたらしいことが記されている。
イザナギは、そのなかでも日向の国(宮崎、鹿児島のあたり)を支配する、かなり力の強い豪族だったらしい。
スサノオ、オオトシの騎馬軍団が攻め寄せて来たのは、西暦170年の後半であった。
この当時、アマテラスは20代半ばに達していた。
スサノオと出会う前に彼女は結婚しており、既に2人の男子をもうけていたようである。
出雲族の大軍の勢いは、もう日向にも伝わっていたようだ。
スサノオの騎馬隊はモンゴル系の流れをくんでおり豪勇無双、しかも当時はまだ珍しい、最先端の鉄製武器を大量に所持していた。
これは出雲の古墳から出土する鉄製の刀、鎧、馬具などからも証明される。
だから圧倒的な強さであり、大半が無血占領で日向に到達している。
(後略)
陸路を渡って来たかどうかは不明だが、アーリオーンのいうとおり、日向の国はイザナギ・イザナミによって治められていた。
二人の間には娘がいた。
アーリオーンは長女といったが、下に弟がいたともいわれ、一人娘だったという説もある。
彼女の正式名は、「
アマテラスというのは、のちに呼ばれた名前である。
西暦153、4年頃、宮崎市の東端に位置する
(中略)
『魏志倭人伝』によれば、「倭人は帯方(朝鮮)の東南大海に在り、山島に依りて国邑を為す。旧百余国」とあり、当時の倭国(九州地方)は、百ヶ国以上に分かれていたらしいことが記されている。
イザナギは、そのなかでも日向の国(宮崎、鹿児島のあたり)を支配する、かなり力の強い豪族だったらしい。
スサノオ、オオトシの騎馬軍団が攻め寄せて来たのは、西暦170年の後半であった。
この当時、アマテラスは20代半ばに達していた。
スサノオと出会う前に彼女は結婚しており、既に2人の男子をもうけていたようである。
出雲族の大軍の勢いは、もう日向にも伝わっていたようだ。
スサノオの騎馬隊はモンゴル系の流れをくんでおり豪勇無双、しかも当時はまだ珍しい、最先端の鉄製武器を大量に所持していた。
これは出雲の古墳から出土する鉄製の刀、鎧、馬具などからも証明される。
だから圧倒的な強さであり、大半が無血占領で日向に到達している。
(後略)
中矢伸一『神々が明かす日本古代史の秘密―抹殺された国津神と封印された日本建国の謎を解く!(1993年、日本文芸社)
近代以前、陸でもっとも強かった軍隊の編成が騎兵(騎馬軍団)であり、スサノオの騎馬隊は世界的にもかなり強かったのだと思う。
しかも、モンゴル仕込みなので、めちゃめちゃ強かったことだろう。
「騎馬民族征服王朝説」という学説があるが、これは半分間違いで、半分合っていたのだ。
続き。
◉スサノオの〝日向の妻〟として政略結婚させられたアマテラス
日向も当初は交戦の構えでいたようだが、この凄まじい勢力を誇るスサノオ・オオトシ父子と闘って敗戦するよりはと、和睦して出雲の傘下に入る道を選んだ。
そして、一人娘であるアマテラスを、スサノオの日向における妻として差し出したのである。
このあたりのなりゆきも、アーリオーンのいうとおりだ。
そしてスサノオとアマテラスの間には、三人の女子が生まれている。
(中略)
アマテラスは、いわば政略結婚の道具とされたようだが、スサノオとの結婚は、本人の意志もあったと思われる。
少なくとも、アマテラスは非常にスサノオを敬愛し、慕っていた。
(後略)
日向も当初は交戦の構えでいたようだが、この凄まじい勢力を誇るスサノオ・オオトシ父子と闘って敗戦するよりはと、和睦して出雲の傘下に入る道を選んだ。
そして、一人娘であるアマテラスを、スサノオの日向における妻として差し出したのである。
このあたりのなりゆきも、アーリオーンのいうとおりだ。
そしてスサノオとアマテラスの間には、三人の女子が生まれている。
(中略)
アマテラスは、いわば政略結婚の道具とされたようだが、スサノオとの結婚は、本人の意志もあったと思われる。
少なくとも、アマテラスは非常にスサノオを敬愛し、慕っていた。
(後略)
中矢伸一『神々が明かす日本古代史の秘密―抹殺された国津神と封印された日本建国の謎を解く!(1993年、日本文芸社)
177年頃
スサノオ(55)、日向国に入り九州を統一。
アマテラス(24)とスサノオの婚姻によって、日向王朝と出雲王朝が和睦(出雲・日向連盟の成立)
出雲・日向連盟の国旗。
多少強引ではあるが、これによって、出雲族と日向族の和合が成就したのである。
スサノオの強大な軍事力をもって、日向に対し揺さぶりをかけなければ、永久に両族の同盟が実ることはなかっただろう。
勢力図はこのように。
スサノオとアマテラスは夫婦だったのだ。
記紀神話では、姉のアマテラスが、ヤンチャな弟のスサノオに困り果て、引きこもりになったというヘンテコな設定がなされている。
だが実際は、政略結婚にも関わらず、ふたりはかなり仲の良い夫婦であり、まさしく和を体現したような関係であったらしい。
ちなみに、イザナミは和睦の証として、出雲で預かられることになったが、これが古事記では「イザナミの
これを歴史用語でいえば「人質」だが、日向が出雲を裏切ればイザナミは殺され、そうでない限りは、とても大切に扱われることだろう。
しかし、そもそもなぜ日向は、出雲との和合を拒んでいたのか?
これは、イザナギとイナザミの思惑でもなく、またアマテラスの思惑でもない。
続きは次回へ。