【日本建国史の大真実】第1章 〜アマ族の渡来とスサノオのオロチ退治〜
今日、2月11日は建国記念日である。
本当の日本建国史を語りたいと思う。
日本最古の〝正史〟とされている『日本書紀』(奈良時代に完成)には、紀元前660年の旧暦1月1日に、
これを西暦にすれば2月11日になり、この日を日本国の建国記念日にすることが、明治時代に国定されて今に至るわけである。
しかし、神武天皇が即位したのが紀元前660年というのは、どう考えても昔すぎる。
このことから、戦後の考古学や歴史学者たちは神武天皇はいなかったんだ!と主張するようになったが、これはこれで極端すぎる。
非現実的な伝承があるだけで、その人物が存在しなかったことになるなら、ブッダやイエスも存在しなかったことになる。
もし、そんな主張を歴史学者がしたとすれば、世界中の仏教徒やキリスト教徒からフルボッコされるだろう。
こう考えればいいだろう。
神武天皇が即位した、つまり日本が建国された時期はもう少し最近のことで、神武天皇も実在したことは間違いない、と。
紀元前660年というのは、日本の歴史をやたら長く見せて、中国に見栄をはるために、当時の日本政府(朝廷)が改ざんした年代である。
つまり、一般的に知られている日本の建国史はまったくの嘘っぱちだったのだ。
だが、国史と神話が書かれている『古事記』と『日本書紀』を偽書と断ずるより、史実を基にしたファンタジー小説として読めば面白い。
私もファンである。
まぁ、いろんな登場人物(神)がコケにされているので、現在だったら名誉毀損で訴えられるレベルだが・・・。
さすがは天才編集長・
正史とされる日本書記も、それの内容を信じる日本政府の見解も、戦後の考古学・歴史学会もまったくアテにならないことがわかった。
では今回、私は何をアテにしたのかといえば、それは以下の本である。
これらの本を読んで分かったことは、神話上の神々は古代に実在した人物、主に王族であり、西暦何年頃と、年代まで判明していることだ。
そして、「アーリオーン」という宇宙神霊と、在野の古代史研究家の故・
オカルトに足を突っ込んだ話ではあるが、今の腐った歴史学界・考古学界の魑魅魍魎っぷりに比べれば、はるかにクリーンな世界だ。
現状の歴史学では、〝欠史八代〟という空論が用いられ「10代以前の天皇は実在しなかった」というゴミのような史観がうそぶかれている。
だが、原田氏は、初代天皇である神武天皇だけではなく、それ以降の天皇もすべて実在した、ということを現地調査によって証明した。
原田氏は、全国各地の神社に足を運び、そこの伝承を紐解くことで、この史観にたどり着いたらしいが、この実証主義こそまさに歴史学だ。
神社伝承や一次史料以外の文献を完全無視する歴史学者、畑違いの分野である歴史に口を出す考古学者には、是非とも見習ってほしい。
そこで、私は間違った歴史を粉砕して、正しい日本建国史を世に広める足かがりとして、このブログでそれを公表するに至ったのだ。
著書を引用しつつ、私の見解と王朝名の命名を織り交ぜて、編年体によって真の日本建国史を暴露してゆきたい。
なお、登場人物の肖像は私によるものだ。
年表にするとしたら、まずこのようになる。
前3~2世紀
アマ族、二つのグループ(海路の
人類の進化と繁栄のため、両グループが協力して日本を統治する予定だったが、後に日向側は協力を拒否。
ではまず、アーリオーンの本から引用しよう。
古代日本を訪れた部族――アマ族の謎
(前略)
アリオンによれば、アマ族とは『人類の進化を促し、真の繁栄に導くことを目的として、紀元前3〜2世紀にパミール高原を旅立った部族』であるという。
パミール高原とは、中央アジア南東部に位置し、海抜7千メートル級の高峰を含む一大高原地帯である。
彼らアマ族は、優れた智恵と精神性に加え、霊能力・超能力とも言うべきものを生まれつき身につけている部族であったといわれる。
アマ族の多くは、モンゴル系の人種として知られるが、その一部はオリエント系の人種として現存する。
現在の日本にもその子孫は多く残っているが、その能力は時代を下るにつれて次第に磨耗してきている。
かつて日本は「言挙げせぬ国」と言われ、日本人は「以心伝心」というある種のテレパシックなコミュニケーションを得意とする民族だった。
しかし、現代の日本人の中にはその能力の〝痕跡〟が残っている、という程度に過ぎない。
紀元前3〜2世紀にパミール高原を旅立ったいくつかのアマ族のグループのうち、2グループは、最終目的地をユーラシア大陸の東の果てに位置する日本列島に据えていた。
「活火山の多い日本列島こそ、人類の進化と活性化に適した特殊な磁場を持つ地域である」という観測が、当時のアマ族によってなされていたらしい。
(後略)
(前略)
アリオンによれば、アマ族とは『人類の進化を促し、真の繁栄に導くことを目的として、紀元前3〜2世紀にパミール高原を旅立った部族』であるという。
パミール高原とは、中央アジア南東部に位置し、海抜7千メートル級の高峰を含む一大高原地帯である。
彼らアマ族は、優れた智恵と精神性に加え、霊能力・超能力とも言うべきものを生まれつき身につけている部族であったといわれる。
アマ族の多くは、モンゴル系の人種として知られるが、その一部はオリエント系の人種として現存する。
現在の日本にもその子孫は多く残っているが、その能力は時代を下るにつれて次第に磨耗してきている。
かつて日本は「言挙げせぬ国」と言われ、日本人は「以心伝心」というある種のテレパシックなコミュニケーションを得意とする民族だった。
しかし、現代の日本人の中にはその能力の〝痕跡〟が残っている、という程度に過ぎない。
紀元前3〜2世紀にパミール高原を旅立ったいくつかのアマ族のグループのうち、2グループは、最終目的地をユーラシア大陸の東の果てに位置する日本列島に据えていた。
「活火山の多い日本列島こそ、人類の進化と活性化に適した特殊な磁場を持つ地域である」という観測が、当時のアマ族によってなされていたらしい。
(後略)
アートラインプロジェクト 『アーリオーン・メッセージ―来たるべき地球大変動の真相』(1996年、徳間書店)
ちなみに、アマ族と「イスラエル12支族」とは同部族であり、そのうちの10支族が出雲族で、2支族が日向族となって、日本に渡来した。
続いて、
◉アーリオーンが明かす日本神話の秘密
アーリオーンによれば、『古事記』と『日本書紀』は、のちの世のために編纂されたもので、正しい歴史書とはいえないという。
では実際は、どのような経緯で日本という国が築かれたというのか、おおまかにたどってみることにしよう。
まず我々の先祖にあたる原初人類は、いまでいうアジア中央高原に降り立っている。
そしてそこから、多くの地域に向けて散って行った。
彼らは日本に向けても、陸路と海路で渡って行った(註・これは紀元前の話である)。
スサノオの父・フツと、曽祖父にあたる男は海路で行くグループの首領であった。
陸路で渡った仲間は先に日本に到着した。
海路で渡った仲間は東南アジアの島々で数々の仕事をこなしてから朝鮮に渡り、日本の壱岐に渡って、その後出雲に住んだ。
スサノオの父・フツは出雲でスサノオを生む。
陸路で先に入っていた仲間がイザナギ・イザナミであった。
彼らは九州に強大な国を築き始めていた。
そして海路のグループが携えてきた、いわゆる「十種の神宝」を要求していた。
なぜなら、この神宝を持つ者が日本のスメラ(天皇)となることが決まっていたからである。
当初の予定では、陸路と海路との両方のグループが協力して、日本を制定し、文化と人類進化のために邁進するはずだったが、陸路の仲間は自分たちの権利を優先したいために、協力を断る者も出てきた。
そこで首領の血を引くフツは、スサノオと彼の器量をすべて受け継いで生まれた第5子のトシを伴い、九州制覇に乗り出した。
イザナギ・イザナミは、スサノオの強大な力と知恵に恐れをなして、娘であるアマテラスをスサノオに差し出すことによって同盟を申し出てきた。
アマテラスは既に結婚してはいたが、当時には一夫一婦制の掟はなかったので、スサノオとの婚儀に問題はなかったのだという。
スサノオ、トシの親子は、その後九州を制覇し、瀬戸内海沿岸を制覇した。
アーリオーンによれば、『古事記』と『日本書紀』は、のちの世のために編纂されたもので、正しい歴史書とはいえないという。
では実際は、どのような経緯で日本という国が築かれたというのか、おおまかにたどってみることにしよう。
まず我々の先祖にあたる原初人類は、いまでいうアジア中央高原に降り立っている。
そしてそこから、多くの地域に向けて散って行った。
彼らは日本に向けても、陸路と海路で渡って行った(註・これは紀元前の話である)。
スサノオの父・フツと、曽祖父にあたる男は海路で行くグループの首領であった。
陸路で渡った仲間は先に日本に到着した。
海路で渡った仲間は東南アジアの島々で数々の仕事をこなしてから朝鮮に渡り、日本の壱岐に渡って、その後出雲に住んだ。
スサノオの父・フツは出雲でスサノオを生む。
陸路で先に入っていた仲間がイザナギ・イザナミであった。
彼らは九州に強大な国を築き始めていた。
そして海路のグループが携えてきた、いわゆる「十種の神宝」を要求していた。
なぜなら、この神宝を持つ者が日本のスメラ(天皇)となることが決まっていたからである。
当初の予定では、陸路と海路との両方のグループが協力して、日本を制定し、文化と人類進化のために邁進するはずだったが、陸路の仲間は自分たちの権利を優先したいために、協力を断る者も出てきた。
そこで首領の血を引くフツは、スサノオと彼の器量をすべて受け継いで生まれた第5子のトシを伴い、九州制覇に乗り出した。
イザナギ・イザナミは、スサノオの強大な力と知恵に恐れをなして、娘であるアマテラスをスサノオに差し出すことによって同盟を申し出てきた。
アマテラスは既に結婚してはいたが、当時には一夫一婦制の掟はなかったので、スサノオとの婚儀に問題はなかったのだという。
スサノオ、トシの親子は、その後九州を制覇し、瀬戸内海沿岸を制覇した。
中矢伸一『神々が明かす日本古代史の秘密―抹殺された国津神と封印された日本建国の謎を解く!(1993年、日本文芸社)
今日はまず、上記のところまでの歴史を語り、ひとまず筆を休めたいと思う。
122年頃
スサノオ、フツシとして出雲国(島根県)の沼田郷で誕生。父は出雲族の族長・フツ。
今日の主役はこの人、スサノオ。
(素佐之男尊、布都斯御霊)
以前に描いた肖像画。
八重垣神社のスサノオの絵(筆:巨勢金岡)
記紀神話では荒ぶる神、すなわち不良神として知られているが、実際は名君かつ英雄であり、本当の皇祖(天皇家の祖)なのだ。
いうまでもなく、日本人の父であると評価して良いほどの大人物である。
スサノオの父、フツ。
(布都御魂)
朝鮮育ちで、屈強な騎馬隊を率いて日本の出雲に渡来した。
彼が持っていた
143年頃
スサノオ(21)、出雲の暴君・オロチを暗殺し、英雄と讃えられる[オロチ退治]
救出したクシイナダ姫と結婚。
()内は年齢、[]内は史料での記述。
クシイナダ姫。
(奇稲田姫)
ヤマタノオロチは、出雲の製鉄王であったが、暴君として知れらており、スサノオの婚約者のクシイナダ姫が差し出されることになった。
そこで、スサノオはオロチを暗殺することで、クシイナダ姫だけではなく、出雲民を救って、同時に日本建国のきっかけを作ったのだ。
つまり日本という国は、愛する者を救う覚悟、そして反骨精神が源になっている、といっても良いのかもしれない。
この時のエピソードが最高にカッコいいので、原田常治氏の著書から、これを小説風に書いた一節を紹介しよう。
クシイナダ姫が主役、フツシ=スサノオ。
火と煙の中
その夜のオロチ屋敷は賑やかだった。
灯がいくつもいくつも並んで、十数人の家来たちが、酒や肴を前に大声で話し、その間を女たちが行ったり来たりしていた。
オロチ大王の傍へ座らせられた姫は、身体をすくめて、そういう光景をおそるおそる眺めていた。
「どうだみんな、この姫は、今までで一番美しいだろう。さあ姫も一つ飲め」
さっきから大きい木杯で飲み続けていたオロチは上機嫌だった。姫はかすかに首を横に振った。
「何、こわいのか、こわがることはないぞ、この大王さまのところにきたからは、もう親船に乗ったも同然、どんな贅沢でも仕放題、さあ、もっとこっちへ来い」
不意に肩を抱かれて引き寄せられると、姫の身体は重心を失って、オロチの膝の上に崩れた。
その時である。
「火事だッ」と、どこかで叫んだ。
ものの焦げる匂いと、白い煙が同時に入口のほうから漂ってきた。
「何、火事だ、消せ、火を消せ」
オロチの声に男たちが立ち上がったが、足はその場に釘付けになってしまった。
煙の渦巻く入口に、すくっと立ちはだかったのはフツシである。
その後ろにもう二人の若者。
フツシの右手に下げた長い刀が、キラキラと光った。
居合わせた男も女も、かたずをのんで立ちすくんだ。
「何だ、爾多のフツシか、この小僧め、許さんぞ」
傍の大刀の鞘を払ったオロチは、自信満々で立ち上がったが、酔いが回っていたのか、よろりと足もとがもつれた。
姫は思わず両手で顔を覆った。
「ギャーッ」という異様な叫び声が合唱のようにこだました。
姫が手を離して見た時、フツシの刀が見事にオロチの胸を突き通していた。
みんなが、あっという間に、フツシはさっと姫を抱き上げていた。
男たちが手に手に刀を抜いてフツシを追おうとした時、二人の若者の刀がその前に立ちふさがった。
それもあっという間で、火と煙がたちまち渦を巻いて、人々の姿を包んでしまった。
背中に姫を乗せたフツシの駒を先頭に、三騎の若者は、木次から東へ、須賀、才ノ峠と松江への街道の闇の中を全速力で走っていた。
フツシの家へ帰るのは、北へ簸の川に沿って下るのだが、大豪族であるオロチ大王の一族が見逃すはずがない。
必ず追っ手がかかる。
それを避けるために、反対側の道へ姿を消すことは最初からの予定である。
いっきに才ノ峠の上まで飛ばすと、流石に馬の鼻息も荒くなった。
三人の若者は、ここで馬から下りて、木次のほうを見下ろした。
姫だけは一人鞍の上に、無言のまま残っていた。
人家から離れた峠の付近は、ただ濃い闇に包まれているだけで、かすかな物音一つしない。
「来ない、大丈夫だ」
「ウン」
オロチ館の火事は、焼け落ちてもう消えたらしく、それらしい火の明るさは見えなかった。
その夜のオロチ屋敷は賑やかだった。
灯がいくつもいくつも並んで、十数人の家来たちが、酒や肴を前に大声で話し、その間を女たちが行ったり来たりしていた。
オロチ大王の傍へ座らせられた姫は、身体をすくめて、そういう光景をおそるおそる眺めていた。
「どうだみんな、この姫は、今までで一番美しいだろう。さあ姫も一つ飲め」
さっきから大きい木杯で飲み続けていたオロチは上機嫌だった。姫はかすかに首を横に振った。
「何、こわいのか、こわがることはないぞ、この大王さまのところにきたからは、もう親船に乗ったも同然、どんな贅沢でも仕放題、さあ、もっとこっちへ来い」
不意に肩を抱かれて引き寄せられると、姫の身体は重心を失って、オロチの膝の上に崩れた。
その時である。
「火事だッ」と、どこかで叫んだ。
ものの焦げる匂いと、白い煙が同時に入口のほうから漂ってきた。
「何、火事だ、消せ、火を消せ」
オロチの声に男たちが立ち上がったが、足はその場に釘付けになってしまった。
煙の渦巻く入口に、すくっと立ちはだかったのはフツシである。
その後ろにもう二人の若者。
フツシの右手に下げた長い刀が、キラキラと光った。
居合わせた男も女も、かたずをのんで立ちすくんだ。
「何だ、爾多のフツシか、この小僧め、許さんぞ」
傍の大刀の鞘を払ったオロチは、自信満々で立ち上がったが、酔いが回っていたのか、よろりと足もとがもつれた。
姫は思わず両手で顔を覆った。
「ギャーッ」という異様な叫び声が合唱のようにこだました。
姫が手を離して見た時、フツシの刀が見事にオロチの胸を突き通していた。
みんなが、あっという間に、フツシはさっと姫を抱き上げていた。
男たちが手に手に刀を抜いてフツシを追おうとした時、二人の若者の刀がその前に立ちふさがった。
それもあっという間で、火と煙がたちまち渦を巻いて、人々の姿を包んでしまった。
背中に姫を乗せたフツシの駒を先頭に、三騎の若者は、木次から東へ、須賀、才ノ峠と松江への街道の闇の中を全速力で走っていた。
フツシの家へ帰るのは、北へ簸の川に沿って下るのだが、大豪族であるオロチ大王の一族が見逃すはずがない。
必ず追っ手がかかる。
それを避けるために、反対側の道へ姿を消すことは最初からの予定である。
いっきに才ノ峠の上まで飛ばすと、流石に馬の鼻息も荒くなった。
三人の若者は、ここで馬から下りて、木次のほうを見下ろした。
姫だけは一人鞍の上に、無言のまま残っていた。
人家から離れた峠の付近は、ただ濃い闇に包まれているだけで、かすかな物音一つしない。
「来ない、大丈夫だ」
「ウン」
オロチ館の火事は、焼け落ちてもう消えたらしく、それらしい火の明るさは見えなかった。
原田常治『上代日本正史―神武天皇から応神天皇まで』(1977年、婦人生活社)
157年頃
スサノオ(35)、
山陰地方一帯で名君と仰がれ「須佐の王」と称される(出雲王朝の成立)
出雲族のシンボル・出雲王朝の国旗。
この時の様子を、ふたたび中矢氏の本から引用して紹介したい。
◉日本建国の契機となったスサノオのオロチ退治
さて、スサノオとイナダヒメはその後、オロチの追撃がないことがわかると、この佐草に近い大東町須賀という地に、最初の居を構えた。
のちになってその跡地に、須我神社が建てられたが、この神社は「日本初之宮、八雲立つ須我神社」と称される。
「須賀」という地名は、スサノオがオロチを討伐してこの地にやってきたときに、「わが心須賀須賀し」といって、ここに宮を築いたことに由来している。
そしてこのとき、空に立ち昇る雲を見たスサノオは、思わずこういう歌を詠んだという。
八雲 立つ 出雲八重垣 妻隠 みに
八重垣つくる その八重垣を
おそらくここで、悪名高きヤマタノオロチをたった一人で討ち取り、愛するイナダヒメを無事奪い返した実感が湧いてきたのであろう。
須我神社は「和歌発祥の宮」とされているが、この国が出雲と呼ばれるようになったのは、この歌からであるという。
(中略)
スサノオは、こうして政治的な指導力も発揮しながら、着実に民衆の支持を集めていった。
そして彼の名声は、あのヤマタノオロチを一人で倒した勇猛果敢な若き英雄として、たちまちのうちに知れ渡ったのである。
おそらくは、自然発生的に、さまざまな村落の人々が彼を慕うようになり、スサノオは出雲における支配者としての地歩を固めていったのであろう。
まさしくヤマタノオロチ討伐事件は、日本が国として形成され始めるきっかけをつくった大きな出来事であった。
さて、スサノオとイナダヒメはその後、オロチの追撃がないことがわかると、この佐草に近い大東町須賀という地に、最初の居を構えた。
のちになってその跡地に、須我神社が建てられたが、この神社は「日本初之宮、八雲立つ須我神社」と称される。
「須賀」という地名は、スサノオがオロチを討伐してこの地にやってきたときに、「わが心須賀須賀し」といって、ここに宮を築いたことに由来している。
そしてこのとき、空に立ち昇る雲を見たスサノオは、思わずこういう歌を詠んだという。
八重垣つくる その八重垣を
おそらくここで、悪名高きヤマタノオロチをたった一人で討ち取り、愛するイナダヒメを無事奪い返した実感が湧いてきたのであろう。
須我神社は「和歌発祥の宮」とされているが、この国が出雲と呼ばれるようになったのは、この歌からであるという。
(中略)
スサノオは、こうして政治的な指導力も発揮しながら、着実に民衆の支持を集めていった。
そして彼の名声は、あのヤマタノオロチを一人で倒した勇猛果敢な若き英雄として、たちまちのうちに知れ渡ったのである。
おそらくは、自然発生的に、さまざまな村落の人々が彼を慕うようになり、スサノオは出雲における支配者としての地歩を固めていったのであろう。
まさしくヤマタノオロチ討伐事件は、日本が国として形成され始めるきっかけをつくった大きな出来事であった。
中矢伸一『神々が明かす日本古代史の秘密―抹殺された国津神と封印された日本建国の謎を解く!」(1993年、日本文芸社)
つづく。