【日本建国史の大真実】第6章 〜継承者・タケミナカタの反骨と国譲りの真相〜
目次
【日本建国史の大真実】第1章 〜アマ族の渡来とスサノオのオロチ退治〜
【日本建国史の大真実】第2章 〜スサノオの九州進攻とアマテラスとの和合〜
【日本建国史の大真実】第3章 〜裏天皇・タカミムスビの正体と忌部氏の呪い〜
【日本建国史の大真実】第4章 〜消された初代天皇・ニギハヤヒの日本建国〜
【日本建国史の大真実】第5章 〜オオクニヌシの不断と出雲・日向の暗雲〜
前回までのおさらい。
185年頃
オオクニヌシ(25)、義父である故・スサノオの実質的な相続者となり、出雲・
アマテラスの長女・タギリ姫と結婚。
・オオクニヌシは出雲族出身ではなかったが、スサノオの婿養子となって、出雲・日向連盟の盟主を後継した。
・出雲の次は日向の人間が盟主になる、という「
・オオクニヌシがスセリ姫に続き、タギリ姫と結婚したことが、盟主後継問題(相続争い)の原因となり、出雲と日向を引き裂く結果に。
まず、本日の主役はこちら。
タケミナカタ
(建御名方神、南方刀美神)
スサノオの末娘のスセリ姫と、オオクニヌシの末息子で、スサノオの再来とも噂されたほどの度量と武勇をそなえて生まれた人物である。
出雲側の次期盟主候補だ。
彼には、異母弟がいた。
コトシロヌシ(イビシツヌ)
(事代主、言代主神、伊毘志都幣)
オオクニヌシとタギリ姫の間に生まれた子で、当時はまだ幼かったが、日向側の次期盟主候補として擁立された人物である。
彼はやがて、父親のオオクニヌシによく似て、政治にはまったく無関心な人間として育った。
オオクニヌシは、出雲のタケミナカタと日向のコトシロヌシのどちらが自身の後継者になるか決めていなかった。
原則としては、日向族のオオクニヌシの次は、出雲族のタケミナカタが盟主になるのが筋だ。
しかし、オオクニヌシは日向族のタギリ姫との間に末子・コトシロヌシを生み、治世の多くを日向で過ごしたので、そうはいかなかった。
言うまでもなく、この時代は末子相続、つまり一番最後に生まれた子が相続者となっていた。
215年頃
オオクニヌシ(55)、日向国の
オオクニヌシ(肖像は若年期)
優柔不断で軟弱な人物だったが、その人間的な魅力によって常に周囲から助けられ、安定した治世を確立した盟主であった。
彼が賢明だったのは、終始〝お飾り〟としての役割に徹していたことである。
初代盟主であるスサノオは、名実ともに統治者だったが、彼亡き後の連盟の〝真の支配者〟にオオクニヌシは従っていただけだった。
ともかく、そのオオクニヌシの亡き後、深刻な盟主後継問題(相続争い)が起きた。
215年頃
末子のコトシロヌシ(日向)か、剛毅なタケミナカタ(出雲)か、出雲・日向の盟主後継問題が勃発。
詳細は、
◉オオクニヌシの死と九州の女王・アマテラスの誕生
西暦210年の半ば頃、オオクニヌシは日向の都のあった西都原で亡くなった。
55歳前後であったようである。
タギリヒメとアマテラスの悲しみようは、大変なものであった。
そのため彼らは西都原の地に、日向では異例の「方墳」の墓陵を彼のために造り、そこに埋葬した。
(中略)
オオクニヌシの死をきっかけに、出雲と日向との間に深刻な軋轢が生じ始めた。
あるいは、それより以前から雲行きは怪しかったのかも知れない。
出雲の正妻の子が相続すべきか。
あるいは日向の現地妻の子が相続すべきか。
末子相続の習慣からいったら、一番最後に生まれたコトシロヌシが継ぐのが正統である。
つまり、日向の方に権利がある。
しかもオオクニヌシは、晩年は日向とつながりが深く、死んだのも日向である。
しかし、だからといって、出雲が素直に相続権を放棄するということは考えられなかった。
スセリヒメは自分がスサノオの正妻(原文ママ、正しくは相続者)であるという気位があるし、日向へ行ったきり帰って来ないオオクニヌシに対する嫉妬もある。
また、タケミナカタは剛毅な性格で、あと継ぎにふさわしい人物と周囲からも思われていた。
本人とて、この話にはとうてい承服できなかったに違いない。
だいいち、日向などスサノオの時代に遠征し、出雲の属国となった国ではないか。
しかも、オオクニヌシは養子に来たのであって、スサノオ家とは血のつながりもない。
こう考えると、出雲の立場としては、日向にこのまま相続を許してしまうというのは、断じて受け入れられないことだったと思われる。
日向と出雲とが一緒にやっていけないのなら、日向としては独自の道を進むしかない。
こうして九州は、独立の気運をみせ始めるのである。
しかし、日向側にも問題がないわけではなかった。
それは、コトシロヌシがまだ幼すぎるという点だ。
おそらく、5歳か6歳くらいであったはずだ。
相続しても、彼に統治は無理である。
そうすると、暫定的な解決策としては、コトシロヌシを正統相続人として立て、実力・経験ともに申し分のないアマテラスが代行政治を行うしかない。
ここに、九州の女王・アマテラスが誕生することになる。
西暦210年の半ば頃、オオクニヌシは日向の都のあった西都原で亡くなった。
55歳前後であったようである。
タギリヒメとアマテラスの悲しみようは、大変なものであった。
そのため彼らは西都原の地に、日向では異例の「方墳」の墓陵を彼のために造り、そこに埋葬した。
(中略)
オオクニヌシの死をきっかけに、出雲と日向との間に深刻な軋轢が生じ始めた。
あるいは、それより以前から雲行きは怪しかったのかも知れない。
出雲の正妻の子が相続すべきか。
あるいは日向の現地妻の子が相続すべきか。
末子相続の習慣からいったら、一番最後に生まれたコトシロヌシが継ぐのが正統である。
つまり、日向の方に権利がある。
しかもオオクニヌシは、晩年は日向とつながりが深く、死んだのも日向である。
しかし、だからといって、出雲が素直に相続権を放棄するということは考えられなかった。
スセリヒメは自分がスサノオの正妻(原文ママ、正しくは相続者)であるという気位があるし、日向へ行ったきり帰って来ないオオクニヌシに対する嫉妬もある。
また、タケミナカタは剛毅な性格で、あと継ぎにふさわしい人物と周囲からも思われていた。
本人とて、この話にはとうてい承服できなかったに違いない。
だいいち、日向などスサノオの時代に遠征し、出雲の属国となった国ではないか。
しかも、オオクニヌシは養子に来たのであって、スサノオ家とは血のつながりもない。
こう考えると、出雲の立場としては、日向にこのまま相続を許してしまうというのは、断じて受け入れられないことだったと思われる。
日向と出雲とが一緒にやっていけないのなら、日向としては独自の道を進むしかない。
こうして九州は、独立の気運をみせ始めるのである。
しかし、日向側にも問題がないわけではなかった。
それは、コトシロヌシがまだ幼すぎるという点だ。
おそらく、5歳か6歳くらいであったはずだ。
相続しても、彼に統治は無理である。
そうすると、暫定的な解決策としては、コトシロヌシを正統相続人として立て、実力・経験ともに申し分のないアマテラスが代行政治を行うしかない。
ここに、九州の女王・アマテラスが誕生することになる。
中矢伸一『神々が明かす日本古代史の秘密―抹殺された国津神と封印された日本建国の謎を解く!』(1993年、日本文芸社)
215年頃
アマテラス(62)、幼いコトシロヌシの代行として日向の女王となる[卑弥呼、女王に]
タカミムスビの策により、日向は九州王朝として独立(出雲・日向連盟の崩壊)。首都は西都原。
日向側が「九州王朝」として独立したことは、出雲・日向連盟の崩壊を意味する。
日向側の九州王朝、出雲側の出雲王朝、というように真っ二つに割れて、出雲と日向は完全に決別してしまったのだ。
出雲族と日向族のルーツはアマ族であり、その使命は日本で共に和合を果たすことだったが、無残にもその両者の仲は引き裂かれた。
せめてもの、ニギハヤヒが大和国で連合王朝を樹立していたのが救いであり、もしものためにスサノオがかけていた保険が効いた。
九州王朝の女王・アマテラス(肖像は若年期)
いわゆる
だが、私は九州王朝の女王=アマテラスという説には疑問がある。
どういうことかといえば、この時に九州王朝の女王になったのは、アマテラスではなく、また彼女は既に死んでいたと思うからだ。
もし仮に生きていたとしても、九州王朝として独立して、出雲・日向連盟を崩壊させるということは絶対にしないだろう。
なぜなら、それはスサノオの偉業を全否定し、アマ族としての使命を放棄するということに他ならないからだ。
どう考えても、九州王朝の女王という存在は、日向の黒幕にして真の闇帝王・タカミムスビに操られたお飾りである。
そして、お飾り盟主・オオクニヌシが従った、スサノオ亡き後の連盟の〝真の支配者〟とは、言うまでもなくタカミムスビのことだ。
黒幕・タカミムスビ(肖像は若年期)
アマテラスは、タカミムスビの大反対と脅しを振り切ってまで、スサノオと結婚して出雲族と日向族の和合を成し遂げた。
そんな女傑と、お飾り女王が同一人物などとは到底、私には思えない。
では、誰が九州王朝の女王になったのか?
おそらく、アマテラスの孫であり、タギリ姫の娘でもあるシタテル姫(下照姫)であり、彼女こそが2代目・ヒミコだろう。
超能力者・マクモニーグルが透視したヒミコ=シタテル姫。
ヒミコというのは世襲名であることは確かで、マクモニーグルの透視したヒミコの人物像と、シタテル姫の人物像はほぼ一致している。
またシタテル姫は、私の母親の前世ではないかという説もある。
この時のシタテル姫の年齢は、おそらくは10代だったので、お飾り女王としては最適である。
だが、今回の話においては、九州王朝の女王が誰であったか?などはどうでも良い話であり、今後はシタテル姫は登場しない。
それに確証も掴めていないので、便宜上、まだアマテラスは生きており、そのまま九州王朝の女王になったと仮定して進める。
肝心なのは、九州王朝の女王はお飾りであり、スサノオの偉業を破壊して、出雲と日向の仲を引き裂く陰謀に利用されたということだけだ。
無論、女王を擁立して裏から操っていたのは、タカミムスビに他ならない。
系図ではこのようになる。
引き続いて、中矢氏の本から引用するが、この期に及んで、ようやくタカミムスビの名前が登場する。
逆にいえば、この時あたりからタカミムスビが政治の表舞台に登場してきたのだろう。
◉卑弥呼はアマテラスで邪馬台国は西都原にあった!?
アマテラスが、この時代に九州に君臨した女王だったとしたら、『魏志倭人伝』に出てくる卑弥呼の記述と符合してくる。
(中略)
アマテラス=卑弥呼の線は、非常に濃厚と思われる。
そうすると、邪馬台国というのは、日向国の中心であった西都原周辺だったと考えられる。
さて、九州独立を画策するアマテラスは、自分の息子3人に各地を分割して任せ、統治させることにした。
というより、彼らは、南日向の豪族の娘と既に姻戚関係にあり、アマテラスの身内に取り込まれていたのである。
これには、アマテラスの側近であり、随一の戦略家であった高皇産霊 の力が働いていると思われる。
タカミムスビは、『日本書紀』では、ニニギノミコトに天降りを命じる司令神として描かれ、アマテラスと同等か、もしくはそれ以上の権力があったことを示唆している。
知恵の神様としても知られ、菅原道真 が祀られる前には、このタカミムスビが「天神様」だとか「天満宮」の祭神であった。
ともかく、タカミムスビの政略案を受け入れ、アマテラスは自分の息子たちを、日向近隣諸国の豪族たちの娘と結ばせ、支配基盤の確立を図った。
(後略)
アマテラスが、この時代に九州に君臨した女王だったとしたら、『魏志倭人伝』に出てくる卑弥呼の記述と符合してくる。
(中略)
アマテラス=卑弥呼の線は、非常に濃厚と思われる。
そうすると、邪馬台国というのは、日向国の中心であった西都原周辺だったと考えられる。
さて、九州独立を画策するアマテラスは、自分の息子3人に各地を分割して任せ、統治させることにした。
というより、彼らは、南日向の豪族の娘と既に姻戚関係にあり、アマテラスの身内に取り込まれていたのである。
これには、アマテラスの側近であり、随一の戦略家であった
タカミムスビは、『日本書紀』では、ニニギノミコトに天降りを命じる司令神として描かれ、アマテラスと同等か、もしくはそれ以上の権力があったことを示唆している。
知恵の神様としても知られ、
ともかく、タカミムスビの政略案を受け入れ、アマテラスは自分の息子たちを、日向近隣諸国の豪族たちの娘と結ばせ、支配基盤の確立を図った。
(後略)
中矢伸一『神々が明かす日本古代史の秘密―抹殺された国津神と封印された日本建国の謎を解く!』(1993年、日本文芸社)
中矢氏は、タカミムスビのことをアマテラスの側近や参謀といっているが、どう考えても彼は日向の裏ボスである。
それどころか、実はアマテラスの先夫である、ということに気づいている研究家は少ない。
しかし当時、九州王朝の女王はお飾りであり、全ての画を描いていたのはタカミムスビであるということは有名な話だっただろう。
九州王朝=タカミムスビ帝国とみて良い。
謀略の天才・タカミムスビの企みとは、出雲と日向の仲を引き裂いて、傀儡政権・九州王朝=日向を思うままに操り、出雲を排斥すること。
そして、このタカミムスビの陰謀に気づいて、激しくブチギレた人物がいた。
その人物こそ、今回の主役であり、スサノオの再来と噂された武将・タケミナカタである。
彼が祖父・スサノオの再来である所以は、その反骨精神にあり。
スサノオが、暴君・ヤマタノオロチを討伐して下克上を果たしたことに倣い、タケミナカタも支配者・タカミムスビを倒そうとしたのだ。
今一度、相関図を載せる。
◉『記紀』が伝える出雲国譲り神話の真相
出雲と九州との相続争いによる分裂が深刻になり、アマテラスが九州独立の基礎を固めている頃、大和ではニギハヤヒがまだ生きていた。
オオクニヌシが死んでから、出雲は次第に衰えをみせ、代わって日向が勢力を増し始めていることは、ニギハヤヒも聞かされていたことだろう。
出雲が日向に飲み込まれてしまうかもしれない、という予感もあったはずだ。
できれば彼自身が乗り込んで解決したいところだったと思う。
しかし現在と違い、出雲も日向も遠すぎた。
大和を離れられない懸念事項もあったかもしれない。
そんなある日、大和の大王・ニギハヤヒは、三輪の地で昇天した。
西暦210年から20年くらいのことである。
(後略)
出雲と九州との相続争いによる分裂が深刻になり、アマテラスが九州独立の基礎を固めている頃、大和ではニギハヤヒがまだ生きていた。
オオクニヌシが死んでから、出雲は次第に衰えをみせ、代わって日向が勢力を増し始めていることは、ニギハヤヒも聞かされていたことだろう。
出雲が日向に飲み込まれてしまうかもしれない、という予感もあったはずだ。
できれば彼自身が乗り込んで解決したいところだったと思う。
しかし現在と違い、出雲も日向も遠すぎた。
大和を離れられない懸念事項もあったかもしれない。
そんなある日、大和の大王・ニギハヤヒは、三輪の地で昇天した。
西暦210年から20年くらいのことである。
(後略)
中矢伸一『神々が明かす日本古代史の秘密―抹殺された国津神と封印された日本建国の謎を解く!』(1993年、日本文芸社)
220年頃
ニギハヤヒ(69)、崩御。
初代天皇にして出雲族の要・ニギハヤヒ。
おそらく、彼の騎馬隊が日本で最強の軍事力を有していたので、彼の手にかかれば九州王朝の暴挙などすぐに鎮圧できただろう。
たしかに大和と九州は遠いが、船団を率いれば比較的すぐに進撃できる。
だが、それが実現できなかったのは、おそらくニギハヤヒが病気だったからだろう。
そうしてニギハヤヒは死んだが、彼が葬られた場所は、奈良県の三輪山の
この三輪山を御神体とする
つまり、大神神社は日本最初の皇居であり首都でもあったので、日本人ならばかならず一度は参拝してほしいパワースポットである。
なお、大神神社の祭神である「大物主」とは、オオクニヌシのことではなくニギハヤヒのことなのでご留意ねがいたい。
大神神社と比べれば、伊勢神宮や出雲大社など取るに足らない、と言ってしまえばダメだが、もはやケタ違いであるとだけは断言しよう。
参拝すれば、きっとあなたの心境や生き方にも何らかの変化が生じることだろう。
大神神社を舞台とした鬼将軍の小説『龍蛇の神』も掲載中。
220年頃
九州王朝軍の三武将(タケミカヅチ、フツヌシ、アメノコヤネ)、出雲侵攻を開始。
ついに、九州王朝が暴挙に打って出た。
九州王朝軍の編成はこのように。
↓文中の「日向」を「九州王朝」に置き換えて読んでほしい。
続き
(前略)
ニギハヤヒ存命中は、出雲攻略を控えていた日向であったが、彼が死去した知らせを受けると、にわかに出雲に向けて動きだした。
当然、それまでにさまざまな和解案が出されたはずだ。
しかしどの案も、日向側に利のあるものばかりで、出雲にとってはとうてい受け入れ難いものだった。
それどころか、タケミナカタはあくまで相続の正統性を主張し、日向進攻も辞さない構えであった。
タケミナカタの母・スセリヒメも、コトシロヌシの母・タギリヒメも、どちらも神祖・スサノオの娘である。
どちらに正統な相続権があるかということは、一概にはいえなかった。
そのため、出雲・日向双方における大部分の役人や豪族たちは、事のなりゆきを静観するしかなかったのであろう。
『魏志倭人伝』に記されたような、「倭国乱れ、相攻伐すること歴年」というほどの大乱があったことは記録にない。
それは、「出雲の国譲り」においても同じであった。
日向側は、ニギハヤヒ崩御の知らせを受け、実力行使に踏み切った。
出雲に力づくで乗り込むことにしたのである。
日向の筆頭格であった武甕槌 と経津主 、それに参謀の天児屋根 の三武将は、当時、10歳ほどになっていたコトシロヌシと、その母タギリヒメを擁し、全軍を率いて出雲に向けて出立した。
(後略)
ニギハヤヒ存命中は、出雲攻略を控えていた日向であったが、彼が死去した知らせを受けると、にわかに出雲に向けて動きだした。
当然、それまでにさまざまな和解案が出されたはずだ。
しかしどの案も、日向側に利のあるものばかりで、出雲にとってはとうてい受け入れ難いものだった。
それどころか、タケミナカタはあくまで相続の正統性を主張し、日向進攻も辞さない構えであった。
タケミナカタの母・スセリヒメも、コトシロヌシの母・タギリヒメも、どちらも神祖・スサノオの娘である。
どちらに正統な相続権があるかということは、一概にはいえなかった。
そのため、出雲・日向双方における大部分の役人や豪族たちは、事のなりゆきを静観するしかなかったのであろう。
『魏志倭人伝』に記されたような、「倭国乱れ、相攻伐すること歴年」というほどの大乱があったことは記録にない。
それは、「出雲の国譲り」においても同じであった。
日向側は、ニギハヤヒ崩御の知らせを受け、実力行使に踏み切った。
出雲に力づくで乗り込むことにしたのである。
日向の筆頭格であった
(後略)
中矢伸一『神々が明かす日本古代史の秘密―抹殺された国津神と封印された日本建国の謎を解く!』(1993年、日本文芸社)
記紀神話では、「国譲り」と記されているこの戦いだが、私はその戦場であった松江大橋川にちなんで「大橋川の戦い」と呼ぶことにする。
剛毅だが末子でないタケミナカタ(出雲族)、末子だがまだ幼少のコトシロヌシ(日向族)の相続争い。
それこそが大橋川の戦いの発端、ということで話を進めてきた。
しかし!! これには大きな疑問が残る。
どういうことかといえば、九州王朝が独立して出雲・日向連盟が崩壊した以上、盟主後継問題など、すでに解決しているはずだからだ。
九州王朝(日向)の相続者は、コトシロヌシの代理人としてアマテラス、出雲王朝の相続者はタケミナカタ、ということで終了だ。
もはや、相続争いなど起こる意味がなくなっているはずだし、九州王朝がいちいち出雲王朝を攻める理由もないはずだ。
だが、出雲の国譲りは〝相続争い〟ではなく、〝出雲と日向による日本の覇権を巡った争い〟だったと解釈すればつじつまが合う。
逆に言えば、盟主後継問題などは、九州王朝=タカミムスビが、出雲を征服するための口実に過ぎなかったということだ。
表向きは相続争いだったが、実際は出雲王朝とそれを乗っ取ろうとした九州王朝(日向)との攻防戦だったということになる。
すなわち、大橋川の戦い=国譲りは、出雲族と日向族がしのぎを削り合った天下分け目の戦いだったのである。
いわば、古代版の関ヶ原の戦いだ。
九州王朝軍は、船で出雲の
そして、そこから一斉に南下し、主戦場である大橋川に陣を構え、出雲のタケミナカタ軍との激闘が始まった。
しかし、兵力に差があり過ぎた。
九州王朝軍の圧倒的な兵力を目の当たりにし、形勢が悪くなったタケミナカタ軍は、東へ撤退することを余儀なくされる。
出雲王朝は、実質的に滅亡した。
タケミナカタは、九州王朝の追撃を退けつつ、出雲再起を図るため、長野県の
220年頃
九州王朝軍、大橋川の戦いで、タケミナカタ率いる出雲王朝軍に勝利(出雲占領・出雲王朝の滅亡)[国譲り]
タケミナカタ、
形勢はこのように。
記紀神話においては、敗北したタケミナカタは諏訪に追放され、命乞いをしつつそこから生涯出ないことを約束させたれたとある。
だが、それは出雲誹謗のための作り話であり、実際のところ、誰もタケミナカタを倒すことはできなかったのである。
そして、タケミナカタ率いる信濃王朝の独立を認めざるを得ず、第5代・
決して、タケミナカタは信濃に追放処分された訳ではなく、出雲族による独立国を信濃に樹立したのである。
実際、タケミナカタは信濃にて治水事業などの開発を行い、米の収穫量を増やして国を豊かにしたので地元民に非常に慕われたとか。
その名残として、諏訪大社に祀られているのはタケミナカタであり、現在でも彼は武神として篤い信仰の対象となっている。
それにしても、以前は出雲に歯が立たなかった日向だが、いつの間に軍拡したのだろうか?
多分、どこかのタイミングで渡来系騎馬民族が大量に日本に渡ってきて、それが九州王朝軍の主力を担ったのだろう。
かつて、スサノオが日向国まで攻めてきた時、タカミムスビは和睦をするしかなく、軍事力がなければどうにもならないことを悟った。
その苦い経験もあって、タカミムスビは密かに日向の軍拡に着手してたのだろう。
九州王朝軍の先鋒・タケミカヅチは、おそらく
秦氏といえば、やがて
言うまでもなく、忌部氏はタカミムスビの一族であり、秦氏とはいわば同胞である。
ちなみに、九州王朝軍(日向三武将)の中核をつとめた武将・フツヌシは、タカミムスビの弟であるフトダマの息子である。
フツヌシ(アメノヒワシ)
(経津主神、斎主神、天日鷲命)
「フツ」と言えば、スサノオの父のことだが、なぜこんな紛らわしい名前なのだろうか?
それは、スサノオの再来であるタケミナカタを倒すために、スサノオの父・フツの名を盗んで霊力を強めようと考えたからだろう。
彼は忌部氏の当主だったので、タカミムスビの息がかかっていたことは確かである。
やはり、九州王朝独立も出雲滅亡も、すべてはタカミムスビの陰謀だったのである。
九州王朝軍が、信濃まで執拗にタケミナカタを追撃していた以上、戦いの目的は相続争いなどではなく、出雲排斥であることは明らかだ。
これは完全に、九州王朝軍=タカミムスビ帝国による理不尽極まりない日本征服計画であり、ヤ○ザよりタチが悪いとしか言いようがない。
九州王朝が解体してからも、日向軍は徹底した出雲族の残党狩りを続けていくことになるが、これが俗に言う「鬼退治」のことである。
そしてタカミムスビ率いる九州王朝は、ついに次の征服地・大和国を乗っ取るために魔の手を伸ばし始めた。
本日までの系図。
つづく。