筒井康隆『創作の極意と掟』 | 空想俳人日記

筒井康隆『創作の極意と掟』

 はい、宣伝文句から。

「プロの小説家」というものがどのように成り立っているかを豊穣の中に描いている。――茂木健一郎氏(解説より)作家の書くものに必ず生じる「凄味」とは? 「色気」の漂う作品、人物、文章とは? 作家が恐れてはならない「揺蕩」とは? 文章表現に必須の31項目を徹底解説。「小説」という形式の中で、読者の想像力を遥かに超える数々の手法と技術を試してきた著者が、満を持して執筆した21世紀の全く新しい“小説作法”。

 こんなことも書かれてるが・・・。

「痛快無比」「著者の本気がうかがえる」「風変わりで味わい深い創作作法」
朝日、読売、産経、日経ほか各紙で大反響

 大反響だからって、読むわけじゃないよ。ましてや、これを読んで「また小説を書こうかなあ」なんて微塵も思っちゃいないよ。音楽活動と空想俳人日記綴るので精一杯だもん。

筒井康隆『創作の極意と掟』01 筒井康隆『創作の極意と掟』02 筒井康隆『創作の極意と掟』03

 前に読んだ短編集『カーテンコール』が「これがおそらくわが最後の作品集になるだろう」ということで読んだのと同様、著者さん曰く「作家としての遺言」ということなので、「その遺言を聴こうかな」と思っただけだよ。

 以下、文章表現必須の31項目に対し、一口コメントするよ。

筒井康隆『創作の極意と掟』04

「凄味」
 最初に「スゴミ」が来るのは、よく分かる。ヤーサンの凄味じゃない、あれは脅しが怖いだけだけど、真の凄味は「底の知れなさ」だよねえ。「彼女はこちらを振り向いてニヤリと笑った」って、なんで笑った? あ、あとに何でか、書いてない。えっ、自分で考えろって。最後まで読んだら振出しに戻ってて「えええ、どうする、また最初から読むのか」も、そうかも。

「色気」
 ひとえに濡れ場を書けば色気になるなんてのは、好色読者に対してであって、そうじゃない。一言で言えば「情感」だよね。論理や理屈じゃなく、漂っている気配とでもいうか、日常でも、「可愛い」とか「美しい」だけで形容しきれない、なんかでも好意を寄せたくなったりする人っているよね、「あ、ボク、彼女好きかも」。色気があるのよね。

「揺蕩」
 これ、なんて読むの? 「ようとう」? 揺れて蕩けるの? ははあ、不確かな、あれかあ、よく分からん性格やよく分からん行動する奴かあ。おんなじ正義然としているのはつまんないもんね。ほら、アトムだって、人間と仲良くしたいのに、悩むもんね。「なんだ人間なんか」って言うもんね。勧善懲悪じゃない、だから「鉄腕アトム」が好きなんだけどね。

「破綻」
 いやあ、いろんな破綻、わかるわかる。特に、ラストまでの構想が出来てなくて連載始めると、破綻来しやすいよねえ。ここには、捕虜になったやつが、大団円の後、まだ囚われの身のはずなのに、仲間といっしょに万歳している。「あれれ、拉致されたはずなのに」。破綻をきたさないためには、やっぱ最初から起承転結考えとくってことだねえ。

「濫觴」
 ちょっとまた、これ、なんて読むの? 「らんしょう」? 濫りな酒宴? 全然違うじゃん。杯を浮かべるほどの小さな流れ、あああ、事の始まりのことかいな。ようは、書き出しね。「むかしむかし、あるところに」。これ安心して読めるけど、やっぱ、ついつい先が読みたくなる書き出しが大事だよね。登場人物の素性を書き並べてはいるより、いきなりそいつが殺人現場で血のついた包丁を持っているところから始めると、「どういうことだ」って次に行きたくなる。あと、読者を絞るためにわざと難解な書き出しもあるげな。

「表題」
 タイトルだよね。ここには、一例が書かれてるけど、ボクが愛読した作家で言うと、大江健三郎の「同時代ゲーム」、安部公房「棒になった男」「箱男」。それから一時期被れたヌーボーロマン作家のアラン・ロブ=グリエ「快楽の漸進的横滑り」なんか最高だね。そうそう、ここには書かれていないけど、詩でいうと谷川俊太郎の「二十億光年の孤独」なんか素敵だよね。著者さんの「串刺し教授」もいいよねえ。

「迫力」
 迫力って言うと、スペクタルなのとか、冒険活劇なんかや、ハリウッド映画の目まぐるしい速さの映画を思うけど、それら、みんな予定調和だもんねえ、単にスッキリするだけだよね。違うよねえ小説の迫力は。ここで一番の迫力は「対立」という言葉で書かれており、対立するどちらかに共感をするとあるけど、読者側の視点からすれば、読み手に「葛藤」を味わわせるものだと思うぞ。つまり、共感したいのはどちらだあ、迷い迷い、考え考え、そんな小説は、迫力あると思うのだけど。つまり、心の奥深くに入ってくる。

「展開」
 こりゃあ、書いてある通り、物語の展開のことだよね。ここの一例で、島田雅彦の「未確認尾行物体」について書かれていることが興味深い。この作品、第一回三島由紀夫賞の候補だった。選考委員の筒井氏と大江健三郎とで「展開」に対し評価が分かれたそうだ。前半の迫力に対し後半の展開が筒井氏から言わせれば「金魚のウンコ」でつまんない、と。ボク、この小説読んだけど、「そうだったかなあ」とあまり記憶にはない。大江氏は、後半でのエイズ問題こそ重要だ、と推したそうな。筒井氏曰く、問題は迫力のキーマンが前半で死んじゃうからだ、と。このキーマンを殺さず、後半を前半に潜り込ませ、ラストにキーマンを殺せばよかった、というのだが、ひょっとかすると、あえてキーマンを前半で消して、違った展開を意図的に島田氏はしたかったかもしれない。けど、まあ、筒井氏と大江氏の作家精神の違いが評価の天下分け目の戦いになったのかも、とも思う。

「会話」
 会話ねえ。以前、何処かで見た(読んだ)けど、「番号」「一」「二」「三」「四」「五」「七」「もとい」「一」「二」「三」「五」「もとい」。これ、全部改行するからページの下の方はほぼ余白だらけ。これ、会話じゃないよねえ。基本、会話は異なる人間が対立すべき必要がある。つまり、会話する者同士が作者と同じ意見では会話にならない。価値観の違うものが対立するから会話の必要性と妙味が生まれる。対立でなく説得でも交渉でもいい。「ねえねえ、明日時間がある?なければいいけど」「なくはないけど忙しいし」「じゃあ、いいよ。でも大事なことがあるんだ」「今言えば」「いや、明日じゃないとダメなんだ。でも、忙しければいいよ」「忙しいんだけど」「じゃあ、大事なこと、言わない。きみのためなんだけどねえ」「今言えないなら、もう帰る」ってのは、どお?

「語尾」
 分かる。「であった」「である」「なのだ」「なのだった」「た」「だ」、悩むよねえ。基本、同じ語尾の連続は良くない。筒井氏は、とうとう無意識的に語尾の重複をなくす境地にまで到達したげな。ただ、あくまで基本であり、例えば感情を描かずストーリー展開をたんたんと進めたいがために、あえて過去形を連続させることもある、と言う。ハードボイルドの傑作で四度も映画化(そのひとつをボクは観てる)されたジェームズ・ケイン「郵便配達はいつも二度ベルを鳴らす」の例が面白い。田中小実昌の名訳で。「た」が六回、「だ」が「二回」出てきて、その後の工夫、感情の籠らぬ独白の「どこにでもある」と「住居」「六棟」の体言止め。三人称の主人公の場合、「ですます調」はやめた方がいい、が、太宰の「ですます調」、ボクも読んだが「ヴィヨンの妻」の「ですます調」は、色気がある女主人公でありながら、そこに潜む女傑の匂いが素晴らしい。結論、語尾などいい加減でいいかもしれない、とのこと。

「省略」
 確かに小説は省略で成り立っている、と思う。それを省略せずに何でも書いて、睡眠時間は空白にした筒井氏の「虚人たち」は凄い。というか、よくやるなあ。泉鏡花賞まで貰ったそうな。それに対して、オープンエンディング。いわゆるラストの省略。こりゃあ、たまらんよね、読み手は。戦い始めた二人のどちらが勝ったか、わかんねえ、「読者よ、自分で考えよ」なんてねえ。そうそう、ここには書かれてないけど、安部公房作品って、省略文学じゃないかねえ。というか、始まる前から物語があって、終わっても、まだ終わらない、その後、主人公はどうなったか、地Ⓑんたちで考えろ、そんな作品が多いよねえ。だから、考えちゃうのよ。ああ、すっきりしたにはならない。簡単に言うと便秘小説。

「遅延」
 先の「省略」の逆かなあ。主人公が目的地に着く途中を描かない省略。あるいは目的地についてことを済ませて家に帰ってくるまでも省略して「おい、何してきたんだ」という省略もあるだろう。それと逆に目的地まで着く間の車から見える景色なんかを延々と語るのは「遅延」だよね。映画でロードムービー。その風景描写が主人公に与える心理をうまく表現してればステキな「遅延」だろうけど、下手くそな地の文だと「おい早く目的地へ着けよ」となるだろう。また、どんなに素敵でも、映画を早送りで見る人なんかは、「遅延」部分を味わうことなくすっ飛ばして読むだろうね。

「実験」
 科学の実験が成果が問われるのに対し、小説の場合、実験を試みることに意義がある、実験にトライするだけで評価される、なんて小説の世界くらいだ、と著者さん言う。あれ、ここに書かれてないぞ。どこだ。「文字落とし」というのがあって、筒井氏は「残像に口紅を」をやってのけた。最初「あ」を使わない。次に「あ」と「ぱ」を使わない。「パン」はペケ。そうしてどんどん文字落としして、最後は「ん」だけだ。カードタイプ小説でどのカードから読んでも良いというのを試みたそうだが挫折したそうな。ところが、やってのけた作家がいる。詳しくは、この本買って読んでね。そういやあ、ちょっと前に読んだジョゼ・サラマーゴの「白の闇」、改行がいつまで経っても出てこない。章立てもない。改ページがあるので、そこでいったんお休みしてもいいかな。あと、地の文と会話の区別がない。誰かがしゃべってるが、誰かよく分からず、いきなり、違う人が喋る。これも実験かいな。

「意識」
 これは、先の「遅延」効果ももたらすのね。ジェイムズ・ジョイスやヴァージニア・ウルフの例も書かれてるが、またまたヘミングウェイ。「持つと持たぬと」、映画監督の妻がヨットのキャビンで睡眠薬飲んでも眠れなくて自慰する場面はいいねえ。自己愛、罪悪感位置乱れての意識の流れ。引用されてるけど書かないよ。買って読んでね。それより安部公房の「時の崖」が採り上げられてる。これ読んだヨ。ボクサーのノックダウンされる4ラウンド2分16秒以降の意識の流れが秀逸。たった数秒のことだけど遅延もしている。いいねえ。あと、かつてよく読んだ倉橋由美子。「100メートル」という作品で読んでないけど、オリンピックのトップ・アスリートが優勝するまでを、なんと二人称で書いている。彼女独自のモノローグだ。

「異化」
 この「異化」、凡庸に言えば「シュール」だね。また安部公房が採り上げられているね。風景の細密描写を内面の風景に変貌させるの、彼、得意だから。「砂の女」もそうだけど、ここでは「燃えつきた地図」の一文が引用されてる。ガルシア・マルケスの「族長の秋」は書物全体が異化されている。室生犀星の「女はうどんのような綟たかお」と「笑い」を異化するように、ちょっとした形容から、風景描写・意識描写やマルケスのような話全体など、「異化」することで、日常を覆す醍醐味があるよね。

「薬物」
 いきなり「薬物」だって。作家は、薬物に頼ることが多いのか。いやいや、ここでは、広義の接種物による、創作への影響を検証している。煙草も、アルコールも含め。煙草は、確かに気分転換、ある意味、没頭してて深いけど狭い視野になってる時に気分を変えるのにいいだろう。酒は、文章がどんどん書けたりもするが、これは翌朝必ず添削が必要だろう。何言ってるか分からなかったり、あるいは、無意識化のことが顕在化しすぎてヤバかったり。立原正秋が凄いね。朝起きて一升酒を飲みその後ビールでぼつぼつ酔いを醒ましながら書くそうだ。あと睡眠薬や、マリファナなども書かれているけど。オランダで試すなり、ご自由に。

筒井康隆『創作の極意と掟』05

「逸脱」
 これ、脱線のことだよね。急に、「え、これ、なんの話?」と思いきや、案外、重要になることもあるけど、ここには、いやあ、えっらい「逸脱」する小説もあるんだね。お話の途中で、作家自身の吐露が挿入されてるよ。なるほど、ずいぶん昔に読んだが著者さんの「虚航船団」もそうか。笑えるのが、町田康の「告白」の冒頭。一ページで16年間の出来事が要約された直後、「あかんではないか。」の一言。こりゃ、お笑いの「突っ込み」だよ。丸谷才一氏の反対意見にもかかわらず谷崎潤一郎賞を獲得しちゃったそうだ。

「品格」
 作家としての「品格」があるわけではない。それは、ある意味、作家は嘘八百(フィクション)を書くのだから、実生活は、自分に素直に正直に生きることかもしれない。例えば柴錬は「勇気」。彼は「勇気とは錯覚だ」と言っている。やばいという局面でも錯覚で勇気を奮い立たせられる。そして、「火宅の人」を書いた檀一雄。「火宅」とは「燃え盛る家のように危うさと苦悩に包まれつつも、少しも気づかずに遊びにのめりこんでいる状態」。彼の家族を顧みない生き方。ただ、彼にしては、これが自分を貫く生き様だった。これも品格だろうて。

「電話」
 もし電話での会話をリアリズムで書くとすれば、「もしもし」「…」「ひさしぶり」「…」「何してた」「……」、となるのであるが、電話は、特殊性のある会話であると思う。「もしもし」「かめよ」「ひさしぶり」「昨日会ったじゃない」「何してた」「うんちしてる」、と、これは実際はありえない、が、フィクションではありえる。しかも、昔の黒電話と違って、今のケータイなら「うんちしてる」もあり得るのだ。何をしていようが、出ないと、あとで「誰といたんだ」って言われる。ただ、本当にウンチしてるかはわからない。ケータイと言えども、見えないのだから、男が股座にいるのかもしれない。この「電話」のところには、こんなこと書かれていないが、そんな特殊性の話をボクなりに例として挙げてみた。それにしても、今の世の中、ケータイで24時間つながっているっていうのは、精神に悪いのじゃないかね。「既読」なんて気にしてたら、安息日がない。「暗息日」ばかりになる(ちょっと、次項目から拝借)。

「羅列」
 単語でも、形容詞でも、とにかく、思いついたものを並べる。中には「羅列」というよりも「呂律」が回らない羅列もある。ただ、並べ方によっては、「異化」や「遅延」で書かれている効果を生むこともある。「三字熟語の奇」という著者さんの作品の最後の方は、「暗息日」「姦一髪」「情半身」「祝災日」「攻意的」という笑いのサービスをしてる。ワープロ(パソコン)で「安息日」「間一髪」「上半身」「祝祭日」「好意的」と打たれた一文字をニヤニヤしながら一生懸命変更している著者さんの姿が目に浮かぶ。

「形容」
 ボクも新聞記事の自動的慣用句なる「形容」は嫌いだ。だから新聞も読まないしテレビも見ない。ここでは「形容」のオリジナリティの話も出てるので、またちょっと手前味噌な話。ボクは若い頃よく「ミミズに尾骶骨をかまれたような感触」という表現を使った。安部公房の影響だが、彼がこれをまるっと表現してたか、彼を真似てボクが拵えたかは記憶にないが、どんな時に使うかと言えば、「ひや~」でも「ぞぞ~」でも「ぞくぞく」でもない、生理的にぞぞけた時だ。いや、とにかく生理的気味の悪さがありながら少々快楽交じりの・・。そんなんあるかいな。ここで、また室生犀星の「女はうどんのような綟たかお」が出てくるが、これをひねって、「ラザニアをスプーンで押しつぶしたような苦笑い」って、どお? あと、「郵便配達が二度ベルを鳴らすように彼女の胸の乳首辺りを二度押した」というのをずっと使いたいと思っていた時期があったが、それを表現するようなお話が浮かばなかった。夫を殺した妻とその愛人の関係のような物語は書きたくても書けないのだ。おしまい。

「細部」
 細かく表現するって、時に「遅延」効果をもたらすよね。となれば、先の「省略」効果とミックスして考えた方がよさそうだ。で、ボクは大学ではフランス文学専攻の学生だった癖して、フローベールの作品は一つも読んでいないが、この項は素晴らしい『ボヴァリー』論である。そして、「省略」あればこそ「細部」が生きてくるのであり、その「細部」には作家さんの情熱がこもっていなければならないことがピシピシと伝わってくる。

「蘊蓄」
 情報をどれだけ引っ張ってきても蘊蓄にはならない。情報だけ並べてあると「ウエ~」となる。それだけ、「蘊蓄」には情報にない「へええ」「なるほど~」「そうなんだあ」が込められている。そういう意味では、この『創作の極意と掟』は、うんちの塊、あ、失礼、もとい、蘊蓄の塊だと思う。蘊蓄のない情報過多の世の中、情報だけに振り回されて時間を費やすくらいなら情報処理のスピードを上げるよりも情報を入れない方がいい。こういう蘊蓄のテンコ盛りの本を読むことに短い人生を費やした方がよっぽど有益である。ちなみに、もともと蘊蓄とは物を積んでって十分に蓄えることであり、作家さんの深い学問や知識からなる。情報は右から左へたれ流しでしかない。

「連作」
 ここでの「連作」という手法よりも、その形式で書かれた源ちゃんこと、高橋源一郎の「優雅で感傷的な日本野球」という作品、これね、確か読んだはずだけど、ここに、その抜粋が書かれてて、いやはや、こんなに面白かったっけエ、思たのねん。で、しかも、この作品で第一回三島由紀夫賞を獲得している。つうことは、「展開」の項で書かれてた第一回三島由紀夫賞候補の島田雅彦「未確認尾行物体」と争ったわけだ。へええ。しかも、おふざけが嫌いな宮本輝が「この人、野球ちうもんを本気で考えようとしてはりますわ」との言葉が決定打だげな。へえええええ。

「文体」
 一つの文章(お話)を、いろんな文体で書いてみる。フランスのレイモン・クノーの作品は、ボクも著者さんと同様映画化もされた「地下鉄のザジ」しか読んでないけど、彼の「文体練習」が一例で挙げらている。が、この作品に触発されたのだろう、と、「連作」で登場している源(高橋源一郎)ちゃんが「国民のコトバ」(これはエッセイ)だけどでやってるって。

「人物」
 人物の素性や性格、経歴の話ではない。つまり、どういう人物を登場させればいいか、ではなく(そんなこと自分で考えなさい、だよねえ)、登場人物そのもののお話。どれだけ登場させるか、意味のない人も登場させるパーティシーンも世の中にはある。そして、登場人物の相関図を冒頭前に載せている小説もある。そういやあ、戯曲って、最初に登場人物書いてあるね。Aが登場すると前景へ来るが、次にBが登場するとAはa背景に行く。次々に、CやDやFや登場して、誰が誰だか分からなくなる。トルストイの「戦争と平和」なんか、それで途中で投げ出しちゃう。でも、奇妙な人物ばかりが登場すれば覚えてられるかもねエ。その奇怪な人たちが次々に前景に登場しても誰一人背景に沈むことなく忘れられない存在でい続ける凄い小説、それが大江健三郎の「同時代ゲーム」だ。

「視点」
 一人称で書く。二人称で書く。三人称で書く。物語の中にいて書く。物語の外にいて書く。大切なのは、どんなに一人称で物語の中にいて書いても、それを俯瞰する三人称の物語の外のもう一人が作家として必要ではないか、とは、ここに書かれてはいないが、この項を読んでいて、ボクはそう思ったのだ。過去を書く、今を書く、未来を書く、その時の視点。あるいは、生まれたばかりの自分を視点にして書くこともできる、それこそ作家の自由奔放な世界じゃないかな。

「妄想」
 ここで最も興味深いのは、女性のが男性よりも右脳と左脳を結んでいる脳梁が非常に太く、だから思考と感情が容易に結びつき、「思考感情」と呼べるもので物事を判断していると。そして女性作家のが妄想をこの思考感情に結び付けて創作活動をしていると。実は、ボクは男だが、ボクの脳梁は太いのだ。小さい時から、右脳と左脳をつなぐ神経線維の太い束である「能梁(のうりょう)」を介して両方を頻繁に行き来する脳の使い方を、私はずっとしてきたことを、ブログ記事「すごい左利き」という本の感想で書いている。つまり、ボクは左利きなのだが、物によって右使いなのだ。それは、ブログ記事「左利きの証明」で書いている。男が脳梁が細いのは、利き腕だけじゃなく、もうひとつ、会社組織などの社会活動のせいで左脳と右脳を行ったり来たりする必要性が少ないせいもあると思う。さらに、ボクは長年にわたって音楽活動をしているが、「中野信子『脳の闇』」で、持続的かつ集中的に音楽に携わっている音楽家の聴覚皮質は一般の人より灰白質の神経細胞が多く、両半球を結合している脳梁も15%厚いということがわかっている、と書かれている。そして、最後に、もとは妄想であった女性作家の作品として、「川上弘美の諸作品」だと著者さんは言い、著者さんは彼女の作品をほとんど読んでいるそうだ。ボクも川上弘美の妄想は大好き、なんだ、一緒じゃん。ボクも川上弘美は相当読んだヨ。「物語が、始まる」「蛇を踏む」「いとしい」「神様」「溺レる」「おめでとう」「椰子・椰子」「センセイの鞄」「パレード」「龍宮」「光ってみえるもの、あれは」「ニシノユキヒコの恋と冒険」「古道具 中野商店」「夜の公園」「ざらざら」「ハヅキさんのこと」「真鶴」などなどなどなど。なんだなんだ。やっぱ、作家は、理想や思想や空想や構想や予想や夢想や奇想や追想よりも、妄想を大事にしなければならない、そう思う。久しぶりに、川上弘美小説を読みたくなったよ。

「諧謔」
 簡単に言えば、笑いを誘うことだね。近代文学でそれを成し遂げているのは、やはり夏目漱石の「吾輩は猫である」だね。主人公は猫ということで、人間描写で笑いを取る。あと、飼い主も主人公で彼も笑いを取る。この笑いはダジャレとかではなく、彼が精通してたイギリス文学のユーモアだよね。笑いって、人間にとって大事な感情なんだよ。AMIもコロナ禍でマスク生活で笑いが消えた。そして生まれたオリジナルソング「笑い飛ばそう」。みんな「ワッハハッハ」する音楽。大事なのは、お笑い芸人の舞台でも分かるように、笑いってみんなが一斉に笑うよね。でも、これ難しいこと。怒らせることは簡単にできる。泣かせることも簡単にできる。でも、笑わせるって高等技術だよねえ。笑いを誘う文章なんてなかなかできないけど、今、AMIは、日頃のボランティア演奏で演奏曲の合間のMCで笑いが起きてるね。笑わせようと思ってるんじゃないけど、思いついたこと言うと「あはははは」って。でも、笑ってもらおうと思った意図的MCではドン引きされる。「諧謔」は文章上、絶対に必要じゃないけど、読み手の人生に笑いをもたらすことを考えれば、逆に無茶重要かも。「諧謔」がへたくそな文豪もいるけど、無理して書かない方がいいと思う。

「反復」
 反復横跳びかと思ったよ。ようは、リフレイン。畳句(ルフラン)。音楽では、歌謡曲なんか、最後のサビのあと、何回もサビを繰り返したりするよね。それもリフレイン。そう思ったら、この項は、著者さんの作品「DV」(ドメスティックバイオレンスではない。「ダンシング・ヴァニティ」という長編小説の解説だよ。ボクは読んでないので感想らしいことは書けないな。何が書かれてるかだけでも留めんと欲す。「象徴の反復」「出来事の反復」「空想の反復」「失敗の反復」「時間の反復」「儀式の反復」「日常の反復」「演劇的反復」「音楽的反復」「行為の反復」「回想の反復」「映画の反復」「ゲームの反復」「人生の反復」の14の反復。
「象徴の反復」…「赤い靴下」「白い顔のフクロウ」「引っぱり蛸」が何度も出てくるそうな。意味ありなしに拘わらず面白そうだ。
「出来事の反復」…似たような出来事が身のまわりに起きる、時には同時多発的に。これは決して偶然ではなくセレンディピティ。
「空想の反復」…「死んだ父親がやってくる」「死んだ息子が成長してやってくる」と。デジャヴや夢など空想の現実化。
「失敗の反復」…フロイトの「失策行為」。何度でも同じ失敗を繰り返す。失敗した過去へ何度も戻ってやり直す。
「時間の反復」…意識は持続するが時間だけが反復する主観的反復。時間はそのままで意識が反復する客観的反復。小川洋子の「博士の愛した数式」は映画で観た。
「儀式の反復」…年中行事やパーティから入浴や洗顔、家族のだんらんの自動化された会話や作法。れれ、入浴や洗顔は、次の「日常の反復」じゃないの。
「日常の反復」…日常に対するアイロニー。時に幸福な日常や不幸な日常を強調する場合も。ヴィム・ヴェンダース監督の「PERFECT DAYS」だ。
「演劇的反復」…例えば、舞台俳優の日常。だが微妙な変化を伴う反復。公演を重ねるにつれ変化する。
「音楽的反復」…ダカーポやダルセーニョのように、あるいはアドリブやリフレイン、メロディの繰り返しなどのごとく、文章の反復も行う。
「行為の反復」…強迫神経症的な行為の反復。貧乏ゆすりはどうかな。無自覚性を客観的に観察して描くことが重要。
「回想の反復」…いぜんあった嫌なことを何度も想起する。思い出すたびに腹が立つこと。しあわせの反復は、今も幸福なら充足感だが、でなければ現在への不満に結びつく。
「映画の反復」…映画は何度も上映される。出演者が反復を意識することはないだろうが、撮影過程のリハ、テスト撮り、テイクワン、テイクツー、撮り直しなど。
「ゲームの反復」…死んでも、リセットしてリプレイすればもう一度生きられる。学習して、違う方法で生き直す。
「人生の反復」…ここで劇的な文学書にも匹敵しながら尻切れトンボでもある哲学書「存在と時間」を書いた哲学者ハイデッガーの「再極限の未了」という言葉が出てくる。存在として完了しないまま、死に絡め取られる、のだ。
 こうして、この項を読み終えて「ああああああああああああ」と思ったのだ。この項は単に「創作の極意と掟」だけではないんじゃないか、と。そう、この項は、小説「DV」の解説だけじゃない、「生きるということを哲学してる」ではないかあ。著者さんは、「創作の極意と掟」と言い「DV」の解説と言いながら、ここで、「反復」がボクたち人間の生きる上での重要なキーであることを示唆しているのだ。確かに、ボクたちは、生まれた時から死に向かって一直線に生きている。しかし、そのプロセスでいかに多くの「反復」がなされているか、それが言いたいのだ。この本の「表題」の項を読んで、「快楽の漸進的横滑り」が頭から離れず、何度も独り言で呟いている反復。似たようなことが起きる、しかも同時多発的に。演奏依頼が連鎖的にAMIに舞い込んでくる。偶然とは思えない。セレンディピティだ。空想、というよりも、妄想、同じ妄想を夢や白昼夢で見る。叶えられないからいつも妄想として現れる。あの時の失敗を二度と起こさないようにと思うのだが、また同じ失敗を繰り返す。時間はそのままで意識が反復する客観的反復として、同じ経験を繰り返す。小学生の頃に毎年1月1日に親戚が集まる。たまには趣向を凝らそうと、お年玉をいくらくれたかのグラフを貼りだそうとしたら「やめときなさい」と言われた。あと、葬儀でご愁傷さまと言う言葉を慣用句として使い始め何度も繰り返したが「終章」だとずっと思っていた。毎日の繰り返しは時間や順番が変わると焦る。日頃デイサービスで演奏するプログラムは3か月は同じなのに、その3か月の間で変化する。時には演奏の合間のMCで思い付きの変貌を遂げることも。懐かしい歌を自らの手でスコア起こしする。すると、あの時聞いた歌の素晴らしいメロディや和音進行がその頃以上にひしひし感じ、その詩の気づかなかったフレーズに感動もする。AMIデビュー当時に創ったオリジナルソングを久しぶりに演奏すると創った契機となることを中心に当時のことが走馬灯のごとく甦る。小学校の時の女の子や女の人との遊びが多かったことを思い出すが、省略で思い出したり、細部まで蘇って遅延したりする。時には、実際に起きていなかったことまでが起きていたかのように思い起こす。そして、最近になって同じ日々を繰り返すことは惰性ではなく、繰り返しながら、絶えずそこに新たな発見を見出すこと、それが大切じゃないかと思っている。ヴィム・ヴェンダース監督の「PERFECT DAYS」のように。このことが、この項にピタリと当てはまるのだ。哲学的思索を促す「反復」は、人間の人生を紐解くのに重要なキーワードだ。一直性に死に向かうボクたちは、反復によって、それに抗っているのかもしれない。この「反復」は素晴らしい。なので、きっと「DV」も哲学的小説ではないかと思うが、残念ながら読んでいないので、分からない。きっとスーザン・ソンタグが「反解釈」の中でサルトルについて「彼の全著作への鍵は、戦前の小説『嘔吐』のなかに見られる」と述べてるが、その「嘔吐」に匹敵する作品なのだろう。それにしても、人間は「思索の反復横跳び」があるからこそ、人生は有意義なのかもしれない。そうすることで、「幸福」を手に入れられるのではなかろうか。ここで終わりたいが、最後の項がある。

「幸福」
 なんで最後が「幸福」なんだろう。ボクの前項の感想からすれば、この『創作の極意と掟』の掟を守れば幸せな作家生活が送れるんだ、思ったよ。結局、何が幸福かと言えば「プロの小説家になれたのだ」という満足感。いやあ、初診(初心でもある)忘るるべからずだね。最後にボクも言おう。プロにならなかった(なれなかった。コピーライターと言う職業には就いたけど)ことに少しの僻みも交えながらも大いに満足している。なんせ好きな日々を送ってても基地外の人がやってくることもないのだから。

 ハイ,以上だよ。




筒井康隆『創作の極意と掟』 posted by (C)shisyun


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