100分de名著ハイデガー『存在と時間』 | 空想俳人日記

100分de名著ハイデガー『存在と時間』

 またまた100分de名著だよ。今度は、ハイデガー『存在と時間』。これ、学生時代に大ズッコケした記憶がある。

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 学生の頃、実存主義にカブレちゃってね。で、サルトルを読み漁ったんだけど、『汚れた手』とか『嘔吐』は、ま、文学的解釈で、なんとか理解はしたのだが、あの『存在と無』にチャレンジしたら・・・。
「分からん!」ということで、そだ! その前の実存主義的なハイデガーを読んでみるべ、思ったのね。で、この『存在と時間』を手にしたら・・・。
「全然!分からん!!やめ!!!」ということに。
 ま、学生の頃は、いろいろなところで挫折ばかりだったので、あんまし気にも留めなかったけど、どうにも、そんなハイデガー、100分de名著なら、どうかな? そう思って読み始めた。
 そしたらだ・・・、
「何、これ! このコロナ禍によるパンデミックで露呈した人間の本性を解説してるじゃん!!」そう思ったねえ。驚いた。

 と、その前に、
第1回「存在」とは何か
100分de名著ハイデガー『存在と時間』04
 「〇〇がある」という分のうち、「○○」に当てはまるものを「存在者(ザイエント)と呼び、「がある」に相当するものを「存在(ザイン)」と呼んで、両者を区別した。そうだが、これって、サルトルの「即自」と「対自」じゃなかろうか。
 そして、「現存在は、単なるモノとは異なり、過去と未来のつながりのなかで生きている。」だから、『存在と時間』なんだねえ。
 第1回では、自分を「自己自身」として理解している「本来性」、そうではないものと理解している「非本来性」、ここまで理解できれば、OK。

第2回「不安」からの逃避
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 ここで、まさにコロナ・パンデミックにおける人間の本性を見ます。
 ここに「世間話」が登場します。世間話とは「非本来的な現存在によって交わされる会話」。「みんなが考えていることを、皆と同じように語る」こと。
 この世間話は、今回のパンデミックでは、SNSも同様ですよね。
 こうも解説されてるよ。

日本人は「空気を読む」ことを自分にも他人にも求める傾向があり、日本社会の同調圧力は諸外国と比べて強いとよく言われます。空気が読めない人を揶揄して「KY」なる流行語が生まれたくらいですから、世人が現存在を支配しているというハイデガーの指摘は、日本人には比較的理解しやすいはずです。

 結果、無責任さの登場。
「だってみんなこうしているから」「それが世間の常識だから」と、「私」から「みんな」へ。  学校の「いじめ」の例でも語られ分かりやすいけど、学校に限ったことじゃないと・・・。

「赤信号、みんなで渡れば怖くない」とか、「寄らば大樹の陰」的な心理は、私たちの社会のあらゆる場面で見られます。職場におけるハラスメントなど、大人のいじめも、被害者を追い詰めているのは「ただ何となく」加担している人々です。・・・(中略)・・・「みんながそうしているのだから、自分もそうしなければいけない」「自分には、それ以外の選択肢はない」という心理状態に陥っています。・・・(中略)・・・自分だけに責任があるのではなく、「みんな」に責任があると

 さらには、

インターネット上で特定の個人に誹謗中傷を浴びせるという行為にも、「みんなが叩いているから便乗しただけ」「たとえ自分の投稿が誰かを傷つけたとしても、悪いのはみんな」という、無責任さが潜んでいるのではないでしょうか。実際に、SNS上で誹謗中傷されたことで自分の命を絶ってしまう人もいます。その責任を引き受けることなどできないのに、攻撃的な内容に気軽に「いいね!」を押したり、それを拡散したりしてしまう行為は、後を絶ちません。

 もちろん、これらをハイデガーが著作で表現しているのでなく、紐解いてくれている戸谷氏が「非本来性」を分かりやすく説明するためのものだよ。
「みんなもこうしている」という規範に従っていれば、人並みに充実した人生を送っている。自分は間違っていない、すべては順調、そう自分に言い聞かせてるんだね。
 でないと、不安なんだよね。特に、このコロナ禍、マスク生活、行動規制、不安は募るばかり。だから、先の「みんな」と一緒に、特定個人を叩く仲間になっちゃう。
 でもね、これ、哲学だけじゃなく、今では、脳科学の領域でも実証されてる。例えば、団体、あるいは仲間というグループ、誰かと長時間同じ空間に一緒にいることで、「仲間意識」をつくる「オキシトシン」という脳内ホルモンが分泌される。オキシトシンは愛情ホルモンとも呼ばれ、脳に愛情や親近感を感じさせるホルモン。しかし、このオキシトシンが高まりすぎることで、仲間を守ろうという意識が高まり、「邪魔者」は排除しなければ、という意識も同時に高まってしまう。集団でいることでオキシトシンが高まり、向社会性も高まり、仲間意識が強く働くことで、集団の中で逸脱した人を排除したいという気持ちも起こる。そこに誘発される制裁行動が「いじめ」。この制裁行動が促進されるもう一つの原因は、制裁行動に「快感」を感じるからであると考えられるのね。実際に、制裁行動が発動する時の脳では、「ドーパミン」が放出され、喜びを感じる。出た、ドーパミン。こいつは、凄いメリットもあるんだけどね、意識の高揚ってことで。でも、前に読んだ『スマホ脳』で「やばいよね」なるドーパミン。
 ここでのドーパミンはルールに従わない者に罰を与えるという「正義の御旗」を振りかざして悪を制裁をする欲求。それで達成欲求や承認欲求が満たされ、「快感」を感じる。それで、似非民主主義の論理で絶対多数が出る杭を打つことを正義とし、打たれるものは悪人役となる。大多数がヒーローでマイノリティが悪人。多数決という似非民主主義がもたらす「右に倣え」をヒーローとする大活劇が行われ、マイノリティを排除あるいは「いじめ」あるいは「存在否定」に追い込んで快感を得る。私自身、みんなと同じじゃ嫌で、マイノリティな生き方してきたから沢山経験してるよ。ほんと、「なんでそういうこと言うの」に対し、「なんで思ったこと言っていかんの」と。
 多数決=民主主義はウソなんだけど、みんなイコールだと思ってる。これらは脳科学で今では実証されている、だげな。ハイデガーも知りたかったね、これ。
 これでは、いくら脳みそのせいにしても、「非本来性」、自分を生きていることにはならないよね。では、「本来性」を取り戻すには、が次の第3回だよ。

第3回「本来性」を取り戻す
100分de名著ハイデガー『存在と時間』06
 重要なキーワードが2つ登場するよ。「死」と「良心」。
 まず、「死」だけど、そりゃそうだよね、「みんが死ぬから自分も死ぬ」わけじゃないし、「死ぬときは一人だ。寄らば大樹の陰でも死んでいくのはひとりだもんね、死と向き合う。「死への先駆」と言って、自分のもっとも固有な可能性である詩と向かい合うことで、自分の存在を「みんな」と交換できないものとして、自分自身のものとして捉えること。
 もうひとつの「良心」。「良心の呼び声に耳を傾ける決意性」と言って、「みんなもこうしている」「だから仕方がない、だってどうすることもできないんだから」という思い込みに対して、「本当はみんなに従わないこともできたんじゃないか」「みんなとは違った生き方もできるんじゃないか」と気づくこと。簡単に言えば、「良心の呵責」だね。誰にもあるよね、「あの時、何もしなかったけど、ああしていれば、よかったかも」って。あの時、盲導犬を連れて募金運動していた人がいたけど、知らんぷりして通り過ぎるより、僅かなお金だけど、寄付すればよかったかな、そんな感じかな。何故に何もせずに一日を過ごしたんだろう。外へ行けば、何かと出会って、自分の生き方を見直そうこともあったかもしれないのに。そういう単純なことだと思うよ。そして、何かをすることで、自分が責任ある行動をとれたかも。
 言うなれば、責任の主体として生きること、ですな。
 素晴らしいです。だが、いかんせん、ここまでで、『存在と時間』は未完で終わっているのだ。つまり、前半しか書かれておらず、その後、ハイデガーは大変なことをやらかす。この大変なことをやらかすのは、私的意見ですが、「存在とは何か」を言及し切って、後半の展開を余り深く考えず、世界から非難批判を受ける行動をしてしまうのだけど、私が勝手に思うに、これまでの哲学の流れをガラッと変えた「自我」などない、というくらいの哲学論を書きあげた『存在と時間』前半である程度自ら満足し、寄らば大樹の陰から、自分一人に孤立し、その段階で何をなすべきか、一人になった自分の自己実現しか頭になくなったから、じゃんと思う。
 だから、信じられない、自分一人の自己実現を、信じられない世の流れを利用しようとした。はい。第4回へ。

第4回『存在と時間』を超えて
100分de名著ハイデガー『存在と時間』07
 ハイデガーが大変なことをやらかす、それは、あの独裁政治のナチスに加担してしまうのだ。あ、ば~か。アンガージュマンの仕方が間違っている。なんてことを。超スピードで書いた『存在と時間』、後半もさっさと書き上げなかったから、「良心の呼び声」を聞き間違えたんだろ。ヒトラーの声しか聞こえなかったのだろ。こらこら、今更、ハイデガーを責めてどうする。
 おそらく、独裁政治は共感はしておらんだろうけど、「死への先駆」で他者と切り離れ、孤独になった時点で、自己実現を夢見て、ナチスとともに自らの哲学の道を拓こうとしたのではないか。
 耳を傾けるべき良心の呼び声は、決して自然と聞こえてくるものではない。自らが発すべきものだから、その呼び声がいくつもの選択肢がなかったためではないか。仮に、アンガージュマンするなら、例えば、全ての人が平等で平和に暮らせる幸せな明日を、そんな声を何故に聞かなかったのか。おそらく、自分だけの声しか聞こえなんだのじゃろうなあ。
 でも、安心しなされ。ハイデガーの弟子にあたる二人の哲学者が、彼の『存在と時間』の後半に盛り込まれるべきことを語ってくれておる。
 一人は、ハンナ・アーレント。彼女が問題視したのは、ハイデガーがすべての他者を「世人」として一括りにしてしまったこと。彼女は「人間の複数性」と言っていますが、私は人間の多様性のが良いと思うけど。人間はそれぞれ違った意見を持ち、お互いに意見を出し、コミュニケーションしていく中で、明日への道を見出していくことの重要性を唱えています。「私」が何者であるかも、他者と語り合う中で見えてくると。権力者がどんなプロパガンダを行い、どんなに壮大なイデオロギーを語ったところで、「私」が他者とともに築き上げた世界で生きれば、そうしたイデオロギーは力を持たないはず。
 これ、なんか、斎藤幸平氏が紐解くマルクス『資本論』に繋がるものがあるよねえ。彼女、『全体主義の起源』発表後、マルクス研究に没頭したそうな。
 もう一人は、ハンス・ヨナス。責任を自分自身に向かうものではなく、他者に対して引き受けるものとして位置付ける。責任とは、他者の生命を守ること、その「傷つきやすさ」を気遣うこと。特に、子どもに対してだねえ。「今この瞬間」のその子への責任だけではなく、その子がこれから育っていけること、きちんと大人になれることへの責任でもある、と。
 いやあ、これなんか、グレタ・トゥーンベリのこと、思い起こすよね。GAFAのトップに聞かせたい。

 以上ですが、いやあ、紐解いてくれた戸谷氏のおかげで、めちゃ『存在と時間』を理解できたよ。やはり、前半だけの著作でも、画期的な哲学書だと思うし、後半を弟子の二人がきちんと語ってくれてるし。
 それに、『存在と無』のサルトルが、フランスにこの著作を紹介するとともに、同じ実存主義者であることを表明していること、納得したよ。

 そしたら、全然前へ進めなかったサルトルの『存在と無』も、見えてきたよ。やはり「存在者」=「即自」=全てのモノ、「存在」=「対自」=意識、だと思うし、それが題名の『存在と無』。「存在」は間違いなくあるもの、だけど、「無」は、今瞬間、コロコロ変わる意識。昨日の意識は、即自に代わり、今の意識は、明日にはなくなるかも。
 フッサールの『現象学』を土台にしながらも、エポケーするのはいいけど、いつまでも「エッ、ポケー」としておらず、関係性を復興せよ。その時に、私がキャリア・コンサルタント講座で学んだゲシュタルト療法、ああ「ゲシュタルトの祈り」はいいなあ、いやいや、それじゃなく、地と背景ね、何かを見つめれば、その周りは背景になる。
 そして、その何かに対して、自分はどう関わっていくのか、それが「実存は本質に先立つ」ことなんだよねえ。

100分de名著ハイデガー『存在と時間』08

 巻末にもハイデガーとサルトルの違いが書かれてるけど、ま、存在そのものについてはハイデガーのが奥深いかもね。この著者さんも、そう言っております。
 ただ、存在論がどんなに奥深かろうが、そこに主体的活動を描けなかった、いや、間違って描いては、あのナチ党員参加という過ちも犯しかねないわけで、現実、彼が教え子でもあるユダヤ人を弾劾したのも事実であれば、いくら彼の思想が存在への深いアプローチがあろうと、サルトル以上のアンガージュマンが出来ず、ユダヤ人の大量虐殺に加担してしまった、そんな過ちを犯したことは間違いないと思う。
 哲学者の方々も、素晴らしきハイデガーの思想を継承しながらも、彼の過ちを二度と起こさないように気をつけてもらいたいものである。それがハイデガーの『存在と時間』の彼が一番残したものではないか、私はそう思う。

 私は、生きていくのに、やっかいだろう、そんなものである哲学にいつまでもこだわるのか。それは、ハイデガーが言う「死」を前にして、私は誰とも「みんな」なんかありえない一人であるから、だよ。一人、いかに、残された人生、いかに社会にアンガージュマンしていくべきか、それが哲学の中にあるからだよ。
 いやあ、今回の戸谷氏が紐解く『存在と時間』で、また、色々なものが見えてきた。
 あの、安部公房の『砂の女』の世界も、世界内存在じゃないかいな。
 ははあ、ありがとうございましただあ。


100分de名著ハイデガー『存在と時間』 posted by (C)shisyun


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