スーザン・ソンタグ『反解釈』 | 空想俳人日記

スーザン・ソンタグ『反解釈』

 以前『どうにもとまらない歌謡曲』という本を読んだ。そこの【4 うぶな聴き手がいけないの―撹乱する「キャンプ」】と言う章で、「キャンプ」という言葉に出会った。そこで書いたことを、もう一度ここに書くね。

 ここで出てくる「キャンプ」とは、あの野外で楽しむこととは違うよ。美術手帳サイトから拝借する。
【 審美的な態度や特質の一種で、スーザン・ソンタグの「《キャンプ》についてのノート」(1964)によって広く知られる。このエッセイでは、芸術作品、趣味の傾向、人物やその行動にわたる、様々な《キャンプ》的実例が言及され、書き連ねられたパラグラフを通じて、ソンタグ自身「とらえどころのない感覚」と呼ぶそのあり様が考察されていく。
 キャンプはどこか常軌を逸した性格を備えているが、それは途方もない仕草や曲線といった、華麗さや視覚的魅力を伴う異常さであるとソンタグは述べる。それは純真で(キャンプ的であろうとする意図や計算に媒介されず)、自己愛を漂わせながら「真面目に」呈される、抑制を受けない感受性の白熱した発露である。しかしこのゆえに、「真面目に」受け取るには奇妙に強烈で「ひどすぎる」ものである。「失敗した真面目さ」というこの性質が、伝統的な真面目さがもたらす調和(高尚な文化の道徳性)と、極限的な感情や断片化の徹底(前衛性)との両方から、キャンプを区別する。
 このような「常軌を逸した」性質から説明されることで、ある対象や事柄における「自然な/本来の」、規範的なあり方に逆らう様々なイメージが、キャンプ的なものとして吟味されることとなる。人工的なもの、装飾的なものや対称性への感覚がそこに含まれ、例えばアール・ヌーヴォー、両性具有、芝居がかった様相、同性愛者たちが創出する審美主義といったものによって具現される。
 また不自然なもの、人工と誇張を愛好することを本質とするキャンプ趣味において、世界を吟味する基準は「美」ではなく、人工ないし「様式化」の度合である。そこでは様式(スタイル)が強調され、対照的に意味内容の重要性は格下げされる。「背後にある意図」を満たすことで評価される作品や、意図と行為との直線的な結びつきは、キャンプが背を向けるものである。キャンプ的感覚は、道徳的な意味づけや過度の参加(コミットメント)から解放されており、政治色を持つことはない。キャンプ趣味とは「判断」の仕方ではなく、「享楽ないし享受」の仕方であり、それが楽しんでいるものに共感する「やさしい感情」なのだと、ソンタグは述べている。】


 森進一、前川清の歌唱が「キャンプ」的として紹介されていて、さらには、前川清の歌い方をデビュー前から真似ていた桑田佳祐のことも書かれてたんだけど。そのスーザン・ソンタグの「《キャンプ》についてのノート」が読後も気になっててね。
 ある日、本屋さんで本屋さんの棚を物色してたら、
「お願い。私を読んで。考え方が似てると思うから」と、なんと、スーザン・ソンタグが現れたのよ。まじか、おい。

スーザン・ソンタグ『反解釈』01 スーザン・ソンタグ『反解釈』02 スーザン・ソンタグ『反解釈』03

 ということで、スーザン・ソンタグ『反解釈』を手に入れたよ。
 頭から読まずに、真っ先に「キャンプ」のことが書かれてることから読んだヨ。
 なので、最初から読まずに、[Ⅴ]「《キャンプ》についてのノート」から。

「《キャンプ》についてのノート」の「キャンプ」の一般的な解釈(と言っても、欧米では、彼女のこの論文で、一般化されてるらしいが、日本では根付かなかった。根付かないと思う。何故なら、日本人は自然であることを尊ぶ。なんて、嘘ばっか。どこも自然らしくない)。キャンプは、ここでは、様式と言われてるが、スタイルなのだ。普通、なんでも表現すると、「うまい」とか「下手」とか判断されるけど、そうじゃない。その人ならではの表現があるから、上手いか下手か度返しして、魅力的かどうか、なのだ。だから、よすぎてもキャンプにならない、重要過ぎてもキャンプにならない。森進一も前川清も桑田佳祐も、極めてキャンプ的なのだ。うまい、へた、じゃない、魅力。だからキャンプの奥には純真なものでできているはずなのに、何故かそこには、わざとらしさ、人工的で不純なフリが付き纏う、一見して、それはできそこないかもしれないという極度に過敏なスタイルなのでもある。
 この考え方は、冒頭の「反解釈」と「様式について」も繋がる。

スーザン・ソンタグ『反解釈』04

[Ⅰ]から行くね。

 さて、冒頭の「反解釈」「様式について」だよ。
 反解釈とは何か。批評家の問題が出てくる。批評家は、芸術作品を批評する。その時、芸術家が作った作品のスタイルよりも内容を書き換えてまで批評家は自分の言葉にしようとする。つまり、芸術家が作った作品は、感性に訴えるものが多いのに対し、批評家は、感性よりも知性で芸術作品に逆襲するんだね。簡単に言えば、芸術作品の素晴らしさに対し、批評家は太刀打ちできないので、言葉で「この作品は、こういうことを言っているのだ」と紐解く作業をする。自分の言葉で意味などを置き換えて批評するんだね。これは、芸術家に対する反乱だ。
 巻末の高橋康也氏が、平たく、こう言っている。
〈意味なんか知らないよ、解釈なんかするもんか、感じちゃえ、触っちまえ、見ろ、聞け……〉と。
 思い出すのは、創作意欲に旺盛な戯曲作家の倉本聰さんが自分の場所とは違う場所にいる批評家に対し釘を刺した「左岸より」ね。創作する現場は左岸、批評家は右岸。
 だから、スタイル(様式)においても、先のキャンプと同様、内容よりも、表現スタイルが重要なんだよ。だから、ある意味、芸術家は左岸で「何を書くか」より「いかに書くか」だと思うのに対し、批評家は遠い右岸で「何を言ってるか」と置き換えて、感性を破壊する。

 以上、まとめて[Ⅰ]ね。

スーザン・ソンタグ『反解釈』05

 続いて[Ⅱ]からは個別に。
「模範的苦悩者としての芸術家」は、チェーザレ・パヴァーゼのことが書かれてる。ボクは知らない。彼の日記は、「自殺の見込み」と「ロマンティックな愛とロマンティックな失敗」に満ちている。
《パヴァーゼは深刻な性的不能感にさいなまれる者としておのれを示し、性愛の技巧、愛の絶望、性の戦いに関するあらゆる種類の理論で守備を固めようとした。》
 そんなパヴァーゼが見えてきた。そして、
《スタンダールとともにパヴァーゼも、愛が本質的にはフィクションであることを発見する。愛がときとして失敗するからではなく、本質的に愛とは誤謬だからである》と言うソンタグは、パヴァーゼの次の言葉を引用する。
《《愛は最も安価な宗教である。》》
 パヴァーゼは、
《芸術作品の制作と性愛の冒険とが、二つの最も精妙な苦悩の源泉であることを発見した》のだ。

「シモーヌ・ヴェーユ」について、ソンタグが念頭に置いているのは
《生涯の狂信的な禁欲主義であり、快楽や幸福に対するかの図斧軽蔑であり、崇高だが馬鹿げた彼女の政治的身振りであり、彼女の精細な自己否定であり、不断に苦悶を求める彼女のあり方ではあるが、彼女のかざり気のなさ、肉体的なぶざまさ、偏頭痛、肺結核のことも除外していない。》
 そして、ソンタグは、こう締めくくる。
《すべての真理と言われるものは底の浅いものであって、若干の(すべてのではない)真理の歪曲、若干の(すべてのではない)狂気、若干の(すべてのではない)不健康、若干の(すべてのではない)生の否定は、かえって真理をあたえるものであり、正気を産み出すものであり、健康をつくるものであり、生命を増強するものなのだ。》
 ボクもそう思う。

「カミュの『ノートブック』」で、ソンタグは
《彼の作品が、まったくの文学的業績としては、読者が与えたいと思う賛嘆の重さをもつに足るほど大きいものではないからだ。どうかカミュが真に偉大な作家であり、ひたすら非常によい作家であって《ほしい》とひとは思うだけなのだ。》と論破する。
 そして、サルトルと比較する。
《サルトルは、たとえ彼の政治的共感の若干が英語圏の読者にとっては不快なものをもつにしても、哲学的分析、心理的分析、文学的分析を強力で独創的な精神にさせているところがある。ところがカミュは、いくら彼の政治的共感が魅力的であっても、このような分析をさせてくれるところがない。》
《カミュの『ノートブック』は、なるほど非常に面白いものではあるが、それでもカミュの恒久的な背丈をどれくらいに考えてよいかの問題を解決してくれる本ではないし、また人間カミュに対するわれわれの感覚を深めてくれる本でもない。》

「ミシェル・レリスの『成熟の年齢』」、ボクはレリスもこの本も知らない。
《近親相姦的な感情、サディズム、同性愛、マゾヒズム、階級無視の乱交ばどの、フランス自叙伝文献の偉大なものに認められるいかなる言明よりも、はるかにもっと、レリスが承認するものは、猥褻であり反発を覚えさせられるものだ。》
 そうなんだ、読みたいな。
《そもそも『成熟の年齢』を彼が書いたのも、許されようとしてでもなければ、愛されよyとしてでもない。レリスは読者を仰天させるために書く。仰天させることで、強烈な感情の贈り物を読者からもらうために書く。この感情は、レリスが読者のなかにかきたてようと期する憤慨や嫌悪に対して、護身するのに必要なのだ。》
《クネクネし、グルグルまわり、後戻りする。終わりになっていても別にそこで終わりにする理由もないのだ。このような型の洞察は、とめどもないものになる。この本には何のリズムも方角もなく、頂点ないしクライマックスもない。》
 いやあ、マジ、面白そうだ。

「英雄としての文化人類学者」とは、クロード・レヴィ=ストロースのことだ。文化人類学者、哲学者で、主著は『親族の基本構造』『構造人類学』『悲しき熱帯』『野生の思考』『神話論』。もともと哲学や言語学を学んでいたが、アマゾン行きを決めたのをきっかけに文化人類学に転向した。フィードワークを通す中で、言語学の構造主義に似た考えを、アマゾンの民族の近親婚のタブーのなかに見、構造主義を発見することになる。サルトルの実存主義を批判したことでも有名だ。
《摩訶不思議な調和的構造をもつ過去が、われわれの眼の前で壊れ、崩れ去ってゆく。だからこそ、熱帯は《悲しい》のだ。1915年に白人の宣教師たちが最初に訪れたころには、裸体の、貧しい、遊牧の、美貌のナムビクワラ族が二万人ちかくいたのだ。それが、1938年にレヴィ=ストロースが行ってみると、もはや二千人ほどしかいず、さらに今日では、悲惨な、醜悪な、梅毒もちの、あわや絶滅せんばかりのナムビクワラ族しかいないのだ。》
 そして、
《「未開人を研究しにゆこう。彼らが消滅しないうちに」》となったのだ。
 素晴らしい。ボクは思い出す、岡本太郎氏を、水木しげる氏を。西洋式先進国は民族をないがしろにしてきた。
《歴史と歴史意識の概念がレヴィ=ストロースにとってもつデーモン的なものが、最もよく露呈されているのは、『野生の思考』の最後の章をなすサルトルに対する水際だった猛烈な攻撃においてである。私はレヴィ=ストロースのサルトルに対する反対論に心服するものではない。》
 ボクもレヴィ=ストロースのサルトルに対する反対論に心服するものではない。でも、レヴィ=ストロースの文化人類学、民俗学への道は素晴らしいと思う。
 
「ジェルジ・ルカーチの文学論」だが、ボクはルカーチを知らない。でも、これを読むと、ルカーチは生涯亡命しっぱなしの可哀そうな人であることが分る。
《彼は、東欧とロシアに起こりつつある新たな知的胎動にとっては先達格の存在であるが、マルクス主義集団の外でも、久しく無視しえない力を保っている。たとえば、カール・マンハイムの思想(芸術、文化、思想の社会学に関する)多くは、ルカーチの初期の作品に源をひくものであり、彼の影響は、マンハイムを通じて現代社会学の全体に及んでいる。サルトル、およびサルトルを通じてフランス実存主義に対しても、彼は大きな影響を与えた。》
 ところが、
《最初のエッセイにおけるアレゴリーの考え方は、故ヴァルター・ベンヤミンの思想に基づいている。そしてベンヤミンのアレゴリー論からの引用は、ルカーチのものより段違いに立派な文章と思考の実例として、ページから浮き出してくるようだ。皮肉なことに、1940年に死んだベンヤミンは、「初期」のルカーチの影響を受けた批評家のひとりであった。しかし、皮肉は別としても、ベンヤミンが偉大な批評家であり(彼こそ、「われわれの時代のドイツ文学における、唯一の大批評家」と呼ばれる資格がある)、これに反して「後期」のルカーチはそうではないというのが、掛値のない真実である。》
 環境の変化と彼の思想性ゆえに亡命を繰り返すうちに、疲弊していったであろうルカーチをソンタグは、次のように言う。
《ルカーチの反動的な美的感受性は、それなりの理由や経験に裏付けられている。私はそれらに同情するし、彼の説教癖や、不自由なイデオロギーに対してさえ敬意を抱いている。》と。

「サルトルの『聖ジュネ』」だが、これは凄い! サルトルに対するこんな評価は見たことがない。
 ちょっと長い引用。
《ヘーゲル的伝統に立つすべての哲学者のなかで(そして私はハイデッガーもここに含めている)、ヘーゲルの『現象学』における自我と他者の弁証法を、もっとも興味深く有用な形において理解したひとはサルトルである。しかし、彼は肉体を知ったヘーゲルではない。(いわんや、フランスにおけるハイデッガーの弟子として片付けられてよい存在ではない。)サルトルの大著『存在と無』は、たしかにヘーゲル、フッサール、ハイデッガーの問題と、彼らの用語法に非常に多くを負っている。しかしサルトルのの意図は、彼らとまったく異なるものなのだ。サルトルの著書は観照的ではなく、強い心理的衝迫に動かされている。彼の全著作への鍵は、戦前の小説『嘔吐』のなかに見られる。そこで述べられる根本的問題は、この世界を、その厭らしい、粘液上の、無意味な、そして不快な現存の姿において、いかにして同化できるか、ということである。この問題が、サルトルの全著作の動因なのだ。『存在と無』は、嫌悪感に悩む意識と取り組み、その動きを記録するための言語を作り出そうとする試みである。この嫌悪感、事物と倫理的価値のこの偶然性は、心理的危機でもあり、形而上学的問題でもある。》
 素晴らしい。ボクも学生時代に『嘔吐』を読んだが、この『嘔吐』がサルトル思想のキーだと思っている。そして、今、岡本太郎氏の「芸術は爆発」の動因でもある、そう思っている。
《デカルト以来のヨーロッパ哲学によれば、意識の主な活動は世界の創造であった。いまやデカルトの弟子のひとりが、世界創造を一種の世界生殖として、自慰行為として、解釈したのである。》
《ジュネは、自分が全世界を死んだ愛人ジャン・トカルナンの屍体のなかへ、そしてこの若い屍体を自分のペニスのなかへ、変形していった次第を語る。》
《ひとり宇宙を射精する、おそらくこれが、あらゆる哲学、あらゆる抽象的思考の働きなのだろう。それは強烈な、あまり社交的でない楽しみであるが、何度でも繰り返しなされねばならないものである。いずれにせよ、サルトル自身の意識の現象学の説明として、それはまんざら悪くない表現だ。》
 すごい!

「ナタリー・サロートと小説」の、ナタリー・サロートは、アラン・ロブ=グリエやクロード・シモン、ミシェル・ビュトール等が代表的な作家とされる、ヌーヴォー・ロマンの一人だ。
 この『反解釈』には、よくロブ=グリエの名が登場するね。ボクは、学生時代にロブ=グリエなどのヌーヴォー・ロマンなんかの小説やエッセイも読んで、「へええ」と思ったものだ。卒論に一時採り上げようかな、とも思ったけど、結局はやめて、ボリス・ヴィアンにした。
《『不信の時代』の英訳が出版されたことの意義は、私にとってここにある。本書はナタリー・サロートのエッセイ集で、彼女の小説の背後にある理論を詳細に展開したと称するものである。サロートの小説を好み讃美するか否かにかかわらず(私が本当に好きなのは、『未知の男の肖像』と『プラネタリウム』だけだ)、彼女がその主張するところを実践しているか否かにかかわらず(決定的な点において、そうではないと思う)、これらのエッセイストは伝統的小説についてのいくつかの評価を打ち出しており、大西洋のこちら側では長く立ち遅れていた理論的再考のためには、恰好の糸口であるように思われる。》
 ここにも書かれているように「彼女がその主張するところを実践しているか否かにかかわらず(決定的な点において、そうではないと思う)」に対し、おそらくロブ=グリエのエッセイ『新しい小説のために』に書かれてることに対し、ロブ=グリエの小説『嫉妬』などの方が実践されているのかもしれない。
 ここには、
《これらのエッセイが小説作品よりも価値があるかもしれないというのは、いかなる作家もまだ達成しえていない、幅広く野心的な基準を提出しているからなのだ。(たとえば、ロブ=グリエは自作の小説について、それらは自分のエッセイで述べられている診断や提案の、ごく不満足な実例であると認めている。)》
 と書かれてはいるが。

 以上が[Ⅱ]だ。
 続いて[Ⅲ]ね。

「イヨネスコ」の陳腐な言葉に満ちあふれている『ノート・反ノート』からの引用に始まる。
《ボリス・ヴィアンの『帝国の建設者』は私の『アメデー』から霊感を受けている、と評したひとがいる。しかし、実のところ、ひとは自分自身から、自分の不安から、霊感を受ける以外には、誰からも霊感を受けたりはしない。》
 おお、ボクが仏文卒論のための論文を書いたボリス・ヴィアンの名前が登場する。期待して読み進めたが、これだけだった。ヴィアンの『帝国の建設者』は読んだが、イヨネスコの『アメデー』は知らんので、ボク自身、何も分からん。
 ちなみに、ボクは、イヨネスコは、『犀』しか知らない。
《劇作家および思想家としての果てしない自己解説と自己弁護は、たとえば『アルマ即興』においては全篇を占めており、『義務の犠牲者』と『アメデー』においては耳ざわりな創作論を引き出し、『殺し屋』や『犀』においては安易な現代社会批判を鼓吹しているのだが、そういった自己解説と自己弁護の営みがこの『ノート・反ノート』にはしこたま詰めこまれている。》
 そして、
《ブレヒト、ジュネ、ベケットにくらべれば、イヨネスコはその最良の部分においても二流の作家である。》だそうな。

「『神の代理人』をめぐって」は、次のように書き始められている。
《現代における最高の悲劇的事件は、六百万人のヨーロッパ・ユダヤ人の大量殺戮である。》
 ここに書かれているのは、1961年のエルサレムにおけるアドルフ・アイヒマンの裁判のことだ。アイヒマン裁判とは、ナチス・ドイツのユダヤ人虐殺の責任者アドルフ・アイヒマンが1960年5月、逃亡先のアルゼンチンで捕らえられ、1961年4月からイスラエルのエルサレムで付された裁判。
《ハンナ・アレントその他のひとびとが指摘したように、アイヒマン裁判の法律的根拠、提出された証拠類の妥当性、ある種の手続きの正当性については、厳密に法律論的には、疑問の余地がある。だが、アイヒマン裁判はたんに法律論的基準に合致しなかったばかりでない、合致しえなかったのだ、というところに、ことの真相があるのだ。裁かれたのはアイヒマンだけではない。被告としての彼の役割の役割は二重であったー個人として、および種族の代表として。特定の恐るべき罪を背負ったひとりの人間として、およびこの想像を絶する殉教を頂点とする反ユダヤ主義の全歴史を代表する符牒として。》
 ここに、「ハンナ・アレントその他のひとびとが指摘したように」とあるが、ハンナ・アーレントは、『エルサレムのアイヒマン──悪の陳腐さについての報告』1963年に雑誌『ザ・ニューヨーカー』に連載した。アーレント自身が、1961年4月11日にエルサレムで始まった公開裁判を欠かさず傍聴しアイヒマンの死刑が執行されるまでを記した記録。裁判の様子を描いただけではなく、ホロコーストの中心人物でありながらアルゼンチンで潜伏生活を送っていたアイヒマンの暮らしぶりとイスラエルの諜報機関による強制連行の様子、更にはヨーロッパ各地域でいかなる方法でユダヤ人が国籍を剥奪され、収容所に集められ、殺害されたかを詳しく綴っている。アーレントはこの中で「イスラエルは裁判権を持っているのか」「アルゼンチンの国家主権を無視してアイヒマンを連行したのは正しかったのか」「裁判そのものに正当性はあったのか」などの疑問を投げかけた。その上で、アイヒマンを極悪人として描くのではなくごく普通の小心者で取るに足らない役人に過ぎなかったと描き、むしろユダヤ人でさえもユダヤ人ゲットーの評議会指導者のようにホロコーストへの責任を負うものさえいたとまで指摘した。
 そして、ここで言う『神の代理人』とは、まさしく「アイヒマン裁判」をもとにして書かれたドイツの劇作家ロルフ・ホーホフートの戯曲である。
《『神の代理人』は、これが最も論議を読んだ部分なのだが、ドイツのカトリック教会と教皇ピウス十二世の共犯性をも強調しているのである。》
《当時のヨーロッパにおける他の保守的支配者の多くと同様に、教皇もヒトラーのソビエト攻略を是認したといういきさつがあり、そのためにドイツ政府に積極的に反対しにくかったということだ。》
《『神の代理人』の主たる命題は、誰かを非難するところにあるのではない。それはたんにドイツ・カトリック教会やローマ教皇や彼の助言者を攻撃しているのではない。真の名誉と誠実を尊ぶ心はーたとえ殉教を招くとしてもー不可能ではない、いや、それこそキリスト教徒に要求されていることだ、そうこの芝居は言っているのである。勇気ある決断をあえてしたドイツ人がいたのだ、そしてだからこそ、決断を拒否し、公然と抗議することを拒否した他の者たちの許しがたい怯懦を、われわれは咎める権利をもつのだーホーホフートはそう言っているのである。》
 ここに「決断を拒否し、公然と抗議することを拒否した他の者たちの許しがたい怯懦」とあるが、ハンナ・アーレントの後期の未刊行論文集『責任と判断』という本の中で「考える能力の喪失により生まれる“凡庸な悪”」を明らかにしているそうだ。まだ読んでいない。そして、この本には、「『神の代理人』―沈黙による罪?」という、ホーホフートの戯曲に対する評論も載っている。ホーホフートの戯曲『神の代理人』よりも、このハンナ・アーレントの『責任と判断』を読んでみたいものだ。

「悲劇の死」、ライオネル・エイベル『メタシアター』という演劇論。ボクは知らない。
《文明診断の書として見た場合、エイベルの著書はヨーロッパ大陸のある偉大な伝統につらなっている。すなわちロマン派詩人とヘーゲルによって創始され、ニーチェ、シュペングラー、初期のルカーチ、そしてサルトルによって継承されたところの、主観性と自意識の苦悩についての瞑想の伝統である。エイベルの簡潔で一般読者向きの本書の背後には、実は彼らの取り組んだ問題、彼らの用いた用語がひそんでいるのである。ヨーロッパ人たちが重厚な足取りで進むところを、エイベルはいとも軽やかに、煩瑣な脚注など知らん顔で、歩いていく。彼らが何巻にも及ぶ大著を書きあげるところを、彼はそっけないくらいのエッセイ集をものするだけだ。そして彼らが陰鬱であるのにくらべて、彼はてきぱきと快活だ。要するに、ヨーロッパ的主題をアメリカ的スタイルで提示したのがエイベルであり、本書は実存主義的宣言書のアメリカ版である。彼の議論は明快で、喧嘩早く、スローガンに走りやすく、単純化に陥りやすくーそして、大筋において、完全に正しい。》
 このあと、3つの点で間違っているか不十分を書いてるが、省略。

「演劇時評、その他」、ここには様々な演劇の感想が書かれているが、ボクはどれも観たことがないので、残念ながらい意見を保留する。

「マラー/サド/アルトー」ここで語られる演劇は、ペーター・ヴァイスの戯曲『サド侯爵の演出のもとシャラントン保護施設の患者によって上演されたマラーの迫害と暗殺』だ。ボクは観たことがないが、書かれていることで見えてきたのだ。
《サドはその晩年の十一年間(1803~1814)をナポレオンの命によりパリ郊外の精神病院に監禁されて過ごしたが、その院長のクールミエ氏は、患者たちに芝居を考案させ、その上演をパリの市民に公開するという進歩的方針をとっていた。》そうな。
 ヴァイスの戯曲をこれを題材にして書かれた劇中劇だ。演出はピーター・ブルック。舞台の左に座るサドが役者たちに演技の指導をする。右には観客の院長と彼の家族。
《サドの劇中劇に出演するはずの亡霊然とした患者たちが胎児のような姿勢で、あるいは早発性痴呆症めいた無感覚状態で、うずくまっていたり、がたがた身体を震わせていた李、なにか偏執的祭儀に耽っていたりしているところへ、愛想のいいクールミエ氏と家族が登場して自分たちの席につこうとする、みんなは転げるようにして出迎えのお辞儀をする。》
 劇中劇の主人公マラーは、
《濡れたタオルにくるまって(これは彼の皮膚病の治療のためである)、始めから終わりまで簡便な金属製の風呂桶に入っているのだが、最も熱のこもった演説の最中でも、まるでもう死んでいるかのようにじっと空を見つめている。マラーを暗殺するシャルロット・コルデーは美しい夢遊病者の女患者によって演じられるが、彼女は周期的に放心状態に陥って、台詞を忘れ、ついには舞台に寝そべってしまってサドにゆり男個押される始末である。ジロンド党代議士でコルデーを愛しているデュプレーは、骨と皮ばかりに痩せて硬い髪をした患者が演じるが、この男は色情狂であり、紳士かつ愛人としての役からずり落ちて、コルデー役の女患者のほうに淫らににじり寄ろうとする。》
 まだまだ劇中劇の人物のことが書かれているが、のう、この演劇を観たいよ~。
《そして最後は、劇中劇の「出演者」たちが退場しようとするクールミエ院長親子に襲いかかるという幕切れとなる。》
 いや、これは、劇そのものの終了でなく、劇中劇の終了なのだ。では、劇そのものは、どのように終わるか、ソンタグは二通りを予感した。
《ひとつは、自らに回帰して、円環的形式を完成し、音楽のダ・カポと同じく冒頭の一行に戻って終わる、という方法。もうひとつは、外に向かい、「枠」を破って、観客に襲いかかる、という終わり方。》
《患者たち、つまりサドの劇中劇の出演者たちは凶暴化して、クールミエ親子を襲ったが、この混乱ーつまりこの芝居ーは、オールドウィッチ劇場の舞台監督(スカート、セーターに運動靴という現代的服装の女性である)の登場によって中断される。彼女は呼笛を吹く、とたんに俳優たちは動作を止め、向きなおり、観客席に正対する。しかし、そこで観客が拍手すると、俳優たちもゆっくり薄気味悪く手を打ち合わせる。こうして「惜しみない」拍手喝采を黙らせ、観客みんなをひどく居心地悪い気分にさせたまま終わるのである。》
 うわあ、観たい! ここには、ボクがメチャ興味をひかれた見どころが書かれてる。
《この作品の中核を貫く縦糸は、椅子に坐ったサドと風呂の中のマラーとがフランス革命の意味をめぐって交わす議論である。それは実は現代史の心理的・政治的基盤は何かという議論なのだが、ここではそれがナチ強制収容所の経験をへた人間の目を通して、きわめて現代的な感覚をもって顧みられているのである。》
《ヴァイスはある観念を提示するのではなく、観客をその観念に投げこみ、首までつからせるのだ。》
 うわあ、その観念に首までつかりたい。
 ソンタグは、「この芝居こそは、誰にとっても人生最高の演劇体験のひとつになる」と言っているのだが、
《日刊新聞の劇評家から本格的批評家にいたるまで、ほとんどすべてのひとがブルック演出のヴァイス戯曲に対し、はっきりした健保でないにしても、かなりの保留を表明している。》
 何故と思うソンタグは、アルトーの言葉を何度も引用しているのだ。ここっでは、そのアルトーの引用は省略するが・・・。
《ヴァイスとブルックはこのたびの劇場的作品はアルトーだけから大きな影響を受けているわけではない。ヴァイスはこの作品においてブレヒトとアルトーを結び付けようと思ったーなんたる野心!ーと語ったそうである。そしてたしかに、彼の言わんとしたことはわれわれにも了解できる。》
 ますます、観たい。そして、以上だから、表題は「マラー/サド/アルトー」なのである。


 以上が[Ⅲ]、イイこと書かれてたねえ。

スーザン・ソンタグ『反解釈』06

 続いて[Ⅳ]だよ。

「ブレッソンのおける精神のスタイル」だけど、多分、ボクは、ブレッソンの映画は観ていない。なので、残念ながら意見を保留する、と言いたいが、彼の作品と小津安二郎の作品が似ていることが書かれてる。ソンタグは、もっと前の章にも書いてたが、小津安二郎を観ているのだ。以下、その件。
《ウェルズや初期のるね・クレール、それにスタンバーグやオフュールスは紛うことなくスタイルの独創性をもった監督の例である。だが彼らは厳密なひとつの物語形式を創ることはなかった。ブレッソンには、小津と同様、それがある。ブレッソンのフォルムは(小津のそれに似て)感情に直接訴えると同時にそれを鍛錬するように巧まれている。つまり、観客のなかにある種の静寂を、それ自体が映画の目的である精神の均衡を、誘発するように。》
 そして、さらに興味深いのは、ブレッソンとコクトーの相似と相違。
《ブレッソンは思ったよりコクトーに似ているー彼は禁欲的コクトー、審美性を脱ぎ捨てたコクトー、詩をとり去ったコクトーなのだ。両者の目的はひとつー精神のスタイルのイメージを築き上げることだ。》
《視覚的なものを拒否するばかりか、ブレッソンの後期の作品は「美しいもの」をも棄て去っている。彼の使う素人俳優のなかで外形が美しいものはひとりもいない。》
《最初の印象はこれらの俳優が美しくはないということだ。ところがやがて、ある時点から、これらの素人俳優の顔が驚くほど美しく見えてくる。》
《コクトーの主人公たち(たいがいはジャン・マレーが演ずる)の精神のスタイルがナルシズムへの傾向があるのに対し、ブレッソンの主人公たちの精神のスタイルは、種々なかたちでの非自我意識である。》
 コクトーとの違い、小津との相似。
《コクトーと違ってブレッソンは、映画のもつ演劇的なそしてまた視覚的な表現手段をー拡張するというよりはむしろー切り詰めようとする。(この点でもまたブレッソンは小津を思い出させる。小津は三十年の映画作りのあいだに、移動カメラや溶明、溶暗を切り捨てていった。)》

 ブレッソンを評価する映像を見つけたので貼り付けるよ。


「ゴダールの『女と男のいる舗道』」だ。ゴダールは観ている(と思う)が、いかんせん、覚えがないし、これは観ていない。
《ゴダールの映画は、どちらかというと分析よりもとくに証言に傾いている。》
《『女と男のいる舗道』のゴダールは、主人公のナナがいったいどうして売春婦になったのか、普通行われるような筋の通った説明はまったくしない。》
《ストーリーが極端なほど無原則に分断されて十二のエピソードに分かれているー因果のつながりというよりは、ただの続きものであるエピソードに。》
《ゴダールがわれわれに見せるのは、彼女が売春婦になったということだけだ。ゴダールはこの映画の最後でも、ナナのヒモであるラウールがなぜ彼女を「売る」のか、ふたりのあいだに何があったのか、最後に通りで拳銃の撃ち合いがありナナが殺されるが、その背後に何があるのか、われわれに示そうとはしない。》
 ゴダールのベスト5を語ってくれてる映像を見つけたので貼り付けるね。


「惨劇のイマジネーション」は空想科学映画のお話だ。
 西部劇と同様、古典的な要素でできあがってるとし、標準なお手本は五つの段階を踏んでいると、その五つの段階が書かれてるよ。引用はしないけど、カラーでワイドスクリーン向けのもの。もひとつは四つの段階、少ない予算で黒白向きなもの。これだけでも面白い。
《空想科学映画は科学を語るものではない。惨劇を語るものであって、これは芸術の最も古い主題のひとつである。》
 日本のゴジラをソンタグは観てるよ。
《とくにワイド・スクリーンの色彩映画の場合は(日本の本多猪四郎監督とアメリカのジョージ・バル監督が技巧的に最も優れ、また視覚的にも最も刺戟的だ)、事柄はもうひとつ別の次元へ移る。
 したがって、空想科学映画のもっぱらの問題は(〈ハプニング〉というまったく異種の今日的ジャンルの場合と同様)破壊の美学であり、爆発する破壊行為、大混乱の発生に見られる特殊な美である。》
 あ、『ラドン』も『地球防衛軍』も出てくる。


《残酷な、あるいは少なくとも非道徳的な感情のはけぐちがあたえられ、しかもそれが空想上のこととして道徳的に許されることである。》
《この悪夢ーさまざまなかたちで空想科学映画に反映している悪夢ーは、われわれの現実にあまりにも近すぎるのだ。》

「ジャック・スミスの『燃え上がる生きもの』」をボクは知らないけど、こんなのを見つけた。
「炎の生き物 (1963)」ジャック・スミス(https://archive.org/embed/aronaamora_yahoo_Fcr)
 こんなことが書かれてます。「この映画は、ジョン・ウォーターズに影響を与えたアンディ・ウォーホルやクーチャー・ブラザーズのような芸術映画アーティストをもたらしたニューヨーク・アンダーグラウンド・フィルム運動の時代に制作されました。 奇妙なプロットのない映画は、男性と女性のヌードを特徴とし、警察は60年代に上映を頻繁に強制捜査しました。 スミスは約 15 年前の古い軍の余剰フィルムで映画を撮影したため、映画のプリントはひどく見えます。」
《『燃え上がる生きもの』は、性に関する、みごときわまりないペテンであると同時に、エロスの衝動特有の叙情性に満ちた作品になっているのだ。》
 抒情性ねえ、そうかねえ。
《『燃え上がる生きもの』(1962~1963)はニューヨーク警察によって没収され、法廷闘争にもちこまれた。この映画が第五回独立映画賞を受賞することになったときジョナス・メカスはこう書いている。「彼こそは、上品さのひとかけらもない高い水準の芸術を映画のなかで実現した最初のひとである。そのセックスのあつかい方は、彼以前のすべての映画作家たちが依然として束縛のなかにあったことを明確に教えてくれるものである。》
 ふうん。

「レネの『ミュリエル』」は難解だぞ。

《『ミュリエル』が難解なのは、『ヒロシマ、わが愛』と『去年マリエンバードで』が試みたことをともに試みようとしているからだ。この作品はアルジェリア戦争、OAS、植民地人といった実質的な問題を、ちょうど『ヒロシマ、わが愛』が、原爆や、平和運動や戦争協力の問題をあつかったやり方で、あつかおうとしている。けれども同時にまた『去年マリエンバードで」のように、まったく抽象的なドラマを目論んでいる。この二重の意図がなげかける重荷ー具体的であるとともに抽象的でもあるーが、技法面での名人気質と映画の複雑さを倍加している。》
 ちなみに『ヒロシマ、わが愛』の脚本はマルグリット・デュラス、『去年マリエンバードで』の脚本はアラン・ロブ=グリエだ。『ミュリエル』を書いたのはジャン・ケロールだが、この人をボクは知らない。

「小説と映画ー覚えがき」の冒頭は
《映画五十年史は二百年をこえる小説史の大雑把な概要を再現している》から始まるよ。
《少なくとも有効といえる区別は「分析的」な映画と「叙述的」かつ「説明的」な映画という分類であろう。第一の型の例はカルネ、ベルイマン(とくに『鏡のなかにある如く』と『冬の光』、それに『沈黙』)、フェリーニ、それにヴィスコンティである。第二の型の例は、アントニオーニ、ゴダール、そしてブレッソンと言えよう。第一の型は心理映画、つまり登場人物の動機を解明することにもっぱら関心を寄せている映画、とい言うことができよう。第二の型は反心理的な映画で、感情と物のあいだの相互作用をあつかうものである。》
 ボクは、イングマール・ベルイマンやフェデリコ・フェリーニ、ルキノ・ヴィスコンティをよく観た。つうことは、ボクは心理映画がお好きなんだろうね。

 以上が[Ⅳ]、面白いこと書かれてたねえ。
 続いて[Ⅴ]だけど、「《キャンプ》についてのノート」はドショッパツに書いたから飛ばすよ。

「無内容な敬虔」で採り上げられている書物は「Rekigion from Tolstoy to Camus,Selected and introduced by Walter Kaufmann」なる本。「トルストイからカミュにいたる23人の文章の寄せ集め。選者で校訂者はウォルター・カウフマン。プリンストン大学の哲学の准教授。
《カウフマンは序文でこう言っている、「本書に収めたひとたちの大半は、宗教<賛成者>論者である。ただし、偉大な宗教的人物ならば決して崇めることがなかった、あの通俗宗教<賛成>論者ではない」と。》
《宗教一般に対して、共感をもつよう、教えたり誘ったり、できるというのだろうか。》
《宗教的信条が、当人の選択の自由であることは、ウィリアム・ジェイムズの言うとおりである。》
《〈宗教〉の戸惑う権威どもを助けようとする現代の俗界知識人たちの試みなど、あらゆる多感な信者たちと、すべての誠実な無神論者たちとによって、拒否されるべきものである。》
 まさに、その通りだ。

「精神分析学とノーマン・O・ブラウンの『エロスとタナトス』」は、精神分析が、多くの精神を来している患者を治療する精神医療に成り下がってしまっていることに、ソンタグは「それはダメだ」と言う。
 フロイトが『快感原則の彼岸』において、エロス(生)とタナトス(死)を対比させ、生の欲動と死の欲動を二重化し対置性をもって解釈しようとしたのが、そもそもの「エロスとタナトス」流行の淵源だった。ただ、そのようなフロイトの指摘はその後、歪んだり、誤解されたり、忘れられたりもした。多くの精神分析学者は、歪んだ精神を治療するためのものと判断した。それゆえに、精神分析という学問は、多くのこの世の中に生きづらい人を治療する学問に成り下がってしまった。そうじゃないんだ。それを人間文化史上の中軸におきなおして復活させたのがノーマン・ブラウンの本書『エロスとタナトス』だったのである。
 ブラウンの「エロスとタナトス」論の復活はさらに延展されて、その後はたとえばヘルベルト・マルクーゼの『エロス的文明』へと発展していった。大江健三郎に多大な影響をあたえたマルクーゼのこの本は、文明は「エロス≒タナトス」の抑圧からしか生まれてこなかったのだから、それが嫌なら文明のほうを変革するべきだとまで言ってのけたのだ。
 すいません、ソンタグの引用じゃないところから引っ張ってきたよ。

「ハプニングーラディカルな併置の芸術」は、かつて美術と演劇の融合とも言える「ハプニング」な芸術の環境があったそうな。これは、今日、芸術が、絵面だけじゃない、生活までも揺るがすシュールレアリスムから生まれた、新しい芸術運動だ。そこで何が起きるか分からない。そこにあるものは、芸術と言えるものかどうかも分からない。芸術家も参加者も一体になって、何が起きるか分からないハプニングを体験する。
 ただ、これは、訳者さんの言葉を借りれば、ハプニングは衰退し、今は、パフォーマンスという言葉に置き換わっているそうな。パフォーマンスは、演者と観客が混然一体となることも少ないし、その場の即興でもないと思う。
 当時のハプニングが今ないのは、あくまで鑑賞するスタンスで芸術作品を味わいたい、そういうオーソドクスな関わりでいたい人が多いせいではないかな。

 続く「《キャンプ》についてのノート」は冒頭で採り上げたので、次に行くね。

「一つの文化と新しい感性」は、この著作の最後の評論。
《アメリカの画家の中でも最も真摯な人々の多くが、ポピュラー音楽における「ニュー・サウンド」のファンでもあるという事実は、決してたんなる気晴らしを彼らが求めているからではない。それはたとえばシェーンベルクがテニスもやるといったこととは違うのだ。それは、世界と世界のなかにあるものを、われわれの世界を、眺めるための、新しくてこれまでよりも自由なやり方を反映しているのである。》
 わかるわかる。シュールレアリスムに浸りながらヌーヴォーロマンを読み、フェリーニの映画に驚嘆し、ピンクフロイドやイエス、クリムゾンのプログレ音楽に溺れ、ドリフターズに笑い、70年代の歌謡曲を口ずさむ、世界と世界のなかにあるものに、ある繋がりを創り出していく行為だよね。
《こういう新しい感性が最も高まったところから見れば、機械の美も、数学の問題を解決することの美も、ジャスパー・ジョンズの絵画の美も、ジャン・リュック・ゴダールの映画の美も、ビートルズの個性と音楽美も、ひとしく親しみやすいものに感じられる。》
 そうなんだ、全てが親しみやすくなる。ありがとう。以上だよ。


 こうして、500ページもあるメチャぶ厚い書物だったが、ソンタグを読み終えて思ったこと、まえがきにある、
《私が書いてきたのは、厳密に言えば、批評でもなんでもない、あるひとつの美学、すなわち私自身の感受性についてのあるひとつの理論を築くための個人的症例研究に他ならなかったのだ。》
 このことは、終始、読んでて理解した。というか、ボク自身が、ソンタグが言う批評や解釈をしたいと思わない人間なのだ。
 キャンプという言葉をきっかけに、この多くの示唆を与えてくれたソンタグに感謝!!!


スーザン・ソンタグ『反解釈』 posted by (C)shisyun


人気ブログランキング