脳の闇 | 空想俳人日記

脳の闇

 脳科学の中野信子さんの本。なんか、これ、分かりにくそうな本かも。そう思いながらも手にした。

脳の闇01 脳の闇02 脳の闇03

【はじめに】

《本書は表面だけ読んでもそれなりに読めるようにはしたつもりだが、本書は声にならない声を聴くことのできる人だけが読めるように書いた。》
 なんかあ、意味深だなあ。 

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【第一章 承認欲求と不安】

 おいおい、いきなり第一章から、人妻でもある著者さんに言い寄って来た男の話だよ。ここにも書いてあるけど、週刊誌のライターが「もう少し詳しい話を」なんて来ても知らんぞ。
《繰り返し、彼が送ってきたメッセージは、たった一つの内容に集約される。人間は孤独である、という、ごくシンプルな内容。だからこそ、恐ろしかったともいえる。
 脳、という観点から見れば確かに、人間は、誰とも理解し合うことができない。残酷かもしれないが、これは事実だ。》
 人間は一人では生きていけない、社会的生物(共存的生物・依存的生物)である。それなのに、孤独であることは間違いないのだから、その空洞を埋めようとする承認欲求があるのは仕方がない。だが、承認欲求欲しさが目的で、思ってもいないことを言って目を引いたり、同調圧力に加担したりするのは本末転倒だと思う。そんなことで、共感は得られない。というか、人は頷いても、自分が納得できるはずはない。
 著者さんは、「共感というスキル」という言葉で書いてるが、これはちょっと違うと思う。著者さん自身、心が病んでおられると思う。脳科学を突き詰めても解決しないことが多いからだとも思うし、難関の東大卒業していい地位を築いてあとはどうする、だから、そう心に空洞ができるのは分かるけど、本当に共感できることがあるのだ!それを著者さんは、高学歴と、その後のなだらかな死しか目標がない人生だからそうなってしまうのだ。
《ただ、不安と戦わない、という方法もある。目を逸らしておく、という戦略はとても有効なものだ。忘れるとか、勘違いするとか、幻想を抱く、ということができるのは、人間にとっての福音なのかもしれない。》
 そうそう。妄想しちゃうのもいいんじゃないのかな。物語を作っちゃう。

【第二章 脳は、自由を嫌う】

《選択する、ということは、選択した以外の選択肢をすべて捨て去る、ということだ。つまり、選択肢が多ければ多いほど、後悔も大きくなるという帰結が待っているのである。》
 だからだよ、自分で選択せずに、選択した人の言うことを聞いて付いてゆく。その方が楽だ。
《選択肢を誰かに選んでもらえば、この後悔を自ら負わずに済む。選択した誰かのせいにすることができる。》
 そうそう。自分でいい思って信じた政治家がおかしな方向に行っちゃってから、その政治家を責めるんだなあ。
《脳は、確かに共感したとき、「すばらしい人」の味方をしたとき、心地よく感じるようにできている。同時に、自分で考えて意思決定することをやめて、いつでも楽をしたいと思っている。脳は、自由が嫌いなのだ。》
 だから、みんな大衆の一員に溶け込もうとする。出る杭は打たれるし。
 それなら、ここにも書かれてるけど、「あいまい」なままのがいいし、「分からない」ままでもいいじゃないのかな。
《自我を安心させるものが、論理による精密な吟味を寄せ付けない、エモーショナルな強さを持ってしまう。これらが衝突するとき、しばしば人は、互いに「バカ」と言い合うようである。》
 あははは。
《人は「わからない」よりも、「根拠のあいまいな確信」を求めてしまうことになるだろう。》
 ま、分かるけど。
 肉体と心、心は肉体に従うそうな。心って胸じゃなく、脳味噌なんだろうけど。
《身体や現実を、誘導したい方向に操作してやれば、人の心を思うように動かすことができるというわけだ。ハイル! と挙手させる行動など、なかなか興味深い。》
 ヒットラーだよね。
 私が思うに、全ての選挙の候補者は、ヒットラーだよねえ。難しいことは言わない。分かりやすい言葉で、「俺についてこい!」、「ついていくよ」。そして、「ハイル!」だね。日本でも、多く、今も起きている。
 ちなみに、「前へ倣え!」は、どうかね。

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【第三章 正義中毒】

《裏切り者を排除し、なるべく皆が生き延びられるようにするために脳に備え付けられた必要悪が「正義を執行する快楽」であると考えれば、自然に説明がつく。》
《「正義のためなら誰かを傷つけてもいい」だとか「平和のためなら暴力を行使してもいい」という根本的に矛盾を孕んだ思考の構造が典型的で、正義とか平和という免罪符があれば何をしてもいい、という人が意外なほど多いことに辟易してしまう。どこかもの悲しくて滑稽で、「健康のためなら死んでもいい」というよく考えればバカげた物の捉え方とよく似ている。》
 みんな小さい頃から正義のヒーローに憧れたよねえ。その正義が本当は。真の正義か、書かれてるよ。というよりも、正義って何だろう。
 沢山の正義を振りかざす子供向けのアニメや実写があるけど、勧善懲悪って確かにすっきりするようだけど。ボクは「鉄腕アトム」で、正義って本当にあるのだろうか、人間の身勝手な論理じゃないか、そう考えさせられることが多く、すっきりしないことを学んだねえ。そう、たくさんの正義の味方の中で、手塚の月刊「少年」での「鉄腕アトム」は、正義の味方でなく、人間とロボットとの葛藤を描きながら、「人間って何なんだろう」ということを、いつも思い悩まされたねえ。だから、逆に学校での正義ばかりの教科書も鵜呑みにせずに済んだ。
《現実に自分が不倫されたわけでもない、あるいは、自分が事件に巻き込まれたわけでもなく、被害者と面識もないような人が、あいつは許せない! 不謹慎だ! と言って怒る。ただ想像して、その行為を不謹慎だと判断したということになる。勝手な想像とは恐ろしいものだ。むしろ他人のことになど首を突っ込まず、自分のためにだけいきていてほしいと思うが、この一文すらも介入的であるかもしれない。》
 言えてる。「不謹慎」は「汚染」するらしい。だから、その「汚染」を排除するために「不謹慎」な人も排除しないと、みんなに感染してしまう、らしいのだねえ。あほか。
《ネットなどで第三者がさしたる根拠もなく他人を断罪してしまえるのは、正義の執行自体が快感であることに加え、他人を「あいつはダメだ」と下げることによって、相対的に自分の置かれている階層が高く見えるからである。さらに、いち早く糾弾する側に回ることで、他者から叩かれる可能性が低くなる、という防衛的な意味合いもある。》
 そういう人との関わり方で、自分の孤独や空洞を埋めることって出来るのかなあ。なすます空しくなるばかりじゃないかな。だいたい、本来は「どうでもいい」ことじゃないかな。
《自分が気になったとしてもそれは所詮、他人の行動である。「よそ様の人生」にあえて踏み込むメリットはどこにもないのではないか。自分に直接的な被害が及ばない限り、たとえ何をしようとも、他人が指図したり、糾弾したりできるような権利は本来は誰にもないはずであろう。》
 んだ、んだ。「正義中毒」に陥らないよう「メタ認知」を発揮することは勿論だけど、「どうでもいいじゃん」という距離感も大事じゃないかな。

【第四章 健康という病》

 へええ、知らんかった、「過労死」が英語では「Karoshi」なんだ。日本語由来なんだ。
 ということで、ここでは、性格傾向についてタイプA・B・Cと類型化されてて、疾患トン御関連が示されてるよ。でも、これについては、自分がどのタイプかなどと、あんまし思い詰めて考えない方がええと思う。「病は気から」くらいで、いいかなあ。
 あと、「詐病」のことも書かれてるが、これとは異なるだろうけど、ボクは小学校の時、学校へ行きたくないとき体温計を電球で暖めて熱有りにし、自宅で布団に入りながらNHK教育テレビをよく見ていた。NHK教育テレビのが勉強になった。
 それと、集団極性化のリスキー・シフトとコーシャス・シフトは面白い。意見をリードする存在がいるとリスキーが起きる。リーダーが存在しないとコーシャス。
《健康のためなら死んでもいい症候群、というのはリスキー・シフトの一種なのだろう。》
 あまりにも「健康志向」を貫くと生きる楽しさがなくなると思う。

【第五章 ポジティブとネガティブのあいだ】

 先に自分のことを言わさせていただけば、私はポジとネガを行ったり来たりするタイプだよ。行ったり来たりというよりも、沈んだり跳ねたり、かな。沈むと、いろいろ考える。沢山考える。行動は出来ない。でも、まるでバネのように、ぴょ~んと飛ぶ。行動しまくる。でも、あまり考えてないようにに思う。
 そしたら、この章に「なあるほど~」と思わせることが書かれてる。
《うつである被験者のほうが、うつでない被験者に比べて、最適戦略に近い方法で採用を行ったのである。うつの被験者は、うつでない被験者よりも多くの選択肢を検討しようとし、人事採用タスクの成績もずっとよかったという結果になった。うつでない被験者は、なんと、考えることを怠る傾向が強く、十分な数の選択肢を比較検討しようとせず、適当に済ませようとしたのだった。》
《うつなどの気分障害は、人生における諸問題を効果的に分析し、対処可能にするという目的のために生まれた、脳に備え付けられた仕組みの一つなのかもしれない。たしかに気分は良くないものだ。けれど、抑うつ状態が存在せず、ストレスもトラウマもなく、自身の問題について深く長く反芻的に思考するという習慣がなければ、人間は、ひとたび自分が困難な状況に置かれたとき、その苦境を脱することが難しくなってしまうのではないだろうか。》
 あと、音楽について素晴らしいことが書かれてる。
《音楽は、どうやら灰白質の神経細胞を増やすようなのだ。持続的かつ集中的に音楽に携わっている音楽家の聴覚皮質は一般の人より灰白質の神経細胞が多く、両半球を結合している脳梁も15%厚いということがわかっている。》
《音楽は間違いなく脳を動かし、食事やセックスや経済的報酬や他者からの承認や薬と同等に、時にはそれ以上に、心を癒し、人間に幸福感を与える者であると証明されたということだ。》
《面白いことに、悲しいことを経験しているときには、美しいけれど悲しいと感じる音楽を聴くと、つらい気分が和らぐことわかっている。うつに悩む人たちは悲しい音楽を選好して聴くことがわかっているが、これはこうした音楽を選んで聞くと、自然と楽になることを経験的に知っているからだろう。》
《勇ましい曲を聴けば、感情だけでなく思考もより前向きで活動的・建設的になり、やる気が出るという。さらに、被験者たちが使う言葉にも変化があった。前向きで肯定的な言葉が多くなり、聴いた音楽がその思考や感情に対して直ちに影響を及ぼしたということを示唆する結果が得られたのだ。》
《音楽は、副作用のない薬のようなものだ。知らず知らずのうちに追い詰められ、誰にも助けを求められないうちに命を手放さざるを得なくなるまでになって沈んでいく人にも、特別な処方箋がなくとも届けることができる。これが不要不急のものだろうか?研究データを読むにつけ、むしろ、先の見通しのない苦しい時代にこそ、必要不可欠のものではないのだろうかと訴えたい気持ちになってくるのだ。》

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【第六章 やっかいな「私」】

《赤信号を無視せず、ルールを守って、横断歩道の前で立ち続けている。時間に追われて焦っているか、またはせっかちな人が赤信号を無視して何人も道路を渡っていく。それでも、その人たちにつられて信号を無視することはしない。
 気になって、この人が信号を待つ理由を、なぜですか? と聞いてみると、予想外の返事が返ってきた。自分は、ズレを楽しむために、わざわざ赤信号に従ってみるのだという。何事も、早ければ早いほどいいわけではない。自分が赤信号によって止まっている、信号が青になるまでの数十秒の間、そのわずかな時間のズレによって起きるかもしれない運命のいたずらを楽しんでいるんだ、というのだ。》
 この章で重要なのは、これじゃないかな。
《この運命のズレのおかげで、素敵な友人に出会うことができるかもしれない。混んでいるカフェで偶然、そのタイミングで席が座れるかもしれないし、スーパーで買いたいものが30%引きになるかもしれない。この数十秒を待つことが、自分に何かいいことが起こる未来につながっているという解釈。
 この人にとって赤信号で止まるというのは、盲目的にルールを守るという思考停止の所産ではなく、運命を楽しむための能動的な選択なのだ。自分は我慢しているわけではなく、よりよい未来への選択を主体的にしている。だから、信号を無視する誰かを見ても、別に腹が立つことはない。自分は孫をしているのではないのだから。》
 だいたい人間は、とにかく前へ前へ忙しく進みすぎる。そうして、いつしか自然のサイクルとは合わない暴走をし続けているのだよ。ちょっと、これとは違うか。
 先日、AMIが第30回保護猫支援募金LIVEに出演した後、野暮用でというか、みっちゃんの落とし物の件で安城市歴史博物館に再訪したこと、その時、西尾から向かう道を少し間違えて大回りしてしまったこと、その後、帰路に国道1号へ出ようとしたこと、それらは、1号まで出る途中、交差点の前で立ち往生している、おばあちゃんが運転の車を救うべくためであった、という運命だったと思っていることに似ていないだろうか。

【第七章 女であるということ】

 この章はパスかなあ。女性は損? 男性に生まれたかった? 
 ボクが思うに、女性は、死ぬまで生き生きとしている。いい意味でもキラキラしてるし、悪い意味でもギラギラしている。その点、男性は、定年退職すると、いっきにダメ人間になる。たった一つしかなかった職場の地位がなくなると、急降下爆撃機は文句が言いたくて市町村役場に「あのなあ、お前たちなあ」と文句を言いに行くらしい。
 その点、女性は地に着いたワークライフバランスが出来てるので、死ぬまで多くの役割を担って、うるさくもおしとやかにもいろいろ振る舞う術を持っている。単一モードしか持っていない男から見れば、羨ましい存在である。
 中野さんはまだ若いから、そのうち分ると思う。
 この章では、最後の一言を引用させていただく。
《こんな心の軋みを感じさせてくれる環境が、私はそう嫌いではない。生きるということは、軋みを慈しみながら日々を過ごしていくことだろうから。》
 その通りだよ。
 いいですか、男は、最後は、みっともない生き方で終えるんですよ。その時、女性を羨ましいと思うんですよ。だから、男性よりも女性のが、長生きなのよ。

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【第八章 言語と時間について】

 最後の章は、極めてユニークで面白い。
 まず、言葉。バベルの塔の話。共通言語を奪われた話。でも、では、バベルの塔で神に怒りを買う以前に、共通言語があったのか。共通言語があれば、人間は分かり合えるのだろうか。
 ここには書かれてないが、イルカは、人間よりも脳みそをたくさん使っていて、それで、音波みたいなものでコミュニケーションしてるらしい。これは、言語なのか。
 さらに面白い。双子には、双子だけに分かる共通の双子言語があるらしい。
 もっと面白い。個人言語。これは、双子とは限らず、誰も聞いても分からない言葉だけど、個人が、あたかも自動書記のごとく喋る言葉を理解し合う。
 こういう話って、いろんな人とは話はするけど所詮人間は孤独だ、分かり合えない、そういう人には、ワクワクする理想のコミュニケーションだ。どうやら、著者の中野氏も、日頃の普通のコミュニケーションでは共有も共感も出来ないと思っている人みたいなので、興味津々みたいだ。
 ただ、想うのは、これをとことん紐解いていくと、人間同士が共感するって、事実に基づいていなくてもいいじゃん、そう思う。例えば、地球は未だに丸くなく、水平で、中心にいれば安心だが、端へ行けば奈落の底、そんな幻想を真理として思っている人たちがいるとして、それを共有できれば、それが真実なのだ。
 いいですか、これの最たるものが、イエスキリストを信奉する西洋先進国の人たちなのです。信じられないでしょ。
 ボクたち日本人は、檀家制度でいまだに大谷派だよという人もいるでしょうが、殆どの人は、お正月にどこかの神社に行って、「千円あげますから何とかして」って言ってますよね。
 私は、これが普通だと思うんです。
 西洋人って、あちこちにいて、信じてるのは、カトリックかプロテスタントなんですが、地球上のことを考えれば、そんな西洋人のキリスト神話には騙されない、日本固有の古事記・日本書紀もあるし、ある国では、モハメッド絶対もあるし、ある国というか民族では、もっとプリミティブな信仰もあるし。
 そういうことからすれば、生物多様性と同じく、人間多様性がボクら人間にとって、キーワードじゃないか、そう思う。

【あとがき】

《この本は、バカには読めない本になってしまった。言い訳させてもらいたいが、私は特に、バカであることを悪いことだと思っていない。が、個人的には嫌いだ。可能な限り、関わり合いにはなりたくないと思っている。その意味でバカに読めない本というのは理想通りといえば理想通りである。バカにできるだけ見つからないように仕事をしてきたつもりでもある。バカはとりあえず褒め殺しておけば遠ざけることもできる。本当に尊敬している人のことも褒めるから、これは見分けがつかないという点で便利な方法だ。》
 万民が共感する言葉には中身がない、ボクはそう思っている。
 人間多様性なのだから、バカがこの世に存在するのは仕方がないと思う。でも、昔から「バカはうつる(感染)」と言われてたから、近づかないようにしていた。そういうボク自身が「バカ」と思われていたかもしれないが。
 見たくも聞きたくもないことを誰もみたくはないし聞きたくもない。ただ、人間には怖いもの見たさがあるし、想像力・妄想力などというものもある。だから、ボクは、多様性という都合のいい言葉で、上も下も右も左も、「ま、いいかあ」としてしまうのかもしれない。
 とにかく、著者さんの脳の闇を怖いもの見たさで見れた気がして面白かった。


脳の闇 posted by (C)shisyun


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