坂本龍馬、明治維新、幕末、高知、桂浜、いろは丸、JIN 仁、福山雅治、ブルース・リー、龍・竜・ドラゴン、司馬遼太郎、竜馬がゆく、坂の上の雲、NHK大河ドラマ「龍馬伝」、牧野富太郎、西郷隆盛、らんまん、洋楽、歌謡曲。


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音路129.坂をのぼる歌が似合う場所
【愛らんまん.7】

 


今回は、連載「愛らんまん」の第7回になります。
本連載は、先日まで放送しておりましたNHKの朝ドラ「らんまん」の主人公のモデルである植物学者の牧野富太郎(1862・江戸時代の文久2 ~ 1957・昭和32 / 享年96歳・満94歳)の足跡や、関連の植物、家族、関連の深い人物、歴史、高知のことなどについて書いています。

* * *

今回は、高知の銘酒「司牡丹」、牧野富太郎、坂本龍馬、明智光秀の関係性について書く前に、「歴音fun」として、坂本龍馬という人物像について、かなり ざっくりとではありますが、要所のみを書きたいと思います。

昭和の時代は、坂本龍馬といえば、日本中の老若男女が知る 歴史上の大スターでしたが、平成を経て令和の今は、若い世代で知名度があまり高くはなく、名前と暗殺されたことぐらいは知っていても、どのような人物で、何をした人物かを知らない若い世代が増えていると聞いています。
昭和世代としては、ちょっと さみしい…。


◇昭和世代に人気の龍馬

来年2024年から、お札の紙幣の顔が変わりますね。
福沢諭吉から渋沢栄一へ、樋口一葉から津田梅子へ、野口英世から北里柴三郎へ。
なんとなく知っているようでいて、どんな功績を残した人たちか、歴史好きならともかく、そうそう答えられませんね。
だいたい、今は、紙幣を使わない若い世代も多いのですから、彼らが紙幣の顔に興味を持たないのも仕方ありません。

昭和の世代は、紙幣の顔に、歴史上でモデルはいても実在はしていなかった聖徳太子の復活や、初の日本人ノーベル賞受賞者の湯川秀樹を推す声が非常に多くあります。
いつかはノーベル賞受賞者も紙幣の顔になる日が来るのかもしれませんが、今や結構な人数です。想像以上の難しさかも…。
政治家や軍人、武将は、お札の顔にはしません。基本は学者や文化人です。

実は、昭和の世代に、聖徳太子や湯川秀樹などに並んで人気が高いのが坂本龍馬です。
政治家とも、軍人ともいえないような人物ですね。
だいたい脱藩した浪人で、文化人とも、生粋のビジネスマンともいえません。
まさに、得体のしれない自由人!


◇知る人ぞ知る… 龍馬

坂本龍馬は、彼の思想のオリジナリティの度合いや、日本史における実際の歴史的功績を考慮すると、日本史の教科書に載せるほどの人物かどうかで議論になったりもします。

義務教育の日本史の教科書では、覇者となった有名な武将たちの名前は登場しますが、その配下にいた優秀な軍師の名前は登場しませんね。
戦国時代は「軍師」という名称はありませんでしたが、軍団の戦術、戦略、作戦、陰謀・謀略を立案し、準備をし、外交交渉をする人物を指します。
もちろん、軍団の、大将とは別の、もうひとりの最高指揮官です。

歴史好きでないと、戦国時代のそれぞれの軍団の軍師の名前を、あまり知りませんよね。
優秀な軍師を持たない大将は、まず出世できなかったと言っていいと思います。
歴史上の有名な軍師的な地位の人物は… 山本勘助、黒田官兵衛、竹中半兵衛、直江兼続、本多正信、片倉小十郎、太原雪斎などなど。

龍馬も、どちらかというと、名武将ではなく、隠れた優秀な軍師のような存在に近いのかもしれません。
ですが、守ってくれる、特定の大将は持っていませんでした。

薩長同盟や船中八策は、彼だけの偉業やアイデアではありませんが、非常に重要な役割で仕事をしました。
彼の実行力がなかったら、西日本各地の、思惑がバラバラの諸藩たちが結束して、江戸の将軍家に立ち向かえたかどうか…。
私は、ある意味、龍馬は、大将を持たない名軍師だったようにも感じます。

* * *

龍馬には、歴史の表舞台で目立った手柄になりそうな実績がなく、明確な地位もなかったため、江戸時代末期から明治初期でさえ、一部の上流の武士階級の間でしか知られていない存在であっただろうと思われます。
そのかわり、各藩のトップクラスの地位の者たちには、まさに「知っておくべき人物」と見られていたのは確かだったと思います。

彼が もう少し長生きし、明治新政府の中か外で、何か大きな実績を残せていれば、世間の知名度は、また少し違ったのかもしれませんが、残念ながら、彼の知名度が、世間の一般庶民までおりてくることはなかったと思います。

明治時代の中頃になっても、剣術に興味のある方々の間のみで、「どうも幕末にいた、強い剣豪のひとりだったらしいよ。千葉周作の門下に入り、周作の姪(めい)の千葉佐奈(小説では佐那)さんと恋仲だったらしいよ」くらいの認識であったようです。
暗殺されたことはもちろん、ほとんどの一般庶民は、龍馬のことを知らなかったと思われます。

高知市の桂浜にある龍馬像は、龍馬の死から61年後の1928年(昭和3)に建立されましたが、それは、歴史上の龍馬をよく知る、あくまで高知の有志の手によるものでした。

その後、昭和の中頃になり、日本中の人々が、坂本龍馬という存在を知り、驚愕することになります。

* * *

1962年(昭和37)から新聞で連載が始まった司馬遼太郎の小説「竜馬がゆく」の大ヒットで、坂本龍馬の名が日本中に知れ渡り、突如、日本史の中の英雄になりました。

「こんな すごい人物が土佐にいて、彼の行動が、江戸幕府の終焉をむかえさせたのか…」

この頃から、日本中で、彼に関する調査研究が始まったようです。

1962年(昭和37)になり、龍馬は、一般の知名度が抜群になりましたが、坂本龍馬の本当の姿は、今もまだ、完全には解明されていないのかもしれませんね。


◇革命の最初の、いろは…

さて、龍馬が作った結社「海援隊(かいえんたい)」と、彼が作った 今の商社のような存在の「亀山社中」が、伊予国(今の愛媛県)の大洲藩から購入した(受け取った)小型蒸気船「いろは丸」は、1867年5月、瀬戸内海の広島県福山市の「鞆の浦(とものうら)」の沖合いで、紀州藩(今の和歌山県)の大型船と衝突し沈没しました。

このあたりから、龍馬の最後の二年間の政治力と行動力が炸裂します。

* * *

もともと、この蒸気船は、1863年に薩摩藩が英国から購入し、薩摩藩の五代友厚(ごだい ともあつ)の交渉で、伊予国の大洲藩に売却され、薩摩藩と龍馬の海援隊の手で、伊予国の長浜に運ばれました。
「いろは丸」とは龍馬の命名ですが、なんとも意味深!
この「いろは丸」は、長浜と、九州の長崎の間を何度か往復していました。

幕府への各種の届け出には、適当な理由をつけ、龍馬と大洲藩の間の契約も、どうも不可解?

土佐藩は、大阪に武器弾薬を運ぶため、その「いろは丸」を借りることにします。
一応、そういう名目?

1867年4月、この船に、武器弾薬が積み込まれたというかたちで、伊予国の大洲藩士は乗り込まず、海援隊だけで、大阪方面に向け、長崎を出航します。
出航してから数日の後、瀬戸内海の「鞆の浦」の沖合いで、徳川御三家の紀州藩所有の大型船「明光丸」と衝突し、小型の「いろは丸」だけが沈没します。
船の大きさは、比較になりません。

「土佐藩の武器弾薬と、大洲藩の船を、どうしてくれるんじゃ!」

土佐藩と紀州藩の間で交渉が始まり、ここで、長州藩(今の山口県)が登場し、紀州藩の船が全面的に悪いと土佐藩の援護を行います。
ころあいを見て、薩摩藩の五代友厚が登場し、土佐藩と紀州藩の仲介に入ります。
紀州藩は全面的に敗れ、今の160億円近い賠償金を土佐藩側に支払います。
紀州藩だけで賠償金を用意できるとは思えません。

結果的に、船の購入代金も、武器弾薬(実際には積み込んでいない?)の費用も、運航費も、幕府側に出させたようなかたちです。
それよりなにより、薩長や土佐と、紀州徳川家の間に、何らかの深いルートができたことは、状況を一変させる出来事でしょう。

見事な、4藩(土佐、薩摩、長州、大洲)の連携のようにも感じます。
ですが、大洲藩は、藩内の特定の人物に責任を押しつけ処刑し、薩長側と幕府側の中間の立場を堅持したように感じます。
薩摩と長州は、もはや倒幕から後に引くことはできませんでしたが、「関ヶ原の戦い」の時と同様に、その他の諸藩は、幕府と薩長のどちらが勝利するかわからない以上、どちらにもつけるような中間的な立場をとるのは当然の選択です。

徳川家康は、戦国時代の「関ヶ原の戦い」で、薩摩の島津義弘を取り逃がしてしまいましたが、死ぬまで悔やんだといわれています。
毛利家のとりつぶしも、三本の矢によって、実現できませんでした。
まさか260年あまり後に、その後悔が禍(わざわい)するとは…。

* * *

さて、「いろは丸」に絡む一連の謀略(?)の実行部隊が、坂本龍馬であったのは確かでしょう。
龍馬は、この時に、海難事故に関する国際法を持ち出し、「紀州(徳川)にくし」を世間に吹聴し、世論操作を行っています。
この時の流行歌の歌詞に、「船を沈めた その償いは、金を取らずに 国を取る」がありました。
相当に刺激的な歌詞ですね。
薩長と龍馬は、「国をとりにいく」…まさに世間への宣言にも聞こえてきますね。

幕府側が、どの程度まで、この「いろは丸事件」の全体像を把握していたのかは、わかりません。

表面的には、江戸幕府側の紀州藩と、さしで戦った龍馬が勝利したかたちにも見え、彼の行動力と立ち位置は、西日本の各藩に、とどろいたのではないでしょうか。

紀州藩は、龍馬と薩長に屈した!
というより、つながった?
やるな、この土佐の浪人!

* * *

ここで、洋楽を一曲…。

英語表現の「Rock the Boat(ロック・ザ・ボート)」は、日本的に言う「波風をたてる」「事を荒立てる」「雰囲気をかき乱す」などの時に使う表現です。
その場の空気を読まず、雰囲気をぶち壊す人たちのことを表現したりもしますね。

いい意味では、「雰囲気を一変させ、嵐を巻き起こせ」「ぬるま湯の現状を打破しろ」などと言い換えることもできますね。
「風雲児」「革命児」「時代の寵児(ちょうじ)」などのような人々… 織田信長、源義経、そして坂本龍馬のような人物もイメージしますね!
牧野富太郎も、ある意味、革命児!

龍馬…そのアイデアを、どこから得たの?

ヒューズ・コーポレーションの1974年(昭和49)の大ヒット曲。
♪ロック・ザ・ボート(愛の航海)

 


◇最後の数か月

ここからは、龍馬の生涯最後の二年間ほどの行動をざっくりとご紹介します。
この二年間ほどの彼の行動が、後世にまで語り継がれる内容となります。

龍馬になじみのない若い世代の方も、このくらいの内容を知っているだけで、龍馬を描いたテレビドラマに興味を持っていただけるかもしれませんね。

* * *

1866年1月、薩摩藩(今の鹿児島県)と長州藩(今の山口県)の間で、「薩長同盟」が結ばれました。
坂本龍馬も、その実現のために奔走したひとりでしたね。
内容は割愛しますが、その時に、両藩は、龍馬の力量を確信したのだろうと思います。

当初は、暴走ぎみの長州藩でしたが、徐々に、ち密な戦術的戦いを見せるようになってきたのも、龍馬の影響があったかもしれませんね。


同年6月、幕府は「第二次長州征伐」を行いますが、長州藩の最新兵器に撃破され、幕府側の勝海舟(かつ かいしゅう)と長州藩が交渉し、停戦となります。
反幕府側の裏に英国がいるため、幕府はフランスに支援を依頼しますが、ようは、英国とフランスは、日本をどちらが手中にするかで競うことに…。
米国は、南北戦争の時の、古い余った武器を買うやつはどこかにいないか…。新兵器のテストも、どこかの戦場でしたいな…。

* * *

龍馬は、同年8月に、福井藩の松平春嶽(まつだいら しゅんがく)に頼んで、将軍の徳川慶喜に政権返上を進言してもらいますが、想定どおり、慶喜は拒否します。

福井という場所は、もともと家康が、西日本勢力に対抗するための日本海側の重要軍事拠点として整備した場所で、松平家の要所のひとつでした。
もともと古い時代から、日本海側最強の良好な軍港があった地域です。今も…。

家康の時代の越前藩(今の福井県)は、徳川家康の次男で、秀吉の養子となった結城秀康(ゆうき ひでやす)が初代藩主で、「関ケ原の戦い」後に完全な徳川・松平側になり、徳川方として重要な福井の地を守ることになります。
二代将軍の徳川秀忠は家康の三男で、長男の信康はすでに亡くなっています。

京都には二条城をおき、大阪城は全面的に作り変え直轄とし、福井・名古屋・和歌山のラインが、徳川の、西日本勢に対する重要な「防衛ライン」となります。
名古屋は最大の軍事拠点で、福井が日本海側の海を、和歌山が太平洋側の海を監視しました。

幕末の薩長や土佐にとっても、この福井・名古屋・和歌山の「徳川家防衛ライン」をどうするのかというのが、相当な課題であったのは間違いありません。

福井藩の松平春嶽とは、勝海舟(江戸幕府)が、1863年に春嶽から大金を借りるために、龍馬を派遣した相手です。
春嶽は、この時に、龍馬の力量を実感したのだろうと思います。

この数年後、最終的には、徳川家・松平家一族の最重要の立場の、福井も、名古屋も、和歌山も薩長側につきます。
もはや、江戸の将軍家に味方してくれる徳川・松平勢は、東日本の一部にしかいなくなってしまいます。

* * *

さて、翌1867年の5月、前述の「いろは丸事件」が起こりました。
偶然に衝突したとは、私は 到底 思えません。

前述の福井と和歌山は、これで手中に…。
後は、徳川最大勢力の尾張・名古屋の徳川家…。

同年6月には、広島藩も薩長側につきますが、肝心の土佐藩内部で、武力で幕府を完全打倒したい一派と、将軍に政権を返上させる「大政奉還」という穏健派に割れてしまいます。
というよりも、これも土佐の巧みな戦術…。

土佐藩が、福井藩の松平春嶽に、さまざまなお願いをするのが、同年10月。
その10月に、将軍の徳川慶喜が、明治天皇に政権を返上する「大政奉還」が行われました。

龍馬は、1867年11月上旬、「船中八策」をもとに作られた「新政府綱領八策」を起草することになります。
その新政府の中心人物の名のところに、「○○○自ら盟主と為り」と記述し、空欄にしたことは、よく知られていますね。
龍馬が、誰かに、何かに、配慮したのは間違いないと感じます。

後世、さまざまな人の名が候補となっていますね。
もちろん、徳川・松平家のひとりである松平春嶽も、候補のひとり。

「何! 徳川の人間を中心に…」

* * *

薩長側は福井・名古屋・和歌山の防衛ラインを突破はしましたが、まさに金欠状態!
徳川家の牙城の江戸まで、もう少し…。

薩長側には、薩摩出身の大軍人の西郷隆盛がいました。
江戸幕府には、薩摩出身の篤姫や、天才軍師の勝海舟がいました。
江戸の街は、無事に乗り越えられるのか…。

戦闘することなく、江戸城が無血開城されたのは、大政奉還の翌年の1868年の春のことでした。

ひとまず、「徳川の代」は終わりましたが、さて、薩摩や長州、土佐の一部は、これで納得するでしょうか…。数々の遺恨を、戦闘なしで納得できるでしょうか…。
そして、幕府の庇護にあった東日本の武士たちは、納得するでしょうか…。

* * *

この数か月の坂本龍馬の活躍ぶりは、まさに英雄的な行動に見えますね。
西郷隆盛は、時代の政治体制を一変させた、家康以来の軍人なのですが、政治や交渉は少し苦手。
龍馬が それをカバーしたのだろうと、私は感じています。

とはいえ、「龍馬の役目はここまで…」だったのでしょうか。
幕府がなくなり、職を失ったと感じた、武士たちは、さて…。
一方、一部の武士たちは、徳川将軍家を武力で滅ぼさずに、この恨みをはらせるか…。
英国とフランスは、虎視眈々と狙っている…。

同年12月、龍馬は京の近江屋で、暗殺されました。
「いろは丸事件」から、なんと7ヶ月あまりしか経っていません。
まさに戦国時代と同じような、幕末の動乱でしたね。

龍馬の死後も、動乱は まだまだ続きました。

* * *

幕末から明治維新の時代は、人は、使い、使われます。
自身の意思で、頃合いのいい時に、表舞台から なかなか退場できないのも、この時代でしたね。
龍馬だけでなく、みな、覚悟を決めて、命をかけていたのだろうと思います。


◇海の向こうを、見ゆう!

さて、幕末の頃は、日本中に、江戸幕府による専制政治に疑問を持つ若い世代が続出してきており、多くの思想がありました。
ざっくりといえば、それまでの徳川家による江戸幕府を倒し、それにかわる勢力による、天皇をトップにした新しい思想のもとでの統治と、幕府体制かどうかは別としても、これまでどおりの徳川家のもとでの武士による統治の二つに分かれていました。

諸外国と上手に付き合って開国するのか、それとも諸外国の侵略に武力で備え対抗するのかも、大きなテーマでした。
実際には、いつの時代も、国にとって両者とも重要なことですね。

土佐藩は、当初、龍馬を使って、薩長にも負けない新体制の中のトップの地位になろうとしましたが、最終的には、そこまでの存在にはなりませんでした。
ですが、高知からは、龍馬だけでなく、学術界でも、ビジネス界でも、優秀な人材が次々に輩出してきたため、目立つ「土佐出身者」が少なくありませんでしたね。
牧野富太郎も、もちろん、そのひとり!

* * *

前述した司馬遼太郎の小説「竜馬がゆく」の内容は、歴史の中で実在した個性あふれるキャラクターを、ドラマチックに、フィクションをまじえて描いた物語でした。
司馬は、本ものの「龍馬」と区別するため、主人公の名を「竜馬」にしましたね。
小説の中では、 史実の一部を上手に組み込みながら、まさに英雄的な活躍をし、悲劇的な最期をむかえました。

日本史の中には、最期に悲劇的な暗殺で生涯を閉じた人物は少なくありませんが、坂本龍馬は、まさにトップクラスの有名人ですね。
活躍と、突然の悲劇…、まさに小説物語の王道!

龍馬には、立身出世して成功した政治家や実業家とも違う、牧野富太郎のような功績を残した学者とも違う、得体のしれない人物像がそこにあるような気がします。

* * *

私も、中学生頃に、この「竜馬がゆく」を読みましたが、史実に、想像と誇張が加わっていることを知ったのは大人になってからでした。
ですが、この小説により、日本人の心の中に、今の「龍馬像」ができあがったのだろうと感じます。
歴史研究者であるのなら別ですが、一般的な人物像は、むしろ そのほうがいいのかもしれません。

土佐の高知にとっても、彼以上に、人気と理想を兼ね備えた人物はいないといっていいのかもしれません。

高知の桂浜に、海の向こうの遠くを見つめる…、自身の未来を見つめる…、社会の未来を見つめる…、坂本龍馬がそこに立っていることこそが大事なのだろうと感じます。

海の向こうを、見ゆう!

* * *

今や、一大観光地に…。
太平洋の海の向こうの未来を、しっかり見てきて!

 

桂浜めぐり

 


◇フィクションの中の「誠」

やはり時代小説に、吉川英治の「宮本武蔵」がありますが、これも史実にそってはいても、史実とは異なる部分が多くあります。

剣豪の宮本武蔵の半生を描いていますが、この後に「五輪書」を残す武蔵であるのなら、一般庶民が このような人物像であってほしいという理想が、ドラマチックに深く描かれていました。

牧野富太郎をモデルにしたNHKの朝ドラ「らんまん」も、実は、同じようなアプローチですね。

* * *

もちろん、各人物の学術的な歴史が記録され残されていくことは大切ですが、他方、各人物が歴史に残すイメージや意味あいを、私たちが記憶していくには、こうした「フィクション(架空の創造物)」をまったくの虚偽だとは、必ずしも言えない気もします。

「真(まこと・しん)」は、そのものの本当の姿で、虚偽ではない真実のことですが、一方、「誠(まこと・せい)」は、虚偽のない心理や思いを意味していますね。

「フィクション(架空の創造物)」だからこそ見えてくる「誠」、伝わる「誠」もありますね。
それでも、「誠」は同じでも、本当の歴史の「真」は別にあったりもします。

「坂本龍馬」と「坂本竜馬」は、「真」は違っても、「誠」は同じなのかもしれません。


◇龍、竜、ドラゴン!

さて「龍」と「竜」という漢字の成り立ちには諸説ありますが、古代中国では、もともと想像上の龍という生き物の姿形を、漢字に変形進化させたもので、龍と竜の両方のかたちが、それぞれ別々にあったという説があります。

「竜」という漢字は、上部が頭で、下部が尻尾です。
「龍」という漢字は、右側に、背のひれを強調した装飾のようなものが付いています。

古代の日本に伝わってきた漢字は「龍」でした。
昭和の終戦の頃までの日本では、「龍」しか使用されていなかったようです。
ですから、龍馬も、龍馬の妻も、「龍」です。
芥川龍之介も「龍」。

* * *

終戦後の1954年(昭和29)に「竜」も当用漢字として採用され、「龍」の正字となりましたが、「龍」も人名用の漢字として残りました。
ですから、他の場合は、「龍」から「竜」に変わっています。
「龍神様」は、時に「竜神様」になります。
今も人名使用漢字として残っているのは、ひょっとしたら坂本龍馬のおかげ…?

司馬遼太郎が小説「竜馬がゆく」の中で、「坂本龍馬」を「坂本竜馬」にした背景には「竜馬がゆく」が、本ものの龍馬と、架空の存在の「竜馬」を区別させる意図があったといもいわれていますね。
朝ドラ「らんまん」では、「牧野富太郎」が、「槙野万太郎」と表現されましたね。

* * *

「龍」という漢字から「竜」が生まれたわけではなく、「龍」が旧字体で、「竜」が新字・略字というわけではないようです。

「龍」と「竜」の漢字の歴史には諸説ありますが、ある時、日本にも、いにしえの「竜」がやって来て、「龍」と「竜」が共に暮らすようになったということのようです。

ちなみに、「りゅう」は訓読み、「りょう」は音読みです。
訓読みの「音(おと・ね)」と、音読みの「音(おん)」の関係と同じです。
外国人が漢字を覚える時に、とても苦労する部分ですね。

* * *

ここからは、龍と竜とも違う、もう一匹の「ドラゴン」の楽曲を…。

東洋の「龍」という架空の生き物は、西洋の架空の生き物「ドラゴン」によく似ています。
「龍」は、「ドラゴン」と英訳されます。

東洋の龍は、霊力を持った、人間に危害を加えない神秘的な生き物であるのに対し、西洋のドラゴンは、魔力を持った怪物のように描かれることが多くあります。
中には、時折、東洋的なドラゴンもいますね。

1984年(昭和59)の映画「ネバー・エンディング・ストーリー」には、白いドラゴン「ファルコン」が登場!

 

リマール
♪ネバー・エンディング・ストーリー

 

* * *

映画「燃えよドラゴン(Enter The Dragon)(1973・昭和48)です。
ブルース・リーは、この映画の撮影後、その封切りを見ずに、1973年に死去。
死因は断定されませんでしたが、身体や頭の鎮痛剤や大麻(?)の影響による脳浮腫ともいわれています。
世界中の映画ファンが、彼の名を知った時、彼はすでにこの世の人ではありませんでしたね。
1973年当時の香港(ホンコン)の風景も…。
♪燃えよドラゴン

 

* * *

イマジン・ドラゴンズの大ヒット曲。
♪ビリーバー(2017・平成29)

 

クイーンの1981年(昭和56)のライブから
♪ドラゴン・アタック

 

TOTO(トト)の2013年(平成25)のライブから
♪セント・ジョージ&ザ・ドラゴン

 

SEKAI NO OWARI(セカイノオワリ)
♪ドラゴン・ナイト(英語バージョン)(2014・平成26)

 

同曲の日本語カバー
シャーンノース
♪ドラゴン・ナイト

 


◇いとしき風景

ここからは、坂本龍馬が重要な役どころとして登場した、大ヒットテレビドラマ「JIN 仁(じん)」の音楽を…。

♪「仁」メインテーマ

 

2009年(平成21)に、大ヒットしたテレビドラマ「JIN(仁)」(出演:大沢たかお、綾瀬はるか、中谷美紀、内野聖陽ほか)がありましたね。
それ以降も、続編が作られました。

時代を超えて、人間ドラマが展開する感動の空想物語でしたね。

私は、今でも、ロケ地のひとつとなった、東京お茶の水の「順天堂大学病院」の前をクルマで通ると、ドラマ「JIN(仁)」のことを思い出します。
頭の中に、江戸時代の橘 咲(演:綾瀬はるか)の姿が、よみがえります。
ドラマの中でも、現代の「お茶の水」の江戸城の外堀の風景が何度か登場しました。

別々の時代に生まれた男女…、再会できない…。
それでも…、逢いたいの、今の時代で!

2009年版の主題歌です。
MISIA(ミーシャ)
♪逢いたくていま

 

2011年版の主題歌です。
平井 堅(ひらい けん)
♪いとしき日々よ

 

瞳を閉じると、まさに、あの時代を、あの人を…思い出す!
ドラマ「JIN(仁)」のテーマ曲とともに、明治時代と今の東京を…。

 

 

 


◇モテ男伝!

本連載「愛らんまん」は、植物に関連した連載でもありますので、少しだけ、植物関連のお話を…。

龍馬が詠んだ、花が登場する句に、次のようなものがありますね。
別人の作という説もあるようです。
「藤の花、今をさかりと、咲つれど、船急がれて、見返りもせず」

龍馬は自身のことを、「僕は、男振りは悪いが、矢ツ張り(やっぱり)、(女が)惚れる」と語ったという話が残っていますが、妻の「お龍」の他にも、結婚直前であったであろう平井加尾と「鬼小町」の千葉佐奈、他にもたくさんの女性に、モテモテでした。

「藤の花」は、万葉集の昔から、女性にまつわるエピソードや伝説をたくさん持つ植物です。
龍馬の この句の「藤の花」も、女性をイメージしていた可能性は高いと思われますが、それよりも、やるべき道にまっしぐらの龍馬の姿を想像させますね。
この句の「藤の花」は誰のこと? 

 

見返りもしない美男… 見返りもせず色男!
藤の花たちが、キャ~!?

 

いや、それとも、まったく逆…?

藤の花たちは、振り返ってもくれない!?

 

「モテ男伝」の龍馬さん、どっち?

 

* * *


2010年(平成22)のNHKの大河ドラマ「龍馬伝」では、平成の「モテ男」が、こころよく主人公役を引き受けてくれましたね。
福山雅治さんの、俳優としての代表作のひとつだと思います。

作曲:佐藤直紀
♪龍馬伝

 


◇心配せんじゃち、え~がよ!

坂本龍馬のよく知られた句に、「君がため、捨つる命は、惜しまねど、心にかかる、国の行末」というものがあります。
1863年の5月に福井藩を訪ねたときの酒宴の席で、披露されたものです。

* * *

この頃の日本では、朝廷と幕府が協力し政治統治を行い、幕府が中心的に任を担い、諸外国と戦争することなく外交交渉を行う思想の「公武合体派」と、幕府を打倒し、天皇を国の中心にする新統治体制で、諸外国を戦闘で追い払うという「尊王攘夷派」に、おおまかに分かれていました。

坂本龍馬の思想は、両者の中間のような思想で、さらに先を想像させるような思想とも感じますが、それがもっとも難しい道のりであろうと思います。

天皇制の存在はそのままに、立憲君主制、議院内閣制のいいとこどりのような柔軟な方向性で、憲法・権利・自由・平等を意識していたことでしょう。
後の「民主主義」に近いイメージを持っていたのかもしれません。
昭和の戦後の日本のようなイメージを、漠然と持っていたのかもしれませんね。

* * *

当時の長州藩(今の山口県)内でも、前述の両派が対立し、当初、吉田松陰ら尊王攘夷派は幕府から相当に弾圧されます。

長州藩では、開国論者であり、公武合体派の長井雅楽(ながい うた)が、長州藩を代表し、さまざまな外交交渉を行っていましたが、徐々に尊王攘夷派が武力で台頭し、長州の潮流の中心になってくると、長井雅楽は切腹に追い込まれました。

長井雅楽の切腹から3ヶ月後、龍馬は、福井に出向き、その酒宴の場で、長井の辞世の句「ぬれ衣の、かかるうき身は、数ならで、唯思はるる、国の行末」を引用し、この歌「君がため、捨つる命は、惜しまねど、心にかかる、国の行末」を詠みました。

坂本と長井が、近い思想を持っていたように感じます。
和歌や句の中の「君」は、通常は天皇を指す言葉ですが、龍馬の句の場合は、天皇や国だけでなく、長井のことも指しているのかもしれません。

穏健で柔軟な中間思想を持った人物たちは、歴史の中で、順番に去っていくことになります。
ある意味、西郷も、薩長間の競争というだけでなく、順番のひとりだったかもしれませんね。

* * *

明治新政府の作られ方や内容は、坂本龍馬が思い描いた内容とは、必ずしも合致してはいないでしょう。
ですが、西郷が、龍馬の思想をしっかり理解していたのは間違いないでしょう。

龍馬の思い描いた内容ではなかったにせよ、結果的には、特定の特権武士階級の独裁専制体制ではない民主国家体制のベースができ上りましたね。

日本だけではありませんが、世界のどこの国でも、時間がかかり、大きな犠牲を払いながら、時代は変わっていきますね。

「後においてきた、おまんら、なんちゃ 立派ちや!
心配せんじゃち え~がよ!
土佐の酒、もういっぺん、ちっくと飲みたいねや!」

龍馬さんは、天国でそんな事を言っているのかも…。
とはいえ、土佐高知の「ちっくと」の量は、想像を超えとるき!

* * *

幕末から明治初期の、東京、横浜、鎌倉、函館、名古屋、京都、奈良、神戸、長崎です。

 


◇坂をのぼる歌が似合う場所

1966年(昭和41)に完成した小説「竜馬がゆく」を書いた司馬遼太郎は、1968年から1972年(昭和47)にかけて、小説「坂の上の雲」を書き上げます。
明治維新後の日本の苦難の道を描いた内容です。

江戸時代260年の平坦な道を歩んできた日本でしたが、幕末の頃から、ある意味、空の雲をめざして、時代という坂を、急にのぼり始めたといっていいのかもしれませんね。

* * *

戦国時代の侍の精神性の中には、「自身が死ぬ時と死ぬ場所を、自身が決める」というものがありました。
命は、天の意思によって与えられますが、自分自身の役割を果たし、残すものを残した後は、自分の意思で、命を天に返すとでも言っていいのかもしれません。

まさに、西郷隆盛は、日本に残る多くの侍たちを引き連れて、侍の時代の最後の幕引きを、自分の意思で行いましたね。

龍馬に続くか… これで よか!

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NHKのドラマ「坂の上の雲」の第一部のオープニング・ナレーションです。

 

NHKのドラマ「坂の上の雲」の第三部のオープニング・ナレーションです。

 

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明治時代は、1868年(明治元)に始まります。
今、155年が経ちましたね。
江戸時代の264年間の、まだ半分と ちょっとだけ…。
数千年の日本史の中では、まだ、ほんの「ちっくと」…。

明治新政府から続いた政治統治は、昭和の太平洋戦争の終戦で終了しました。
大きな代償の後に、新しい政治体制にバトンタッチされました。
人間のバトンリレーは、まだまだ続きます。

* * *

坂本龍馬も、西郷隆盛も、坂をのぼる途中で去っていきましたが、私は、今の日本が坂をのぼっているのか、くだっているのか、よく わかりません。

ただ、この楽曲が日本で一番似合う場所は、高知の桂浜ではないだろうかとも思っています。
高知の桂浜に来るたびに、海の向こうに、新しい国のかたちがあるような気がしてくるのです。

日本人という民族は、本当は、いつも坂をのぼるのが好きな民族であろうと、私は思っています。
汗をかきながら、忍耐強く、坂をのぼるのが、「性(しょう)」に合っているのかもしれませんね。

坂をのぼる、龍や馬は、いつの時代の日本にも生まれてくる気がします。


〔歌詞の最後部〕

♪はてなき想いを
♪明日の風に乗せて

♪私は信じる
♪新たな時がめぐる

♪凛として旅立つ
♪いちだの雲を目指し


いつか、私も雲を目指してのぼるとき、龍馬や隆盛のように、凛とした姿でありたいものです。

作曲:久石 譲 / 作詞:小山薫堂
歌:森 麻季

 

この場合の「スタンド・アローン(Stand Alone)」とは、「誰にも頼らず、独立して、しっかりと立つ」という意味あいです。

♪スタンド・アローン

 

* * *

次回の連載「愛らんまん」は、高知の銘酒「司牡丹」、牧野富太郎、坂本龍馬、明智光秀のつながりについて書きたいと思います。

坂本龍馬が、なぜ明智光秀と同じような、悲劇的な最期だったのか。
歴史の中で、役割を終えたかのように去った明智光秀が、龍馬をむかえに来たとは思いたくはありませんが…、これだから歴史はおもしろい!

 

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2023.10.10 天乃みそ汁
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【これまでの連載「愛らんまん」】

第1回「あの人は花.1 ~ 草木の精」(2023.6.27)
〔植物:ガマズミ〕
富太郎のガマズミ、ウクライナのカリーナ、ボストンのスイート・キャロライン、あいみょんの「愛の花」

第2回「あの人は花.2 ~ 笹に願いを」(2023.7.7)
〔植物と庭:スエコザサ、牧野記念庭園〕
富太郎を支えた三人の女性、二人の竹雄、壽衛子との結婚、クールビューティ・スエコ、パワフル・スエコ、壽衛子の死とスエコザサ、織姫と彦星、青春と初恋の曲

第3回「あの人は花.3 ~ わが植物園」(2023.7.17)
〔植物と庭…タケニグサ、くるみの木、ミルテ、牧野記念庭園〕
富太郎を探せ、草木が生い茂る書斎、タケニグサと竹似草と竹煮草、伊藤圭介、シューマンのくるみの木、ミルテの花、菩提樹、もみの木、サリーガーデン、オンブラ・マイ・フ

第4回「あの人は花.4 ~ 雑草という草はない」(2023.7.26)
〔植物と庭…大王松、オオイヌノフグリ、牧野記念庭園〕
昭和天皇と富太郎、富太郎とハチ公、変名の植物、チーコとポチ、大王松と三鈷杵、宮本武蔵と雑魚、レスピーギの「ローマの松」、ガーデン洋楽、庭師ジョン・レノン

第5回「あの人は花.5 ~ 森の中の花」(2023.8.3)
〔植物と庭…バイカオウレン、牧野公園、牧野植物園〕
高知県佐川町、高知市、追悼ベニシアさん、猫のしっぽ カエルの手、カーミット・ザ・フロッグ、レインボー・コネクション

第6回「老練 ローレン、老輩は負けない!」(2023.10.1)
〔植物と庭…バイカオウレン、牧野公園、牧野植物園〕
朝ドラ「らんまん」最終回に寄せて、南国土佐を後にして、踊る大捜査線、ローハイド、アメリカ ワイオミング州、老練な老輩

 

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