らんまん、牧野富太郎、村下孝蔵、松山千春、藤井フミヤ、今井美樹、星に願いを、七夕、笹舟、壽衛子、スエコザサ、牧野記念庭園、東京都 練馬区、フランス、NHK、朝ドラ、洋楽、歌謡曲。

 

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音路118.あの人は花.2「笹に願いを」
【 愛らんまん.2 】


今回の植物と庭:スエコザサ、牧野記念庭園

 

今回のコラムは、連載「愛らんまん」の第二回で、「あの人は花」の第二回です。
今のNHK朝ドラ「らんまん」の主人公のモデルである植物学者の牧野富太郎(1862・江戸時代の文久2 ~ 1957・昭和32 / 享年96歳・満94歳)に関連した連載です。

今回も、牧野富太郎と壽衛子(すえこ)夫妻のお話し、朝ドラのお話し、付随した歴史のお話しに、音楽を添えてみたいと思います。


◇富太郎を支えた女性たち

実は、ドラマ内の万太郎(演:神木隆之介さん)のモデルの牧野富太郎には、二人の妻がいました。
一般的に言う「前妻」と「後妻」」です。

今の時代の日本の結婚のかたちは、一夫一婦制が基本ですので、重婚は罪となります。
離婚してから、あらためて再婚するのが基本です。
ただ、今は、同性婚など いろいろな模索も行われていますね。

代々継承する「家」や「血筋」を重んじる感覚が強かった時代には、さまざまな政略結婚や形式だけの婚姻や婚約が行われました。
武将の織田信長の息子で、織田家の後継者の織田信忠は、武田信玄の娘の「松姫」と政略の婚約をしてから、敵対関係になり破断になりましたが、実は両想いであったのは確かなようです。
松姫は、愛する信忠のいる京に向かう道中で、「本能寺の変」と信忠の死を知りました。

政略結婚は、まさに本人たちの意思に関わらず結ばれる婚姻のかたちです。
信忠と松姫の場合は、政略的な婚約であると同時に、真剣な婚約であったといえると思います。

おそらく、富太郎の最初の妻とされる従妹(いとこ)の女性の場合は、政治的で形式的な婚姻であった可能性が高いと感じます。
親戚同士の「近親愛」と、恋心の「愛情」は、別のものですね。


〔牧野 猶〕

富太郎のひとり目の妻は、ドラマの中では、万太郎の姉(実際にはいとこ)の「槙野 綾(まきの あや、演:佐久間由衣さん)」で、そのモデルとされるのは、富太郎の従妹(いとこ)の「牧野 猶(まきの なお)」です。

「家」を守るための形式上の婚姻という思想は、今の時代感覚には合いにくく、ましてドラマ内のその後の「綾(あや)」の人生を考えると、ドラマ内では二人の婚姻を避けたのかもしれません。
ドラマ内では、史実と異なり、二人は婚姻関係にはならず、美しい感動的なドラマ展開になっていましたね。

* * *

実は、昭和の太平洋戦争の時期には、出征した男性が故郷に戻って来ないことも多く、家を継承することができなくなるケースが続出しました。
働き盛りの男性の数が、圧倒的に減少した時代です。
不本意ではあっても、兄弟姉妹や、一族内から、婿をむかえたり、養子にするなどで、家や一族を残していったのです。
そうしたことは、決して珍しいことではありませんでしたね。
生き残った者たちで、これからも生き抜いていくという、ひとつの選択でした。
戦争は、いろいろなものを破壊します。

* * *

富太郎が書き残した記述をみると、猶(なお)との婚姻は、あくまで形式上、表面的なもので、夫婦としての実体はまったくなかったように感じます。
ドラマの中では、「槙野 綾(まきの あや)」と「井上竹雄」が、相思相愛で結婚し、酒蔵「峰屋」」を継いでいく内容になっていましたが、これは史実に半分は沿うもので、本来の後継者の富太郎は、実際に、この二人に、実家の酒蔵を任せるかたちになりました。


〔二人の竹雄〕

ドラマ内に登場する「井上竹雄(演:志尊 淳さん)」という人物は、実は、実在した二人の人物を合体させたものです。

ドラマ内の「井上竹雄」のモデルとなった人物のひとりは、岸屋(ドラマ内では峰屋)の番頭「佐枝竹蔵」の息子の「佐枝熊吉」のようです。
実際に、富太郎の面倒を見て、一緒に東京に来たのも、この熊吉です。
ドラマ内では、最終的に「定吉」として番頭を引き継ぐかたちで登場しましたね。

ですが、「佐枝(さえだ)」と「井上(いのうえ)」では、苗字が異なります。
実は、佐枝竹蔵が番頭になる前の番頭が「井上和之助」で、ドラマ内で万太郎の姉(実際にはいとこ)の「槙野 綾」のモデルとされる「牧野 猶(まきの なお)」が、富太郎の後に実際に結婚したのは、この人物「井上和之助」です。

つまり、ドラマ内の「井上竹雄」という人物は、実在した「佐枝熊吉」と「井上和之助」という二人の人物を合体させた登場人物です。
俳優の志尊淳(しそん じゅん)さんが、二人の役割をひとりで演じたということです。

いずれにしても、「岸屋(ドラマ内では峰屋)」を受け継いだのが、井上家です。
この井上家は、後に、実際に銘酒「白菊」を生み出しますが、ドラマの中では、綾が「新種の酒を作りたい」と強く語っていましたね。

資料

まだ、ドラマの途中ですので、この先の井上家が どのようになっていくかは書かないでおきます。
ドラマ内で描かれるかは わかりませんが…。

とはいえ、ブレイク中の俳優の志尊淳(しそん じゅん)さんが、このドラマ「らんまん」に戻ってこないなど、「らんまん」ファンは許さないでしょうね!

タケオ~! どこ行った!


〔牧野浪子〕

実は、形式上とはいっても、富太郎の前妻「猶(なお)」と、後妻の壽衛子(すえこ)という、史実の流れの中で、キーになるのは、富太郎の祖母の牧野浪子(なみこ、ドラマ内ではタキ / 演:松坂慶子さん)の存在です。

史実でも、ドラマ内でも、牧野家本家の長であり、酒蔵「岸屋」の実質上のトップとしての浪子は、一族の絶対的な存在であっただろうと思います。
江戸時代生まれの富太郎の祖母ですから、バリバリの武家社会の江戸時代の女性の浪子でした。
そのお話しは、あらためて別の回に書きたいと思いますが、史実とドラマ内容は大きく異なります。
ドラマでは、感動的な素晴らしい内容に変更されて描かれていましたね。

* * *

NHKの「大河ドラマ」は、歴史上の実名を使用し、一応、史実や定説に沿うかたちで、それをあまりにも逸脱することは許されていません。
一方、「朝ドラ(連続テレビ小説)」のほうは、歴史上のモデルはいても、実名を変更させ、ドラマ用に史実展開を変更することが許されています。
ですから、史実にある少し暗い部分や謎の部分を、美しい内容に変更したり、削除することができ、現代人の感覚や期待に寄り添うことができます。
「大河ドラマ」は見たくないけど、「朝ドラ」なら見るという方々も多くおられますね。

「朝ドラ」は、テレビ視聴者の年齢層の幅が非常に広く、世代や、自身のこれまでの経験などによって、注目するシーンや台詞、人物が、視聴者それぞれに異なりますが、何より、現代人にも理解しやすいということが大事にされていますね。
自身のこれまでの経験、今の自身の心、希望や夢も抱きながら、ドラマに入り込む視聴者も少なくありません。
「朝ドラ」のいいところだと思います。

* * *

富太郎の祖母の浪子(ドラマ内ではタキ / 演:松坂慶子さん)も、今の時代感覚に寄り添うかたちに変更されて、ドラマに登場していたように感じます。
あらためて、また別の回のコラムで、ドラマ内のタキの素晴らしい最後のシーンについて書きます。
「浪子」は見たくないけど、「タキ」なら見る…?

とはいえ、明治時代の浪子の選択(富太郎と猶の婚姻)は、当時として、一族として、私は間違いではないと思います。
植物学者・牧野富太郎という偉大な存在の出現を、決して妨げるような浪子の存在であったとは思えません。
むしろ、その逆でなかろうかと感じます。

祖母である浪子の、富太郎への理解と、小学校中退の富太郎へのしっかりとした教育がなかったら、後の偉大な植物学者は生まれてこなかっただろうと思います。
富太郎が、祖母ではなく、若い両親に育てられていたら、どのような人生になっていただろうかとも思います。

* * *

富太郎の形式上の最初の妻の猶(なお)は、浪子の死後に、富太郎の計らいもあり、その後の人生を井上家でしっかりと生き、静岡の焼津に移転し、1950年(昭和25)、東京で亡くなられたそうです。
肉親を大切にし、先人たちの教えを守り、家業を守り、「家」をしっかりと守る、江戸時代幕末生まれの気丈な女性の「牧野 猶(なお)」を、私はイメージします。

ある意味、富太郎が別の世界に飛び立ち成功できたのは、実家を守る者たちがしっかりと存在し、彼をいろいろな面で支えたことにほかならないと、私は感じます。
富太郎も、そのことは十分に承知していたと思います。
一族内で、誰も不幸にならない こうした流れを、富太郎は、少年の頃から ずっと考えていたのは間違いないだろうと思います。


〔牧野壽衛子〕

さて、富太郎のふたり目の妻が、壽衛子(すえこ / ドラマ内では寿恵子、演:浜辺美波さん)です。
最初の妻は、あくまで「家」を守るための形式的なものなので、実質的に、富太郎の「恋女房」は、壽衛子ただひとりであったと言っていいのだろうと思います。

富豪の大店(おおだな)の後継者が、自身が選んだ相手と恋愛結婚するなど、当時は まず不可能だったはずです。
実家の大店の後継者の富太郎は、自身が家を出ることで、植物学者への道と、自由に結婚相手を決めることを実現させたのです。
植物学への道も、結婚も、これまでの縛りのある時代感覚を、完全に打ち破りましたね。

朝ドラ「らんまん」の中でも、富太郎の周囲は、彼のあまりにも大きな決断に驚くばかり!
富豪の実家を捨てるの!
現代人からみても、それってマジ!
もはや後戻りができないことは、富太郎自身が、一番理解していたことだったでしょうね。

富太郎の突破力は、実は、ここで終わりではありません。
ここからエンジン全開!
次々に、常識を突破していきますね!

* * *

その後、富豪だった実家の経営が次第に傾き、経済的な援助を期待できる状況ではなくなっていきます。
富太郎と壽衛子の生活は、経済的に非常に厳しい状況になっていきました。
ここから、壽衛子の猛烈な底力が発揮されていきます!

私は、この夫婦の困難に対する突破力は、富太郎というよりも、壽衛子にこそあったのかもしれないと感じます。
壽衛子の結婚当時の実家は、江戸の小さな菓子屋でしたが、それまでは彦根藩井伊家の重要な家臣の武家「小沢家」です。
小沢家の話しは、別の回にあらためて書きますが、壽衛子は、小沢家の末娘として裕福な生活を送りながらも、幕末から明治維新という武士たちの激烈な時代変化を目の当たりにしてきたはずです。

ある意味、富太郎が知らない、江戸での武士たちの激烈な戦闘を知っていたはずです。
幕末の武士たちの戦いや、明治維新という大きな時代変化の中で、精神錯乱を起こす武士たちが多い中、女性として成長していった壽衛子であっただろうと思います。
現代人には なかなか想像できない社会変化がそこにあったでしょう。
壽衛子が持つ、猛烈な生命力と行動は、ちょっと元気のいい明るい女性が夫を支えるという言葉だけでは 片づけられない気がします。

朝ドラ「らんまん」の中では、これから、そのあたりが描かれていくのだろうと思います。

* * *

私は、富太郎の人生を考えると、本人の努力だけでなく、三人の女性が彼を支えたからこそ、彼の植物学が大成したのだろうと感じています。
祖母の浪子、いとこ(最初の形式上の妻)の猶、妻の壽衛子の三人の女性です。

小学校を中退した富太郎に教育を行い、植物研究のための東京行きを許可し、経済的支援を行なった祖母。
実家の継承を引き受け、富太郎の研究の経済的支援を続けた、従妹(いとこ)の女性。母のような 姉のような存在ですね。
そして、富太郎の生活も経済力も支えた、妻。

男たちは、とかく自身のチカラでここまで来たと思いがちですが、実は、女性の支えのない男は、なかなか成果が出せません。
朝ドラ「らんまん」は、成功した ある男の話というだけではありません。
女性たちの生き方を、しっかり描いているドラマですね。
女性の方々には、万太郎や竹雄のことだけでなく、それぞれの女性の生き方をしっかり見つめてほしいと思っています。


◇人生最大の選択

さて、富太郎と壽衛子は、1888年(明治21)、石版屋の太田義人(ドラマ内では大畑義平 / 演:奥田英二さん)の仲人で、結婚しました。

富太郎が70歳台に書いた自叙伝には、次のような記述があります。
原文です。

* * *

私が今は亡き妻の寿衛子と結婚したのは、明治二十三年頃…私がまだ二十七、八歳の青年の頃でした。
寿衛子の父は彦根藩主井伊家の臣で小沢一政といい、陸軍の営繕部に勤務していた。
東京飯田町の皇典講究所にのちになったところがその邸宅で、表は飯田町通り、裏はお壕の土堤でその広い間をブッ通して占めていた。
母は京都出身の者で寿衛子はその末の娘であった。
寿衛子の娘の頃は裕福であったため踊りを習ったり、唄のお稽古をしたり、非常に派手な生活をしていたが、父が亡くなった後、その邸宅も売りその財産も失くしたので、その未亡人は数人の子供を引き連れて活計のため飯田町で小さな菓子屋を営んでいたのです。

青年のころ、私は本郷の大学へ行く時その店の前を始終通りながらその娘を見染め、そこで人を介して遂に嫁に貰ったわけです。
仲人は石版印刷屋の親爺…というと可笑しく聞えるけれど、私は当時大学で研究してはいたが何も大学へ就職しようとは思っていず、一年か二年この東京の大学で勉強したらすぐまた土佐へ帰って独力で植物の研究に従事しようと思っており、自分で植物図譜を作る必要上、この印刷屋で石版刷の稽古をしていた時だったので、これを幸いと早速そこの主人に仲人をたのんだのです。
まあ恋女房という格ですネ。

* * *

富太郎と寿衛子は、東京・根岸の借家で暮らし始めました。
今の満年齢でいえば、富太郎26歳、壽衛子15歳です。
当時であれば、壽衛子の年齢は早過ぎず、歳の差もこの程度は珍しくなかったと思います。

当時、壽衛子の実家は、東京の飯田橋近くの菓子屋さんでした。
富太郎が、壽衛子を見初め、菓子屋に足しげく通ったようです。

朝ドラ「らんまん」の中でも、「白梅堂」という菓子屋が登場し、祝言の際は、祖母のタキが「お武家さまから嫁を…」という台詞がありました。
実は、この白梅堂のモデルになった、別名の菓子屋さんが、当時 実際に存在しました。
この菓子屋の家は、もともと彦根藩井伊家の上級家臣でした。
つまり、「桜田門外の変」で暗殺された井伊直弼の井伊家の家臣の武家です。
壽衛子の旧姓は「小沢(小澤)」といいます。

* * *

富太郎は、自叙伝の中で、壽衛子の実家について、多くを書き残していません。
自叙伝には、「寿衛子の父は彦根藩主井伊家の臣で小沢一政といい、陸軍の営繕部に勤務していた。」とあります。

実は、富太郎は、前述しました形式的な最初の妻だった「猶(なお)」との婚姻のことも、ほぼ書き残していないようです。
おそらくは、あえて あまり触れていないのではと、私は感じます。

朝ドラ内の「白梅堂」のモデルとされる当時の菓子屋のこと、もともとの壽衛子の実家の武家「小沢家」のこと、江戸時代から明治時代にかけての江戸・東京の人気の甘味、江戸時代末期の「安政の大獄」や明治維新のことなどについては、あらためて書きたいと思います。

* * *

いずれにしても、富太郎は酒を飲めない体質の「下戸(げこ)」で、タバコも飲みません。
そのかわり、甘味などの菓子が相当に好きであったようです。
まさに、年がら年中、野山を駆けめぐるには、最適な体質と嗜好でしたね。

壽衛子の実家の菓子屋について、富太郎は、「小さな菓子屋」と記述しています。
富太郎のことですから、大学や住まいの周辺はもちろん、東京の有名菓子店である「大きな菓子屋」、「老舗の菓子屋」、「人気の菓子屋」にも出向いていないとは考えにくいですね。

「小さな菓子屋」に毎日のように通う理由…、もちろん壽衛子が目的であったのは間違いないと思います。

牧野富太郎にとって、壽衛子は、初恋であったという説もあるようです。

* * *

このあたりで、ちょっと音楽ブレイク…。

村下孝蔵(1983・昭和58)
♪初恋

 

朝ドラ「らんまん」の中の、結婚前の富太郎(万太郎)と壽衛子(寿恵子)は、まさに青春ドラマのような ワクワク・ドキドキ感で描かれていましたね。

逢いに行きたいけど、じっと我慢の万太郎。
待っても、待っても、逢いにきてくれない富太郎に、ヤキモキする寿恵子。
最後は、寿恵子が、白いドレスのまま、鹿鳴館(ろくめいかん)を飛び出して、万太郎のもとに向かいます。
青春ドラマか!

江戸時代以前も、明治時代も、大正時代も、昭和時代も、平成時代も、令和時代も…、若者たちの「恋」や「青春」の風景は変わりませんね。
♪初恋

 

歌手の村下孝蔵さんは、46歳の若さで、1999年(平成11)にリハーサル中に倒れ亡くなりました。
熊本県出身で、広島を中心に人気になり、その美声と名曲とともに全国区の人気歌手になりましたね。
ここで、代表曲をもう一曲。

朝ドラ「らんまん」の中では、寿恵子は、鹿鳴館でダンスを披露する「踊り子」さんでしたね。
村下孝蔵(1983・昭和58)
♪踊り子

 

* * *

ここからは、「青春」のタイトル曲を少しだけ…。

カーペンターズ(1976・昭和51)
私はやっと気がついたのよ… 私には愛が必要だってことを。
♪青春の輝き

 

1967年(昭和42)のジュディ・コリンズの大ヒット曲です。
作詞作曲は、ジョニ・ミッチェル。
ここは、シラ・ブラックの歌唱で…。
人生は両側から見るのよね… でも、若い時はなかなか…。
♪青春の光と影

 

原曲は1964年(昭和39)のシャルル・アズナブールです。
ここは、グレン・キャンベルの歌唱で…。
青春を取り戻すことはできるだろうか…。
♪帰り来ぬ青春

 

ミッシェル・デルペッシュ(1971・昭和46)
「プア・ア・フラット(Pour un flirt / フランス語)」…つまりはナンパして乾杯!
二人で秘密の世界に出かけようって(本人歌唱の日本語歌詞)… どこ行ってたの?
♪青春に乾杯

 

青春時代は、あとから ほのぼの…。
そこの お爺ちゃん、憶えてますか?
森田公一&トップギャラン(1976・昭和51)
♪青春時代

 

* * *

実は、富太郎は、結婚前に、東京大学の主任教授・松村任三(ドラマ内では徳永教授、演:田中哲司さん)教授から進められた縁談を断っています。
富太郎は、もちろん壽衛子を選びました。
おそらくは、彼には、なんの迷いもなかったであろうと思います。

彼の人生最大の選択は、ひょっとしたら、妻を壽衛子に決めたことではなかっただろうかと、私は思っています。

史実でも、ドラマ「らんまん」の中でも、富太郎(万太郎)の周囲には、大学教授や学生などがたくさん登場し、彼の人生に大きな影響を与えていきます。
そんなお話しは、また別の回のコラムで書きます。


◇クール・ビューティー・スエコ!

さて、今に残る、壽衛子の写真をご覧になられた方も多くいらっしゃると思います。

明治時代に写真を残せる人物は、本人がある程度の地位にあったり、大きな力を持つ関係者を持っていないと無理であっただろうと思います。
江戸時代末期から明治初期には、写真撮影には相当に時間がかかり、長時間、同じポーズをとらなくてはなりません。
貴重な写真を何枚も撮影してもらうことなど できません。

当時の文豪たちを始め、有名人たちは、みな そのポーズや表情を、本人で考え、凝りに凝って撮影していましたね。
坂本龍馬、土方歳三…なかなかのポーズと衣裳!
宮沢賢治、芥川龍之介…カッコよく凝りすぎ! 今のファッションモデル並みのポーズ!
当時、写真はたいへん貴重なものですから、後世に残す自身の姿であるという意識は相当に強かったはずです。

おそらく、富太郎のキメ・ポーズは、満面の笑顔とひょうきんさ!
こうしたことからも、富太郎の性格や考え方が伝わってきますね。

富太郎の若い頃のカッコよくキメた表情は、今のサッカー選手の三苫(みとま)選手にそっくりだと思ったのは、私だけ…?

* * *

当時の一般人の撮影ともなれば、みな表情はガチガチ、笑顔の長時間の維持など まずできません。
写真撮影の初期の時代などは、「カメラ(写真機)で撮影すると魂を抜かれる」と言われたくらいの、未知のことでした。
写真に残る壽衛子の表情も、どちらかというと緊張感がただよっています。
笑顔満面ではありません。
ただ、しっかり者という印象を受ける表情には見えます。
今風の言い方をしたら、「しっかり者で、できる女、そう 彼女はクール・ビューティー!」。

富太郎も、高知から東京に出てきて、都会的な洗練された女性を壽衛子に感じたのかもしれません。
今の時代から その写真を見ても、壽衛子は どう見ても、田舎で農業に精を出す、素朴な女性の雰囲気はありません。
いかにも、江戸という大都会に暮らす、洗練された女性の雰囲気を感じます。

朝ドラ「らんまん」の中でも、寿恵子(壽衛子)は、ドレスの洋装が似合う、時代の最先端の雰囲気をかもし出してくれました。
ただ、実際の壽衛子も、ドラマ内の寿恵子も、ファッションなどよりも別のものを大切に考える女性でしたね。

* * *

今のクール・ビューティーの女性たちもそうであるように、時折見せる素敵な笑顔に、男性たちはメロメロに堕ちるということがあります。
この表情のギャップという魅力を、壽衛子も持っていたかもしれませんね。

富太郎は、さまざまな草花の異なる美しさを見極められる人物です。
彼が描いた花の画は、あれは記録ではなく、草花の表情でもあったと感じます。
彼は、人間の表情の中にある、それぞれの美しさを見極められたに違いないと思います。

私は映像屋の端くれでもありましたが、一枚の女性の顔の写真から、さまざまな表情を想像し、実際の撮影にのぞんでいたものです。
「この真面目でクールな表情は、きっと、こう変化するはず」…そう思いながら撮影を行いました。

壽衛子の顔に似た、今の時代の女優さんやタレントさんを結構 思い起こしますね。
クールビューティーの壽衛子が見せる、一瞬の笑顔…、私は、ある女性歌手の表情を思い起こしました。

壽衛子は、歌手の今井美樹さんのような、元気で明るい、肝の座った女性で、時折 屈託のない、だが大人の女性の愁いを感じさせる笑顔を見せる方ではなかっただろうかと、私は想像しています。

あなたは、どのような女性を想像されますか…。

下記の楽曲の途中の台詞「やっと言ったなコイツ! もう離れないから!」… ひょっとしたら、壽衛子が富太郎に実際に言った言葉だったかも…。

今井美樹(1990・平成2)
♪雨にキッスの花束を

 


◇パワフル・スエコ!

ここで、富太郎が70歳台の時に書いた自叙伝の中から、壽衛子のことを記述した部分をご紹介します。
原文です。

自叙伝

* * *

私の妻は、私のような働きのない主人にも愛想をつかさず、貧乏学者に嫁いできたのを因果だと思ってあきらめてか、嫁に来たての若い頃から芝居も見たいともいわず、流行の帯一本欲しいといわず、女らしい要求一切を放って、陰になり陽になって絶えず自分の力となって尽してくれた。
この苦境にあって、十三人もの子供にひもじい思いをさせないで、とにかく学者の子として育て上げることは全く並大抵の苦労ではなかったろうと、今でも思い出す度に可哀そうな気がする。  

* * *

私が終生植物の研究に身を委ねることの出来たのは、何といっても、亡妻 寿衛子のお蔭が多分にあり、彼女のこの大きな激励と内助がなかったら、私は困難な生活の上で行き詰って仕舞ったか、あるいは止むを得ず商売換えでもしていたかも知れませんが、今日思い返して見てもよくもあんな貧乏生活の中で専ら植物にのみ熱中して研究が出来たものだと、われながら不思議になることがあります。
それほど妻は私に尽してくれたのです。

債権者が来ても、きっと妻が何とか口実をつけて追っ払ってくれたのでした。
いつだったか寿衛子が何人目かのお産をしてまだ三日目なのに、もう起きて遠い路を歩き債権者に断わりに行ってくれたことなどは、その後何度思い出しても、私はその度に感謝の念で胸がいっぱいになり、涙さえ出て来て困ることがあります。

実際そんな時でさえ、私は奥の部屋でただ好きな植物の標本いじりをやっていることの出来たのは、全く妻の賜であったのです。

* * *

寿衛子は平常、私のことを「まるで道楽息子を一人抱えているようだ」とよく冗談にいっていましたが、それはほんとうに内心そう思っていたのでしょう、何しろ私は上述のような次第でいくら借金が殖えて来ても、植物の研究にばかり毎日夢中になっていて、家計の方面では何時も不如意勝ちで、長年の間、妻に一枚の好い着物をつくってやるでなく、芝居のような女の好く娯楽は勿論何一つ与えてやったこともないくらいであったのですが、この間、妻はいやな顔一つせず、一言も不平をいわず、自分は古いつぎだらけの着物を着ながら、逆に私たちの面倒を、陰になり日向になって見ていてくれ、貞淑に私に仕えていたのです。

* * *

富太郎の壽衛子に対する感謝の思いが、強く伝わってきますね。
壽衛子という存在がなかったら、牧野富太郎が植物学者として成功できたかどうか…。


◇壽衛子の死

ここも、富太郎が70歳台の時に書いた自叙伝の中から、壽衛子のことを記述した部分をご紹介します。
原文です。

* * *

昭和三年二月二十三日、五十五歳で妻 寿衛子は永眠した。
病原不明の死だった。
病原不明では治療のしようもなかった。
世間には他にも同じ病の人もあることと思い、その患部を大学へ差上げるからそれを研究してくれと大学へ贈った。

* * *

昭和三年に妻はとうとう病気で大学の青山外科で歿くなってしまったからです。
享年五十五でした。
妻の墓はいま下谷谷中の天王寺墓地にあり、その墓碑の表面には私の咏んだ句が二つ、亡妻への長(とこ)しなえの感謝として深く深く刻んであります。

(句)
家守りし 妻の恵みや わが学び

世の中の あらん限りや スエコ笹

このスエコ笹は、当時竹の研究に凝こっており、ちょうど仙台で笹の新種を発見してそれを持って来ていた際なので、早速亡妻寿衛子の名をこの笹に命名して永の記念としたのでした。
この笹は、いまだにわが東大泉の家の庭にありますが、いずれ天王寺の墓碑の傍に移植しようと思っています。

* * *

上記の「東大泉」とは、当時の東京府北豊島郡大泉村上土支田537、現在の東京都練馬区東大泉6丁目です。
その地には、現在「練馬区立 牧野記念庭園」があります。

上記の「天王寺」とは、東京都台東区にある谷中霊園の一角にある「天王寺墓地」のことです。
句が刻まれた壽衛子の墓碑も、その地にあります。


◇スエコザサ

富太郎は、スエコザサについて、自叙伝に次のように記述しています。

* * *

妻が重態の時、仙台からもってきた笹に新種があったので、私はこれに「すえこざさ」と命名し、「ササ・スエコヤナ」なる学名を附して発表し、その名は永久に残ることとなった。

この笹は、他の笹とはかなり異なるものである。
私は「すえこざさ」を妻の墓に植えてやろうと思い、庭に移植して置いたが、それが今ではよく繁茂している。

* * *

上記の「ササ・スエコヤナ」と書かれた部分は、正式な学名「ササエラ・スエコアナ・マキノ」です。

富太郎は、昭和2年、東北大学の研究者の案内で、仙台市青葉区の広瀬川沿いの三居沢(さんきょざわ)を訪れ、新種の「笹(ささ)」を確認しました。
「スエコザサ」は「アズマザサ」の変種で、宮城県や岩手県南部に自生するそうです。

スエコザサ 説明

* * *

東京都練馬区には、かつての牧野家の屋敷と庭園の跡地に「牧野記念庭園」があります。
今、その一角に、富太郎の胸像を囲むように「スエコザサ」が植えられています。
胸像と「スエコザサ」の組み合わせで、ひとつのかたちを成しています。

歴史的な偉人の像は、世の中にたくさんありますが、このような夫婦のかたちを表現したものは、非常に少ないと思います。
まして妻の名が付いた植物など…。

ここには、この夫婦の愛のかたちが、そのまま残されているのです。
ご遺族の方々の、素晴らしい配慮には頭が下がります。

 

◇「おりひめ」と「ひこぼし」

いずれにしても、牧野富太郎は、亡き妻の名前を、どうして笹につけたのか?
私には、たまたま、妻が亡くなる前年に新種の笹を確認したからではないと思います。

昔は、武勇に優れた武将などを、楠(クス)や杉の大樹に見立てるようなことはよくありました。
男性の場合は大樹が多いですね。
女性の場合は、たいていは美しく可憐な花に、その名を残し、見立てるの一般的ではあります。

どうして、壽衛子には、花ではなく、笹という植物なのか?

* * *

実は、笹という植物は、百数十年に一度しか花を咲かせません。
笹は、花というよりも、むしろ、一年を通して緑色の葉を維持する、強靭な生命力にあふれた植物のイメージです。

富太郎は、壽衛子が持っていた、強靭な生命力と、へこたれない精神力を「笹」に重ねたのかもしれません。
そしてもうひとつ、私は個人的に、これから述べる内容を、富太郎は、自身の夫婦の姿に重ねたのかもしれないと感じています。

今は亡き妻との、再会を願って…。

* * *

さてさて、今年も「七夕」の季節がやってきました。
今も、子供たちを中心に、願い事を書いた短冊(たんざく)を笹の樹にたくさん飾りますね。

この行事は、中国の漢の時代ごろから残る「牛郎織女(ぎゅうろうしょくじょ)」のお話しが、日本にも伝わり広まったといわれていますが、さまざまな内容に変化して各地に残っており、お話しによって、内容は異なっています。

ですが、おおよそ共通している内容は、 天の神様が、機織り(はたおり)に精を出す働き者の娘さん「織姫(織女)おりひめ」の「婿探し」をするところから始まります。

川の近くに、働き者の牛飼いである若い男性「彦星(牛郎)ひこぼし」を見つけます。
神様のおかげで、二人は結婚し、仲良く暮らし始めるのですが、徐々に、この二人は働くことをしなくなってしまいます。
着物の枚数は減り、牛は弱っていきます。

見兼ねた神様は、怒って、「天の川」を挟んで両側に、二人を引き離してしまいます。
二人とも悲しみにくれて、いっそう働くどころではありません。
ますます、悲しみが増していきます。

神様は思案し、一年のうちで、7月7日だけ二人を会わせることにしました。
二人は天の川を渡って、その日だけ、会うことができるようになりました。
二人は、その日のために、一年中、しっかり働くようになったのです。

おおよそ、どのお話しも、このような内容で、お話しによって尾ひれがついています。
このようなカップル、近くにいるかも…。
一生懸命に働いて、週末に…、夏休みに…、一年に一度…。

言ってみれば、なかなか東京に戻ってこない富太郎と、東京で待つ壽衛子の夫婦も…。


◇七夕飾り

「七夕飾り」という日本の行事は、日本独特の風習です。
この成り立ちには、歴史の不思議がたくさん隠れています。
主に、下記の四つの内容が大きな要素となっているようです。

(1)日本には、古代から、選ばれた女性が着物を織って、それを神棚にお供えして、豊作をお祈りするという行事がありました。
選ばれた女性を「棚織女(たなばたつめ)」と呼び、その着物を織る機械を「棚機(たなばた)」といいました。

この行事は、仏教伝来の後、お盆の前の7月7日に行われるようになります。
ですから「七夕」と書いて、「たなばた」と呼ぶようになります。
他にも諸説あります。

(2)前述の「牛郎織女」のお話し

(3)中国には、7月7日に、「乞巧奠(きこうでん)」という行事があり、日本に伝わりました。
前述の「織姫」にあやかって、機織りや裁縫が上達するようにとお祈りをする行事です。
着物だけでなく、糸や針、筆などをお供えすることもあります。

(4)中国では、火・水・木・金・土という五つの要素で、世の中のさまざまな現象が成り立っているという言われ方があります。

以上の四つの事柄が、日本で、見事に融合していくのです。
ある時に一斉に融合したということではなく、長い年月をかけて、少しずつ変化しながら、ひとつのかたち「七夕」になっていったのだと思います。

キーワードは…
・棚機(たなばた)で着物を織る「棚機女(たなばたつめ)」
・大切なものを神棚にお供えする
・7月7日の夜
・織姫と彦星
・天の川の橋で再開
・願い事を祈る
・(4)の五つの要素

人の心や願いとは、なんと不思議なものなのでしょう。
かけ離れていた多くの事柄が、7月7日という日に、まとまっていくのですから。

大人も、子供も、五色(白・黒・赤・緑・黄)の短冊に願い事を書いて、竹や笹に飾ります。
時に、短冊やお飾りを、小さな船「笹舟」にして、地上の「天の川」に流します。

野菜などを神棚にお供えし、7月7日の夜に、星空の「天の川」の両側にある二つの星、織姫はこと座の「ベガ」、彦星はわし座の「アルタイル」、を眺めて願い事をするのです。

東京でしたら、東の空の「天の川」の上にベガ、下にアルタイルです。
こんな壮大なドラマと、イベントに、誰が作り上げたのでしょう。
特定の誰かではありませんね。
多くの日本人の願いが、自然に結集した、ひとつのかたちなのでしょう。

文部省唱歌(1941・昭和16)
♪たなばたさま

 

いつもお世話になっている、ブロ友の翠さんのブログ記事です。
2021年に書かれた、素敵な「笹舟」ブログです。
あなたは、笹舟を作ることができますか?

 

2023年の、七夕の鳥「カササギ(カチガラス)」と笹舟の素敵なブログ。

 

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「歴音fun」をいつも読んでいただいています「すみれ」さんの七夕ブログです。

すみれさんは、花手水デザイナーで、草花を深く愛する方です。

ブログには、かわいいパンダちゃんもよく登場しますよ。

 

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ちなみに、商店街などの「七夕祭り」を8月に行う地域も多いですよね。
これは、旧暦(太陰太陽歴)の7月7日は、現在の暦(太陽暦)でいうと、おおよそ8月の中頃です。
旧暦の一年は約354日で、数年に一度、13か月の年もありました。

現在の新暦(太陽暦)は、一年が365日、うるう年が4年に一度あります。
日本は、明治時代から太陽暦です。
ですから、7月7日という「日にち」に重きを置けば、七夕は「7月7日」です。
二つの星がよく見える本来の「季節」に重きを置けば、七夕は「8月中頃」となります。


◇もう一度、会おうね

私は、富太郎が亡き妻の名を、笹の新種に付けたのは、「おりひめ と ひこぼし」を、「壽衛子と富太郎」になぞらえたのではなかろうかと、個人的に思っています。
普通なら、美しい花に、愛する妻の名を残そうと考えるのが一般的なのでしょうが、そこは、花を愛し、草を愛し、樹々を愛し、万葉集も愛する富太郎の素晴らしい計らいなのだろうと思います。

万葉集に精通していた富太郎が、七夕の歴史を知らないはずはありません。
笹に愛する妻の名を付けるとは、さすが富太郎らしい、素晴らしい愛情表現だと感じます。

おそらく、富太郎は、笹に願いを込めたのだろうと感じます。
「たとえ、どんなに離れていても、もう一度、会おうね…」。

藤井フミヤ(1996・平成8)
♪アナザー・オリオン

 

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夜空の星をながめていると、亡き、あの方々を思い出します。
あの時代を思い出します。

朝ドラ「らんまん」に登場する人物たちは、今はもう誰も生きていません。
ですが、決して消え去ってしまったわけではありません。

見上げれば、そこに…。
私たちを見守ってくれています。

富太郎と壽衛子… とても素敵な夫婦でしたね。

* * *

If your heart is in your singing voice
No request is too extreme

もし、あなたの歌声が、心からのものなら
かなわない願いなんてないよ。

さあ 七夕の夜、あの人を想って、歌ってみて…

♪星に願いを

 

2023.7.7 天乃みそ汁
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