らんまん、牧野富太郎、ベニシア、猫のしっぽ カエルの手、川上ミネ、ショパン、中村紘子、カーミット、プリンス、サイモン&ガーファンクル、カーペンターズ、高知県高知市、佐川町、NHK 朝ドラ、クラシック音楽、歌謡曲、洋楽。

 

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音路121.あの人は花.5「森の中の花」
【愛らんまん.5】


今回の植物と庭…バイカオウレン、牧野公園、牧野植物園



今回のコラムは、連載「愛らんまん」の第5回で、「あの人は花」の第5回です。
5回の連載の中で、「花」のような方々を、さまざまにご紹介してきましたが、今回で「あの人は花」は最終回となります。
「愛らんまん」の連載は、まだまだ続きますよ。

今のNHK朝ドラ「らんまん」の主人公のモデルである植物学者の牧野富太郎(1862・江戸時代の文久2 ~ 1957・昭和32 / 享年96歳・満94歳)に関連した連載です。

今回は、高知県の「牧野公園」「牧野植物園」、高知県佐川町、ベニシアさん、朝ドラのお話し、付随した歴史のお話しなどに、音楽を添えてみたいと思います。


◇孤児で羸弱(みなしご で るいじゃく)

牧野富太郎は、自叙伝などの記述の中で、自身の生い立ちについて次のように書いています。
下記の「佐川の町」とは、高知県高岡郡にあります佐川町(さかわちょう)のことです。
高知県中西部の、周囲を山に囲まれた盆地にあり、高知市中心部から西へ30キロあまり行った場所にある、人口12000あまりの町です。

* * *

富太郎の記述のまま書きます。

この佐川の町に、かく述べる牧野富太郎が生まれた。
文久二年四月二十四日、呱々(ここ)の声を挙げたのである。

牧野の家は酒造りと雑貨店(富太郎の注釈:小間物屋といっていた。東京の小間物屋とは異なっている)を経営していた。
家は、町では かなり旧家で、町の中では上流階級の一軒であった。
父は牧野佐平といって、親族つづきの家から牧野家へ養子にきた人である。
牧野家家付の娘 久寿(ひさえ)は、すなわち私の母である。
佐平と久寿の間にたった一人の子として私は生まれた。

私が四歳の時、父は病死し、続いて二年後には母もまた病死した。
両親共に三十代の若さで他界したのである。
私はまだ余り幼かったので 父の顔も、母の顔も記憶にない。
私はこのように両親に早く別れたので 親の味というものを知らない。

育ててくれたのは祖母で、牧野家の一人息子として、とても大切に育てたものらしい。
小さい時は体は弱く、時々病気をしたので注意をして養育された。
祖母は、私の胸に骨が出ているといって随分心配したらしい。
酒屋を継ぐ一人子として大切な私だったのである。

生まれた直後、乳母を雇い、その乳母が私を守(もり)した。
この女は 隣村の越知(おち)村からきた。
その乳母の背に負ぶさって乳母の家に行ったことがあった。
その時 乳母の家の藁葺(わら)ぶき家根が見えた時のことを おぼろげに記憶している。
これが私の記憶している第一のものである。
その後、乳母に暇をやり、祖母が専ら私を育てたのである。

小学校を退いてからは、本を読んだりして暮らしていたらしいが、別に憶えていない。
私はその前から植物が好きで、わが家の裏手にある産土(うぶすな)神社のある山に登って よく植物を採ったり、見たりしていたことを憶えている。

* * *

他にも、次のような記述があります。

私は元来 土佐高岡郡 佐川町の酒造家に生まれた一人ぽっちの伜(せがれ)であるが、まだ顔を覚えない幼い時分に両親に別れた。
そして孤(みなしご)となり羸弱(るいじゃく)な生まれであったが、植物が好きであったので、山野での運動が足り、且つ何時も心が楽しかったため、従って体が次第に健康を増し丈夫になったのである。
そして、私は小さい時から酒も煙草も呑まないので、これも私の健康の助けになったに違いないと信じている。

* * *

上記の中の「私が四歳の時、父は病死し、続いて二年後には母もまた病死した。」の部分は、おそらくは、今の満年齢にした場合に、富太郎が2~3歳の時に父親を、4~5歳の時に母親をなくしたと思われます。

上記の中の「孤(みなしご)となり羸弱(るいじゃく)な…」とは、「両親のいない孤児となり、身体が非常に弱い状態で…」という意味です。

「孤児(みなしご)」と「羸弱(るいじゃく)」という二つのキーワードは、幼少期の富太郎に大きくのしかかった苦難であっただろうと思いますが、それらの苦悩や寂しさを癒してくれ、救ってくれたのが、山野の植物であったのは確かだったと思います。


◇佐川町の真ん中にある大きな山塊

上記文章の中の「わが家の裏手にある産土(うぶすな)神社のある山に登って よく植物を採ったり、見たり…」とは、「自宅の裏手の、地元の鎮守の神社のある山に登り、植物採集をしたり、観察したり…」という意味です。

一般的な意味あいとして、地元民が暮らす、その地域の社会や地元民の暮らしを守る神様「氏神(うじがみ)」の社が「氏神神社」で、地元のその地域の土地や、その地域で生まれた子供たちの健康を守る神様「産土神(うぶすながみ)」の社が「産土(うぶすな)神社」です。

ここで示されている「産土神社」とは、高知県 高岡郡 佐川町にある「金峰(きんぷ)神社」のことです。
似た漢字の「金峯神社」は別の神社です。

* * *

当時の富太郎の実家の酒蔵「岸屋」は、今、「牧野富太郎ふるさと館」になっており、そのすぐ裏の山に「金峰神社」があります。
今現在、金峰神社のある山には、他に、牧野公園、牧野富太郎の墓、佐川城址、佐川町立・青山文庫などがあります。

富太郎が幼少期に親しんだ、この山域は今、「牧野公園」として整備されています。

早春の牧野公園

 

「孤児(みなしご)」と「羸弱(るいじゃく)」であった 幼い富太郎にとって、苦悩や寂しさを忘れさせてくれるような「ワンダーランド」が、金峰神社のある裏山にあったのだろうと想像します。

後の偉大な植物学者・牧野富太郎を産み出した土地と神社こそ、この産土神社の「金峰神社」と、今の佐川町中央部にある大きな山塊の山だったのだろうと思います。


◇佐川城の山域

私も子供の頃に、信州の戦国時代初期の山城の址で、山域を駆けまわって遊んだ経験があります。
山城(やまじろ)であっただけあって、道らしきものが残っていたり、空堀などの城の防御機能が残っていたり、曲輪(くるわ)址の平地が残っていたりします。
城址には、燃料とした大きな松林が残っていたり、水が湧き出る場所が残っていたりもします。
山城には、食料となるような植物も植えられていました。

* * *

この佐川城の城主は、土佐国が長宗我部氏から山内氏の時代になってから、深尾氏が務めていましたが、江戸幕府による「一国一城令」により、佐川城は 1615年に廃城になりました。
とはいえ、山内家にとっては、重要な軍事拠点の佐川という場所だったと思います。

土佐佐川の初代領主の深尾重良(ふかお しげよし)は、織田信長の長男の信忠の家臣で、美濃国(岐阜県)にいましたが、「本能寺の変」後、主人を変えながら、最終的に山内氏に身を寄せ、静岡県の掛川を経て、山内一豊とともに、土佐国(高知県)にやって来た武将です。
私は、方言を調べたことはありませんが、何となく、静岡中央部と高知の言葉は似ているような気がしています。

深尾氏は、もともと近江国(滋賀県)にいた あの名門源氏の佐々木氏の流れをくむ名家で、今の三重県いなべ市にある「中里ダム」のある「鈴養湖」の周辺にあったと思われる「深尾谷」に由来する一族であったと思われます。
この地域は、今の三重県、岐阜県、滋賀県の県境付近の深い尾根と谷のある 山深い山域です。
もともとは平氏の勢いにおされ、源氏勢力がその山域に逃げ込んできたようです。
戦国時代は、こうした日本各地を渡り歩いた武家がたくさんいましたね。

山内一豊に続く二代目の土佐藩主の山内忠義(一豊の養嗣子・後継者)の実父は山内康豊(一豊の弟)で、康豊の三男が、深尾重良の養子となり、名を深尾重昌とし、深尾家の本流を継いでいくことになります。
山内家の主君の徳川家を彷彿とさせるような姻戚関係と家系乗っ取りにも見えてきますね。
「武士の時代」ですから、いたしかたありません。


とはいえ、高知城の山内家が攻撃され逃亡するとなった場合に、ひょっとしたら、この山あいの佐川の地域に逃れることも考えられていたのかもしれません。
たしかに、防衛上、非常に要(かなめ)となりそうな場所で、山や川、街道を上手に利用できそうな環境です。
あの「関ヶ原」にも少し似ており、太平洋、瀬戸内海、あるいは、さらに山奥へと つながっている場所です。
小さな街とはいえ、この場所に、優れた武士を育てるための教育環境が作られていても不思議はありませんね。

山城が繁栄していた時代から数百年が経ったとはいえ、富太郎が生まれた江戸時代の末期に、重要な軍事拠点として、人間の造った構造物と大自然が混ざり合った、手つかずの豊かな山域が、佐川町の中心部に残されていたのだろうと思います。

* * *

私のあくまで想像ではありますが、この山域は、今の時代に防災用の拠点としてチカラを発揮する時が来るかもしれません。
このまま残しておいたほうがいいと感じます。
「山城」とは、もともと、先人たちが見つけた、防衛力を持っている山域です。


◇逆流の佐川、名教の佐川、銘酒の佐川

上記の自叙伝の文章の中に記されていた「越知(おち)から来た乳母」の「越知(おち)」とは、佐川町から山並を越えた、北西部にある隣の大きな町のことです。
今の越知町で、朝ドラ「らんまん」にも登場した「横倉山(よこくらやま)」は、この越知町にあります。

「横倉山」は、歴史マニアには よく知られた山で、日本史や天皇家を揺るがした ある出来事に絡んだ特別な伝説を持つ山です。
この伝説がなければ、「三種の神器」は…。

朝ドラ「らんまん」の中でも、神々しい山として登場してきましたね。
そんな歴史のお話しは、あらためて別の回にご紹介します。

* * *

四国は、ご存じのように島の中央部を東西に高い山が連なり、島の南側の川は、北から南に流れ、太平洋に注いでいます。
逆に、四国の北側の川は、瀬戸内海に注いでいます。

ですが、四国の南側にある佐川町の川は、東西南北を山に囲まれ、集まって来た川の水は、柳瀬川(やなせがわ)となって、いったん北部の越知町に向かい、仁淀川(によどがわ)と合流します。
仁淀川は山を回り込むかたちで、高知市と土佐市の境を流れ、太平洋に注がれます。

「佐川町」の「佐川(さかわ)」という町名は、もともと「逆川(さかがわ)」という漢字表記からの変化であったようで、それは、四国南側のたいていの川の流れである、北から南へという流れとは逆の、南から北へ流れる「柳瀬川」を表現したともいわれているようです。

* * *

佐川町は、朝ドラ「らんまん」にあるとおり、山あいの小さな街であるにもかかわらず、「名教館(めいこうかん)」を中心に、昔から「文教の街」と呼ばれています。

日本各所には、小さな街にもかかわらず、偉大な学者や文化人を多く輩出する突出した街がいくつかありますね。
そこには、必ずと言っていいほど、優れた教育者がおり、優れた教育施設がありました。
歴史的には、たまたま偶然に「文教都市」が できあがるということはありません。

愛媛県の松山市にあった藩校は「名教館(めいきょうかん)」、高知県の佐川町にあったのは「名教館(めいこうかん)」です。
どちらにも、すぐれた名教官がいたのは間違いありませんね。
江戸時代末期に、土佐(高知県)から、突出した才能を持った人物が多数生まれてきたのは偶然ではないと私は感じます。
佐川町の「名教館」や、輩出された優れた学者たちのお話しは、あらためて別の回で書きます。

* * *

日本各地にある、酒蔵が立ち並ぶ街には、山に囲まれた特別な名水があったりしますが、名水は銘酒の必須条件ですね。

東西南北を山に囲まれ、一年中温暖で、雨が相当な量で降る佐川の地域です。
佐川町は、日本屈指の日本酒の街です。

当時の富太郎の実家の岸屋(ドラマ内では峰屋)も名酒蔵のひとつ。
佐川のお酒の話しも、あらためて別の回で書きます。


◇よさこい、よさこい

私も昔、高知市に行って、高知のカツオ料理と、高知のお酒を堪能したことがあります。
その両者は、今は日本中の他の街でも もちろん楽しむことができますが、高知で頂くと、これほど違う、格別な味なのかと驚いたことがあります。
その土地でないと実感できない味というものがありますね。

土佐の料理と酒、こじゃんと、うまいきよ!
なんちゃあ、来(き)いや!
よさこい! よさこい!

南 里沙
♪南国土佐を後にして

 

わかりやすくて、やさしい観光ガイド

 

高知市内の五台山には、「高知県立 牧野植物園」があります。
私は、高知市には仕事で何度か行きましたが、こんな素晴らしい植物園があることを、地元の誰も教えてくれませんでした。
これぞ、南国植物園!

 

* * *

ここで、もう一曲…。
高知市を中心に、地元密着、「高知愛」満タンで音楽活動をされている kasumi(かすみ)さんの楽曲です。


花の「かすみ草(霞草)」は、英語表現で「Baby's breath(ベイビーズ・ブレス)」というものもあります。
意味は「赤ちゃんの吐息」。
まさに小さな吐息のような、非常に小さく かわいいお花です。
花言葉は、「無邪気」、「清らかな心」、「幸せ」などで、まさに赤ちゃんにつながる気がしますね。

この楽曲の中に、高知の空を、風を、海を、季節を感じます。
牧野富太郎が愛用した帽子によく似た帽子をかぶる kasumi(かすみ)さんです。
高知で、この帽子をかぶる女性を見つけたら、それは高知の「かすみ草」です。
その吐息と歌声を聴きに、どうぞ高知へ…。

kasumi(かすみ)
♪また春がくる

 


◇バイカオウレン

朝ドラ「らんまん」の中では、万太郎(富太郎)が母親の面影を感じる花として、また、母が愛した花として「バイカオウレン(梅葉黄蓮)」が登場してきました。

実際に、富太郎が特に愛した花のひとつが、この「バイカオウレン(梅花黄蓮)」です。
コラム「音路119.あの人は花(3)わが植物園 〔愛らんまん.3〕」で、「ミルテの花(ギンバイカ・銀梅花・銀盃花)」を紹介しましたが、バイカオウレンも少し似ていますね。
本コラムの冒頭写真の花が「バイカオウレン」です。

* * *

5枚の花びらに見える白い部分は、本当は「がくへん」で、その形が梅の花に似ています。
白とはいっても、何か透き通った銀白色にも感じますね。
本当の花びらは、五つの黄色の部分のほうで、スプーンのような形をしています。
スプーンに混じって、飲酒の道具「マドラー」のような白い棒が何本も四方に突き出ています。
地下の根が黄色をしており、これが「オウレン(黄蓮・黄連)」という意味です。

銀白色に黄色のアクセント…、梅の花のようなシンメトリーの清閑さ…、放射状の華やかな輝き…。
清楚で純真、それでいて華やかさを漂わせ、独特な透明感を感じさせてくれます。
何か、ちょっとした小宇宙のような雰囲気さえ持っているように感じますね。

* * *

前述の、佐川町の富太郎の実家の裏山は、早春にバイカオウレンが見事に群生するそうです。
ですが、花のサイズが非常に小さいため、ひとつひとつの花の表情を見るには、相当に近づくか、拡大させて見るよりありません。

その小宇宙にたどり着くには、好奇心と探求心、他に大切なものが必要になりそうです。

ニュース映像です。

 


◇森の中の花

先ほど、富太郎の自叙伝の一部を紹介しましたが、両親についての記述を、ここで再び…。

私が四歳の時、父は病死し、続いて二年後には母もまた病死した。
両親共に三十代の若さで他界したのである。
私はまだ余り幼かったので父の顔も、母の顔も記憶にない。
私はこのように両親に早く別れたので親の味というものを知らない。

このように記述されていますので、富太郎は、今の満年齢で2~5歳の頃に、両親を失ってしまいます。
5歳くらいであれば、記憶がまったくないとは思えません。
かすかな記憶はあっても、まだ5歳足らずであったため、それは「親の味」では なかったのかもしれません。
「親」を感じたい、甘えたい年頃に、両親がいなかったということだったのかもしれません。

* * *

前述したとおり、「バイカオウレン」という花は、ひとつひとつは相当に小さなサイズで、見落としてしまいそうな花です。
ですが、この花は、杉やヒノキの森の中の日陰に大量に群生します。
これほどの群生を見落とすことは、まずありません。

私は、富太郎が どうしてこの「バイカオウレン」に惹かれ、こだわって愛していたのか想像してみました。

幼少期の富太郎は、わずかに憶えている母親の面影をたぐりよせ、自身の中で、母親像を膨らませていったのかもしれません。
私は、富太郎は、バイカオウレンの花ひとつひとつに、母親の面影を抱いていたのではなく、この群生する光景に、母親の面影を感じていたのではなかろうかと思っています。

杉やヒノキの森の中の薄暗い中で、銀白色に光る たくさんの小さな花が、濃い緑のじゅうたんの上に、星のように散らばって見えていたはずです。

この花は、まだまだ寒く、色のない、冬の終わりかけの早春の時期に、春の到来を告げる花として咲き始めます。
厳しい時期を乗り越え、明るい未来とやさしさを届けに来てくれる花のように、富太郎は感じたかもしれません。

バイカオウレンの素晴らしさは、まさに、こうした薄暗い森の中で、たくさんの銀白色が光る宇宙のような光景ではなかろうかと、私は思います。
富太郎は、元気と勇気、愛を感じさせてくれる この光景と、母親の面影を重ねていたのかもしれません。

両親は、この薄暗い森の中の、白銀の小さな輝きを放つ「花のじゅうたん」の上にいる…。
富太郎は、「親の味を知らない」と書き残しましたが、このバイカオウレンの群生の光景の中に、両親を見ていたのかもしれませんね。

* * *

バイカオウレンが森の中で群生する光景は、朝ドラ「らんまん」の中でも描かれていましたね。

人が、特定の花を好きになる理由は、理屈や興味、花の見た目ではなく、感覚的なもの、胸中にある想いであったりしますね。
富太郎にとって、バイカオウレンは、理屈ではなかったのだろうと、私は思います。

ネット上で、高知の群生の動画映像を見つけられませんでした。
奈良県のバイカオウレンの群生地の映像です。

両親の愛に包まれるとは、こうしたものなのだろうか…?

 

森の中のバイカオウレンたちを、ぜひ一度、寒さが少し緩みかけ、温もりを少しだけ感じ始める早春の時期に…。


◇ベニシアさんを偲んで

さて ここで、先般 ご逝去されました、ある女性のことを書きたいと思います。

英国生まれで、英国貴族の流れをくむ、ベニシア・スタンリー・スミスさんが、2023年6月21日、病気で ご逝去されました。
72歳でした。

ベニシアさんは、19歳で英国を離れ、諸国を巡り、1971年(昭和46)に来日しました。
1996年には、京都市 左京区の大原の里の古民家に移り住みました。
ハーブ研究家として、庭でハーブを栽培するとともに、自然を愛し、植物を愛し、里山の暮らしについてのエッセーなどの書籍を執筆されました。
NHKのテレビ番組「猫のしっぽ カエルの手」にも出演し、人気を博しましたね。

2013年(平成25)の映画「ベニシアさんの四季の庭」の予告編

 

* * *

私は、ベニシアさんとは電話で一度だけお話ししましたが、とうとうお会いすることは叶いませんでした。
彼女の逝去にともない、ブログに想いを書かれた方も少なくありません。
ここで、お二人だけ、ご紹介します。

チャリコさんが書かれた追悼ブログです。
2023年7月の追悼ブログ

 

2020年のブログ

 

チャリコさんの誠実な想いとブログ文章は、天国のベニシアさんに、しっかり届いていることでしょう。
この度の本コラムでの紹介につきまして、チャリコさんのご厚情に深く感謝申し上げます。

* * *

ここで、ベニシアさんを追悼する意味で、ハーブの楽曲を…。

ベニシアさんも、英国の「スカーバラ市」に行ったことがあったでしょうか…。
パセル、セージ、ローズマリー、タイム…。

 

サイモン&ガーファンクル、アンディ・ウィリアムス
♪スカボロー・フェア

 

* * *

次は、「歴音fun」ではお馴染みで、今回の私の連載「愛らんまん」でもたいへんに助力をいただいている、翠(すい)さんが書かれた追悼ブログです。

私は、ガーデナーの翠さんの自宅庭を「翠ガーデン」と呼ばせていただいています。
下記ブログには、「猫のしっぽ」、「カエルの手」の画像も入れてくださいました。
この度の本コラムでの紹介につきまして、翠さんのご厚情に深く感謝申し上げます。

 

 

日本では、ベニシアさんの影響で、自宅でガーデニングを始め、「草花とともに生きる生活」を選択された方も少なくないと思います。
翠さんも、大都会での暮らしを離れ、栃木県の那須の里山で、野菜を育て、草花を育てながら、草花や昆虫、野山の大自然とともに生きていく「道」を選んだ女性です。

草花は、わが子であり、家族であり、頼れる存在。
私は、草花や庭とは、犬や猫などのペットたちと同様に、しっかりと、人の会話相手になってくれる存在だろうと思っています。
返答はなくとも、きっと 自身に語りかけてきてくれているのだろうと感じます。

日本には、ベニシアさんや、翠さんと同じような生き方を選択した方々が、他にもたくさん おられますね。
そんな方々も、きっと「花」なのだろうと思います。

* * *

奇しくも、翠さんとチャリコさんのお二人から、同じ楽曲をリクエストいただきました。

テレビ番組「猫のしっぽ カエルの手」でも使用されていた楽曲「道」です。

川上ミネ
♪道

 

草花とともに生きておられる、多くの方々の「道」もきっと、美しい花々で飾られ、芳しい花の香りで満ちているのだろうと想像しています。

* * *

川上ミネさんの、芸術の香りのする楽曲を少しだけ…。

♪コルドバの午後

 

♪オ・メウ・カミーニョ

 

ベニシアさんは、今頃、天国のお庭でガーデニングを楽しんでおられることでしょう。
そして、音楽を聴きながら、ハーブティーも…。


◇猫のしっぽ、カエルの手

ベニシアさんのテレビ番組「猫のしっぽ カエルの手」にちなみ、こんな楽曲を…。

植物の中には、動物の「しっぽ」のようにも見える花を咲かせる植物が少なくありません。
ここで言う「猫のしっぽ」とは、そうした花々のことを指しています。

実際の猫の「しっぽ」の動きは、気持ちをじゅうぶんに反映していますので、侮ってはいけませんね。

しっぽが、揺れちゃうの…。
谷山浩子
♪しっぽのきもち

 

* * *

「しっぽ」で思い出したクラシック音楽がこれ!

自身のしっぽを追いかけてクルクル回る小犬の姿を表現した楽曲です。

ショパン
演奏:中村紘子(1985・昭和60)
♪小犬のワルツ

 

中村紘子さんのピアノ指導

 

* * *

「猫のしっぽ」の次は「カエルの手」です。

「カエルの手」とは、楓(かえで)などの、蛙(かえる)の手のように見える形の葉っぱのことです。
もちろん、「楓(かえで)」とは、カエルの手「カエ手」からの表現です。

スピッツ
♪楓(かえで)

 

楓(かえで)と「カエルの手」のお話しは、私のコラム「音路97.秋だもの…カエルの手(カエル コネクション.15)」で書きました。
よろしければ、どうぞ…。

 

* * *

先ほどご紹介させていただきました、ガーデナーの翠(すい)さんの「翠ガーデン」には、翠さんと私がそう呼ぶ「チャーリー」というカエルと、カマキリの「ロビン」がいます。
皆さまも、ブログの中の「翠ガーデン」に会いに来て…。

 

 

 

* * *


今回の私の連載「愛らんまん」の最初の数回は「あの人は花」と題して5回にわたり掲載させていただきました。
アメ―バでブログを書かれておられる、翠 様、チッチ様、すみれ様、山想花 様、チャリコ様には、たいへんなご厚情をいただき 深く感謝申し上げます。

「草花」でつながったご縁に感謝いたします。


◇虹で つながって…

最後は、世界一有名な歌うカエルである「カーミット(Kermit the Frog)」の、この「つながり」楽曲を…。

1950年代から、英国のテレビ番組「マペットショー」や、米国のテレビ番組「セサミストリート」の中で活躍し、多くのマペット(あやつり人形)たちの中でも、カエルの「カーミット」は中心的な存在ですね。
ディズニー映画にもなりました。

歴代の有名声優が声を担当し、日本の吹き替えでも、山田康雄・神谷明・富山敬・山寺宏一・安原義人・大塚芳忠・西脇保・真殿光昭など、そうそうたる声優さんたちが声を担当されました。

* * *

日本で、1996~8年に、NHKでテレビ放送された「マペット放送局」の映像です。
想像もできないような、大スターたちが出演していましたね。
下記映像の17分55秒からは、先日亡くなられました歌手のトニー・ベネットさんとカーミットが共演しています。
その後は、ガース・ブルックス、クーリオ、プリンスと超スーパースター歌手が続きます。

 

歌手のプリンスの登場回の映像です。
当時、プリンスは自身の名前を捨て、マークだけで自身をあらわし音楽活動を行っていた時期です。
テレビやラジオでは「かつてプリンスと呼ばれた男」と表現し、彼を紹介していましたね。
プリンスは、その衝撃的な音楽作品や言動によって誤解されやすかった音楽家でしたが、こうした一面を持っていたアーティストでした。

彼がかつて行なった実験的な音楽活動や音楽ビジネスの試行は、今の時代にやっと実を結んできましたね。
現代の音楽史に、その名を永く残すであろう、天才型の音楽家でした。

 

* * *

2011年(平成23)の米国映画「ザ・マペッツ」の予告編

 

まさに、「世界の名曲」になった楽曲「レインボー・コネクション」です。
「世界の名曲」たちが、日本でだけ 知名度がイマイチなのは いつものことですが、ちょっと ザンネン!

映画のシーンです。
地球という大きな「庭」の中から、その歌声は聴こえてきます。
♪レインボー・コネクション

 

この楽曲を、カーペンターズの歌唱でお好きな方が、日本では少なくないですね。
和訳付き映像です。
♪レインボー・コネクション

 

会場全体で大合唱するのが、この曲!
♪レインボー・コネクション

 

トリ―・ケリーとの共演!
♪レインボー・コネクション

 

この楽曲は、歌の下手(?)なカーミットとの共演ということもあり、プロ歌手には意外と難しい楽曲です。
バーブラ・ストライザンドは、前半と後半を見事に歌い分けています。
後半では、プロ歌手としての「バーブラ節」が炸裂!
私は、初めて聴いた時に、蛙肌ではなく、鳥肌が立ちました。
♪レインボー・コネクション

 

映画のシーンです。
カーミットは、やはりマペット(あやつり人形)たちの中にいると、安心できるのかも…。
♪レインボー・コネクション

 

「庭」がしっかり そこにあれば…、草花たちが元気に そこにいてくれれば…、虹を渡って、つながっていけそうな気がしてきました。

連載「愛らんまん」は、これからも まだまだ、つながっていきますよ。

* * *

 

2023.8.3 天乃みそ汁
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