日本で発見された現在知られている、年号の入った古銅鏡として知られているものは、全部で14枚であるそうです。このうち三国時代のものが12枚におよび、うち10枚が魏の年号が入ったものであるようです。紀年銘鏡には明らかな偏りがあり、10枚の魏の年号鏡の示す年は、235年から240年のわずか6年に集中しています。この時期に何か日本列島の政治勢力と、魏の間に重大な政治的事件のあったことを思わせます。まさに魏志倭人伝には、魏の景初三年(239年)に、倭王卑弥呼の魏への朝貢があり、銅鏡百枚を送ったと記されているので、この二つを関連付けるのは、自然なことであると思われます。

紀年銘鏡のほとんどを占める、三国魏の鏡についてみると、下記のような状況であることが分かります。

青龍三年鏡(235年)三枚(方格規矩四神鏡三枚)
景初三年鏡(239年)二枚(三角縁神獣鏡一枚/平縁神獣鏡一枚)
景初四年鏡(240年)二枚(斜縁盤龍鏡二枚)
正始元年鏡(240年)三枚(三角縁神獣鏡三枚)

これらの鏡を卑弥呼の朝貢に結び付ける場合、魏の正式な年号にない景初四年や、卑弥呼の朝見の後になる正始元年の年号銘は、議論のもとになるものでした。景初三年鏡や正始元年鏡を含む、三角縁神獣鏡を卑弥呼の鏡とする立場にたいしては、全部で同形式鏡が三百枚を超えることに関する批判があります。常識的に考えれば、送られた百枚の鏡の内、発見されたものはわずかであると考えるのが普通であり、発見された三角縁神獣鏡の内、卑弥呼に送られたものはわずかであると考えられます。

ここで議論を巻き起こしている、景初四年と正始元年の年号に関して考えてみます。親魏倭王のシリーズの最初に、朝貢年に関して説明した時に、景初三年十二月に暦の改訂があり、景初三年には十二月が二度あったとしました。そして卑弥呼の朝貢年は、景初三年の後の十二月であると推定しました。この景初三年の後の十二月は、暦の改訂前には正始元年正月になるはずの月でした。この時の改暦には月の巡りを一月遅らせる意味と、同時に正始への改元が一月遅らせる意味の、二重の意味がありました。景初三年十二月の改暦は、十二月に行われたことしか記録されておらず、十二月のいつ行われたのかが不明です。極端な場合には、明日改元を行う前日に変更された可能性もあります。

現代人から見れば、なぜそんな急なことをするのか疑問に思いますが、占いや様々瑞兆や凶兆を重視した時代の判断は、計り知れない部分があります。実際のところ景初年間の景初暦は、明帝による強引なもので、まだ幼い新帝即位間もない時期、政権の体制も固まらない中で、使い慣れた暦にもどす動きが出て、抑えきれなかった可能性もあります。改暦の詔がいつ出たにせよ、一か月以内であれば混乱は必至であると思われます。

改暦後の混乱について、史書には記録がありませんが、このような事態を思わせる記録が史書には残されています。実際三国志帝紀の、正始元年の最初の条である、正始元年春二月条の記事に、日の干支として乙丑が現れるのですが、乙丑は二月には存在せず正月になるのです。つまりこの記録は、改暦によって正始元年正月になるはずの月が、景初三年の後十二月になったことをうっかりして、正始元年正月を二月と記録してしまった可能性があるのです。

親魏倭王のシリーズの五番目、朝貢の意味でみたように、私見では魏志倭人伝の景初三年の朝貢は、晋書帝紀の正始元年の朝貢と同じものであると考えます。これは本来正始の改元に合わせたセレモニーで、倭国をはじめ焉耆、危須の諸国や弱水以南の鮮卑名王たちを呼び寄せたものです。それが突然の改暦で、改元より前の朝貢になってしまったと思われます。卑弥呼の朝貢が、あらかじめ正始の改元に合わせて準備されていたとすると、そこに正始元年の紀年銘鏡が含まれることになるのは、必然的であったということになります。いっぽう形式の違う斜縁盤龍鏡の景初四年鏡は、やや異なるグループによるものでしょうが、改暦とそれに伴う改元が、単なる改元の延期として伝わったとすれば、このような年号鏡が作られる可能性はあります。

このような考察から、正始元年の年号を持つ鏡は、おそらく卑弥呼の百枚に含まれるものであろうと思います。青龍三年鏡については、このときそれ以前に作成されていた鏡を、百枚に含めたものではないかと思います。景初四年鏡については、鏡の形式も違うことから別のグループではあるものの、時系列的には卑弥呼朝貢に極めて近いものであると思われます。景初三年鏡については、正始元年鏡と同形式の三角縁神獣鏡については、急遽改暦後の年号で作成されたか、もしくは大量の三角縁神獣鏡と同じく、歴史的事件を背景に別の段階で作成されたか判断できません。景初三年の平縁神獣鏡については、作成グループが異なるため、卑弥呼の百枚とは経緯の違うものである可能性が高いような気がします。

ちなみに赤烏元年(238年)と赤烏七年(244年)の呉鏡については、これに先立つ時期に呉の孫権が、遼東の公孫氏と関係を結ぼうとしていた経緯があり、公孫氏が滅んで後の赤烏二年(239年)の三月に、遼東に軍隊を派遣しています。この際に倭国に至る北回りルートが開発された可能性もあると思います。孫権は黄竜二年に東シナ海を渡って亶洲に至ろうとして果たせなかった経緯もあり、自らの権威を高める倭国からの朝貢を求めていたと思われます。史書には残されていないものの、倭人朝貢の噂を聞きつけた孫権が、北回りであれば倭国に至ることが可能であろうと考え、呼び寄せることを目論んで使者を派遣したけれども、結局朝貢は実現しなかったのだと思います。

追記:

青龍三年鏡について考えてみました。

紀年銘鏡のうち最多の三枚見つかっている、正始元年鏡については、私見では卑弥呼の鏡百枚の一部とします。

景初三年鏡や景初四年鏡についても、時系列的にそれに関りがある鏡としました。

 

ただ青龍三年鏡も、正始元年鏡と同じ三枚見つかっており、何らかの意味がある可能性があると思います。

青龍三年という年がどういう年かというと、前年青龍二年に魏にとっては天敵の諸葛亮が亡くなっています。

そしてその後明帝は、重臣に諫められても盛んに宮殿の造営を行います。

晋書帝紀では、明帝の死後司馬懿はこれを改めたとあり、不評の政策であったことが分かります。

憶測ですが、明帝は諸葛亮が亡くなってある意味祝祭的な気分であったのではないでしょうか。

 

つまり諸葛亮の死によって、東北アジアの政治バランスが大きく変動したのではないかと思います。

青龍四年には、高句麗が孫権の使者の首を送ってきました。

高句麗は公孫氏に裏切られた、呉の使者をかばうなど、呉と接近していたのですが、この時になって態度を変えたのは、このような東北アジアの政治バランスの変化を受けたものと思います。

おそらく公孫氏も、このような情勢に敏感に反応し、後背の憂いをなくした魏の圧力を感じるようになってきたのでしょう。

 

青龍三年はそのような情勢の始まった年であり、其の二年後についに公孫淵は魏から独立を宣言します。

実際どのように事態が動いていったのかは分かりませんが、この年以降公孫氏は統率下にある倭に何らかの働きかけを行い、青龍四年銘鏡は、そのような外交に関りがあるのではないかと思います。

つまり景初三年の魏に対する歴史的出来事の前に、公孫氏と倭の間に先行して何か大きな出来事があったのではないでしょうか。