卑弥呼の時代については、弥生終末期の庄内期と呼ばれる時代にあてられることが多いです。これは奈良県立橿原考古学研究所の石野博信氏や寺沢薫氏が、纏向を卑弥呼の都としたことの影響が大きいと思います。両者とも卑弥呼の即位を纏向誕生と考えておられるように思われます。石野氏はこれに魏志倭人伝では卑弥呼の即位が倭国乱の後となっていること、この乱の時期が後漢書に記述された桓霊の間、もしくは梁書に記述された、霊帝の光和中となっていることをもとに、纏向の開始を西暦180年と設定しました。このような考えは、卑弥呼の都を纏向と考える説においても、意見の一致をみているものではなく、卑弥呼の即位を纏向成立の後と考える説もあります。

卑弥呼の時代を考える場合、その没年に関してはこのブログの親魏倭王のシリーズの六番目で論じました。その始まりは文献的には卑弥呼の時代は倭国乱の後となっていますが、そこで課題となるのは倭国乱と表現される出来事の実態と、その時期を特定することです。これに関しては様々な議論はありますが、文献的に有力なのは石野氏のように、後漢書や梁書の記事を根拠とすることです。しかし三国志ではその時期は明らかになっていません。

ここで親魏倭王シリーズの二番目で論じた、朝貢記録に注目してみます。この一連の朝貢記録は朝貢使とそれに対する応答使のやりとりを、時系列に記録したもので、途中に詔書のおそらく全文と思われるものが挿入されているなど、きわめて実録的で非常に珍しいものです。この景初に始まる一連の年号付き記録において、卑弥呼がどのように呼ばれているかを見てみます。

景初三年:

 倭女王
 倭女王
 親魏倭王卑弥呼(詔書中)
 親魏倭王(詔書中)


正始元年:

 倭王
 倭王

正始四年:

 倭王

正始八年:

 倭女王卑弥呼
 卑弥呼(卑弥呼死後)
 卑弥呼(卑弥呼死後)


卑弥呼はこの時系列記録で、最初倭女王とされていますが、これは称号と言うよりは、倭の女王という一般的な言い方であると思われます。また名前も示されていません。朝見の場において詔書の中で、初めて親魏倭王の称号と共に王名が示されます。そしてその後は倭王と呼ばれています。これは親魏倭王の略と思われ、卑弥呼の呼び名は厳密に行われていることが分かります。正始八年が異例の扱いになりますが、倭女王卑弥呼は下記の文中に有ります。

其八年、太守王頎到官、倭女王卑弥呼与狗奴国男王卑弥弓呼素不和、遺倭載斯烏越等詣郡、説相攻撃状。
その八年、太守王頎が官にやってきた。倭の女王卑弥呼は、狗奴国の男王卑弥弓呼と古くから不和である。倭の載斯烏越らを遣わして郡に行き、互いに攻撃する状態を説明した。

過去のことを述べていて、素不和なのは魏との交渉の始まる前からの事なのでしょう。卑弥呼が称号を受ける前の事なので、倭王の称号を伴っていないのだと思われます。そしてここでは倭女王卑弥呼狗奴国男王卑弥弓呼と対を為すものとして扱われているため、対句的な意図でも倭女王卑弥呼が使われていると思われます。
続いて称号を伴わない卑弥呼が現れますが、それは次の文章からです。

卑弥呼以死、大作塚、径百余歩、殉葬者奴碑百余人、更立男王、国中不服、更相誅殺、当時殺千余人、復立卑弥呼宗女台与年十三為王、国中遂定。政等以檄告諭台与 台与遣倭大夫率善中郎将掖邪狗等二十人 送政等還 因詣台 献上男女生口三十人 貢白珠五千孔 青大句珠二枚 異文雑錦二十匹
卑弥呼の死によって大いに塚が作られた。径は百余歩、殉死した奴婢は百余人。さらに男王を立てたが、国中が服さない。互いに誅殺し合い、当時千余人を殺した。また卑弥呼の宗女の台与という歳十三の者を立てて王とすると、国中がついに平定した。政(張政)らは檄を以て台与を告諭した。台与は倭の大夫の善中郎将掖邪狗ら二十人を遣わし、政(張政)らが還るのを送らせた。よって台(魏都洛陽の中央官庁)に行き、男女生口三十人を献上し、白珠を五千孔、青大勾珠を二枚、異文雑錦を二十匹、貢いだ。

ここではすでに卑弥呼は死んでいるのです。倭王という称号は生きている王に与えられたもので、亡くなると倭王ではなくなるのです。そして卑弥呼を継いだ台与も倭王とは呼ばれていません。つまりこの時点で台与はまだ称号を得ていません。台与はこの後、魏に使者を送っており、その時称号をもらえた可能性はあります。

このように見ていくと、朝貢の実録的記録においては卑弥呼はいくつかの表記で現れてはいますが、時系列的に卑弥呼の置かれた状況を表現しているのです。このような記録の表現の厳密さを考えると、さらなる情報を引き出すことができます。つまり卑弥呼は景初の最初の朝貢の際に、倭の女王となっており、女性であることぐらいは事前に分かっていたかもしれませんが、まだその名を知られていなかったということです。卑弥呼という表記自体、この時の朝見で初めて文字化されたと考えうべきでしょう。
(親魏倭王シリーズの二番目でも触れましたが、三国志斉王紀正始四年条に、倭国女王俾弥呼と称号も名前も異表記があらわれていますが、これは東夷伝の朝貢記事と帝紀の原史料が異なることを示していると思われます。ここでは倭王という詔書で与えられた称号すら使われておらず、称号を与えた景初三年に言及せず、正始四年のみ簡単に触れるなど、異様な扱いになっています。しかし卑弥呼の名前は俾弥呼になっているものの、人偏の追加のみであり、中国史書では異民族に関する固有名詞の表記として、高句麗高句驪とも書き、を印面でと書くことがあることで分かる通り、別途文字化されたというより、異表記に過ぎないと思われます。)

名前も知られておらず、称号も得ていないということは、卑弥呼が中国の皇帝に対してそれ以前には朝見を果たしていなかったということです。すなわち曹魏は後漢からの禅譲を受けて成立しているので、公孫氏政権のような地方勢力に朝貢した可能性はあっても、後漢王朝に朝貢して王名を知らしめたり、称号をもらったことはなかったと考えられます。こう考えると、朝貢記録以外で唯一王名の現れる卑弥呼の即位記事は、実は朝貢記録の記事との関係が深いことが分かります。

其国本亦以男子為王,住七八十年,倭国乱,相攻伐歴年,乃共立一女子為王,名曰卑弥呼,事鬼道,能惑衆,年已長大,無夫壻,有男弟佐治国。自為王以來,少有見者。以婢千人自侍,唯有男子一人給飲食,伝辞出入。居(所宮室楼観,城柵厳設,常有人持兵守衞。
その国は、もとは男子を以て王となし、留まること七、八十年。倭国が乱れ、互いに攻伐すること歴年、そこで共に一女子を立てて王とした。卑弥呼という名である。鬼道につかえ、よく衆を惑わせる。年は既に長大だが、夫は無く、男弟がおり、補佐して国を治めている。王となってから、朝見する者は少なく、下女千人を自ら侍らせる。ただ男子一人がいて、飲食を給し、辞を伝え、居所に出入する。宮室・楼觀・城柵をおごそかに設け、いつも人がおり、兵器を持って守衛する。

親魏倭王のシリーズの六番目でも言及しましたが、卑弥呼の即位記事は、其の国という代名詞で始まり、後からそれが倭国であることが分かるようになっています。通常まず固有名詞を先に出し、あとからそれを代名詞で受けるものなので、この記事はもともと倭国を主語とした文脈にあり、そこから切り抜いて挿入したと考えられてきました。親魏倭王のシリーズの六番目ではこの朝貢記録の後半、卑弥呼以死以降の部分が、下記の卑弥呼の即位記事と密接な関係にあることを示しました。おそらく同一の原史料にあった、文章を分割して挿入したものでしょう。その際に陳寿は同じ張政つながりで、卑弥呼以死以降の記事を、分割して正始八年の記事につなげ、即位記事は倭国の様子を記録した朝貢記録の前の文章の中に挿入したのでしょう。

このように考えると、卑弥呼の即位記事は、張政が帰国後の報告と言うことになります。親魏倭王のシリーズの六番目で触れたように、張政は二度倭国に来ており、台与による張政の送還はその二度目のもので、泰始二年(266年)の晋への朝貢の時のことと考えられます。すでに卑弥呼の即位からは相当の期間が経過しており、倭人からの聞き取りであることは間違いありません。

ここで王名に注目してみます。卑弥呼の名は、敵対するという卑弥弓呼とあまりにも似ています。これは本来王の名ではなく、称号ではないかと言われてきました。一説によると卑弥呼は日巫女、卑弥弓呼は卑弓弥呼の誤りで、彦巫女の意味であるとの説もありました。それが正しいかどうかはともかく、どうもこれは実名とは思えません。中国には諱の風習がありますが、古代日本にそのような風習があったかは判然としません。しかし親付けられた名に代えて、成長して高い地位に就くと、その地位に相応しい名を名乗ることは自然なことと思われます。すると王になった人物を、その本当の名で呼ぶことに対して、無礼な印象を持つことになるでしょう。本当の名はあまり呼ばれることがなく、そもそも臣下はその名を知らなかった可能性もあります。しかし正式に称号を得るには、詔書中で親魏倭王卑弥呼とするためにも名前が必要で、王名に代えて称号を伝えたと考えられます。卑弥弓呼も帯方太守に救援を求めるために必要だったのでしょう。実際に隋書には倭王を阿毎多利思北孤とあります。これは阿毎多利思比孤の誤で、アメタりシヒコと読むならば、日本書紀の知識が有れば、これがある種の称号であることが分かります。

そこで問題となるのが台与です。称号とするには、卑弥呼の後継者にもかかわらず、あまりにも違います。私はこれは本当の名前なのではないかと思います。考えうるのは、張政が最初に倭国を訪れた時、即位前の幼い台与に会っていたのではないかということです。張政は難升米に檄を告諭していますが、卑弥呼にあっていないようです。これは卑弥呼の即位記事に、卑弥呼が男弟以外に会うことがないとしていることに合致しています。しかし台与には檄を告諭しています。張政は倭国の内部事情を深く理解し、かかわっていたのではないでしょうか。卑弥呼の即位次第のような情報は、張政だからこそ聞きだせたのではないでしょうか。

三国志は倭国乱の時代に関して、いつの事かまったく情報を与えません。後漢書はそれを桓霊の間とし、梁書は霊帝光和中と次第に時期が明示されます。このような情報が後の時代になるほど出てくるとすると、何らかの史料に残されていたことになります。もしも卑弥呼が後漢の時代に朝貢していれば、そのような情報が史料として残されていた可能性はあります。しかし卑弥呼政権が接触したのは、公孫氏のような地方政権に非公式に行ったものは可能性がありますが、中央政権としては魏の時代が最初で、その時代に倭国に深くかかわった張政でもその時期は判明しませんでした。後漢書や梁書の時代に、それ以上の情報が残されていたとは考え難いのです。

後漢書を撰述した范曄は、東観漢記のような同時代史料に基づき、倭国には107年に王がいたと分かったでしょう。その王を魏志倭人伝の卑弥呼の前の男の王と推理するのは自然なことです。そしてそこから七八十年くだれば、後漢霊帝の時代になります。桓霊の間というのは、後漢末の混乱期を指す慣用語ですから、倭国の乱をそこにかけたのでしょう。梁書はその推論を受けてさらに年代を詰めただけであると考えます。すなわち文献では倭国の乱の時期は確認できません。言えることはそれが終了したのは、卑弥呼が魏に朝貢した記録のある、239年を下限とするということだけです。

それでは卑弥呼の即位年についてどのように推定できるでしょうか。卑弥呼の没年は正始八年の西暦247年以降となります。通常王の在位は10年から20年程度で、30年の在位でもかなり長い部類です。もしろん高句麗長寿王の例もありますから、長命の王でないとは言えませんが、180年に即位して247年没年なら、67年の在位となり、稀有な例となってしまいます。通常の在位年を考えるならば、即位年は220年代から230年代となります。卑弥呼の即位は朝貢の直前の可能性もあるのです。実際景初三年の朝貢の貧弱さを考えると、混乱の余燼のくすぶる状況であった可能性もあるのです。

ところで卑弥呼の即位記事や、朝貢記事には倭国と言う語が出てきます。是の指し示すところを、倭人伝の最初の邪馬台国までの地理的記述の部分での政治マップを確認すると、対馬以下此女王境界所盡(これが女王の境界の尽きるところである。)に続いて、其南有狗奴国(その南に狗奴国あり)と女王に属さない狗奴国のことを述べるのに対し、朝貢記事では倭の女王卑弥呼は、狗奴国の男王卑弥弓呼とむかしから不和であるとして、その範囲が地理的記述の二十九ヶ国に相当することが分かります。つまり朝貢記事では対馬以下此女王境界所盡までを倭国としています。そして卑弥呼の即位記事では、倭国にはもと男の王がいて統治していて、それが乱れたので卑弥呼を共立したとあります。したがってそのままに解釈すれば、卑弥呼以前に卑弥呼の統治領域はすでにまとまりがあったことにあります。中国において乱と言うのは、多くの元来別々の国々が戦い合うようなことではなく、統治されていた国が反乱や王位継承で乱れることを指します。卑弥呼は反乱収拾のための繋ぎの存在であり、乱はもともと倭国の王位継承の混乱であったとするのが妥当な気がします。

卑弥呼の登場で倭国の政治が安定したのかと言うと、卑弥呼が亡くなった後、再び本来の王位継承に戻って、男の王が立とうとして失敗ことでわかるように、簡単にはいかなかったのでしょう。倭国の王位継承が安定したのは、台与の亡くなった後で、早くとも三世紀第四四半期以降となるでしょう。すなわち三世紀第四四半期に倭国の政治的中心があった場所は、張政の記録に大規模な遷都の記録が見えないこと、邪馬台国が戸数七万の広域であることを合わせて考えると、かって邪馬台国と呼ばれた領域の中にあったと考えられます。つまり初期ヤマト政権が三世紀末に遡るなら、卑弥呼政権との間に、地域的に深い関係があったと思われます。

また女王が王位継承の危機に際して、緊急避難的に政務をとる状況は、記紀の最初の女王である推古が、崇峻暗殺の異常事態の出来事であったこと、井上光貞氏によるとそれ以降も、皇位継承の危機において女王が立つとされたことを思い起こします。推古以前でも、神功の伝説では、子の応神を即位させるために摂政になったとありますし、飯豊の場合も、雄略朝の男系断絶に際しての出来事となります。卑弥呼や台与の例は、倭国における継承の危機にたいする処方の先例ともいえるのでしょう。

以上の文献的考察から、卑弥呼の統治した領域は、卑弥呼以前からある政治的まとまりになっていたこと、卑弥呼政権が初期ヤマト政権と密接な関係にあること、卑弥呼の時代が220年代から230年代に始まり、親魏倭王のシリーズの六番目で述べたように、その没年は247年以降下限を260年代初めまでとすることができるのではないでしょうか。もちろん文献がすべて正しいことを書いているとは言えない以上、断定することはできません。