白石南花のブログ
  • 16Sep
    • 竺紫日向之橘小門之阿波岐原は何処か

      日本神話の橘小門とはどこだろうか。多くの解説書には、実在の場所ではないとされている。おそらくその原因の一つは、植物に関連する橘小門、阿波岐原の地名に実在性が薄いことと、この場所が神話の中のイザナギの禊の場所であるからだと思われる。イザナギ、イザナミの最初に作ったオノコロ島が、古事記の仁徳歌より瀬戸内を差し、一方禊の前段となる黄泉つ平坂を、出雲に関わりの深いスサノオの根の堅洲国との境界とする記載もあることから、神話の中の地名を特定の場所に充てることに意味が無いと考えられているのであろう。しかしこの場所については、竺紫日向と言う具体性のある記述があり、全く架空とも言えないようである。記紀には実際どのように書かれているだろうか。古事記神代記:竺紫日向之橘小門之阿波岐原日本書紀神代上:筑紫日向小戸橘之檍原(檍、此云阿波岐。)イザナギが禊して住吉三神を含む神が生まれる。日本書紀神代下:橘之小門海神が乗る駿馬の八尋鰐が居る日本書紀神功紀:日向國橘小門日向に付いては、日に向うと言う形容であるとする説もあるが、日本書紀神功紀には日向國となっていて、地域を指定していることは明らかである。橘小門と言うのは確かに実在性に乏しい地名ではあるが、応神紀に髪長姫が「伽遇破志波那多智麼那(かぐわしはなたちばな)」と謳われた事、その娘の雄略皇后を橘姫と呼んだことから、南国日向と橘には由縁があると思われ、橘小門は本来は日向のある地域を指していた可能性は否定できないように思われる。私は天孫降臨(14) ー黄泉の国ーで述べたように、そもそも黄泉の国の神話は南九州の神話を取り入れたものでは無いかと考える。それでは橘小門のモデルになった実在の地はあるのであろうか。小門と言うのは、川の河口の樣な小さな地形であるとされる。しかし橘小門はそんな小さな地形なのだろうか。そこには海神が乗る駿馬の八尋鰐が居るのである。また古事記には水の底で底津綿津身神と底筒之男命、水の中で中津綿津身神と中筒之男命、水の上で上津綿津身神と上筒之男命が誕生したとし、かなりの水深を感じさせる。そして橘小門には阿波岐原と言う小地名が付属する。また第五段一書の十では、鳴門海峡や豊後水道と比較されている。ある程度の海峡と考えていいのではないだろうか。日本書紀神代下第十段一書の四では、海幸山幸の神話の中に登場することから、後の隼人の居住地であろう。考古学的には薩摩半島から、鹿児島湾岸一帯には、周辺と異なる土坑墓の伝統のある地域が広がっており、この地域を考えるべきであろう。日向と呼ばれる地域には、後の薩摩半島や大隅半島も含まれていた時期があった。702年には薩摩國、713年には大隅國が分離している。古事記の成立時期には薩摩國が、日本書紀の書かれたころには大隅國も分離しているが、おそらくこれらの伝承の意味するところでは、日向は九州南部一帯をさすであろう。その地域で唯一海峡と呼べそうなのが、鹿児島湾の入り口である。ここは鹿児島湾から外へ通づるところで、九州南部を通る航路にとっても重要な地域である。この地域の海民がここを聖地としていても不思議はなく、ここに彼らの神がいたのではないだろうか。では阿波岐原はどこなのか。想像ではあるが、実際に南九州の海民が何らかの葬送儀式のあと、禊を行ったような場所では無いだろうか。もしそうなら近くに墓所があったはずである。この鹿児島湾口の近く、指宿に成川遺跡という弥生から古墳時代までの埋葬遺跡がある。成川遺跡から海までは1.5kmであるが、海浜が禊の場だったのでは無いだろうか。

  • 08Sep
    • 天孫降臨(16) ー膂宍之空國ー

      16.六世紀南九州の変容 ー膂宍之空國ー六世紀に入って、南九州地域は変容を始める。橋本達也氏の「成川式土器と鹿児島の古墳時代研究」によると、「ほかの古墳時代社会とは生産技術・組織のあり方に違いが生じ、鉄器も古墳時代社会の中で独自の存在として異彩を放ちはじめて行く。結果として古墳時代後期末段階には独自の武装や習俗が外見に表出していたであろう」とする。成川式土器と鹿児島の古墳時代研究より九州南部の古墳墓編年同書によると「なぜ南九州は孤立化を深めることになったのだろうか。古墳時代後期、近畿中央政権はより強力に、全国的な支配体系を構築はじめる。墓制・生活様式・生産構造の資料から、それまでの中央-地域の関係が各地域首長との同盟的な連合関係から主従関係へと軸を移しはじめたと考えられる。その際に、九州南部では宮崎平野の拠点化がより進行したことが、古墳や出土資料からうかがえるのであるが、逆に大隅・薩摩地域はこの時期以降、古墳時代社会の交流圏から疎外され始めたらしい。」大和政権の王朝化と中央政権的性格が深まり、血統断絶や政権内部の政治的混乱が生じたのではないだろうか。継体朝は允恭雄略朝の度重なる断絶に伴い、大伴氏によって近畿中枢域外から王となったのだが、大和入りまでの期間の長さなどから、政権内の抗争があったとする意見がある。また筑紫の君磐井の反乱や、継体朝から欽明朝への移行も百済本記に見える、辛亥年に天皇及、太子、皇子ともに崩御したと言う記述から、何らかの政変を考える説があった。近年、河内大塚山古墳が完成前に放棄された可能性が指摘され、この説に再び注目が集まっている。日本書記によれば、欽明朝に入って南九州に大きな影響力を持って行た大伴氏も失脚する。倭国の朝貢は遅くとも六世紀初頭には終わっていた様である。六世紀後半に入ると、再び南九州に対する関心が生まれる。敏達天皇は朝鮮半島政策立て直しのため、百済高官であった日羅を呼び寄せるのだが、日羅は大伴の金村の命により百済へ渡った葦北国造刑部靭部阿利斯登の子である。日羅が大伴の金村を我が君と呼んでいることで分かるように、葦北等の肥後と大伴氏の関わりは深い。続く用明朝で大伴氏は重用され、これが六世紀末に阿蘇のピンク石が植山古墳の石棺に使われる理由であろう。七世紀初頭には推古朝は隋に使者を送るが、大伴咋は隋の使者を迎える重要な役割を果している。もしかしたらこの時、吾田も一時的に脚光を浴びたかもしれない。しかし既に大和政権の目は、すぐに南九州を通り越し西南諸島に向いて行った。百済の南朝および隋への朝貢は続いていたが、黄海を渡海する航海は416年以来続いており、既にそれ自体特殊技能とは言えなくなっていたであろう。七世紀に入ると西南諸島からの人々の朝貢が目立つようになる。一説によれば七世紀初頭の隋による流求遠征が、動揺を引き起こしていたと言う。国家南方の境界を更に南に意識せざるおえない時代に入っていたのである。663年白村江の戦いで敗れると、百済の滅亡と敵対する新羅の興隆により、朝鮮半島経由の朝貢路は塞がれた。八世紀の遣唐使は南島路を通ってゆくのであるが、そこで重要となったのは寧ろ南島地域の海人であろう。南九州はその航路の後方として、度々反乱を起こしながら、律令国家の中に組み込まれていくことになる。隼人は小中華としての大和朝廷の、四夷としての地位に甘んじることになるが、朝廷は五世紀以来始祖が吾田の姫の子であるとしていた。しかもそれは日本書紀一書の存在に見るように、多くの氏族の祖先伝承に共有されており、既に覆し難い伝承であった。このため吾田の一族は、蝦夷と異なり四神の一つとして、王城を守る存在とされたのである。天孫降臨から神武東征への神話の骨格ができたのは遅くとも大伴氏の最盛期である継体朝であり、物語は口誦で伝承されたのであろう。その後南九州の神話である磐長姫や海幸山幸、黄泉の国などが組み入れられる時期があるが、恐らくそれは大伴氏が一時盛り返した推古朝であろう。推古朝には天皇記、国記があったとされ、このころには伝承は一部文字化されていたのかもしれない。津田左右吉氏は帝紀、旧辞の成立を欽明朝あたりと思われていた様である。その後直木孝次郎氏等の研究があり、文書化のみならず伝承そのものの成立時期も次第に繰り下げられてきた。しかし天孫降臨神話は、異伝を伴う現存形態からして、文字化された時期がかなり下るとしても、伝承それ自体を天武朝以降に見ることは出来無い。その遥に前の六世紀中には、畿内人から見た南九州は、膂宍之空國となっていたのである。最後に、この連載の最初の疑問である「何故天孫は南九州へ降臨したのか」に、一言で答えるとすれば次のようになるだろう。大和政権が王朝としての形を整え始めた時期、系図や祖先神話などを整理再編し始めたちょうどその頃、まさに南九州政策が政権の朝鮮半島政策にとって、死活的に重要な意味を持っていたためである。天孫降臨 了

  • 07Sep
    • 天孫降臨(15) ー獲加多支鹵ー

      15.五世紀倭王権の課題 ー獲加多支鹵ー五世紀後半の倭王権には一つの大きな試練があった。それは古墳中期から古墳後期への変遷の原因でもある、血統による王位継承、すなはち王朝の開始である。義江明子氏の「つくられた卑弥呼」の中で、戸籍の人名の分析から、古代日本の婚姻の形態は、多夫多妻であったと推論している。実際妻問婚の樣な風習が記録に残されており、中国社会のような男系血統による相続の形式はとられていなかった可能性が高い。王位の継承に際しても、男系血統による継承であったとは考え難い。魏志倭人伝には、卑弥呼の宗族台与が王位に就いたとの記録があるが、その宗族が意味するところは、少なくとも中国の血縁集団とは異るものであっただろう。同書の王位の共立の記事や、記紀に見える群臣の推挙による即位の記述を見ると、王位継承の候補になる集団、血縁とも地縁とも付かない王族集団の中から、有力豪族の推挙により王が選ばれる形態であったのではなかろうか。歴史を見れば王位継承はただでさえ紛争を起こすものである。このような王位継承の形態では、継承した王の正当性を示すのが容易ではないと思われる。私は日本の古墳が巨大化したのは、それが王位継承の儀式の場であり、巨大化によってその継承の正当性を示すためでは無かったかと思う。アレクサンダーは最も強いものを後継者にするといい、忽ち問題を起こすのであるが、極論すれば古代日本では、最も大きな古墳を造れる政治力を持った集団に推挙されたものが、王位に就いたのではないか。しかしそれはやがて、古墳の立地においても、造営コストにおいても限界を迎えることは明らかであった。中期古墳時代に古墳は限界まで巨大化し、王位継承の正当化は破綻に瀕していたであろう。丁度その頃倭の五王は南朝に朝貢しており、中国式の血統による王位継承順位の決定は優れた方式に思えたであろう。古墳時代中期、百舌鳥と古市に王墓の建設地があったが、百舌鳥の古墳群は終焉を迎える。また古墳の巨大化も止まり、機内中央では一時期古墳は小型化する。これは一時血統による継承が成功しかけたことを示すと考える。しかし古墳後期に至って、見瀬丸山、今城塚、河内大塚山などの巨大古墳が再び造営されるようになる。これは一時成立した王朝が血統の断絶により挫折したことを示すと思われる。時は六世紀、記紀に見える継体欽明の時代であろう。記紀の継体が、それ以前との王朝の断絶を示し、その王墓は見瀬丸山であろうとするのが有力である。最初の王朝を試みたのは、記紀の伝承で言えば允恭雄略であろう。これを允恭雄略朝と仮称する。允恭雄略朝が六世紀の継体の前とすれば、その時期は五世紀後半であろうか、稲荷山鉄剣や江田船山鉄刀に獲加多支鹵と刻まれる王が現れ、恐らくこの時期から系図の文字化が始まったと思われる。記紀の允恭の記述に探湯の記述があり、また雄略の記述に見える王族の大量殺害、そして雄略以降度々血統の断絶の危機を記録していることも、血統を重視し始めたことが伝承されていると考える。獲加多支鹵は雄略天皇か ー天皇系図の成立ー血統による正当性の主張は、それを始めた集団にとっては厳しい自己矛盾を引き起こしたであろう。征服王朝の様に、過去に拘らず始祖を立てることができるなら、問題は簡単であるが、倭国に置いては既にかなりの期間、王位の継承が行われていた。血統による王朝の開始者は、自らの血統的正当性を示せないまま、以後血統による継承を宣言することになるのである。記紀の記述によれば允恭の子の安康と雄略は、恐らくその頃は伝説的な始祖的王として伝承されていたであろう、仁徳の血を次ぐ女性との婚姻を求めたとされる。これは王朝を主張する以上、自らの子孫の血統的根拠を作る必要性に迫られたためであると考える。結局雄略は若日下王と婚姻を結ぶ。この時血統的な根拠と共に、その祖先神話も整備する必要に迫られていたであろう。記紀を見ると本来様々な場所に祖先神話があったと思えるが、若日下王の持っていた父方の神話は仁徳に繋るもので、恐らく吉備や河内、葛城等、允恭雄略朝にとって王位継承のライバル達の祖先神話であったのではなかろうか。このため五世紀末の倭王の祖先神話は、若日下王の母方である髪長姫の祖先神話を採用することになったのであろう。日向の神話を採用することで、五世紀後半の王権にとって死活的に重要だった、吾田の君との同盟関係を自然な形で盛り込むことができるのもメリットであったと思われる。その祖型は諸県の君の伝えた日向の地方伝承で、日向の稲穂の山へ稲穂の神が降臨するものであったと思われる。王権の降臨神話になっても、その地である高千穗の久士布流多氣は、特に特定の地をさすものでは無かったのではないか。重要な同盟者である、吾田の君との婚姻は追加されたが、まだ海彦山彦の樣な隼人神話はなく、吾田の姫君と番能邇邇藝の子の穗穗手見が、初代の王であるような物語であったのではないか。吾田の姫君との結婚によって、初代の天皇が生まれる話は、雄略と若日下王の政略結婚により、王朝が開始することのメタフォかもしれない。残念ながら若日下王に子はなく、この王朝はすぐに血統断絶にみまわれるのではある。しかしどうして、五世紀王権にとって重要な地であった南九州が、やがて膂宍之空國などと呼ばれるようになってしまうのであろうか。

  • 06Sep
    • 天孫降臨(14) ー黄泉の国ー

      14.地下式横穴墓の世界観 ー黄泉の国ー地下式横穴墓は南九州の地域的墓制であるが、それは決して古墳文化と対立するようなものではなく、内容的にも地域的にも共通点を持つ。寧ろ古墳文化の特殊な形である。それは恐らくその地域の精神世界の独自性を認めつつ、古墳文化圏の一員として迎え入れたものである。地下式横穴墓は古墳中期、宮崎県南部に九州地域で最大級の前方後円墳が登場する時期に現れる。興味深い事にその分布域は、前節で述べた諸県の君の勢力圏と少なくとも一部重なると思われる。中村明蔵氏は「隼人の古代」の中で、地下式横穴墓の世界観では、黄泉の国が地下にあったためこのような墓制が取られたのでは無いかと指摘されている。古墳文化では埋葬施設は地平面より上であり、個人的にも死後の世界は天にあったと考えているように思える。地下に墓が造られる事では、板石積石室墓も同じであり、南九州には黄泉の国を地下に求める思想があったのではないか。これは記紀に見える黄泉の国の神話と一致している。すなはち記紀に見える、地下の黄泉の国へイザナギが行く話は、南九州が源郷の可能性がある。古事記でイザナギが竺紫日向之橘小門之阿波岐原で、日本書紀五段一書六で筑紫日向小戸橘之檍原で穢れを落とすのも本来のこのことを示していると思われる。イザナギとイザナミ自体は南九州とは関係ないのだろうが、黄泉の国に行く説話は別途差し入れられたのではなかろうか。津田左右吉氏によると、黄泉の国に関する話は古事記と日本書紀五段一書六、九、十のみであり、日本書紀のこの段にあらわれる一書が十一もあることから考えると、旧辞にはなかったであろうとされる。天孫降臨以降の海幸山幸の神話同様、神話が概形を為して以降に南九州系神話が追加される時期があったと考えられる。日本書紀五段一書四では、海幸山幸の神話の中にまさに橘之小戸が現れる。日本書紀一書十では、イザナギは最初鳴門海峡や豊後水道に行って禊をしようとするが、二か所は流れが速すぎたので橘之小門に行ったとしている。伝承した氏族がここに筑紫日向が現れる事に当惑しているようにも見える。この時現れる神々の中に、底筒男命、中筒男命、表筒男命がある。これは日本書紀神功紀で吉備の鴨別に熊襲征討を指示する直前、さにはから最後に聞き出した日向国橘小門の水底に居る水葉のように稚出る神であり、まさにこれらの神を王権の神列に加えたことが熊襲が自ら服した理由であるように見えるのである。吉備の鴨別が宇土半島を策定地として、南九州の西岸を古墳文化圏に導こうとしている時、大和は南九州の東岸から、その地域の祭祀を王権祭祀に取り込むことで懐柔を計っていたということであろう。こうして優れた航海能力を持つ吾田の君との間いだにあった、政治的障害は取り除かれたのである。底筒男命、中筒男命、表筒男命は伝承の中で住吉三神として住吉の宮に祀られ、朝鮮半島進出の航海を護ることになる。これは政権の南九州進出が、南朝朝貢路を確保する目的で行われたことと無縁ではないだろう。それでは何故数ある伝承の中から、この高千穂神話が天皇家の祖先に直結する伝承として選ばれたのだろうか。

  • 05Sep
    • 天孫降臨(13) ー髪長姫ー

      13.九州系王家の誕生 ー髪長姫ー降臨神話の祖型を畿内に持ち込んだのは誰か。北部九州は長らく倭人社会の中心であった。しかしもし弥生期から北部九州発の降臨神話が広まっていたなら、日本全国に同様の降臨神話があったはずである。非常に多く見受けられる伝承の型に、天の浮橋が挙げられるが、このような広がりのある神話は古く北部九州発でも不思議はない。日本神話を見ると、スサノオや大国主や国譲りのような出雲に縁の深い神話、アジスキタカヒコネが蹴飛ばした喪屋が美濃にあり、ニギハヤヒは河内に天降る。またサルタヒコとアマノウズメは伊勢に関係していそうである。日本神話は様々な土地の神話を寄せ集めていると思われるが、天孫降臨はその中でも天皇家に直接繋がるものである。なぜ日向地方の伝承が採用されたのだろうか。大和政権の発祥の地と思われる纏向遺跡には、美濃、尾張、伊勢、越、近江、出雲、阿波、讃岐、播磨、河内、吉備等各地の文化が入り込んでいるが、その発祥期に九州系の文化が直接入り込んだ様子はない。大和政権へ九州勢力が影響するとすると、記紀の伝承では神功とその子応神の時代となる。応神には北部九州で生まれたとの伝承があり、神功なども北部九州の風土記逸文にしばしば現れる。この時代であれば確かに北部九州の降臨神話が大和に持ち込まれる蓋然性がある。ただしこの時代の記紀の記述を歴史として受け止めるのはかなり厳しい。基本的に伝承が伝わっていたとしても口誦であり、内容、順序、登場人物の入れ替わりが起こっているであろう。ただランドマークなどをもとにした記憶は残りやすく、大王墓の立地の移動が、概ね考古学的な移動に沿っているところは、考古学者の白石太一郎氏の指摘するところである。神功と応神の時代は概略中期古墳の開始期に当たると思われる。この時期大古墳は吉備、河内、葛城、上毛野などに目立つ。しかし古墳を見る限り、北部九州が特別な役割をはたした様には見えない。寧ろ九州であれば宮崎県西都原に最大の古墳が現れるのである。まさにそこは風土記などの伝承的には、高千穂神話の源郷として最も有力な日向なのである。記紀の伝承中始祖的大王と目される仁徳天皇は、この地の諸県の君牛諸井の娘髪長姫をめとって大日下の王を生む。九州系王家の誕生である。私はこの時大和政権に、祖先神話としての高千穂神話が持ち込まれたのだと思う。実はこの時畿内に持ち込まれた神話は天孫降臨だけではない。

  • 04Sep
    • 天孫降臨(12) ー韓槵生村ー

      12.韓国に向う ー韓槵生村ー天孫降臨の場所に共通する高千穂は、本来稻を高く積み上げた山であって、特定の地名ではなかった。特に古事記の降臨場所は「竺紫日向之高千穗之久士布流多氣」、日本書紀一書一の降臨場所は「筑紫日向高千穗槵觸之峯」となっているが、この降臨地を北部九州であるとする説がある。両者の地名の特徴は、日本書紀本文や他の一書では日向となっているところが、筑紫日向となっていることである。この筑紫日向を筑紫の国の日向と解釈し、古事記の「此地は韓国に向ひ」と言う降臨地への国誉めから筑紫の国、つまり北部九州の朝鮮半島を向いた地とするのである。そこで日向を北部九州の小地名に当てたり、やはり古事記の「朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり。」と言う国誉めから、特定の地名ではないとするのである。しかし筑紫の日向の高千穂と言う場合、筑紫は必ずしも筑紫の国ではなく、九州島全体を表す場合があることに注意すべきである。例えば日本書紀景行紀には、「天皇遂幸筑紫、到豐前國長峽縣、興行宮而居」のような例がある。北部九州説の文献的に唯一の積極的根拠は、古事記の国誉め「此地は韓国に向ひ」のみである。ところで風土記逸文には面白い記述がある。「(日向國ニ韓槵生村ト云フ所在ト書キ,此所ニ木槵子木ノ生ヒタリケル歟如何?……昔シ,哿瑳武別ト云ケル人,韓國ニ渡リテ,此栗ヲ取リテ歸リテ植ヱタリ。此故ニ,槵生村トハ云フ也。風土記云:)俗語謂栗為区児。然則韓槵生村者,蓋云韓栗林歟。(云云。)」この韓槵生村の槵生(クシブ)であるが、薩摩の国風土記逸文に下記のようなものがある。「皇祖裒能忍耆命,日向國贈於郡,高茅穗ノ槵生峰ニ天降坐シテ,是ヨリ薩摩國閼駝郡ノ竹屋村ニ移リ給テ,土人竹屋守ガ女ヲ召シテ,其腹ニ二人ノ男子ヲ產給ケル時,彼所ノ竹ヲ刀ニ作リテ,臍緒ヲ切給ヒタリケリ。其竹ハ,今モ在リト云ヘリ,此跡ヲ尋ネテ,今モ斯クスルニヤ。」これは明らかに日本書記天孫降臨以下の一節を引いたものであるが、注目すべきは降臨地が「日向國贈於郡,高茅穗ノ槵生峰」となっていることである。これは日本書記の「筑紫日向高千穗槵觸之峯」(一書一)や「日向襲之高千穗槵日二上峯」(一書四)と関連があると思われる。つまりこの逸文の「槵生」(クシブ)は、日本書記の「槵觸」(クシフル)や「槵日」(クシヒ)と同根であると思われる。実はこの二つの逸文はいずれも、塵袋に引かれたもので、原史料となった風土記は同じものと思われる。従って最初の逸文の「韓槵生村」は、「韓槵觸村」もしくは「韓槵日村」と置き換えられるのである。この「韓槵生村」は恐らく天孫降臨神話と何らかの関わりがあるはずである。この村が現在の何処に位置するのか不明であるが、「日向國」となっているので北部九州ではない。しかも韓との関係が示されているのである。南九州が五世紀頃から、倭王権の朝鮮半島進出にとって大きな意味を持っていたことは説明した。五世紀の吾田すなはち笠紗之御前は国際政治の舞台であり、百済そしてその先の南朝との交流に置いて欠かせない地であった。そこは韓国へ向う出発地だったのである。近年の古事記と日本書紀の神話についての研究は、利用できた原史料群が同じで、異なる方針に従って史料を選択し、編纂したものとの見解を主流とするようである。古事記の一文は日本書紀の各書を含む史料群を用い、高千穂が目的地とする原史料を採用した上で、国誉めとして「この地は殻國に向い、笠沙の御前ヘ覓通る」の様に編纂されたものが、口誦で変化したものだった可能性もあると考える。天孫降臨を北部九州にしたいのは、弥生期の考古学的知見に基づくものであろう。八世紀に成立した文献に対して、一ニ世紀や紀元前後にまで遡る状況が反映されていると考えるのは危険である。百歩譲って北部九州に本来の降臨神話があったとしても、そこに絞り込んで文献解釈や歴史理解を行えるような根拠はない。天孫降臨神話の原型は現存風土記に残されていないだけで、九州地方全般やもしかしたらもっと広い地域にあったかもしれない。それは稲穂の山である高千穂への稲の神の降臨の神話であり、少なくとも現存史料ベースで見る限り、日向地方がその源郷であると思われる。では誰が九州地方の伝承を畿内に持ち込み、誰がそれを倭王権の直接の祖に関わる神話としたのだろうか。

  • 03Sep
    • 天孫降臨(11) ー知鋪鄉ー

      11.九州の在地神話 ー知鋪鄉ーここで日向の国臼杵郡智保郷を降臨の場所とする風土記逸文の文章を見てみよう。知鋪鄉【天津彥彥火瓊瓊杵尊離天磐座,排天八重雲,稜威之道別道別而天降於日向之高千穗二上峰】時,天暗冥,晝夜不別,人物失道,物色難別。於玆有土蜘蛛,名曰大鉗、小鉗二人,奏言:「皇孫尊,以尊御手拔稻千穗為籾,投散四方,必得開晴。」于時,如大鉗等所奏,搓千穗稻,為籾投散。即天開晴,日月照光。因曰高千穗二上峰。後人改號智鋪。この文章の最初の【】で括った部分を、日本書紀本文の降臨記事と比較してみよう。皇孫乃離天磐座。且排分天八重雲、稜威之道別道別而天降於日向襲之高千穗峯矣。既而皇孫遊行之狀也者、則自槵日二上天浮橋立於浮渚在平處。二つは使用する文字レベルで似ている。現存する西海道風土記は、逸文も含めて日本書紀成立以降に編纂され、この風土記逸文もその影響を受けている。注目すべきは日本書紀本文では日向襲之高千穗峯となっているものが、この逸文では日向之高千穗二上峰となっている点である。まず日本書紀で指定している襲が抜けている。日本書紀の槵日二上の天浮橋の記述から、二上を地名に添えている。臼杵郡智保郷は日向の襲とは言えないため抜いてあるのだろうが、もし日本書記の記述をもとに造作された伝承であれば、日向の襲以外には設定し難いと思われる。この風土記の記述はもともとこの地に良く似た伝承があり、それを日本書紀を正として内容を調整したものであろう。この逸文の後半部分が更に興味深い。「その時天は暗闇に閉ざされ、昼夜の区別なく、人は道に迷い、ものの色も分からなかった。ここに土蜘蛛の「おおくは」「こくは」というものがあり、「皇孫が尊き御手で稲の千穂を抜き籾とし、四方に投げ散らしなさるならば、必ずや晴れ渡るでしょう。」と申し上げた。そこで「おおくは」の申す通り千穂の稻をもんで籾となし、投げ散らし給うたところ、たちまち天は晴れ、日月は照り光った。それで高千穂の二上の峰と言う。後の人は改めて知鋪と言った。」この逸文は高千穂の稲を高く積み上げた所と言う原義を示している。注目したいのは、皇孫がここに出て来る土蜘蛛が奏上した通りに振舞っていることである。記紀にも風土記にも、土蜘蛛は少数の例外はあるものの、多くは天皇への恭順を表明しない土着の人々として描かれ、討伐の対象になっている。ここの土蜘蛛はまったくの例外で、おそらく本来はこの土地の住人を示していたのであろうが、日本書紀では皇孫は降臨地の国神とは交流していないため、それに従って異族の土蜘蛛としたのであろう。つまり原型は稲山の上に、稻の豊穣の神である穂のニニギが降臨し、人々の願いをかなえて暗闇に閉ざされた世界を明るくしたというものではないだろうか。高千穂への降臨の話が、本来はこのような素朴なものであったということは、神話学者の定説と言って良い。そのような広く行われていた稲山の上への神の降臨伝承を、この地の印象的な山であり、おそらく古くから信仰を集めていた二上の峰への降臨とした伝承が成立していたのであろう。日本書紀成立後、この地の古伝承を日本書記の記述と融合させ、天孫の降臨地としたと思われる。稲山の上への神の降臨伝承であれば、それは本来特に場所を指定するものではなかったであろう。ある広がりをもった伝承であったのではないか。ただ高千穂への降臨と言う話は、私の知る範囲では全て日向となっている。現存する風土記がわずかであることから断言はできないが、日向の地域にあった古くからの伝承ではないかと考える。ここで古事記に見える、高千穂の国誉めに「此地は韓国に向ひ」と言う一節があることから、筑紫の日向の高千穂と言う記述に対して、日向を筑紫の国の小地名とみなし、北部九州に比定する説がある。果たして高千穂を北部九州とみなすことはできるのだろうか。

  • 02Sep
    • 天孫降臨(10) ー筑紫の日向ー

      10.降臨神話の変遷を推定する ー筑紫の日向ー天孫降臨が倭王権の神話に加えられた時の形はどうだったのか、再び記紀の記述を比較しながら考えてみたい。ただその前にまず古事記と日本書紀の関わりについて、天孫降臨の段の記述から見えてきたことをまとめておきたい。古事記天孫降臨は日本書記の本文や一書と比較した場合、最も幅広くエピソードを記載しており、日本書紀の本文と一書に見るような伝承を、一本にまとめたものであると思われる。しかしそこでは日本書記天孫降臨に見えるエピソードが無かったり、ないエピソードがあったりすることから、当然編纂方針に基ずく取捨があったであろう。日本書紀天孫降臨は一書として様々な伝承を集めているが、古事記天孫降臨とは異なる観点で書かれており、実は国覓を行わないタイプの伝承はそもそも取り上げないか、一書の一のように降臨後を省略して記載して、国覓が行われなかったことを見せないようにしていると思われる。日本書紀の神代の巻の一書は、ある段では三種、ある段では十一種もあり、やはり編纂者が固有の視点で採録しているものであり、決して伝承を全て集めたようなものではないのだろう。各一書の内容も編纂方針に従って省略されていると考えられ、どのように組み合わせても古事記の内容を再現できない。日本神話に関する文献批判の嚆矢は、津田左右吉氏によるものであろう。氏は日本書紀本文と古事記を比較しながら、古事記序文に見える旧辞の記述を探って行かれた。前述の考察で見たように、古事記、日本書紀本文、各段の一書をそれぞれ独立なものと見なせるかは、若干の疑問があるが、津田氏の分析は依然として魅力的である。降臨神話の変遷を推定するに当たり、氏の分析を参考にしたい。ここで注目するのは、氏が旧辞においては天津彦彦火瓊瓊杵が降臨した後、吾田津姬と出会い、彦火火出見を生む話であっただろうとされている点である。木花之開耶姫や海幸山幸の話は後の追加で、彦火火出見を木花之開耶姫の子としたため、伝承中で彦火火出見が二回出てくるとする。詳細な分析は氏の著作に任せるとして、この説を受け入れるなら、本来の神話の形では吾田の比重がずっと少なかったということになる。天孫降臨から東征開始前までは、降臨の地である高千穂に較べて、吾田での物語の比重が大きく、降臨の地から吾田まで物語の舞台を移動させるほうが自然になる。これが国覓をして吾田へ移動するストーリーが生まれてくる理由なのではないか。また降臨の地から吾田まで、土地の国神に会わないためには、そこが膂宍空国である必要がある。日本書紀では熊襲を襲の国とし、仲哀紀では膂宍之空国、神功紀では中空の鹿の角の様に実のない国としている。吾田とも地理的に近く、ストーリーとして自然になる。このため降臨の地を日向の襲とする伝承が生まれてきたのであろう。国覓を伴わない古事記と日本書紀九段の一書の一には、降臨場所を筑紫の日向の高千穂の槵觸の峯とする。では本来の降臨の場所はどこなのだろうか。

  • 01Sep
    • 天孫降臨(9) ー高千穂ー

      9.降臨の地はどこか ー高千穂ー何故天孫は南九州へ降臨したのか。古事記にしても日本書紀にしても、著者や書かれた状況について、それ程詳しい状況は分からない。その理由に最も直接的に繋がる事実は、書かれた文章そのものである。まず記紀は降臨の地をどう伝えているのであろうか。古事記と日本書記の天孫降臨の記述を比較してみよう。日本書記の天孫降臨の段には、別伝として八つの一書が採録されている。別伝は本文と差のある部分を中心に収録され、省略されているものがあると思われる。天孫降臨の地は、日本書紀本文、一書の四、一書の六、が日向の襲の高千穂となっていて、襲の国を律令の曽於郡としても、本稿4の襲の国で見たように日向から見て山の向こう側としても、現在の宮崎県南部の霧島連山の高千穂以外には考えられない。風土記逸文を見ても、山城國風土記可茂社では日向曾の峰、閼駝郡竹屋村では日向國贈於郡高茅穗となっていて、これも霧島連山を指している。ただし現存する風土記は、日本書紀成立以後の編纂されたもので、影響を受けていることは考慮すべきである。一方で一書のニでは日向の高千穂、一書の一と古事記では、筑紫の日向の高千穂となっている。こちらの書き方では必ずしも襲の国ではなく、場所は限定できない。風土記逸文では、日向国風土記知鋪鄉には日向之高千穗となっていて、これは和名抄の日向の国臼杵郡智保郷であろう。現在の宮崎県西臼杵郡高千穗町を伝承地とする。天孫降臨の伝承地が二つあるのは、以上のような文献的背景があるのであるが、実はこの二種類にはもっと根本的な違いがある。今一書の三、五、七、八は降臨の地も書いてないのいで考察から外すとして、日向の襲への降臨はタカミムスビが指示を出して眞床追衾に包まれて降臨しており、単に日向として襲を指定しないものは、アマテラスが指示して五伴緒と三種の神器を伴って降臨するのである。古事記と日本書記の降臨には他にも大きな違いがある。古事記では天孫は高千穂に降臨した後、「此地は韓国に向ひ、笠沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり。故、此地は甚吉き地。」と国誉めを行い、その地に高千穂の宮を造る。神武の東征もその地から始まる。ところが日本書紀本文では高千穂に降臨した後、膂宍之空国(背中の肉のように痩せた空の国)を国覓(国を探す)して、吾田の長屋の笠狹の碕に到り、国はあるかと尋ねてはじめて地上の国にたどり着くのである。日本書紀一書のニではそこに宮殿を造る。つまり古事記と日本書紀では、そもそも降臨の目的地が違うのである。古事記では高千穂はそこが降臨の目的地であるが、日本書紀では高千穂は経由地にすぎない。日本書紀本文、一書のニ、四は国覓を明記し、一書の六も云々と省略して国覓は書いてないが、降臨後移動していることから本来は国覓が書かれていたと思われる。しかし日本書紀も注意深く読むと、全ての一書が国覓しているわけではない。一書の一は高千穂降臨は書いてあるが国覓は書いてない。ここで注目するのが、降臨神話における日本書紀一書の一と古事記の類似性である。この二つは天鈿女と猿田彦があらわれ、猿田彦が天孫の道案内を行う。一方国覓を行う伝承では、天鈿女と猿田彦は現れないのである。日本書紀の一書の一も、アマテラスが降臨の指示を出し、猿田彦が道案内をし行く先を筑紫の日向の高千穂と指定していることから、恐らく古事記と同じ形態を取る伝承で、国覓は省略されているのではなく本来なかったのであろう。一書の一には古事記に見える国誉めも宮殿造りも無いが、本来はあったが降臨後の記述が省略されていると思われる。つまり天孫降臨を目的地で見るとそもそも三種類の形式がある事が分かる。一つは古事記に代表される、アマテラスが指示し五伴緒と三種の神器を伴って、猿田彦の道案内で最終目的地として「筑紫の日向の高千穂」に降臨するもの。二つ目は日本書紀一書のニに見える、アマテラスが指示し五伴緒と三種の神器を伴って、「日向の高千穂」に降臨したのち国覓を行って吾田を最終目的地とするもの。三つめは日本書紀本文に代表される、タカミムスビが指示を出して眞床追衾に包まれて、「日向の襲の高千穂」に降臨したのち国覓を行って吾田を最終目的地とするものである。このように伝承地は、登場する神々とその役割の違いと対応する。つまりそれらの神を祖先神として持つ氏族によって、伝承した降臨の場所も目的地も異なっていると言うことである。それでは最初に倭王権の始祖神話に加えられた時、降臨の場所と目的地はどうなっていたのであろうか。

  • 23Aug
    • 天孫降臨(8) ー海の民の秘密ー

      8.百済の興隆と南朝外交 ー海の民の秘密ーここで目を百済に転じてみよう。四世紀になると朝鮮半島で百済が興隆してくる。百済は高句麗の圧迫を撥ね除け、371年には高句麗王を敗死させ、平壌を占領してしまう。この翌年の372年に東晋に初の朝貢を行う。奈良県天理市の石上神宮に伝来した七支刀は、太和(泰和)四年(369年)に東晋で作成された原七支刀を、初の南朝への朝貢で入手し、模造して送ったとの説が有力視されている。神功紀では南九州政策の転換は半島進出の前になっているが、この時期の日本書紀の記述の原史料は、漢籍の文面の写し以外は口誦伝承であり、その時代性はあてにならない。百済との外交関係は恐らく四世紀に始まり、倭王権の南九州政策の転換は、考古学的証拠から五世紀前半とみられる。すなはち百済との外交開始後に、なんらかの事情で南九州、特に阿多の君との関係を結ぶべき事情が発生したと思われる。百済の南朝への朝貢年は、372年に始まって最期が586年である。百済の南朝への朝貢年は次のようになっている。372年、384年、386年、416年、424年、425年、429年、430年、440年、443年、450年、457年、458年、467年、471年、480年、490年、495年、502年、512年、530年、534年、541年、549年、562年、567年、577年、584年、586年その間最も間隔の空いたのが、386年から416年の30年間となる。続いて480年から495年の15年間であるが、ここには南斉書の欠損があり、実際にはもっと朝貢していたと思われる。その次が549年から562年の13年間で、梁から陳への移行期が影響しているのであろう。何故386年から30年間の欠落があるのか。この時期確かに広開土王による圧迫と、395年の漢城落城がある。しかし450年代から始まる長寿王による圧迫と、475年の漢城落城にもかかわらず、10年以上朝貢が空くことはない。風納土城の遺物からすると、百済にとって南朝朝貢は繁栄の源で、寧ろ圧迫を受けたことは朝貢を停止する理由ではないと思われる。百濟は372年の朝貢以前には、高句麗と共に北朝系の史料に現れる。前述したように371年百濟は高句麗を破り、大同江流域を支配する。百済から南朝へは、半島西岸を北上し遼東半島南岸から、山東半島に両半島間の島伝いに渡るのが、先史時代からの航路である。古く戦国時代に朝鮮と交易のあったのが、燕と斉であるのはそのためなのだ。また漢の武帝が古朝鮮を攻める際にも、渤海からこのルートを逆に通って行く。しかし高句麗が大同江流域を取り返してしまうとこのルートは、高句麗の勢力下を通ることになる。同盟国の倭は413年南朝への朝貢を試みる。この時の朝貢路は高句麗領を通る今までのルートであっただろう。ここで義熈九年(413年)の倭国の朝貢記録を見てみよう。晋書安帝紀義熈九年:是歳、高句驪、倭國、及西南夷、銅頭大帥、並獻方物。大平御覧に引く義熙起居注:倭國獻貂皮、人參等,詔賜細笙、麝香。この年の倭国の朝貢に関しては、献じたのが貂皮、人參とあって、日本の産物とは思われないこと、同時に朝貢した高句麗の産物と思われることから、倭国の朝貢を装った高句麗の朝貢であるとの見解がある。ところで日本書記には、初の呉国への朝貢の記録があります。日本書紀応神紀:卅七年春二月戊午朔、遣阿知使主・都加使主於吳、令求縫工女。爰阿知使主等、渡高麗國、欲達于吳。則至高麗、更不知道路、乞知道者於高麗。高麗王、乃副久禮波・久禮志二人爲導者、由是得通吳。吳王於是、與工女兄媛・弟媛・吳織・穴織四婦女。呉国への使いはまず高麗、つまり高句麗に行き、道に迷っているところを、高麗王すなはち高句麗王に道案内を付けてもらって、呉国にたどり着く。倭国の南朝への使者は、初期には高句麗の嚮導によって朝貢していたのである。倭と高句麗は敵対しますが、漢書朝鮮伝を見ると中国王朝は、遠路の朝貢使を妨害したのが発覚すると怒り、逆に遠方の異民族を嚮導すると、評価が上がる。遣唐使も蝦夷を連れて行っている。おそらく義熈九年(413年)の朝貢は、献上品までも高句麗に差し替えられ、高句麗の属国のように扱われたのでは無いか。倭百済連合が南朝への朝貢を行い、高句麗との外交戦を対等に行うとすれば、なんとしても黄海を渡らねばならない。百済から山東半島への航路(破線が旧来の航路、実線が新航路)遼東ー山東拡大図旧航路は遼東半島から山東半島へ、点在する島伝いであり、新航路は黄海中で陸影を見失う。大海中で水平線に囲まれた状態で航海を続けてゆくのは、この時代では難しい技術であった。世界で始めて大洋を渡ったのは、オーストロネシア系の人びとで、紀元前800年頃ニューギニアの近くであったとされる。紀元前500年ころには宮古島に、ストーンボイリングの文化を持ったひとびとが北上してきている。直に沖縄に伝播した形跡は無いが、三世紀の三国志呉書では、台湾までは行けたが、その向こうへは中国側からはいけないけれど、向こうからは来るとのニュアンスで語られている。宮古島から沖縄本島の間には、やはり途中で陸影の見えなくなる位置があり、その向こう側には大海を渡る技術を持ったひとびとがいて、大陸側にはいなかったという事であろう。中村明蔵氏の隼人の古代史によると、薩摩半島の西岸地域は、極めて海洋的な文化を持つ地域で、弥生時代から琉球方面との貝の貿易を行っていたと言う。隼人の神話はオーストロネシア系との大林太良氏の説があり、三世紀頃の南部九州にはすでに、陸影の見えない大海を渡る、特殊な技術を持った人びとがいたのではないかと思われる。隋書では流求に到るのに、朱寛は海師何蛮を使い、陳稜は崑崙人を使っている。これらの人びとはオーストロネシア系の海人であると思われる。このころまで、倭人にせよ隋人にせよ、このような特殊技能人の力が無ければ、大海を突破できなかったのである。このため倭/百済の同盟にとっては、特殊技能を持った南九州地域、阿多の君との同盟が、死活的に重要になったと考える。実は四五世紀の近畿王権が、オーストロネシア系文化と接点を持ち、大きな関心を抱いたのではないかという痕跡が記紀の伝承にある。枯野、軽野という船の話が、これが伊豆から出て来る。年代ははっきりしないが、八丈島には円筒石斧文化と言う、南のマリアナ方面とかかわりのある文化の遺跡がある。北マリアナには紀元前、ハワイには六世紀始め頃到達したとの説があり、四五世紀には八丈島、当然伊豆にも至っていたであろう。百済もまた南九州に関心を持っていたようで、日羅などの伝承に加え、五世紀頃の南九州の古墳には、百済系の遺物が見えるのである。以上前半の終了後半は夏休み後、天孫は何故南九州へ天降ったか、五/六世紀の倭王権の状況より解明します。訂正:百濟は永明八年(490年)にも朝貢していたため訂正

  • 22Aug
    • 天孫降臨(7) ー朝鮮半島の前方後円墳ー

      7.もう一つの倭・韓交易ルート ー朝鮮半島の前方後円墳ーピンク石石棺が倭王権中枢地域の有力者に提供されていた頃、朝鮮半島南西部に前方後円墳が現れる。白石太一郎氏の「もう一つの倭・韓交易ルート」によると、これら全羅南道の前方後円墳の形式や副葬品には、有明海沿岸地域との関係が深いとされている。朝鮮半島における倭国との交渉窓口が、新羅の影響の強まった伽耶地域から全羅南道方面に変わると同時に、倭国の朝鮮半島交渉の主体も移ったのである。その中心地は玄界灘沿岸地域から、筑後川流域や更に南の肥後地域に移っていったとする。その中でも特に肥後地域付いては「しかし,複数の彩色を用いた本格的な装飾古墳が,まずこの有明海沿岸の肥後の地で成立する背景には,この時期,肥後など有明海沿岸の勢力が朝鮮半島との交渉・交易に積極的に従事していたという歴史的前提があってはじめて理解が可能になるのである。」とし、朝鮮半島交渉において中心的役割を果たしたことを示唆されている。五世紀後半には、江田船山古墳鉄刀銘文より、この地域が倭王権と直結して果たした役割の重要性が示される。白石氏は「わたくしは,ムリテを例えば大伴氏のような,中央で朝鮮半島の諸国・諸勢力や中国の南朝との交渉,すなわち外交を担当していた中央豪族の族長と考えている。」とも述べている。更に興味深いのが、日本書紀、敏達紀十二年条にみえる日羅に関する記事である。白石氏は下記のように述べられる。「こには,百済にその官位十六階の第2位にあたる達率として仕えた日羅を「火葦北国造刑部靱部阿利斯登の子」としているが,これは有明海南部の葦北の首長が百済との折衝に長く彼の地に駐在していたことを示すものにほかならない。」何故こんなところに百済が関係してくるのか。朝鮮半島の前方後円墳の状況からして、倭国と百済の交流に肥後の勢力が大きく関与していたことが伺えるのである。葦北は宇土半島よりも更に南であり、古墳前期の状況から宇土半島方面の人びとが南下して開いた土地であろう。古墳中期の恐らく五世紀前半には、倭王権の南九州政策の拠点は宇土半島付近の球磨川河口地域にあったが、少なくとも六世紀にはそれは葦北まで南下していたのである。政策転換の本来の目的は板石積石棺墓の人びとではなく、更にその南にあったことが分かる。そのような事情は、天孫降臨以降の南九州の扱いに現れている。天孫降臨の後、ニニギの向かうのは薩摩半島の阿多である。このような大事な場面で阿多の君が現れると言うことは、阿多の君が少なくともある時期倭王権にとって重要なパートナーであったことを物語る。そしてそれは倭国の朝鮮半島政策、百済との外交に何かの関係があると言うことである。

  • 21Aug
    • 天孫降臨(6) ー鴨籠古墳ー

      6.阿蘇ピンク石の謎 ー鴨籠古墳ー熊襲はどうして記紀の物語世界から消えたのか。それが語られているのは、日本書紀神功紀のみである。そこでは神託に従って祭祀を行い、熊襲に吉備鴨別を差し向けると、自然と降伏したとある。これはまだ文字記録の無い時代の伝承ではあるが、戦いによって征服したというより、何らかの交渉によって和睦したように見える。神功紀に、吉備鴨別を差し向ける前に、さにはの中臣烏賊津使主から神々の名を聞き出すが、その時に最後にあらわれる神が表筒男・中筒男・底筒男神である。これらの神は日向国の橘小門の水底に居る水葉のように稚出る神と表現される。つまり九州南部の海の神である。熊襲が服したのが、前回述べたように古墳中期のどこかであるとすると、この時期から地下式横穴墓が九州の西岸を中心に造られ始める。地下式横穴墓は副葬品や構造に、前方後円墳など高塚古墳と共通する要素があり、地域的にも高塚古墳と共存する。恐らく地域の固有の世界観や生死観を許容した上で、古墳文化圏に受け入れられた人々なのではないだろうか。板石積石室墓はこの時代から分布範囲を西方に広げるが、地下式横穴墓とも共存し、前期には無かった球磨盆地にも前方後円墳が造られる。中村明蔵氏 隼人の古代史より吉備鴨別は応神紀に、吉備臣の祖御友別の弟で、笠臣の祖とされ波区芸県に封ぜられたとある。この時期の吉備と九州の関係を結びつける遺跡に、熊本県の宇土半島の付け根に近い鴨籠古墳がある。光本順氏の「造山古墳前方部所在石棺研究の現状と課題」に、この古墳の石棺と吉備造山古墳前方部にあったと見られる石棺の関係に関する研究史がまとめられている。それによると造山古墳前方部所在石棺の素材は、宇土半島に産する阿蘇のピンク石で、この両者には形式上の類似を指摘する研究者が多い。伝えられた鴨籠と言う名称にも吉備の鴨別との関連を感じさせる。近年では両者とも五世紀前半に遡る可能性が指摘されているようである。鴨籠古墳の位置は、宇土半島の付け根に近く、前回見た板石積石室墓と対峙した肥の国中部の前方後円墳地帯に属する。もしも鴨籠古墳が吉備の鴨別と結びつくなら、球磨川河口地域を拠点にその上流域の球磨盆地の勢力に、働きかけたという図式が描ける。つまり私の熊襲=球磨の首長説が正しければ、宇土半島周辺地域は五世紀に入って、倭王権の南九州政策の中心地となったことになる。阿蘇のピンク石を用いた石棺は、主に五世紀から六世紀にかけて、吉備と畿内の古墳の石棺にしばしば用いられる一方、地元九州には無いことが知られている。吉備の造山古墳は、考古学者の白石太一郎氏によれば同時期での最大の前方後円墳であり、ナイーブに考えれば一時期には倭王権が吉備に移ったと考えられる。吉備と畿内の古墳にのみみられるということは、王権の所在地の有力者に対して、特注品として送られたと考えられ、宇土半島周辺地域が倭王権と直結していたことを伺わせるものである。『古墳時代の考古学』(白石太一郎司会の討論会 1998年)での発言によると、これら五世紀から六世紀のピンク石を用いた石棺のみられる時代は、葛城氏没落後から欽明朝で大伴氏が没落するまでの時期に当たるようである。文献上鴨別や吉備と大伴氏の関連は薄いが、そもそも王墓と思われる造山古墳が存在するにもかかわらず、記紀には吉備に宮や陵墓の伝承が無いことから、何らかの理由で吉備に関連した情報が残らなかった可能性もある。記紀に吉備との王位継承を巡って争いがあったとの記録があり、関連する可能性がある。記紀における大伴氏の活躍が、大伴の室屋以前は判然としないのもそのせいかもしれない。ピンク石の石棺がどのような広がりを持つのか、石棺の素材が不明な古墳も多く現時点では判断できないが、少なくとも六世紀前半とされる大王墓である今城塚には、ピンク石の石棺があるとされることから、この時期ピンク石の石棺の特注に応じていた勢力は、大王権を左右するほどの勢力であったであろう。今城塚が継体陵であるとの有力な説によるならば、日本書記に継体天皇を奉じたとする大伴氏は確かに有力である。大伴氏は続く欽明朝には失脚してしまい、植山古墳を除くピンク石の石棺が、六世紀前半までであることと整合する。それにしても何故この時期、倭王権は南九州の人びととの対立を辞め、接近を計ったのだろうか。

  • 20Aug
    • 天孫降臨(5) ー板石積石棺墓ー

      5.球磨の首長 ー板石積石棺墓ー日本書紀景行紀の熊襲征討は、厚鹿文と迮鹿文と言う熊襲の渠帥者が二人いて、その配下に熊襲八十梟帥がいるとする。ところがそれ以降はこの二人の人名は出て来ず、対象が配下であるはずの熊襲梟帥になり、百歩譲って梟帥が猛々しい意味での一般名詞としても、何方の渠帥者か分からないまま、その娘の市乾鹿文を味方につけて討つことに成って、話が繋がっていない。これは古事記に見る樣な熊曽建の伝説に、別の伝説を無理矢理接続した結果ではないだろうか。また日本武尊の熊襲討伐では、わざわざ熊襲梟師と言うべき人物を探し出す所から始まる。しかも本来の名前は取石鹿文である。別名として川上梟師と言っていますが、これでは熊襲の首長ではなく川上の首長のようである。話に具体的な人名や地名が絡んできているが、如何にも本来別の話であった熊襲梟師を無理矢理突っ込んだようにしか見えない。古事記に於ける熊曽は倭建による征伐を受けるが、その地域は西の方であり漠然としているが、話としてはまとまっている。西の方と言う漠然とした言い方も、古事記の世界観での西の異族を討った話と考えれば自然である。倭の五王の倭王武の上表文に見える西服眾夷の世界観にも会っている。古事記に見える伝承が本来の伝承であると考えて良いと思う。それでは本来の熊曽はどこにいたのか。その前に熊曽の時代性を考えて見よう。熊曽は前回見たように記紀の景行天皇、仲哀天皇、神功皇后の時代に現れる。稲荷山鉄剣銘文などから、一部系図等の史料は五世紀に文字化が始まったと思われるが、記紀の原史料の大部分が文字化されたのは六世紀以降と思われる。それ以前の情報は口誦であり、口誦の難点は登場人物や時代順などが、簡単に入れ替わったりして、全体に信頼性がないことである。それは始祖王的な性格を持つ、応神仁徳などの伝承が、古事記と日本書紀で入り混じっている事から容易に想像できる。つまりある時期より前の伝承を基に、時代性を議論することは非常に難しい。しかし一つ面白い現象がある。考古学者の白石氏が指摘するように、記紀の天皇陵伝承地は多少のずれはあるものの、同時代の最大級の古墳の作られた古墳群の移動と合っているのである。この現象を利用すると、熊襲の登場する景行天皇、仲哀天皇、神功皇后の時代は、その陵墓が丁度奈良盆地から大阪湾岸に移動する時期までであることに気づく。それは考古学的に、前期古墳時代から中期古墳時代の初期までである。そこで前期古墳時代の南九州の墓制の状況を見てみよう。橋本達也氏 古墳研究と熊襲・隼人 より 九州南部前方後円墳編年(橋本 2006)図の一番左の数字、集成編年4期(四世紀後半)までが前期で、5期(四世紀末)から7期(五世紀後半)が中期、それ以降が後期にあたる。前方後円墳は、九州では古墳前期に最南端の肝属平野に至っている。一方東岸では、宇土半島地域まで南下している。九州の東西で古墳文化の進出状況が大きく違うことが分かる。南九州固有の墓制の一つである、地下式横穴墓は五世紀頃まで造られない。一方板石積石棺墓に付いては藤井大祐氏の「古墳時代薩摩地域における石棺墓の展開と特質 ー板石積石棺墓を中心にー」が参考になる。それによると板石積石棺墓は弥生の箱式石棺墓から変化したもので、九州西方に広く分布する。上記論文より板石積石棺墓分布図特に今問題にしている古墳前期については、川内川中・上流域と球磨盆地に分布しているという。上記論文より板石積石棺墓の諸段階ここから九州南部の古墳前期の墓制の様子を概観してみる。橋本達也氏 古墳研究と熊襲・隼人 より 九州南部の古墳時代墓制分布(橋本 2006)に改変古墳文化の特に九州西岸における波及に対して、球磨盆地と川内川中・上流域の板石積石棺墓のグループが、壁になっているようにも見える。板石積石棺墓は五世紀の地下式横穴墓のように、古墳文化から派生し前方後円墳と共存するような墓制ではない。墓制の違いだけで政治的な対立があったかどうかまでは分からないが、この地域が前方後円墳を造る社会に対して、異なる精神文化を持っていたことは言えるだろう。球磨盆地は八代方面にいた古墳前期の古墳文化の領域の人々から見て、このような異質な精神文化を持つ人びとの領域の、フロントであったことが分かるのである。球磨川は球磨盆地を抜けると、比較的険しい地形を抜けて古墳地帯の八代で有明海に注ぐ。東北北部の蝦夷が奈良朝から平安朝にかけて、大和朝廷に対抗した拠点である、北上盆地も良く似た地勢である。これこそが熊襲の熊なのではないか。では熊襲の襲はなんだろうか。一つの可能性は、日向の古墳文化の人びとから見て、異質な精神文化のフロントである、日向の襲である鹿児島湾岸を合わせて呼んだものかもしれない。その場合熊襲とは中央の人間にとって、西方のまつろわぬ人びとの総称ということになる。もう一つの可能性がある。それは葛城襲津彦、日向襲津彦、荒木田襲津彦のように、地名+襲の組み合わせが多く現れる事から推測される。熊襲もまたこの類型であると考えられるのではないか。記述したように、襲は上代特殊仮名遣いのソ乙類であり、その交代形はセとなる。セは万葉集などで、自分の夫のことを「わが背」などと呼ぶように、男性を意味する可能性がある。実は思いがけない所に、ソ乙類を発見することが出来る。魏志倭人伝の人名と官名である。私は以前、難升米を儺襲目と解釈できることを示した。難升米考 -三国志東夷伝の倭人名について-この説では襲(ソ乙)は男性の長を表し、地名+襲でその地域の首長、転じてその地域の一族を意味することになる。すなはち古事記の熊曾建とは、球磨の首長タケル(強い男)の意になる。さて熊襲は記紀の伝承の世界では、応神以降姿を消す。それは概ね中期古墳時代に相当するであろう。いったい何が起きたのか。手がかりは、日本書紀神功紀の下記の一文と宇土石(阿蘇のピンク石)にある。時得神語、隨教而祭。然後、遣吉備臣祖鴨別、令擊熊襲國、未經浹辰而自服焉。時に神の語を得、教えに従い祀った。その後吉備臣の祖の鴨別を遣して、熊襲国を撃たせた。ほどなく自から服した。

  • 19Aug
    • 天孫降臨(4) ー熊襲ー

      4. 襲の国 ー熊襲ー隼人に関連して、南九州の民族とされてきた熊襲に付いても考察しておきたい。熊襲は西海道風土記には球磨曽於と表記され、この記述から律令時代の球磨郡、曽於郡の地域に住んだ人びとであるとの説が有力視されてきた。しかし前出中村氏によれば、球磨郡と曽於郡は地理的に分離しており、古墳時代に遡ると考古学的にも全く様相が異なるとして、この説を退けられた。また熊襲にはどの伝承にも、実体的な民族としての記述が伴わず、不服従のみが知られるとして、その実在に疑問を呈せられた。日本書記には熊襲国を襲の国とする記述があることから、曽於郡の曽に対して恐ろしいイメージのある襲を当て、そこにやはり恐ろしいイメージのある熊をかぶせたものであり、律令制度の中で反逆者として創出された存在であるとされた。然し乍ら襲は熊襲以外にも、葛城襲津彦、日向襲津彦、荒木田襲津彦、倭迹迹日百襲姫のように、古事記の曽に代えて上代特殊仮名遣いのソ乙類の文字として用いられており、あまりに恣意的な見方ではないだろうか。ここでもまた熊襲の物語に戻って考えてみたい。文献中では、熊襲は一体どこにいた事になっているのだろうか。熊襲(クマソ)は下記の様に現れる。1.古事記:景行記の倭建の熊曽(クマソ)征伐2.古事記:仲哀記の熊曽(クマソ)国討伐3.日本書紀:景行紀の熊襲(クマソ)討伐4.日本書紀:景行紀の日本武尊の熊襲(クマソ)討伐5.日本書紀:仲哀紀の熊襲(クマソ)討伐6.日本書紀:神功紀の熊襲(クマソ)討伐このほか風土記には、球磨曽於(クマソ)として何度か登場するが、文面は日本書紀の内容を写したようなものである。熊襲が何処にいたのかに付いては、1では西の方としか分からず、2では討伐のため九州に来たことから、九州であろうということしかわからない。3がもっとも具体的で、襲の国としている。4は熊襲の国というだけで場所は分からない。5は2と同じで九州としか分からない。6は場所の指定がない。以上からすると、九州の襲の国ということになる。ここには二つ問題があるだろう。まず襲の国は律令の曽於郡で良いのかどうか。もうひとつは、熊襲国が襲の国であるとすれば、熊は何を意味していたのかである。まず日本書記に言う日向の襲とは、どういう地域を意味するのか考えてみたい。3の伝承には厚鹿文・迮鹿文・市乾鹿文・市鹿文と言う人名が登場する。4の伝承では、取石鹿文という人名も現れる。また取石鹿文は別名川上梟師とも言う。これらは人名ではあるが、鹿文(カヤ)川上(カワカミ)の読みで和名類聚抄の関連しそうな地名として、薩摩の国阿多郡鷹屋(タカヤ)郷と川辺郡川上(カワカミ)郷、大隅の国姶羅郡鹿屋(カヤ)郷と肝属郡鷹屋(タカヤ)郷、肝属郡川上(カワカミ)郷などが挙げられる。他に日本書記には、阿多の長屋(ナガヤ)、竹屋(タカヤ)が見える。いづれも鹿児島県最南部で、律令の曽於郡とは大部離れている。日本書記には他に高屋(タカヤ)の宮、高屋(タカヤ)山上陵がある。カヤ或いはカワカミと言う地名は比較的多くある上、人名と地名を比較することに意味があるかは分からないが、考察してみる価値はあるであろう。特に大隅半島南部肝付川流域周辺に、高屋の宮に通じそうな鷹屋(タカヤ)郷、鹿文に通じそうな鹿屋(カヤ)郷、川上梟師にからみそうな川上(カワカミ)郷があることは注目される。日本書紀の特に景行紀には、肥前国風土記、豊後国風土記などの西海道風土記の内容と一致する文章が多いことが知られている。これら風土記は天平期以降に下るもので、日本書紀をそのまま写していると考えられる。しかし景行紀の内容は、古事記とは違って天皇が地方を巡行する内容になっていて、地方の地名縁起などが多く取り入れられている。和銅六年五月、続日本紀に史蹟編纂の命が下ったとの記述があるが、残念ながらこれは完成されることが無く、わずかに播磨国風土記と常陸国風土記のみが現存する。西海道の和銅風土記は完成すらされなかったと思われるが、古事記に見えない景行天皇の熊襲討伐などの伝承は、もともとは和銅年間に集められた地方伝承であったと思われる。天平期以降再度西海道風土記が編纂された時、日本書記との整合性を取るために、地域の伝承が対応する日本書記の記述で置き換えられたものであろう。大宝二年(702年)四月まで、現在の宮崎県、鹿児島県の大部分は日向の国であった。この年八月までに薩摩(更唱)国が分立された。現在の鹿児島県の薩摩半島を中心とする地域である。和銅六年(713年)四月には鹿児島湾奥部から内陸部及び、大隅半島を含む地域が大隅国として分立された。大隅/薩摩半島の最南部を日向とするとしたら、和銅六年(713年)四月以前となる。和銅六年五月の和銅風土記の史籍収集令はこれにわずかにおくれるが、現地古老の伝承として集めるならば、大隅半島の伝承は日向として語られておかしくない。国郡里制自体が大宝一年(701年)以降のもので、それ以前にはどのような地域区分になっていたかは分からない。少なくとも南九州には衣評のように、そのまま郡に移行しなかった行政区分もあり、大隅の国分立以前の地域分類も明確ではない。したがって上述の大隅半島南部地域が、日向の襲に含まれた可能性はある。襲の国の襲は、上述したとおり上代特殊仮名遣いのソ乙を表し、これは神話の中に出てくる背宍の空国の背同様に、セの母音交代形であり、一般に関連した意味をもつ。日向が東に向いた、つまり日に向かった地域から来ていたとすると、日向の襲は日向の背、つまり本来日向の中心地域から分水嶺を越えた地域を意味していたのではないだろうか。前述の橋本達也氏の「古墳研究と熊襲・隼人」によれば、宮崎県南部の生目古墳群や肝属川河口近くの塚崎古墳群は古墳時代前期に遡り、古墳文化と言う意味では早く開けた地域である。九州東海岸は最南端の肝属平野まで、古風時代前期には築造されたにもかかわらず、遂に鹿児島湾側には前方後円墳は築かれなかった。東岸に面した人びとが、それを日向の襲と呼ぶのは自然なことであると思われる。大隅半島南部の姶羅郡鹿屋(カヤ)郷は肝属川の流域ではあるが、塚崎古墳群のある河口ではなく、上流部の鹿児島湾に近い地域であったと考える。また肝属郡川上(カワカミ)郷は、現在の肝属郡には川上神社と河上神社の二つの神社があり、川上郷がどのあたりにあったのか判断できないが、塚崎古墳群との関係を考えると、河上神社の鹿児島湾岸の錦江町付近と考える。一方志布志湾に面して、高屋宮伝承地である高屋神社があり、かなりスケールが小さいが、景行紀の道具立てが揃う。それでは熊襲国とは大隅半島南部の鹿児島湾岸だったのだろうか。私はこれらは寧ろ、和銅の史籍に古伝承の裏づけを求めた事による、混乱であると思う。熊襲国と言う伝承の元になったのはどこだったのか、伝承と考古学から考えてみたい。橋本達也氏 古墳研究と熊襲・隼人 より九州南部前方後円墳編年(橋本 2006)

  • 18Aug
    • 天孫降臨(3) ー阿多の君ー

      3.隼人神話の成立時期 ー阿多の君ー天孫降臨神話は古事記に加え、日本書記には本文の他六つの一書の記述が挙げられる。例えば降臨した場所は下記のようにばらばらである。古事記:竺紫の日向の高千穂の久士布流多気紀本文:日向の襲高千穗峯紀一書:筑紫の日向の高千穂の串触之峯(クジフルノタケ)紀ニ書:日向の串日(クシヒ)の高千穂の峰紀三書:ナシ紀四書:日向の襲(ソ)の高千穂の串日(クシヒ)の二上峯(フタガミノミネ)紀五書:ナシ紀六書:日向の襲(ソ)の高千穂の添山峯(ソホリノヤマノタケ)文面的にも相当の差がある。串触(クジフル)/串日(クシヒ)など恐らく同じものを指したと思われるものの表記を見ても、これらの伝承は口誦で伝えられたものであることを思わせる。中村明蔵氏の言う隼人の初見は天武11年(682年)、一方日本書記の成立は養老4年(720年)である。その間38年の間に、隼人の神話は口誦され、いくつもの伝承に分かれ、それぞれ一書に記録されていたのだろうか。しかも天武10年(681年)には定帝紀及上古諸事を記し、定めさせ大嶋・子首は自ら、筆をとって記録したと言う。年次は分からないが、古事記序文によると、あちこちに伝わっている歴史・伝承・神話が、事実とは違っていたり、嘘が混じっているらしいので、その誤りを正して正しい歴史を編纂して後世に伝えるため、稗田阿礼に帝皇の日繼及び、先代の旧辞を覚えさせ始めたという。これらの伝承は、この時期には国家的な歴史構成の気運があったことを示すもので、中村氏などの言うように、この時期に律令の国家観に従って、隼人を造作したのなら、その伝承がこれほどに混乱するとは思えない。天孫降臨に続く隼人神話には、厳密には隼人は登場せず、その祖先である火照命(古事記)が登場するだけである。したがってそれに付けられた、隼人の祖先という註だけが後世の改変かもしれない。今中村氏に敬意を表して、隼人の名を使わず阿多の君としておく。この阿多の君に対する伝承自体は、天武朝成立とは考えがたい。実際畿内隼人居住地だとされる河内国萱振保から数キロしか離れていない、久宝寺遺跡から五世紀に遡る九州系土器が見付かっている。(大阪府立弥生文化博物館平成19年度秋季特別展図録『日向・薩摩・大隅の原像─南九州の弥生文化─』 (大阪府立弥生文化博物館図録 37、二〇〇七年))前出の『記・紀』隼人関係記事の再検討』の中でも、原口耕一郎は「よって、古墳時代中期に近畿地方と南九州の間に、ヒトやモノの移動や流通の存在を想定することができ、何らかの交流があったことは確実であろう。この時期に南九州から近畿地方へ、移住があった可能性も想定できよう。」と述べている。阿多の君をはじめとする、南九州の人びとと大和政権の関わりは、少なくとも五世紀に遡り、その歴史が阿多の君を四神になぞらえ、また天皇家の祖先神話に登場する前史となったのではないかと考えるのである。

  • 17Aug
    • 天孫降臨(2) ー隼人ー

      2.隼人天孫降臨に引き続いて書かれる隼人の神話は、全体の構成からみると、天孫降臨とは別の神話が挿入されたように見える。天孫降臨は高千穂への降臨であるが、そこから隼人の神話を挟んで、再び高千穂に戻りそこから神武統制が始まる。当初の物語は天孫降臨から直接東征だったのではないか。そもそも記紀の物語では、最初に隼人の祖先の話が出てきて後、同じ九州の熊襲の話が出て来て、その後熊襲に代わって隼人が出て来る。構成上隼人が差し挟まれた形跡が濃厚である。隼人に付いては、中村明蔵氏の研究を境におおきく変化した。天武朝に中国に対抗する国家観として、隼人と蝦夷を四夷に見立てたもので、隼人と言う民族はこの時に作り出されたものであるとされた。特に隼人は、四神思想に於ける南の守護、朱雀に当てられ、隼人もまた朱雀に関連する鳥隼から来ているとする。これに関連して天武朝以前の隼人に関しての文献批判により、隼人の初出は天武朝であるとする。(隼人の古代史 中村明蔵『記・紀』/隼人関係記事の再検討 原口耕一郎/等)このような文献的な研究に加え、考古学的にも隼人や熊襲の民族の実在性に関する疑問が提示されてきている。(古墳研究と熊襲・隼人 橋本達也/成川式土器と鹿児島の古墳時代研究 橋本達也/薩摩加世田奥山古墳の研究 橋本達也 他)しかし何故隼人が神話に登場するのかという疑問に完全な回答が与えられているとは思えない。何故なら隼人と並んで四夷とされる蝦夷に関しては、全く神話に扱われないのは何故か。もしそれが隼人が四神思想の朱雀になぞらえられたのであるとすると、何故蝦夷はそうならなかったのであろう。それに関する納得の行く解答は見いだせない。もしも何故隼人が神話の中に組み入れられたのかを問うのならば、最も重要な事は、そこにどのように書かれているかを見ることであろう。隼人神話が天孫降臨と直接の関係は無いとしても、天孫降臨の謎を解くためには押さえておかなければならないことであろう。次回は記紀に現れる隼人神話について検討する。

  • 16Aug
    • 天孫降臨(1) ー何故南九州なのかー

      1・はじめに ー何故南九州なのかー日本神話には様々な謎があるが、何故天皇家の祖先が最初に地上に降り立った地が南九州なのかは、多くの人が抱く素朴な疑問である。日本神話の古事記上巻の最後、日本書紀神代の巻の最後が、この天孫降臨とそれに続く隼人の神話に当てられる。これに引き続くのは初代天皇神武の東征である。神話の時代の最後、天皇家の地上における発祥の地が南九州となっている。日本列島は東西に長く、その地は余りに西によりすぎているばかりでなく、同じ記紀のその地域伝承中に、熊襲の樣なまつろわぬ民の伝承があり、隼人に付いてもその後の記述では異民族的な印象を与えるばかりか、続日本紀には反乱の記述さえ残っている。何よりも天孫降臨の伝承の中には、膂宍空国などの記述も見えるのである。周辺を見てみると、中国の神話は抽象的ではあるが、古代中国の中心地域を意識しているようであるし、夫餘系の神話は北方の架空の国ではあるけれども、新羅や伽耶の場合はその国の中核的な地域を発祥の地としている。日本神話の場合何故古代日本の辺地なのか、仮に神話であるから寧ろ遠く離れた地域を選んだにしても、何故それが南九州なのかは素朴な疑問として残るのである。この項では天孫降臨において、何故南九州が舞台として選ばれたのかを考察してみたい。

  • 13Jul
  • 06Jul
  • 29Jun
    • 倭奴國考 ー後漢代倭国の政治構造ー

      後漢光武帝建武中元二年に朝貢した、倭奴国について考えてみました。倭奴国は本当に倭の奴国なのか、何故この時に朝貢したのは伊都国ではなかったのか。下記リンク先に考察を書いております。倭奴國考