東夷伝の原史料を考察するにあたって、魏略の存在を外すことはできません。翰苑残巻を解説した内藤湖南氏は、そこにあらわれた逸文をもとに、魏略が原史料として使用されていることを指摘しました。

魏志高句麗伝の一節に、「今句麗王宮是也」つまり位宮に対して今の高句麗王であるとするものがありますが、位宮は正始年中に毌丘倹によって破られています。これはすでに清の段玉裁が、指摘していることです。その後のことは三国志にはありませんが、三国史記によれば該当する時期の王は、249年に没したことになっています。三国史記がどの程度信頼できるかはともかく、すくなくとも「」は、三国志編纂時期の太康年間(280-289年)に下ることはないでしょう。西晋の著作郎であった陳寿が、正確な情報を知らなかったとは考えられないからです。内藤湖南氏はこの地の文の「」を魏略のものとしました。

史記、漢書、後漢書、三国志等を実際に検索してみた結果、「」の用例のほとんどは、登場人物の発言や上書等の文面の引用にあり、登場人物の現在をあらわすものです。選者の現在をあらわす「」は、賛や評などの作者の出来事に対する感想を述べる文や、序や書稱のような前書き部分、または一文が全て作者の時代に特定される場合に用いられることがほとんどで、皆無ではないものの、それ以外のいわゆる史書の地の文と言われる部分に、著者の現在をあらわす「」が書き込まれるのは、非常に珍しいことが実感できます。たとえば三国志の場合、「」の用例は千例以上ありますが、地の文の「」は私の確認間違いでなければ、東夷伝に十八例確認できるだけです。そのような「」は時代が下れば「」ではなくなるわけで、史書として後世に伝える場合には、適切さを欠いているためと思われます。

古い漢籍の史書については、例えば史記において、本文は原史料の文面をほぼそのまま引き、選者の意見は文末の賛に書くなどの、ストイックな編纂方法が取られています。ときには賛の内容が、本文に矛盾することすらあるのです。三国志は満田剛氏の「三国志正史と小説の間」によると、四年以内の短い時間に、その時代に成立していた書物の切り貼りによって、そのダイジェスト版として作成されたとしています。記述は極めて簡潔で、後に本文と同じ分量の、裴松之註が付けられる必要がありました。陳寿の編纂姿勢は、同時代史の編纂であるため、権力者に阿って差しさわりのない書き方をし、自らの立場をあまり出さないように意識していたようです。ましてや蜀人であった陳寿にとって、東夷の話題などは縁遠いものであったはずで、ここにべたべたと自身の現在を示す、地の文の「」を書き込むことはあり得ません。

ところが魏略の場合には、この地の文の「」が非常に多いという特徴があるのです。例えば一伝が丸のまま残っている西戎伝については、全部で十六例の著者の現時点をあらわす表記があります。これは魚豢の編纂姿勢の特徴と考えられ、確認出来た範囲で同時代までの史書には見られないものです。そして三国志東夷伝の十八例のうち二例が、内藤湖南が指摘したように魏略の逸文に残されているものと一致するのです。このことから東夷伝の地の文の「」は、原史料の魏略に遡るものとして断定してよいと思われます。

このことは大変重大な事実で、魏志倭人伝の冒頭近くに「今使訳所通三十国」という、地の文の「」を含む表記があり、これが魏略に遡るのであれば、魏略には現在の魏志倭人伝に登場する国名が、全て出そろっていたことを示すのです。またもう一か所、「今倭水人好沈沒捕魚蛤」という表記が、倭人の俗をあらわす文章の中にあります。前回論じたように、魏志倭人伝後半の外交記事を含む、高句麗伝や濊伝末尾の年次記事は、かなり性格の異なるもので、陳寿による追加部分と思われますが、他の大部分は魏略に遡るものであることが推定できます。実際のところ、この地の文の「」は、東夷伝の夫餘に一例、高句麗伝に七例、東沃沮伝に二例、挹婁伝に一例、濊伝に二例、韓伝に三例、倭人伝に二例あり、まんべんなく分布しているとところから、三国志東夷伝は魏略を骨格として、いくつかの原史料を加えてできていると考えてよいと思われます。

魏略の完成は、江畑武氏などの研究によると、魏の末年頃が有力とされています。このことから、この地の文の今については、下限が魏の末年ということになります。ただし魏略はかなりの期間にわたって書かれた可能性があり、地の文の「」にもある程度の幅があるものとしてよいかと思われます。魏略の東夷伝が、いつごろ完成したものかははっきりしません。

東夷伝の「」が何時頃を示唆するのか、文面に沿って考察してみると、毌丘倹による高句麗征伐は高句麗伝では正始五年に始まり、毌丘倹伝では正始六年に再征して、沃沮を過ぎること千有余里、粛慎氏の南界に至ったとします。また三国志斉王紀によれば、正始七年の二月に再び高句麗を討ち、夏五月には濊貊を討ち、韓の那奚ら数十国が投降したとあります。三国志にはこの後のことは書いてないので分かりませんが、少なくとも正始七年までは、高句麗の王は位宮であったようです。

」がいつの時点であるか確認する際の重要なポイントは、文中の地の文の「」と同じ文脈でとらえられる記述であるかどうか確認することです。例えば東沃沮伝にも、毌丘倹伝の高句麗征討の話題が出てきますが、その文章では沃沮を南沃沮と北沃沮に分類していて、地の文の「」を含む東沃沮伝前半部分とは、異なる原史料にあったことが分かります。これは陳寿が、魏略とは別の原史料から撰述したものかもしれませんが、魏略自体も複数の原史料を利用しているとも考えられます。

例えば倭人伝においては、多くの固有名詞が漢字で表記されています。この漢字表記を、森博達氏は分析して、表記されている言語は基本的に上代日本語の特徴を持っている事、用いられている漢字の音価は、魏の時代の中央の音価ではない、古風なものが含まれるとしています。古い時代の漢字音については、隋初に作成された漢字音の分類表と、現代中国方言などを用いた比較言語学的方法で、その発音が再構成されています。また隋初を遡る音価についても、各時代の詩の押韻を用いて再構成されています。注意すべきはこのような音価の再構成は、中央における文献をもとにしていることで、方言についてはよくわかっていません。魏の時代の中央の音価ではない、古風なものが含まれるということの意味は、古い時代の文献や同時代であっても、地方で成立した文献が、原史料として用いられているということになります。魚豢は現在の西安市の出身ではありますが、魏の郎中となりかなり重要な役割を担ったことが、史書中の魚豢の発言から推測されます。また陳寿も西晋の著作郎であり、このことから倭人伝の固有名詞の漢字表記には、陳寿や魚豢によらないものがあるのが確実です。

魚豢は古い史料や、地方で成立した史料をもとに魏略を編纂し、そこに伝聞などで聞いた話を、「」の時制で書き込んでいったのでしょう。高句麗伝以外に、そのようなケースを濊伝に確認できます。

後省都尉、封其渠帥為侯、今不耐濊皆其種也。
後に都尉が省かれると、その渠帥を封じて侯とし、今の不耐濊は皆なその種属である。

この「今不耐濊皆其種也。」が前文に対する、魚豢の挿入した文であるとすると、魚豢の認識では不耐濊は侯として封じられていたことになります。しかし濊伝の末尾には、前回言及した陳寿が加えたと思われる年次記事があり、そこには正始八年には朝貢して不耐濊王を拝したとあります。このことから濊伝の「」はそれより前ということになります。

また韓伝には下記の地の文の「」が見えます。

今有名之為秦韓者。始有六國,稍分為十二國
始め六国があり、次第に分れて十二国となっている。

韓伝には部従事の呉林が、辰韓の八国を分割して楽浪に与えようとして戦争になり、帯方太守弓遵が戦死しています。倭人伝では弓遵に代わり、正始八年に王頎が到官したとありますから、これは正始八年以前となります。韓伝の国名の一覧は、辰韓と弁辰を合わせたものになっており、弁辰は一覧中に弁辰と注することによって区別しています。これは下記で依然論じたように、おそらく最初に馬韓と辰韓に二分した後、弁辰が分離認識されたことによると考えられます。

 

 


ところで辰韓が十二国の時点で、そのうち八ヵ国を分離するというのは、いかにも不自然で、部従事の呉林の行為は、まだ辰韓弁辰一体となった二十四ヵ国の時点であると思われます。すると前述の辰韓が十二ヵ国とする文脈の地の文の「」は、部従事呉林の政策以降となります。その結果起こった戦争で弓遵が戦死し、韓が滅ぼされるのですが、次第に分れて十二国となったという記述には、そのような韓の滅亡の影響が感じられません。そこから韓伝の「」は、正始八年の王頎が到官の前であろうと思われます。

以上高句麗伝、濊伝、韓伝の示す、地の文の「」の現在は、一貫して正始七年から八年頃となります。このことは直接魏略東夷伝の成立時を示すものではなく、魚豢が東夷伝を立てた時点での、入手可能な最新情報が正始八年頃までのものであったことを示します。