こんにちは、スタルペスです。

まずは、このたび令和8年(2026年)7月28日に発生した熊本地震でお亡くなりになられた方々に心よりお悔やみを申し上げますとともに、被災された皆さまへ謹んでお見舞い申し上げます。


今回ご紹介するのは、地震発生前の7月20日に訪れた宇土市の「轟水源(とどろきすいげん)」と「轟貝塚」の記録です。

地震では宇城市と氷川町で震度7、宇土市でも震度6強の激しい揺れが観測されました。多くの尊い命が失われ、多数の家屋が被害を受け、現在もなお避難所や車中での生活を余儀なくされている方々がおられます。
さらに連日40℃近い危険な暑さが続く中、被災地では家屋の片付けや復旧作業が続けられており、熱中症などの二次災害も懸念されています。一日も早い復旧・復興と、被災された皆さまが平穏な生活を取り戻されることを心より願っています。

 

 

 

※馬門石(阿蘇ピンク石)を用いた轟水源の石碑

 

 


地震発生の8日前の7月20日、梅雨明け後の暑い日でしたが少しでも涼を求めようと宇土市の轟水源を訪ねました。
車の温度計はすでに35℃を表示しており、真夏の強い日差しが照りつけています。

轟水源専用駐車場に車を停め、水源へ向かって歩いていくと、多くの人が集まっていました。
近づいてみると、この日は年に一度の大掃除の日とのこと。地元の方々に加え、近くの中学校の生徒さんたちも大勢参加されていました。
せっかくの散策を楽しみにしていたのですが、どうやら訪れる日を間違えたようです。
「残念!!」




※「只今、水源清掃中」です。



しかし今振り返ると、このような地域の皆さんによる日頃からの清掃や維持管理が、名水を守り続けてきたのだと改めて感じます。
轟水源は環境庁選定の「名水百選」の一つで、毎分約4,200リットルの豊かな湧水量を誇ります。
水温は年間を通じて約16℃に保たれ、江戸時代の『肥後国誌』には「清冽の寒泉」と記されています。
真夏の暑さの中で見る透明な湧水は、それだけで涼しさを感じさせてくれます。




※轟水源からの貯水池は水汲みや水遊びができます。



そして地震後の現在、この清らかな湧水は単なる観光資源ではなく、人々の暮らしを支える大切な命の水となっています。
報道では、断水が続く地域から多くの人々が轟水源へ水を汲みに訪れる様子や、猛暑の中で子どもたちが水辺で涼をとる姿が紹介されていました。
350年以上前から人々の生活を支えてきた湧水が、令和の災害時にもなお地域を支えていることに深い感慨を覚えます。
 

 

 

※轟水源の貯水池は清掃中なので濁っています。

 

 

 

この轟水源には、宇土の町を支えた重要な歴史があります。
江戸時代、宇土城下では良質な飲み水の確保が難しく、人々は生活用水に苦労していました。
そこで宇土藩主・細川行孝公は、轟水源から城下へ飲料水を送る水道建設を計画します。
長さ約43センチの土管を総延長4.8キロメートルにわたって敷設する大工事が行われ、寛文3年(1663年)に完成しました。
その後、5代藩主興文公の時代には、より耐久性の高い馬門石(阿蘇溶結凝灰岩)製の石樋へ改修されます。
石をコの字型に削り出し、上から板石を載せ、「ガンゼキ」と呼ばれる接着材で継ぎ目を固めたものだったと伝えられています。
武家屋敷ごとに貯水井戸が設けられ、町内には共同井戸も整備されました。

 

 

 

 

※清掃中だったので江戸時代に造られた馬門石の石樋を見ることができました

 

 


轟水源の水は宇土の人々の暮らしを大いに潤し続けてきたのです。
この「轟泉水道」は、日本で現役の上水道としては最古級ともいわれ、現在でも約60戸が生活用水として利用しているそうです。
そして今回の震災により、水のありがたさを改めて実感された方も多いのではないでしょうか。


轟水源から約300メートルの場所には、国指定史跡の「轟貝塚」があります。
2022年に国指定史跡となった比較的新しい文化財です。

 

※轟貝塚の石柱と説明板

 

 

 

縄文時代早期末(約7,500年前)から後期中葉(約3,500年前)にかけて営まれた集落遺跡で、土器や人骨など数多くの遺物が出土しています。
特に、この遺跡の名を冠した「轟式土器」は西日本各地で出土する代表的な土器型式として知られ、縄文時代の年代研究において重要な指標となっています。
考古学の世界では全国的によく知られた存在です。
 

 

 

※轟貝塚です。一見、貝塚に見えません。

 

 

 

ただ現地を訪れてみると、解説板がなければ通り過ぎてしまいそうな印象も受けました。
国指定からまだ年月も浅く、今後さらに整備が進めば、その価値がより多くの人に伝わるようになるのではないかと思います。





※よく見ると、貝の欠片だらけで地表は白っぽくなっています。



この周辺には貝塚が数多く存在します。
国指定史跡だけでも、熊本市南区城南町の阿高・黒橋貝塚や御領貝塚があります。
その理由は「縄文海進」にあります。
縄文時代には現在より海面が高く、今では内陸となっている地域まで海が入り込んでいました。
そのため当時の海岸線付近には多くの貝塚が形成されたのです。

 

 

 

※縄文海進時代の熊本平野周辺(宇土市教育委員会の公開資料より)

 

 

 

関東地方でも東京都の大森貝塚や埼玉県の真福寺貝塚など、現在は内陸に位置する場所から貝塚が発見されています。
これらの遺跡は、日本列島全体で現在より海面の高い時代が存在したことを物語っています。

 

 

 

※縄文時代の貝が無造作に散らばっています。

 

 


連日の猛暑に接していると、「縄文時代のような温暖な気候に戻っているのでは」と考えてしまいますが、現在の温暖化は自然な気候変動だけではなく、人間活動による温室効果ガスの増加が大きな要因とされています。

 

 

 

※轟貝塚の貝層断面(宇土市教育委員会の公開資料より)

 

 


地震発生前に訪れた轟水源では、ただ冷たい湧水に涼を感じ、その歴史や自然に思いを巡らせていました。
しかし地震後の今、その風景は違って見えます。
人々の命を支える水、災害時の地域の拠り所となる湧水、そして何百年にもわたり受け継がれてきた地域の営み。
轟水源は単なる名水ではなく、この土地の歴史と暮らしそのものを支えてきた存在なのだと改めて感じました。
 

 

 

※轟式土器(宇土市教育委員会の公開資料より)

 


被災地では厳しい暑さの中で困難な日々が続いています。
一日も早く復旧・復興が進み、轟水源の水の流れのように、穏やかな日常が再び地域に戻ることを願ってやみません。