三国魏の東夷に関する記録は、魏略由来のものも特異な年次記事となっている外交記録も、ともに正始年間を最後に全く途絶えてしまいます。晋書地理志によれば、公孫淵滅亡後に魏は襄平に東夷校尉を置いて、遼東、昌黎、玄菟、帯方、楽浪の五郡を平州として分離します。ところが魏の時代の間に、平州は幽州に統合されてしまいます。このことは東方政策の拠点が、遼東(現遼寧省南東部の地域)の襄平から右北平(現北京近く)に後退したことを意味します。そして西晋の泰始十年に至って、再び平州が分離されるのです。

正史にはこの間の東夷情勢の史料がほとんどありません。倭に関しても、宣帝が公孫氏を平定すると、正始元年(240年)の朝貢以降朝貢が続くと、晋書帝紀にありますが、つづいて文帝が相国になった景元四年(243年)以降に再び朝貢があったとします。これがその後の泰始二年(265年)の朝貢につながったことが分かりますが、宣帝の時代と文帝の時代の間については、朝貢があったと明言されていません。遅れて咸寧二年(276年)以降、韓や夫餘などの東夷の朝貢が再開されますが、正始以降それまでの記録はありません。

正始年間中の帝紀での東夷記事は、正始四年冬十二月の俾弥呼の朝貢と、正始七年春二月の幽州刺史毌丘倹の高句驪、夏五月の濊貊を征討、に続き韓の那奚らが投降した記事のみです。卑弥呼の名前が俾弥呼となっていることから、これらは年次記事とは別系統の、おそらく官選の王沈魏書を原史料とすると思われ、そこでは親魏倭王の号を授けた事業を始めとする東夷外交に対して、あまり触れない編纂方針であったことが伺えます。

魏の東夷外交が、司馬懿の公孫氏討伐をきっかけとしたものであったことは間違いないのですが、明帝の死後の魏の大将軍は曹爽であり、司馬懿は軍権を握っていたものの、正始年間の記録からすると政治の中心にいなかったことは明らかです。このことから親魏倭王の称号を与えたことも、曹爽の功績として父の曹真の親魏大月氏王に倣ったものであり、東夷外交は曹爽政権の功績として扱われていたと考えるべきです。正始十年正月、司馬氏はクーデターにより曹爽の一味を一族皆殺しにし、政権を握ります。

恐らくこの結果曹爽政権の政治的成果はことごとく握りつぶされ、魏の東夷外交は突然の中断を迎えたと思われます。帝紀に正始中の東夷外交にあまり触れず、特に親魏倭王の話題を避けるようにしているのは、司馬氏に阿った官選史書である、王沈の魏書がもとになっているためと思われます。東夷伝の記録がすべて正始八年で切れているのは、そこで記録環境が激変し、東夷の情報が遮断されたためと思われます。そのため正始九年中までに伝えられた、前年の正始八年までの情報しか書かれていないのでしょう。

このような東夷外交の断絶は、先に述べたように景元四年(263年)以降の、倭人の朝貢によって破られます。このような政策転換の第一の理由は、この時期に蜀征伐が軌道にのり、魏による中国統一が見え始めていたことであると思われます。また政敵の曹髦が甘露五年(260年)に討ち果たされ、司馬氏の権勢が安泰になったことも大きいのでしょう。西晋期の史書では正始年間に遡り、曹爽の行った東夷外交は、司馬氏の功績に塗りなおされていきます。このシリーズの最初に述べたように、魏志倭人伝の年次記事にある景初三年の朝貢が、晋書帝紀で泰始暦に改められ正始元年の朝貢になっているのは、太康年間に中書監の荀勖が魏の正始をもって晋朝の歴史をはじめることを提唱したことに、依拠したものでしょう。

ところで曹真は大月氏の朝貢をもたらしたことで、大いに昇進を果たしています。曹真は生前には、司馬懿よりも重んじられていたため、実績の少ない曹爽はそれにあやかって、親魏倭王の称号を与えたのでしょう。三世紀までの倭人朝貢の意味は何だったのでしょうか。

有力な説で最初の倭人朝貢の記録と考えられているのが、前漢平帝の時代の大海を渡って朝貢した東夷の王です。この朝貢は、越裳氏の朝貢に始まった一連のものの一つで、南の黄支、北の匈奴、西の羌と並んで東の夷としての朝貢でした。これらは全て王莽が、自らの政治の正当性をアピールするために仕組んだものであることが、王莽伝によりわかります。遠方の民族の朝貢は、古代の権力者にとって、重要な政治的意味のあったことが分かります。

実は後漢光武帝の時代の倭奴国の朝貢も、光武帝の死のわずか二十日あまり前の、后土を祀る北効の儀式にタイミングを合わせたものであると思われます。つまりこれも、中華王朝側の呼びかけによるものであった可能性が高いのです。そして続く安帝永初元年の朝貢も、倭奴国朝貢の五十周年であると同時に、幼帝即位直後のタイミングにおける、権威高揚のための、王朝側の意志によるセレモニーに呼ばれたものである可能性が高いと思われます。


この後漢代における倭人朝貢の意味は、同時代の王充の論衡に明らかであると思われます。そこでは倭人は越裳氏と並べられる存在ですが、越裳氏は紀元前に朝貢したという伝説の民族で、前漢末の朝貢は王莽伝をみれば、王莽の仕組んだフェイクでしかないことが分かります。倭人はそのような伝説の民と並べられているのです。もちろん下記に見るように、論衡の倭人は王充の漢王朝礼賛の思想による作文です。

 

 


王莽の呼び寄せた遠方の民族には、越裳氏のようにフェイクするしかないものや、黄支のように呼び寄せるのにかなりの準備期間が必要なもの、匈奴や羌のように政治的には必ずしも意のままにならないものが含まれていました。一方倭人は徐福伝説などに見るように、大海の向こうにあって、中国人にとってある種の神秘性を帯びていたにもかかわらず、労せず呼び寄せることが可能な、便利な瑞兆であったのです。

魏志倭人伝に記録された景初三年の朝貢も、本来は曹爽が自らの補佐する斉王の正当性を主張するために、正始改元のセレモニーに合わせて呼び寄せたものが、突然の改暦によってずれてしまったのでしょう。同じ朝貢が正始元年の朝貢として記録されている晋書帝紀を見ると、焉耆、危須の諸国や弱水以南の鮮卑名王たちが皆来献したとあり、やはり周辺諸国を呼び寄せたセレモニーだったことが確認できます。

晋の時代に入っても、泰始二年の朝貢は同時期に円丘と方丘を南北の郊に統合したとあり、重要な祭祀に立ち会わせているのです。南北の郊の統合儀式に呼び寄せたのは、後漢代の北郊儀式に合わせて呼び寄せた、倭奴国朝貢に倣ったものと思われます。このように三世紀までの倭人朝貢は、五世紀以降とは意味が違い、中華王朝の為政者を言祝ぐものとして、王朝側から呼び寄せたものなのです。その意味で司馬懿の政敵であった曹爽の功績となる親魏倭王の朝貢は、その父曹真の親魏大月氏王を思い起こさせる意味でも、魏朝健在の期間の司馬氏政権下では、史料が抹殺されることになった可能性があります。それが帝紀に記録されないことの意味であり、司馬炎が相国になり実質的に晋への転換が起った後、倭人朝貢が一転して司馬懿の功績に付け替えられることになるまで続いたものと思います。
 

その結果陳寿が東夷伝を起こした際には、梯儁らの帰朝報告は残されておらず、原史料として利用できなかったのでしょう。これが政変後の焚書を免れた、野史である魏略や天文占書のような特異な史料が、原史料として用いられた理由であると思います。