来たるべきシノノワールのために -11ページ目

来たるべきシノノワールのために

己の言葉を研ぎ澄ますことを目指して

無垢な時に価値なんてありはしない


在る物全てが、在る物全てに

意味を持たせてゆく

在る物は転がり続ける

そして、意味もまた同じ

その時、そのつど、

全てと向かい合い直さなければ

本当は何も分からない

結局、僕らは何も分かってはいない

知っているのは、

自分で勝手に作り上げた物語のほんの一部しか
言葉がただのまやかしであり、うわべの幻想でしかないこと。

最近気づいたのでした。

しかし、私たちはこうしてまた言葉を綴ることに慣れてしまっているのです。

否、言葉の使い方というものの、限られた方法しか訓練していない。

言葉の本質がなんなのか、

そこまでは分かりませんが

言葉が人を必要以上に活動させる原動力であることはたしかでしょう。

言葉の根本的なすれ違い、

その滑りがあるからこそ、人はそれを補おうとして言葉を綴る。

そしてそれを死ぬまで繰り返す。

人の死とは言葉の限界、その一線を越えることとも言えるでしょうか。

 神とは人々に喜びだけを与えてくれるものではないのです。悲しみだけを与えるものでもないのです。神とは自身の喜びを味わい尽くすために、悲しみを味わい尽くすために存在しているのです。だからこそ神は居なければならない、神はそこにいるのです。

 今日の神様はそんな言葉を呟いたように聞こえました。

自分がなぜ旅をしたいのかと考えてみる。

 僕は際限なく旅を続けようと思っているわけではない。行ってみたい場所など尽きはしないから。場所だけではない。旅の方法もいくらでもある。きっとそれは人が持った欲望の一つなんだろう。そんなものに付き合っていたらキリがない。満たされることはないから。

 そんなことを言いながら何故行こうと思うのか。そこには出逢いがあるから。見知らぬ土地の風景、人々。偶然なのか必然なのか。そんなことはどうでもよい出逢い。

 でも違う。美しい風景達に出逢いたいわけじゃない。その美しい瞬間を前にした自分に逢いたいだけ。その自分に全身で逢いたいだけ。それはテレビを眺めていたって伝わりっこない。だから出掛けるしかない。

 そしてその出逢いは、血なのか骨なのか、己の何かになってゆく。

旅は目的じゃない、その何かをつくる手段。そして、それを使って何ができるのか、何をしてゆくのか。旅はそこが問われるもの。

 書いてみたら、当たり前の話でした。みなさん旅をしましょう。

今日感じたことは、人間と動物の違い。人間は自分の生き方について考える。動物はそれをしない、生きる目的は種の保存と生命の維持。それは人間でもあたりまえのことだが、それに付け加えて人は人生に意味を持たせようと悩む。悩んで傷つくことばかりだが、その行為がとても人間らしい。本当はそんなもの必要ではないのかもしれない。他人には絶対に理解できない部分、伝えきれないもの。そんな無駄が人間くさくていい。生きている人たちが皆そうやって思い自分の生き方に思い悩むと考えると、それはとても凄いことだと感じた。そしてそんな人間が生きている地球という場所も凄い。
コリント第一・13を読んでみて、感じたこと。愛とは人が生きるための叡智だと。だからこそ無くてはならぬものだと。

2007年2月24日「第2回シノノワールの集い」が場末のスナックで開かれた。


今回の議題は「死刑制度について」である。感情論で捉えがちな死刑について、参加者各個人がどう考えているのか。それを踏まえて客観的に死刑制度を考えるとどうなるのかなどを討議した。


第2回シノノワールの集い、コンセンサス

死刑制度は野蛮であるので、全参加者とも個人的意見は反対である


・たとえ相手が国家であっても人が殺されるのはおかしいのではないか。そんな国家ならばいらない。

・個人が国家に殺されるのは間違っているが、国民が国家に殺されるのは間違いではない。国民は国家の細胞のようなものであり、癌細胞は取り除かなければいけない。

等の意見があった


国家というものの捉え方が難しいと感じる。国家が国民を守るものなのか、国家自体を守るものなのか。国家から国民を守るものが憲法ではないのか。筆者の個人的な意見だが、国家とは大きなルールの枠である。そのルールは事細かに決められていたほうが国民には分かり易い、考えなくて済む。悪い奴は殺せばよい。そのルールにした方がいちいち悩まなくても済む。考えたくない国民が多い国家には死刑は必要である。


今回の談話の一例

・植村直己は偉人である

・ヤカンのお湯をこぼす事も禅的には楽しいことである

・おいしいですね~はマルチ商法の基本である

久しぶりにウルトラセブンを見た。やはり一味演出が違うなと感じる。9話の”アンドロイド0指令”という回を見て思ったことがある。大まかに話せば、宇宙人が子供たちを洗脳して、地球を侵略しようと企てるが、ウルトラセブンの活躍でそれを未然に防ぐというもの。特撮ものにはありがちな話だが、形としては子供という無知を一つの思想に統一し、それ以外は暴力をもって排除する。いわゆる全体主義、ナチズムのようなものに見えた(演出もそんな感じ)。無知とは身体的に幼い子供だけがある状態ではない。誰しも完璧に森羅万象を知ることは不可能だから、誰しもが無知とは言えるが、他人と自分とを推し量れる物差しをある程度持っていれば、それは最低限無知ではないと私は考える。 自分よりも大きく見えるモノに、度を越して頼らなければ自己を形成できないことが、無知というのではないか。例えば民族、国家というものに頼ってしまうこと。ウルトラセブンでは宇宙人を倒せば問題は解決できるが、国家、民族という怪物を誰が倒してくれるのだろうか。

久しぶりに献血をした(趣味みたいなもの)。場所が都内の休日ということもあり夕方でも混んでいた。看護士さんに聞いてみたところ、多い日は一日200人ほど訪れるそうだ。慣れればたいしたことはないのかもしれないが、ミスが許されない採血の作業を一日中するのは大変神経をすり減らすものだろう。ここ数年は現場の変化も激しく覚えるのも大変らしい。IT機器による作業の効率化、個人情報保護の徹底などご時世に沿った流れだろう。個人的な考えだが、ご時世の流れは確かにすばらしい点もたくさんあるが、現場にとっては忙しくなる傾向があるように思う。効率化とは考える時間、判断する時間をも削る面があるのではないだろうか。医療の仕事の精神的にかかる負担は他の職種の比ではないだろう。その現場が今以上に肉体的に激務になっていくこと、それが本当の意味で効率化なのだろうか。献血で例えれば、自分の血液を提供する側、そして採血をする側。個人差はあれどちらにも人のための気持があると思う。性善説。医療に関して市場原理が合わないと言われるのはそこだろう。どこまでの利益を考えて仕事をするのか。医療ではとても割り切りにくいのではないか。現に医師不足などの問題で表面化しているところもあるようだが。市場原理というものが万能というわけではないことの一例だと思う。