今日は紅岩に登ってけん玉をした。なかなかよい景色だった。
私はピアスをしている。考えてみると何故耳にこんな異物を付けているのか。意識したわけではないが、身に付けることで自分を守ろうとしていたような気がする。守るというのは適当な言葉ではないかもしれない。対外的に見ることのできる物を付けて他との差異を強調する。小さいものに頼って自我を見せようとする。結局は弱さの表れ。装飾や文化などピアスの本当の意味は違うところにあるのだと思うのだが、この耳飾りに隠れないでも表を歩けるように精進したいものである。
新しい年が明けた。最近感じる正月の持つ力の衰退を。確かに365日の1日なだけではあるが、そんな簡単に割り切ってしまえるものだろうか。年越しとは人の知恵だと思う。終わりと始まりを決めること。終わりがあるから人は行動する。始まりがあるから人は希望を持つ。のっぺりとした時間の流れで気持ちを維持するのはなかなか辛い。集団で生きる人間社会には区切りがあることが大切だと思う。特に家族など大切な人に改めて感謝したり健康を祝ったりすること。その広がりが社会に繋がっていくのではないだろうか。技術革新などによって健暮らし方や考え方の急速な相対化により、正月文化が衰退するのは致し方ないとは思うが、経済的なものの考え方が力を持つこの国はその文化を簡単に捨ててしまう。宗教などの価値観では繋がれないこの国の悲しい一面。形の中にある正月を求めるのではなくて、大切な一年の終わりと始まりは、感謝と希望を胸に過ごしたいと感じる、元旦。
友人の少ない私が珍しく結婚式に招待された。出席してみて、やはり結婚は人にとって大きなものであり、その文化、信仰の一つの形が現 れる場所だと感じた。どういった形がいいかではなく、本質的には皆同じではあると思うが。そして式の流れを見ていて、それはその二人の人間の棚卸し作業だなと強く感じた。出席者の顔ぶれ、友人の余興、その他諸々。すべてが二人の考え方の現われ。作り上げたものを見せる場であると。もしもいつか私が結婚式などを挙げる事があるのならばどんな式になるのだろうか。興味のあるところである。それはさて置き、ジロちゃんおめでとう。素敵な家庭を築いていって下さい。あなたたちならばきっとできますね。
余裕を持って日々に臨みたい。その余裕はどうすれば得られるのだろうか。身体的な安定を保証されていれば、精神的な安定につながり、それが余裕になることもあるだろう。視野の問題もあるだろう。経験からゆくと近視眼的にしか見られないときっと行動がセコクなる。少しでも広い視野を持てれば、自分の位置がどうあれば良いかを判断する情報が得易い。情報を使うかどうか選択ができる。その選択 肢が余裕というものなのかもしれない。結論、お金をたくさん持っていて、情報をたくさん得る術を知っていて、判断する頭を持つ人は余裕がある。
小心者の私は買い物が好きではないらしい。気が小さいせいか頭を使うので疲労が溜まる。モノを買うという行為は費用対効果を常に意識していなくてはいけない。それがいつもなんのための効果なのか、ハッキリと決まっていたらもっと楽に事は進むのだろうが。値段の要素は多くの部分を占めてはいるが絶対ではなく、虚栄心や自己満足のためになんとなく高い方に手が伸びてみたり、絶対に使わない機能が気になり選んでみたり。モノが溢れかえっていて選ぶ自由があるようで、選びきれず苦しむ。店内は物欲を喚起させる箱。作る側、売る側は付加価値、付加価値とまったく余念がない。あれこれと手に取ったり、試着したりして、この商品を手に入れた自分の生活をあれこれ想像して楽しんだりするのだが、ほとんどが買えないので想像はきれいに消える。そんな付加価値を産 まない私の買い物を終えると、時間はあっという間に過ぎている。それを感じてまた疲れてしまう。こんなことならば妄想旅行をしていた方がよかったと。財布の中身も軽くなり、悪い意味で身も軽くなった気分。もしも、お金持ち屋さんになっていたらどうだろうか。小心者で妄想旅行好きである限り大した変化はないような気がする。