来たるべきシノノワールのために -12ページ目

来たるべきシノノワールのために

己の言葉を研ぎ澄ますことを目指して

久しぶりに映画でやられた。スクラップ・ヘブンという映画に。私の最近の関心ごとである無痛文明。それに必死に抵抗するさまを分かり易く見せてくれた。無痛文明に抵抗するとは、現在の自分を否定し新しく生み出すこと。すなわち目の前のシステムを破壊すること。分かり易くいえば犯罪である。 実際にそれを現実で行ってもまったく意味はない。そうではなく、その抵抗の姿を映像という触媒を使い見えるものにすること、それが映画であり、芸術の本質なのだろう。作者が形として投げたそれを、想像力という両手でどう受け取るのか。想像力という道具があれば糞にまみれたこの身体を洗い流すことが可能だ。無痛文明と戦うための武器はこの我の想像力しかない。そう確信するのだった。
自己家畜化を自らに課している私たち。明日も元気よくブヒブヒと鳴きましょう。きっと楽しいに違いない。

今日は紅岩に登ってけん玉をした。なかなかよい景色だった。

私はピアスをしている。考えてみると何故耳にこんな異物を付けているのか。意識したわけではないが、身に付けることで自分を守ろうとしていたような気がする。守るというのは適当な言葉ではないかもしれない。対外的に見ることのできる物を付けて他との差異を強調する。小さいものに頼って自我を見せようとする。結局は弱さの表れ。装飾や文化などピアスの本当の意味は違うところにあるのだと思うのだが、この耳飾りに隠れないでも表を歩けるように精進したいものである。

新しい年が明けた。最近感じる正月の持つ力の衰退を。確かに365日の1日なだけではあるが、そんな簡単に割り切ってしまえるものだろうか。年越しとは人の知恵だと思う。終わりと始まりを決めること。終わりがあるから人は行動する。始まりがあるから人は希望を持つ。のっぺりとした時間の流れで気持ちを維持するのはなかなか辛い。集団で生きる人間社会には区切りがあることが大切だと思う。特に家族など大切な人に改めて感謝したり健康を祝ったりすること。その広がりが社会に繋がっていくのではないだろうか。技術革新などによって健暮らし方や考え方の急速な相対化により、正月文化が衰退するのは致し方ないとは思うが、経済的なものの考え方が力を持つこの国はその文化を簡単に捨ててしまう。宗教などの価値観では繋がれないこの国の悲しい一面。形の中にある正月を求めるのではなくて、大切な一年の終わりと始まりは、感謝と希望を胸に過ごしたいと感じる、元旦。

このところの関心ごと、支配者は誰なのか。根本的には時間だろう。肉体があるから時間があるのか、その逆なのかは分からないが。その肉体を維持するために付随して無数のものが覆い被さってくる。もう1つ、定義することに支配されていると思う。境界線をつくること。その作業は肯定というようりも、否定のエネルギー。なぜならば肯定を続けるだけでは、存在は消えてしまうから。存在の明確化が定義すること。その定義を脅かすものが敵であり排除すべきもの。定義すればするほど、支配されて、敵は増えるばかり。
自らを尊ぶ心というものはやっかいである。個人の根源的な要素であるが他人の目では測れないから、意識するしないを問わず種々の武器で切り付けてくる。覚者と呼ばれる人はその武器を無力化することに成功した人を指すのだろう。本人自身にしか測ることができながこれもまた意識するしないを問わず誤魔化すことができる。測れないくせに良く出来ているもので誤魔化しても後で帳尻合せがされるので誤魔化し続けにも限度があるようである。自らを尊ぶ心が零になった状態は自殺につながると言われているので、個人の安全保障上の問題からも重大である。環境、民族、国家、歴史等、どうすることもできない外的要因の上にひとり、ひとりが 日々積み上げるそれ。平和の概念も多岐にあるのだろうが、本質的なそれは自分も含めその他の全ての人たちの自らを尊ぶ心を認めること、或いは自らを尊ぶ心を統一してしまうことではないだろうか。どちらが簡単で、どちらが正しいのか。覚者でない私は解せない。
テレビは単語しか喋らない。何故なのか、その方が分かり易くて面白いから。テレビは時間の経過があるので、視聴者全員が終始見るわけではなく、途中から見る人に対しても興味を得るためには、どこから見ても面白くなければならない。そうなると単語になる。対照的に読書は時間の経過が個人によって違うので、基本的には始めから読むことを前提に作られている。分かり易くするということは、二分法にするということ。善悪を立てて、善者には手放しで賞賛を与え、悪者には、頭の先から足の先まで批判を与える。何故なのか、それは分かり易くて面白いから。しかし、生きていく中で善悪を完全に分けることなどできない、矛盾で満ちているこの世界を。矛盾を選択していくことが生きることとも言えるのではないか。それをテレビから単語だけで決め付けないでくれと言いたい。最近は面白い番組の定義があまりにも狭すぎるのではないか。結局は悪循環でしょうか。

友人の少ない私が珍しく結婚式に招待された。出席してみて、やはり結婚は人にとって大きなものであり、その文化、信仰の一つの形が現れる場所だと感じた。どういった形がいいかではなく、本質的には皆同じではあると思うが。そして式の流れを見ていて、それはその二人の人間の棚卸し作業だなと強く感じた。出席者の顔ぶれ、友人の余興、その他諸々。すべてが二人の考え方の現われ。作り上げたものを見せる場であると。もしもいつか私が結婚式などを挙げる事があるのならばどんな式になるのだろうか。興味のあるところである。それはさて置き、ジロちゃんおめでとう。素敵な家庭を築いていって下さい。あなたたちならばきっとできますね。

余裕を持って日々に臨みたい。その余裕はどうすれば得られるのだろうか。身体的な安定を保証されていれば、精神的な安定につながり、それが余裕になることもあるだろう。視野の問題もあるだろう。経験からゆくと近視眼的にしか見られないときっと行動がセコクなる。少しでも広い視野を持てれば、自分の位置がどうあれば良いかを判断する情報が得易い。情報を使うかどうか選択ができる。その選択肢が余裕というものなのかもしれない。結論、お金をたくさん持っていて、情報をたくさん得る術を知っていて、判断する頭を持つ人は余裕がある。

小心者の私は買い物が好きではないらしい。気が小さいせいか頭を使うので疲労が溜まる。モノを買うという行為は費用対効果を常に意識していなくてはいけない。それがいつもなんのための効果なのか、ハッキリと決まっていたらもっと楽に事は進むのだろうが。値段の要素は多くの部分を占めてはいるが絶対ではなく、虚栄心や自己満足のためになんとなく高い方に手が伸びてみたり、絶対に使わない機能が気になり選んでみたり。モノが溢れかえっていて選ぶ自由があるようで、選びきれず苦しむ。店内は物欲を喚起させる箱。作る側、売る側は付加価値、付加価値とまったく余念がない。あれこれと手に取ったり、試着したりして、この商品を手に入れた自分の生活をあれこれ想像して楽しんだりするのだが、ほとんどが買えないので想像はきれいに消える。そんな付加価値を産まない私の買い物を終えると、時間はあっという間に過ぎている。それを感じてまた疲れてしまう。こんなことならば妄想旅行をしていた方がよかったと。財布の中身も軽くなり、悪い意味で身も軽くなった気分。もしも、お金持ち屋さんになっていたらどうだろうか。小心者で妄想旅行好きである限り大した変化はないような気がする。