大きな蛾が地面に落ちて瀕死の状態でもがいていた。いつもならば目をそむけるような場面だったが、なぜかじっと見ていた。その時、その蛾が小動物のようだと思った。はつらつとその生命を燃やしている状態では、まるで違う生き物だが死を迎える瞬間(東濃弁では”しにょーる”)はどの生物も同じに見えてくるのだろうか。ただの肉の塊になるその時には対外的には極限に個体差が消えるといえるのだろうか。
少し前に旅に出かけた。といっても距離も時間も大したものではなかったが。久しぶりの自分らしい旅だったと満足した。私の中では旅行と旅は出かけることは同じだが、位置付けは分けている。旅行は基本的にその場所の形を楽しむものであ る。そこにはお金がないとあまり楽しめない。それに対して旅は極限まで無責任になることが楽しむコツ。流れる風のようにその土地の空気と交わる事ができれば幸い。そのためにはあまりかっちりとした予定を立てていかない方がよいのかもしれない。今回の旅で気づいたことは、旅はいろんな感情を短い時間の中で味わう事ができる。すなわち違った自分に合えるということ。繰り返しの毎日ではない時間の中には、期待、喜び、不安、孤独、その他諸々が次々にやって来る。昔、友人が心の垢を落とすために旅に行くといっていたのはこういうことだろうと実感した。自分の新たな発見。人がどこかへ行く目的は、風光明媚な場所へ行きたいだけではなく、無意識にこういったことを味わいたいからなのかもしれない。旅人とは本当に風なんだろう。静かに流れてゆく風、帰る場所はあるのか。
2016年のオリンピック招致で、日本国としては東京に候補地を絞ったというニュースを最近耳にした。
福岡との争いを制したわけだが、そもそも五輪を何のためにやるのか。勝手な見方をすればインフラ整備を大義名分を使い行なうものだと感じてしまう。そういう意味では東京にこれ以上のインフラ整備が必要なのだろうか。そうではなくインフラが揃っている東京だからこそ節約した大会を実現できるとも言える。しかし、個人的には石原都知事が東京をもっと効率的でどんどん詰め込む事ができるハイスピードな街にすようと目指しているように思えるのである。東京一極主義はある面からは正しい判断であると思うが、いつまでもそこから抜け出せない事はどうなのだろうか。今までの社会整備方針は東京のミニチュアを作ることであった。これ以上は私はそんなことは望まない。(望む人も多いみたいだが)その点で今回、福岡らしい、福岡でしかできない五輪に期待していたが。それを実現させるためには多少のインフラ整備は仕方ないと思う。結果的にそれで地域住民の方にとっても暮らし易くなればいう事はない。(あくまで福岡らしさは消さずに)さて、五輪は次の段階へと進んでいるらしく、同都知事が安倍官房長官に国として招致に協力を要請し、次にの内閣では五輪招致担当相を設置するらしい。国として招致するには貴方と私の税金がためらいなく使われる。市場原理に組み込まれた大スポーツイベントである五輪。私はそのようなものを呼ぶために私の血税を使って欲しくない。それよりももっと使う事があることは明らかだ。金にまみれた大スポーツイベントである五輪で、国の威厳を発揮したいのであれば選手の育成にお金を回すべきであり費用対効果で考えれば明らかである。高福祉国家と言われ、よく見本のように紹介される北欧の国々で五輪の候補地に立候補すると話はあまり聞かない。(知識不足場だけで実際はあるのかもしれないが)また個人的な見識であるがあちらの国では精神的に豊であるためにはどうあるべきかという考え方が進んでいるように思う。どうもこの国はモノという形にどうしてもすがる傾向が強いのではないだろうか。メディアから耳にする出来事の共通点を探すとそんな流れがあるように感じる。話題になってきている改憲論もその1つ。現状の憲法の上手い使い方が分からないからそうなってしまうのだろう。実に残念で悲しい話である。
夏という季節は、肌の露出も必然で多くなり心的にも外的にも開放的になるものであろう。子共たちにとっては1年の最も楽しみの1つである夏休み。社会人もお盆の大型連休。甲子園に花火大会、夏祭りと上げたらキリがないほど日本全国イベント盛りだくさんの時期。きっと四季のなかでも一番お金が動く季節であろう。確か自分もその雰囲気のせいか、この陽射しのせいか陽気になっている。それは四季がはっきりしている日本の素晴らしいところではないだろうか。ぼーっと一年を過ごすだけでも自然の流れに、心が色々な方向に流れる。それをうまく掴んで楽しめればこんなに素敵なことはない。恵まれたば国土である。ありがたい
しかし、どうしても芯から解放的になれない自分がいる。真夏のじりじり肌をやく陽射し。私はそこにある悲しみ、切なさ、痛みのようなものを感じる。その理由は上に書いた自然によるところではなく、記憶である。あたりまえだが、記憶は個人で違うものである。私が個人的に夏の海岸で悲しい別れをしたとか、子供の頃に食べる前のアイスをそのままボトリと地面に落としたとか、そういった類の記憶ではない。それは戦争の記憶。そう第二次世界大戦、日中戦争、大東亜戦争、呼び方も定義も細分化しているが、あの戦争。あの頃は一年中あれに明け暮れていたわけであるから、夏でなくても戦争の歴史はあるのだが、この日本国にとっては、夏の8月は広島、長崎に原子爆弾の投下。そして終戦。もう61年も前の話、還暦を過ぎている。もちろん、私には経験のない未知の時代である。それでもこんなにどうしようもない感覚、悲しみの空気を陽射しの中に受ける。私は義務教育と高校の3年間であの戦争について聞いた。産まれてから今現在現在までメディア等でも。だから巨大な刷り込みを受けてきたわけだ。教わることや知ることは、教師、教科書、記事、番組等、まず言葉を発する相手の考えを受けることから始まる。だからどうしてもその考えに影響を受けざるを得ない。今振り返れば、全否定に近い教えが多かったきがする。物事には絶対はないと思っている。反対の側面を覗けば、こちら側の正当性は消えることがある。あの戦争を肯定するつもりは毛頭ないが、ひたすらに自虐に走る事が良いとも思えない。その反動で思考が停止したり、逆のエネルギーが生まれたりする。正常に思考できる気がしない。今、戦争の風化が激しく始まっていることを強く感じる。それは当たり前の話で、61年である。広島、長崎の被爆体験を語れる方がかなりの高齢になりその人数がいなくなってきている現状。あの戦争があったこと。それは紛れもない事実。正当性があったとか、まったくの侵略だったという話のまえに、その事実を受け止めるべきではないのか。そしてどうしてあんな道を歩んでいったのか、その理由をできるだけ広く知ること、そしてどうすれば二度とあのような過ち、多くの涙を流さなくて良いのか。まずこの国に生まれた住人が真に考え、そこから国として議論が始まる。でなければまともな話合いは不可能ではないか。ひたすら反省だけしていても、何のための反省か意味が抜けてゆく。最終的には意味のない反省になっていくのではないか。そんな形式だけしかない態度では誰も信用しない。61年・・・ちょっと長すぎる。しかしまだ夏の陽射しに感じるものがあるならば、なんとかなるのでははないだろうか。戦争にどんな大儀をつけようともあんなもの、憎しみの発電所だ。血は血で洗っても落ちないし、時間という水を使っても完全にはきれいにならない。この国の夏はそんなことを考えさせる季節でもある。
最近ご飯があまり美味しくない、と感じるのは何故か。本質を言えば、もともとの料理の味が悪いという訳だが。
そうではない理由として、昼食時のラジヲニュース、夕飯時のネットニュース等で中東情勢が気になって仕方がない。停戦もできず泥沼の様相になって来ている。イスラエル、ビッズボーラ、ハマース、お互い落とし所を見出せない。ここまでしても、やっぱりやーめたと言えないところが人間らしいところか。最悪シリア、イランを巻き込んでの戦火の拡大は見たくない。
アメリカという国が何をしたいのか理解できない。彼らの掲げる○○。それは彼らの中の恐怖の感情に体裁よく名前を張り替えただけではないのか。その感情に支配され視覚神経が狂ってしまっている。彼らに同調するこの国も視覚やら聴覚がイカレテいる。思考するらも危ういのではないか。61年目の夏だというのに。
手足のちぎれた子供が瓦礫の下で泣く事ですら許されないというのに、テロとの戦いしとか言葉を知らない人には、笑袋と原子力電池を差し上げたい。
虚しい。
念願だった、サンダーバードの第15話「大ワニの襲撃」を見ることができた。数年前にNHK教育で放映していた際に初めてきちんと番組として見た。それ以来サンダーバードの旨みを知ったのだった。第15話「大ワニの襲撃」は前半部分は時間に合わせてテレビの前に座り番組を見たのだが、後半は何の用があったのかは記憶にないが見ていない。それがずっと頭の隅にあり機会をうかがっていたがやっと願いがかなった。内容うんぬんの前に満足した。ワニにあれだけの恐怖を感じたのはおそらく初めてではないか。あの奇声はワニ本来の鳴き声なのだろうか。そして暴れていたワニはなんという種類のワニか。これも頭に隅に置いておこう。しかし、あの話の犯人である彼は何故にあの凶行にいったのか。私はそこに貧困を見てしまう。犯罪の発生要因が貧困だとどこかで聞いた。国際救助体はいつも活躍するが、ワニをやっつけるような、表面的な対処だけではずっと彼らに安息の日は来ない。しかし、彼らがヒーローであり続けるためにはそうした舞台が必要であるから大きなお世話か。
先日あるお客さんに、ウルトラセブンを薦められた。ウルトラセブンは他のシリーズと違い、戦う意味の葛藤を問う作品だと。その言葉が気になりまず数話だけ見てみた。上のサンダーバードとの違いは音楽だった。どちらの作品も決して軽いとはいえないテーマ曲だったが、サンダーバードは強固な正義。ウルトラセブンは土臭い、混沌。サンダーバードはメカを前面に出していること、国際救助体であり、災害救助などの人を助ける仕事で、戦うことばかりではない。しかし、ウルトラセブンは宇宙人の侵略から地球を守るという確固たる大儀があり、必ず血が流れる。そういう部分も影響があるのだろう。製作された国がイギリスと日本。その国民性の違いも何かあるのだろうか。
そういう特撮番組を見た後、最近の中東の戦闘の情報を耳にすると、正義の味方の戦いも片一方に光を当てるだけ。時間の流れも利用して後になれば勝った者が正義と言われていくのか。ややこしいのは戦う相手が宇宙人ではないことである。
最後に、特撮ものを見ると必ずつっこみを入れてしまう。その頻度はかなり多いのである。
物を所有する事。長い目でみると、それは必ずしも満足だけではなく弊害を生じると思う。
その弊害も色々な類のものがあるが、分かり易いところではごみ問題だろうか。
その他の例を上げれば、物が溢れて部屋が狭くなるとか、車を買ったことでスピード違反で捕まるとか、自動車事故に合う可能性が著しく高くなる。などこれは物理的な弊害だが、精神的な弊害もあるだろう。これは個人の主観なのでまとめ難いが、手に入れた物を失う怖さを生じることはあるのではないだろうか。
しかし、物を所有することが対外的に自分の力を見せる一つの手段であり、そういう類の欲求は誰でもあるものだろう。物を持つことが自分らしさの表現であるということも信じられているのだろう。
資本主義の流れが強くなっている御時世であるから、どんどん物を作っていかないとパンクしてしまう。弾けさせないためには物を所有する以外に方法はないと今のところその流れが強い。
そんなことを考えていたら、子供を育てることも一つの所有するなのだろうかと疑問が浮かんだ。思えば、弊害は沢山出るだろう。考えうる満足と、考えうる弊害を秤にかけてみてどちらを選択するか。少子化とは弊害の方が重いと判断した人がこの国では多くなってきているということか。
しかし、育てる行為と所有する行為はまったく別の次元である。なぜならば物は手に入れた時点から劣化が始まっていくその劣化を喜びと感じることは少ない。育てることは相手を作り出す手助けをしているわけであり、劣化を判断するのは自分ではない。物を所有する時には必ず、費用対効果を計算するものである。育てる対象の費用対効果を判断すると今の社会は費用がかかり過ぎるらしい。非常に憂いすべきことであるが、効果については単純に判断するのは浅はかではないか。そんなことをその権利もない私が言ったこところで説得力は微塵もないことでありますが。
ここ最近の中東情勢は非常に気がかりである。あの辺りの情勢に特に詳しいわけではないが、流血の事態が止む気配が見えない。今の状況はテロやテロ対策の範囲ではなく戦争という方が近い。
問題の根は深くて深くて、この星の反対側まで伸びているのではないか。宗教、民族、領土、安全保障、その他諸々、そして憎しみ。許すことが負けではないといつ思えるのか。人間には不可能なのか。
この間、昭和天皇がA級戦犯合祀について否定的な考えだったことが分かったというニュースがあった。それにも関わらず合祀が行なわれたことで、60年が経過した今日でも日本人が、戦後が処理できない一つの大きな要因が残った。60年は確かに長い時間ではあるが、中東の歴史から比べれば短い。まだ今ならば、間に合うと思う。これ以上の憎しみを増幅しないために戦争から決別をする必要がある。日本人の好きな曖昧な空気をここでは出してはいけない。時間が流れれば根が深く成長する。本当に 日本国憲法を誇りするために、それは負けではないのだから。
まずは早く中東が停戦することを願う。