1972年1月7日 遠山美枝子の「敗北死」 |   連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)

(遠山は人間の誇りを破壊された)
連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-遠山美枝子顔写真



遠山美枝子(享年25歳)
【死亡日】 1972年1月7日
【所属】 赤軍派
【学歴】 明治大学
【レッテル】 古い赤軍派、ブルジョア的女性
【総括理由】 指輪、化粧、髪型、女を売りにして男を利用、幹部の妻としての特権的地位、死への恐怖
【総括態度】 「まだ女を意識している」
【死因】 凍死 or 衰弱死


遠山美枝子が山岳ベースに参加してから死亡するまでの経緯は以下の通りである。

1971年12月 共同軍事訓練 その3・革命左派による遠山批判

1971年12月 共同軍事訓練 その4・赤軍派による遠山批判

1971年12月 遠山・進藤・行方への総括要求(赤軍派・新倉ベース)

1971年12月27日 赤軍派メンバーを榛名ベースへ召集せよ

1971年12月29日~31日 赤軍派メンバーが榛名ベースへ出発

1972年1月1日 進藤隆三郎の「敗北死」

1972年1月2日 遠山美枝子に遺体埋葬を強要

1972年1月3日 遠山美枝子が小嶋の死体を埋める

1972年1月3日 「自分で自分の顔を殴れ!」-女らしさの破壊

1972年1月6日 行方正時への暴行と遠山美枝子の叫び

1972年1月6日 遠山美枝子を逆エビに縛る


 1月7日は、メンバーに任務が告げられ、その準備をしていた。この任務は殲滅戦を闘うための準備と位置づけられた。


井川ベースの整理に行くのは、山崎、寺林、中村、山本保子。
名古屋に小嶋史子(死亡した小嶋和子の妹)を呼びに行くのは、岩田、伊藤。
東京に黒ヘルグループのオルグに行くのは、前沢、青砥。


 そして、森の提案で、新たな山岳ベースの調査することになった。榛名ベースは久々に活気に溢れたのである。


 しかし、その準備の最中に遠山の容態が悪化した。


■「お前は薄情だ!」(坂口弘) 「謝りなさいよ!」(永田洋子)

 手洗いから戻って来た時、縛られている遠山さんを見ると、それまでの様子と違って妙にひっそりしていた。私はそっと脈をみた。脈はかすかにしか感じられなかった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 それで坂東君、寺岡君ら5人のメンバーが飛んでいってすぐに人工呼吸を行った。私が少し遅れていくと、森君が、「酒を飲ませてみたらどうか」と言ったので、ストーブの上にかけてあるバケツの湯の中に一升瓶を入れて燗をしようとした。すると側にいた永田さんが、「一升瓶ごと燗するなんてナンセンスよ。お酒はお銚子に移してから燗するものよ」と言って私を腐した。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)


 すぐそばでは人工呼吸が続いていた。永田は会議の場に戻った。


 ところが私が戻ってすぐ坂口氏が大変な剣幕で私のところに来て立ったまま大声で、「お前は薄情だ」とどなった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 「おまえの態度は真剣でない!遠山が亡くなろうとしているのにお前はどこへ行く気だ!」と、私は彼女を怒鳴りつけた。鏡の件などで、遠山さんに冷淡で、刺激的なことをした永田さんに対し怒りがうっ積していたのだ。だが、すぐに本当の敵は彼女ではなく、森君だと思った。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)


 永田と坂口の口論中、森が、「永田さんの行動は薄情ではない」と助け舟を出したため、坂口は押し返されてしまった。


 彼女はいっそう居丈高になり、「私と森さんを侮辱したことを誤りなさいよ!会議の進行を遅らせたことを誤りなさいよ!」と言って謝罪を求めてきた。(中略)
 私は目を瞑り、腕を組んで、反抗すべきかどうか考えた。(中略)
 総括の最大の山場だと思った。自分の全人格が問われていると思った。気持ちが反抗と屈服の交互に揺れ動いた。しかし、私は、反抗の道を選択することが出来なかった。両名、とくに森君と論戦しても勝てないと悟ってしまったのである。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)


 坂口は、「CCを辞任したい」と申し出るが、驚いた森があわてて取り成した。結局、「会議の進行を妨げて申し訳なかった」と惨めな謝罪を行ない一件落着となった。


 森氏は新党維持のため、私や坂口氏を特別扱いしていた。そのため、この問題で、私か坂口氏のどちらかが総括要求されることはなかったのである。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 2人は一緒に顔を洗ったりするなど仲が良かったので、このときの激しいやり取りにはとまどわされた。しかし、このあとは何事も無かったかのように仲良くしており、このことにもとまどってしまった。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


■「遠山さんは蘇生しなかった」(植垣康博)

 遠山さんの人工呼吸は30分以上も続けられたが、結局、遠山さんは蘇生しなかった。坂東氏たちは人工呼吸をやめ、遠山さんの死体を床下に運んでいった。会議は重苦しい気分のまま中断となった。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


 坂東氏たちが戻ってきた時、森氏が、坂東氏に、「どうだった」と聞いた。坂東氏は首を横に振り、遠山さんの死体を床下に置いて来たことを報告した。
 そのあと、全体会議を中断して中央委員会の会議を開いたが、この会議は重苦しいものだった。もはや討論もなく敗北死という規定をした。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


■「暴力は不適格な人間を間引くことだと気づいた」(前沢虎義)

 このころから、メンバーの間では、総括に対する複雑な思いが芽生え始めていた。


(なぜ死ぬと分かっているのに遠山を殴ったのか?)
 自分の死ってものをある意味では前提にしているわけです、僕ら。軍の兵隊になった時点で。自分の死を前提にしてると、同じ仲間の死というものも・・・というか、中途半端な態度をとってることに対して許せないわけですよ。なんでそういう態度をとってるんだ、と、そういう態度をちゃんと克服しろ、と。
(植垣康博・「朝まで生テレビ」2004年3月27日放送)


 加藤が死んだときは遠山美枝子が縛られ、行方も既に縛られるのを待っている状態でした。私は加藤が死んだことで、遠山も行方も、そしてその後ももし誰かが縛られれば、その人間も死ぬだろうと、はっきりと判断しました。
 それまでは総括の援助だと言われ、そう思ってふるっていた暴力も、実はそうではなく、不適格な人間を間引くことだったのだと思いついたわけです。
(大泉康雄・「あさま山荘銃撃戦の深層」 前澤虎義上申書(1972年8月11日付))


 前沢はこのような思いを胸に抱いて、東京に黒ヘルグループのオルグに行くのであるが、任務終了後、榛名ベースへ戻るのをためらうことになる。


 なぜ、こんなことさせるんだという憎しみを持ちながらも、遠山さんに対する暴力行為を断れない・・・。正しいと思っているわけじゃないんだ。そう思い込もうとしているだけなんだ。そんなことみんな分かっているのに止められないんだよ。
(大泉康雄・「あさま山荘銃撃戦の深層」青砥幹夫インタビュー『スキャンダル戦争1』2002年6月 より引用)


 僕は遠山さんの問題については、永田に非常に大きな責任があると思っています。遠山さんの「総括」の最中を思い出すたびに、本当に正視できないようなことばかりだったと思う。だって普通、女の人に顔殴らせてね、「あんたの顔こんなに醜くなった。見てみなさい」なんて、鏡を突きつけますかね。
(荒岱介・「破天荒な人々」 青砥幹夫インタビュー)


 永田が遠山に鏡をみせた経緯は、 1972年1月3日 「自分で自分の顔を殴れ!」-女らしさの破壊 を参照。


■「遠山さんの人間的な誇りを破壊しつくした」(永田洋子)

 遠山さんへの批判は、彼女のすべての行動を権力欲や嫉妬心で解釈することによって、彼女の人格を徹底して侮辱し彼女を絶望させてしまうものであった。それは遠山さんの人間的な誇りを破壊しつくすものであった。


 こうした女性蔑視の排外的な批判に、遠山さんが沈黙してしまったのは当然のことであった。なぜなら、批判者自身が、そうした批判の誤りを理解しない限り、いくら違うといっても通用しないからである。


 敗北後、遠山さんに行われたのと同じような批判をされ続けてきたが、それによってやっと彼女の無念な思いが痛いほどわかるようになった。私たちの犯した誤りを利用した私への女性蔑視の排外的な批判に直結して、私はやっと同じ女性として遠山さんと団結することのできる立場に立てたのである。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 永田は反省しているようでいて、「同じ女性として遠山さんと団結することのできる立場に立てた」 とはずいぶん虫のいい話である。


 遠山批判には、 「批判の誤り」 というような論理で割り切れないものを感じる人が多いだろう。


 以下のような吉野の証言もある。


 新倉共同訓練での遠山さん批判を受けた森がこうして遠山さんを縛らせるに至ったことで、森は永田からつきつけられた課題を片づけた思いになり、永田は永田で、赤軍派メンバーに対する自己地位を一応確保し、いわば赤軍派内での妨害要素を除去しえた思いで安堵したその心理が作用していたと私は見ます。


 森が苦心惨憺して遠山さんを批判していた時、傍らに座っていた永田は本当に満足そうに安堵しきった表情で、その追求ぶりを見物していたのを印象深く覚えています。


 私の認識としては、永田はとうとう森をして遠山さんを縛らせることに成功し、自分と森との統合への道の第一段階をこの時確保したのです。

(大泉康雄・「あさま山荘銃撃戦の深層」 吉野雅邦 1983年1月28日付手紙)


 遠山を死に至らしめたのは、直接的には、森の課した肉体的制裁であることは間違いない。だが、森をここまで動かしたものは、はたして共産主義化の論理 だったのだろうか、それとも永田の意向が働いたのであろうか。


 同じ疑問は、このあとの革命左派の女性メンバー2人への総括要求のときにも生じるのである。