遠山美枝子への批判は、この日をきっかけに、榛名ベースで亡くなるまで続く。通常、「遠山批判」という場合、12月5日の革命左派による遠山批判を指す。水筒問題 で赤軍派に押されていた永田がカウンターパンチを放ったのである。
1971年12月5日、この日は朝から大雪で、終日降り続いたので、室内訓練や体操しか行えなかった。
■「どうして指輪をしているの?」
この日も森は、永田に対し瀬木の脱走
と是政での大量逮捕
の総括を要求した。永田は前日と同じことを繰り返し、森は納得せずに執拗に総括要求を繰り返した。またもや気まずい雰囲気になったが、そうしている間に夕食になり、会議が中断された。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)
永田は前日、森に遠山の指輪を問題だといってあったのである。永田がそういって森のほうをみると森は黙っていた。森は、遠山が高原浩之の夫人ということで遠慮し、指輪をはずせとはいえなかったのである。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)
このあと永田は、遠山に向けて批判を始める。
■「あなた、なんで山に来たの?」
遠山「なんだって、軍事訓練に来ました」
永田「違うのよ。あなた自身どんな気持ちできたかということよ」
遠山「私は革命戦争をさらに前進するために、自ら軍人になり、革命戦士になる必要性を理解したから。世界革命戦争の持久的対峙段階においては、先進国における革命戦争の発展が必要であること・・・」
永田「あなた自身、どのような気持ちで山に来たの?あなたは自分自身のことをちっとも語っていないじゃないの。なんで山に来たの?」
遠山「何を言えばいいの?」
(「新編・赤軍ドキュメント」)
永田の批判をきっかけに、革命左派のほかのメンバーも加わり、同じ質問が延々と繰り返された。その中で「なぜ合法時代と同じ組織名を使っているの?」「どうして髪をきらないの?」などと、遠山を責めつづけた。遠山は最初は防衛しようとしていたが、ついに何も答えられなくなり、沈黙してしまった。
ただ、永田が、「指輪をとらないのは、結婚指輪だからか」と聞いたときには、「ううん、そうではない。この指輪は、母がお金に困ったときに売ればいいといって買ってくれたものなの」と答えた。
しかし、批判が具体的になってからは、そんなことを遠山さんにいってもしかたがないじゃないかと思いながらも、私自身も感じていたことであり、ただ遠慮して言わなかっただけのことだったので、いわれてみればもっともだ、われわれがいわなければならないことだ、遠山さんはなぜ答えないのだろうと思い、遠山さんに批判的になった。他の赤軍派のものも同様だったようで、誰も遠山さんを防衛しようとはしなかった。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)
■「赤軍派として防衛しない」
私は、遠山さんへの批判を赤軍派への批判としても行っていたつもりだったので、こうした森氏らの態度に大いに不満であった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)
ですから、私たち3人のところへくる遠山同志に対して、「1人の革命家として、革命左派の批判をうけとめてほしい、赤軍派として防衛しない」ということで、遠山同志を討論の場におしかえすということをやったわけです。
(坂東国男・「永田洋子さんへの手紙」)
(森恒夫・「自己批判書」)
自己批判でなく相互批判を軸に、個人の問題に転嫁していくことをつくりだしたこと、・・・(中略)。遠山批判というとき、指導部自身、私自身の問題が捨象され、遠山同志が遅れていると根拠もなく思うことによって、あるいは、自分たちは総括できている(総括がわかっている)とすることによって、自分の主観の中身を何一つ問うものとはなりえなかったわけです。
(坂東国男・「永田洋子さんへの手紙」)
■「このままではとても一緒にやってゆけない」
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)
「どうしたらよいのかわからなくなり」というのは当然で、他組織のメンバーを個人批判したせいである。だから遠山批判は、攻撃以上のものになりようがなく、結局、台所で何か話し合っている森の態度を待つしかなかった。本来、遠山批判は森に対して行うべきだったのである。
「いつの間にかそのまま寝てしまった」とあっさり書いているが、そうではない。寝る前に、涙を流して赤軍派批判を行っている。そのくだりは、植垣、坂口、坂東の著書に書かれているが、なぜか永田は省略してしまっている。
この赤軍派批判は、水筒の問題で赤軍派が革命左派を「山にたいする考えが甘い」と批判したことへの反論だったであろう。そのあと、「このままではとても一緒にやってゆけない」といって、寝てしまった。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)
永田が寝たあとも革命左派による批判は続き、「同じことの繰り返しだった」「遠山さんは批判を受け入れようとしなかった」と報告された。
■「女性兵士は男性以上に努力しなければならない」
私は遠山さんが自ら動かずほとんど男性同志に仕事をさせていることが目に付いたので、「遠山さんはストーブのところで男の同志に指示するだけで、ちっとも仕事をしないじゃないの。それでは、女性兵士として頑張っていこうとしているとはとてもいえない」と批判した。遠山さんはやはり黙っていた。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)
永田の「誤った婦人解放の観点」とは、「男もすなる革命といふものを、女もしてみむとてするなり」という域にとどまり、そのためには、女を捨てて中性になることと無意識に思い込んでいたのである。皮肉なことに「誤った婦人解放の観点」は後に男の代弁者となって、女性メンバーの「総括」に一役買ってしまうのである。
ちなみに遠山は、共同軍事訓練に入る直前の11月25日、夫である高原浩之に手紙にこう書いている。
「菩薩の敗北 は・・・これを切開せず、又もや政治にかりたて、だからこそ「中性の怪物」としての答えでしかなかったのです。人類には、男と女しかいない。人間らしくということは、女らしいということではなく、現実に女であるならば、その女が体現できる可能な限りをついやすことが人間らしくということにつながるのではいかと思います。」
遠山の耳に永田の批判はどう響いたであろうか。
■「永田にとっては常に『あたし』が中心。数倍に言い返して、反撃した」
遠山批判に関する証言をまとめておく。
でも、そのことが永田さんの「窮鼠猫を噛む」反撃を呼び寄せてしまい、「遠山さんの指輪、化粧、長い髪について」と「私たちは苦労して山を守ってきたのに、赤軍派は山を甘く考えている」という決定的なことを言わせてしまい、それがのちの「総括」「共産主義化」に結びついてしまいました。
(大泉康雄・「あさま山荘銃撃戦の深層」植垣康博ヒアリング)
遠山さんには「(永田の失礼な言いがかりに)何とか辛抱してよ」といっていたぐらいでした。しかし、これが討論を経ていくうちに「永田さんの言うことにも一理はある。われわれにも革命戦士として弱いところがある」になり、「やっと眼が開いた。永田さんの言うことがわかった」という森さんの発言に変わっていきました。
(大泉康雄・「あさま山荘銃撃戦の深層」青砥幹夫ヒアリング)
森恒夫に対して、「なぜこの女を山に入れたのか。こんな女が入っているため、射撃訓練自体の意味がなくなったのと同時に、組織崩壊の危険性を背負い込んでしまった」「このままでは赤軍派にまかせておけないから、遠山はわれわれで預かって教育しなおす」と強い口調で迫っていました。そんなイジメのような個人攻撃をしなくていいのに、と内心思っていました。
革命左派の女性みたいに、いつ風呂に入ったのかわからないような「臭うがごとき」姿に比べると、遠山さんは、こざっぱりとして、警察が見ても警戒されないような気配りされた服装でしたから。
永田っていうのは天性の鋭い勘を持っている女性で、相手の強いところ気の弱いところをすぐに嗅ぎ取って、おだてたり、甘えたり、脅かしたりして渡り合う技術は超一流でした。セールスなんかやらせたら、おそらく永田はかなり優秀だったはずです。
反面、一種の個人的なコンプレックスを止揚しきれない部分がありました。永田にとっては常に「あたし」が中心で、対人関係もそこから「あの人には負けたくない」という発想をするところがありました。だから、このときも赤軍派にとやかく言われたことを、数倍に言い返して、反撃したという感じでした。
(大泉康雄・「あさま山荘銃撃戦の深層」前澤虎義ヒアリング)
遠山の特別扱いこそ赤軍派の弱点であることを永田は直感的に見抜き、そこを突けば水筒問題の失地回復をはかれると考えたのだろう。指輪をしているという、ほんのささいなことから批判が始まって、赤軍派批判にまで拡大させた手腕は見事というしかない。
しかし、森の態度は意外なものだった。全く防衛する気を見せずに、台所で、革命左派の批判を受け入れていたのである。前日までの主導権を獲得しようとする姿勢からは考えられないことだったが、森の頭の中では、主導権争いよりももっと重要な課題、すなわち共産主義化の方法論が、遠山批判によってひらめいたからである。
この日を境に遠山批判は赤軍派にバトンタッチされる。これまで幹部夫人として特別扱いしてきたことの反動が爆発したのだった。
1971年12月 共同軍事訓練 その3・革命左派による遠山批判
1971年12月 共同軍事訓練 その4・赤軍派による遠山批判