1971年12月 共同軍事訓練 その4・赤軍派による遠山批判 |   連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)

 水筒問題 の反撃として、革命左派は赤軍派の遠山美枝子への個人批判 を行ったが、意外なことに赤軍派はあっさりと批判を受け入れた。そして、それは赤軍派による新たな遠山批判の始まりとなった。


■1971年12月6日 「山を降りるものは殺す」


 翌6日、朝起きた時、私は革命左派の人に「あのあとどうなったの」と聞いた。皆は、「同じことの繰り返しだった」「遠山さんは批判を受け入れようとしなかった」といい、どうしようもないという顔をしていた。

 私が、「路線が違うので、これ以上は批判できないと思うけど・・・」というと岩田氏が「それは違う。やはり、批判は必要だ」といい、みなも同様の態度をとった。私はやはり批判は必要なのかと思った。


 再び全体会議が始まった時、森氏は、「我々は台所にひっこんで作風・規律問題の解決とは何なのか考えていたが、それが革命戦士の共産主義化の問題であることがやっとわかった」といった。そのあと、私に「赤軍派だけで討論したいので、少し時間がほしい」といい、赤軍派の人たちを連れて外へ出て行った。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 小屋の外での様子は植垣の著書に書かれている。森は革命左派に宣言する内容を、事前にメンバーに確認しておいたのだった。


 森氏はまず、「遠山さんへの批判は赤軍派全体への批判でもある。全員で責任を持って遠山さんの問題を解決していかなければならないし、他のものも同様の自分の問題を解決していかなければだめだ。遠山さんは、もっと素直になって革命左派の批判に応えるようにしろ」といった。これに私たちも、「そうだ!そうだ!何だ、きのうの態度は!」と同調した。

 この時、森氏は「まだ指輪をしてるのか!いいかげんにはずせ!」と怒鳴った。遠山さんはあわてて指輪をはずし、ポケットに入れた。


続いて、森氏は、革命左派の2名の処刑 に触れ、「革命左派ではこのような闘いを経て山を守ってきたのだから、革命左派の批判にいいかげんな気持ちで対応してはだめだ。総括できないまま山を降りるものは殺す決意が必要だ」といったあと、「遠山さんが総括できるまで山を降りない。山を降りるものは殺す」といった。これに私たちは、「異議なし!」といって同意した。

(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


 赤軍派が小屋に戻ると、「我々は遠山さんの批判を受け入れる。我々は責任を持って遠山さんを総括させ、作風・規律問題として解決していく」といい、そのあと、胸をそらしていくらか大きい声で、「われわれ赤軍派は、遠山さんが総括できるまで山を降ろさない。山を降りるものは殺すと確認している」と宣言した。すると赤軍派の人たち全員は大きな声で、「異議なし!」といった。

 私はまた極端なことをいうと思ったが、どうせ言葉だけだ、しかし、そういう気持ちで頑張ってほしいと思い何も言わなかった。


私は、向山氏、早岐さんのようなことがもうあってはならないという思いもあったので遠山さんを批判したのに、森氏がこの2人の処刑の積極的な肯定のうえで遠山さんの批判を受け入れたことに気づかなかった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


■「初めて塩見の提起に答えられるようになった」


 森は続いて、「作風、規律問題の解決こそ革命戦士の共産主義化の問題であり、「人の要素」の問題であり、党建設の中心的な問題である。この問題は塩見(赤軍派議長、塩見孝也氏)が大菩薩闘争 の再総括として提起した問題である。今まで、自分たちはこれをどのように解決するかわからなかったが、銃による殲滅線の地平でやっとそれがわかり、初めて塩見の提起に答えられるようになった。革命左派の自己批判-相互批判は、この共産主義化の自然発生的なものである」といった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 森が遠山批判をきっかけに革命左派に学ぶ姿勢に変化したのはこうした理由による。


■「おまえ自身が総括すべきことがあるのに、そんなことをいえるのか」


 そのあと、赤軍派の一人一人が、遠山さんを必ず総括させるという決意表明を行ったが、・・・(中略)

 行方氏が、遠山さんを必ず総括させると発言すると、森氏が、すぐに、「おまえ自身が総括すべきことがあるのに、そんなことをいえるのか」といって、行方氏を批判しだした。


私が、「行方さんは一生懸命闘おうとしているのだから、何も問題はないじゃない」というと、森氏は、「赤軍派のことだから黙っていてくれ」といって、遠山さんの場合と違って私の発言を受け入れなかった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


■「なるべく早く総括させてほしい」


 赤軍派の人たちの決意表明が終わってから、私は、「赤軍派が遠山さんへの批判を受け入れなければ、もう連合赤軍として一緒にやっていくことはできないと思い、この場から帰らざるを得ないと思ったけど、帰るわけにも行かないので何とか解決しなければならないと思っていた」といって少し涙ぐみ、そのあと、「遠山さんを必ず総括させるといったけど、言葉だけでなく必ず総括させてほしい。総括させるまで山から降ろさないでほしいし、なるべく早く総括させてほしい」と念を押した。(中略)

森氏は「もちろんだ」と答えた。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


■「私は当時全く闘う事をせず、むしろそれらを容認した」
 森は、逮捕後に書いた「自己批判書」の中で、「総括させるまで山から降ろさないでほしいし、なるべく早く総括させてほしい」という永田の要求こそ、「総括」(12名の同志殺害)の元凶である、と主張している。


 遠山さんに対する批判に対して当初は、、今後の党の問題として解決していこうという態度をとったが、(中略)まず遠山さん個人がこの批判に責任をもって応えていかなければならないと考えていた。

 しかし、結果的には「彼女の総括が為される迄、彼女を山から下ろさない事、その総括期間は短期である事」という旧革命左派のメンバーからだされた要求を容認した。


(中略・革命左派の要求は、革命左派が行った2人の処刑を正しいと考え、それを前提として出されていた、しかも「短期」という危険な設定がされた、ということが書かれている)


 しかし、もし短期に総括できなかったら、かつ山を下ろさないとしたら、文字通り彼女を兵士として不適格であるという理由で組織的に処刑しなければならないという、この要求の持つ危険な最後通牒的側面に対して、私は当時全く闘う事をせず、むしろそれらを容認した上で、何とか組織全体で解決しようとしたのである。
(森恒夫・「自己批判書」)


 森は、自ら赤軍派メンバーに「山を降りるものは殺す」と確認し、それを革命左派に宣言した。だが、そのことにはふれずに、永田の方から「最後通牒的」要求があったように書いている。


 そして、それに反論せず、容認したばかりに、12名の同志殺害につながってしまった、と解釈しているのである。


 つまり、森自身の問題点としては、 「全く闘う事をせず、むしろそれらを容認した上で、何とか組織全体で解決しようとした」 ことに限定してしまっているのである。


 森の解釈については、もうひとつ重要な指摘がある。


 だが、これは、自分が提唱した共産主義化理論の果たした決定的役割を忘れた思い込みである。
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)

 自己批判-相互批判はというのはやり方であって、総括に猛威をふるったのは、森の頭の中にあった「共産主義化」だったのである。


■「どうして高原と結婚したんや」


 私は、革命左派の遠山さんへの批判が受け入れられたことにかなり満足した。また、共産主義化そのものについてはどういうことかよくわからなかったものの、革命左派の自己批判-相互批判を目的意識的な共産主義化にたかめなければならないという森氏の主張に、大きな期待に胸をふくらませた。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 遠山批判が一応決着したことで、両派の間には同志的な団結の機運が高まった。この日は銃の実射訓練を行うことになったが、永田はトランシーバーの中継役で小屋に待機していた。そこへ遠山が戻ってきた。


 遠山さんは、「お腹のところに銃を持って撃ったが、その反動でお腹を打ってしまったので戻ってきた」といった。

 しかし、遠山さんはストーブにあたって話をするだけで横になるわけでもないので、私は、戻ることのほどのことだったのだろうかと思い、「2・17闘争 の銃と弾を使った実射訓練を軽視しているからお腹を打ち、しかも戻ってこなくてもよいのに戻ってきたんじゃないの」と批判した。


 これに遠山さんは何も言わなかった。私はそれ以上はいわず、あとは2人で雑談した。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)



 実射訓練の総括会議で、赤軍派の人たちが、遠山さんが実射の際にお腹を打って途中で戻ったことを批判しだした。永田は「戻ってこなくてもよかったんじゃないの」と同調した。途中から森が参加すると、遠山のこれまでの活動の批判へと拡大していった。


 森は怒気をこめて、次のように批判している。


「五反田の交番はやる気がなかったんだろう」
「どうして高原と結婚したんや」
「おまえは高原と結婚する前は消耗してあまり活動しなかったのに、結婚したら急に活動するようになったが、あれはどういうわけや!」
「どうして高原の秘書になったんだ」
「高原に言われて秘書になったんちゃうんか!」

等々


 遠山はこの日も沈黙してしまった。長い間、批判は続いた。


■「批判でも、赤軍派のほうが断固としていることを革命左派に誇示せんとするものだった」


 しかし、その批判は、批判の域を超えたつるし上げ的な追求だった。私たちは、それまで遠山さんを幹部の夫人として腫れ物のように扱ってきたことへの反動のように遠山さんを批判したが、それは批判でも、赤軍派のほうが断固とし、徹底していることを革命左派に誇示せんとするものだった。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)

 共産主義化を各同志がどのように理解していたかは別として、これが党の価値基準として動き始めたことは確かでした。(中略)

 自己批判を党の要として、共産主義化の内容をつくり、党の土台をつくる方向へ向かわず、相互批判へと向かったのです。
(坂東国男・「永田洋子さんへの手紙」)



 赤軍派はメンバーに問題があると、リーダーの前で自己批判させ、禁酒・禁煙などの罰則を課して終わりにするのが習慣だった。しかし、革命左派の遠山批判をきっかけに、相互批判を取り入れた。


 相互批判というと聞こえはいいが、1対多数であり、実体はつるし上げである。また、問題視されているメンバーが批判すると森が、「お前にそんなことをいう権利があるのか」と一喝するから、批判するほうも森に迎合した批判を行うようになっていった。


 この日の遠山批判において、途中から森が加わったとたん、批判の矛先が、過去の活動に向いたことは注目に値する。それは、このときまでに森が「共産主義化」理論を構築し、そのものさしを遠山に適用したことに他ならないからだ。


 おもしろいことに、男社会の代表である森恒夫と、婦人解放を提唱する永田洋子に共通していた遠山批判がある。それは、「女性らしさ」の否定であった。


1971年12月 共同軍事訓練 その1・概要

1971年12月 共同軍事訓練 その2・水筒問題

1971年12月 共同軍事訓練 その3・革命左派による遠山批判

1971年12月 共同軍事訓練 その4・赤軍派による遠山批判

1971年12月 共同軍事訓練 その5・最終日「諸君!この日を忘れるな!」

1971年12月 共同軍事訓練 その6・植垣康博の恋