1971年2月17日 真岡銃砲店襲撃事件・その1(革命左派) |   連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)

■1971年2月17日 真岡銃砲店襲撃事件(朝日)


連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-1971-02-17 朝日 真岡銃砲店襲撃



 17日午前二時ごろ栃木県真岡(もうか)市の銃砲店に来るまで乗りつけた学生風の男3人が押し入り、一家4人をしばりあげ、散弾銃10丁、空気銃1丁、散弾500発を奪って逃走した。栃木県警は猟銃強盗傷人事件として捜査本部を置き、隣接各都県に緊急手配していたが、同朝4時過ぎ、東京都北区岩淵の国道でライトバンに乗った男2人が検問を突破して逃走、同8時過ぎ検問所近くにひそんでいるところをつかまった。1人はさきに羽田空港突入事件を起こした過激派集団「京浜安保共闘」の活動家である横浜国大生で、車は前夜茨城県笠間市内で盗まれたものとわかったが、奪われた銃と弾丸はなかった。同日午後襲われた銃砲店主が捕まった2人と対面したところ「似ている」と証言した。警視庁公安部では、各種の情報から猟銃奪取事件を過激派集団による犯行とほぼ断定、関東一円で7千人以上の大捜査網をしき、残る1人と猟銃の行方を捜している。

 上赤塚交番襲撃に失敗した彼らは、直ちに銃砲店からの銃奪取に取り組んだのではない。まず赤軍派に銃の要請をしたがあいまいな回答で拒否され、ついで寺岡がヤクザと交渉したが断られてしまった。ハンターの猟銃を狙ってみたが猟犬がいるのであきらめ、それでしかたなく民間の小さな銃砲店を襲撃することに決定したのである。


 これは「人民のものは針1本、糸一筋もとらない」という毛沢東思想に反する。中島衡平が疑問を呈するが、坂口は「銃砲店は警察権力と一体化しているので、その末端機関とみなすべきだ」と押し切っている。犯行に使う車も盗品なのだが・・・。


 奪取したのは猟銃10丁、空気銃1丁、散弾2300発であった。この銃はあさま山荘の銃撃戦で使われることになる。実行メンバーは、寺岡恒一、吉野雅邦、雪野健作、瀬木政児、尾崎康夫、中島衡平の6名。坂口が実行メンバーに入っていないのには理由があった。


 決行の2,3日前に永田さんが私(坂口)に、「あなたが実行メンバーになって万が一逮捕されたときには、私と中島さんの2人しか残らないことになる。彼と一緒ではとてもやっていけない」と言い出した。寺尾君にも同じ趣旨の話をすると、彼の提案で私は中島君と交代することになった。
(坂口弘・「あさま山荘1972(上)」)

 逃走中、尾崎康夫、中島衡平が事故を起こしてしまい車を捨てて逃げたが、警察犬に発見されてしまい逮捕された。尾崎の免許証から、革命左派の犯行であることが判明した。


 当然ながら、この事件で、関東一円に大捜査網が敷かれ、アパートローラー作戦も展開された。東京だけで、パトカー460台、捜査員7700名が動員された。


 これが逃避行の始まりだった。銃奪取には成功したものの、はたしてこの闘争は勝利といえるのだろうか。この事件から革命左派は敗走に敗走を重ねることになる。それはあさま山荘まで続くのであった。



1971年2月17日 真岡銃砲店襲撃事件・その2(革命左派) 永田・坂口指名手配

1971年2月17日 真岡銃砲店襲撃事件・その3(革命左派) 逃避行