連合赤軍事件の追体験 ~新聞は事件をどのように報じたか?


 連合赤軍事件については数多くの書籍が発売され、事件の経緯とか背景は彼らの手記で知ることができます。しかしながら、当時の私たちは、あさま山荘でのラストシーンを最初に見せられ、その後リンチ殺人事件が判明し、プロローグへと歴史をさかのぼるように報道に接しました。

 このサイトは、当時の新聞記事を読み返し、当時の追体験をしようとするものです。新聞報道を軸に掲載作業中です。事実経過よりもむしろ、彼らの手記には載っていない小さなエピソードなどを拾い集めるようにしています。


 山岳ベースの様子は、新聞記事がないので、彼らの手記などから、時系列にまとめています。


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(青砥幹夫のイラスト・寺岡の処刑は残酷だった)
  連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-連合赤軍 寺岡恒一の処刑

■「反革命といわざるをえない。死刑だ」(森恒夫)

 しばらくすると、森氏は、改まった大きな声で、「おまえの行為はこれまでのことと異なり、反革命といわざるをえない。これまでと違う根本的な総括を早急にやる必要があるが、おまえにそれを期待することはとうていできないので死刑だ」といった。
 皆は、「異議なし!」といった。私も皆と一緒に「異議なし!」といった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 森君は、「声が小さい!どっちなんだ、ハッキリしろ!」と強い口調で、再度返事を促した。その声に威圧されて、全員が、「異議なし!」と大声で答えた。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)


■「革命戦士として死ねなかったのが残念です」(寺岡恒一)

 そのあと、森氏は、寺岡氏に静かな口調で、「おまえに死刑を宣告する。最後に言い残すことはないか」といった。寺岡氏は沈痛な、しかし落ち着いた声で、「革命戦士として死ねなかったのが残念です」と答えた。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 森氏はセーターとシャツをまくりあげて胸をはだけると、「お前のような奴はスターリンと同じだ。死刑だ」といって、アイスピックを心臓部に刺した。しかし、一度では絶命しなかった。すると、森氏は、全体を見まわした。おそらく、誰が自分に続くのか確かめようとしたのであろう。


 私は、どのみち殺されるのなら早く殺してしまったほうがいいと考え、また、このような誰もやりたくない任務を党のために率先してやるべきだと思っていたので、「よし、俺がやる」といって、そばにいた大槻さんとN氏に寺岡氏を支えるのを代わってもらい、森氏からアイスピックを受け取って寺岡氏の心臓部を刺した。血はまったく出なかった。私は2度、3度と刺したが、絶命しなかった。


 すると、青砥氏が私に変わってアイスピックで刺した。やはり絶命しなかった。私は、脊髄の付け根の延髄を刺せば即死すると聞いていたので、「脊髄の付け根を刺せばいいのではないか」というと、誰かが寺岡氏の首の後ろをアイスピックで刺した。それでも絶命しなかった。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


 首の後ろをアイスピックで刺したのは、杉崎ミサ子である。杉崎は寺岡の妻であった。


 彼女は、寺岡君を殺すことで早く楽にしてあげようと、進んでこの辛い行為を引き受けたのだった。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)


■「寺岡氏の体はくの字になって床に崩れた」(植垣康博)

 「植垣、首を絞めろ」と坂口氏がいった。私は、寺岡氏の後ろから両手を彼の首にまわして締めようとしたが、締めきれなかった。吉野氏が「ロープで締めたほうがいい」といい、誰かがサラシを持ってきた。私たちは寺岡氏を早く絶命させようと必死だった。サラシを寺岡氏の首にまいて、吉野氏や山本氏、大槻さん、長谷さんたちが両方から引っ張り上げて首を締めた。寺岡氏の体は、数分の間、けいれんしていた。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


 この時、輪の中から出てきた森氏は、その頃、皆の輪のうしろでウロウロしていた山崎氏をジロリと見て、私に、「問題だ」といった。そのあと再び輪の中に入って行った。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 以前から森は、総括に対するメンバー態度を、注意深く観察していた。そして、その態度によって、次に総括にかける者を選び出していたのである。


 そのうち、けいれんは間遠になり、止まった。青砥氏が寺岡氏の手首を取って脈をみていたが、しばらくして、寺岡氏が死んだことを告げた。サラシがはずされると、寺岡氏の体はくの字になって床に崩れた。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


 寺岡氏が絶命したのは18日の午前7時ごろで、もうあたりはすっかり明るくなっていた。森氏が、寺岡氏の死体を床下に移すように指示した。何人かが寺岡氏の死体を床下に運んでいった。寺岡氏の坐っていたシートの上には血が沢山たまっていた。私は皆と一緒にそれをふきとったりしていたが、誰も一言も発せず黙々とこれらのことを行った。誰も大変なことをしてしまったという感じで、いうべき言葉がないようであった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


■「我々はすごく高い地平に来たのだ」(森恒夫)

 朝食後、中央委員会が開かれたが、この時ももっぱら森氏が話した。森氏は、「寺岡との闘争は、テロリズムとの闘いだった。CCのなかからテロリズムを出したのは、共産主義化の闘いが進んだからだ。我々はすごく高い地平に来たのだ」と感激したような面持ちで語った。
 そのあと、「実際に、ナイフで刺すのは大変なことだ」といって、ナイフやアイスピックで刺した坂東氏、青砥氏、植垣氏を大いに評価した。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 続いて森は、スターリン批判を展開し、寺岡をスターリン主義ときめつけて死刑の位置づけを行おうとした。スターリン批判とは、世界革命の観点がない、官僚的、粛清を行ったという批判であった。


 私は、スターリン主義に関連付けたところに疑問を感じた。その頃は、中ソ論争の影響を受け、私たちはプロレタリアート独裁を維持したという観点からスターリンを擁護していたので、寺岡君をスターリン主義と決め付けた最初の段階からずっと違和感を抱いていた。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)


 革命左派の永田、坂口、吉野は、スターリン主義批判に同意しなかった。かといって反対もしなかったので、森は同じ主張を繰り返すことになり、中央委員会は夕食後まで続いた。それまでメンバーは、寺岡が死刑になった理由がわからなかった。


■「森君の総括を理解できた者は1人もいなかった」(坂口弘)

 全体会議は夜9時ごろから始まった。
 森は、最初、永田にメモを渡して説明をさせたが、永田はうまく説明が出来なくて、しどろもどろになった。


 森君は次のように述べた。
「寺岡の問題は、単に従来からどういう傾向を持っていたとか、どういうことをしたとかいうことではない。革命戦争をやり抜く指導部として、この間の6名の死を生んだ苛烈な革命戦士の共産主義化を主導する立場に居ながら、自己の内在的な総括をしようとせずに、反革命という名での死んだ同志への清算、競争の中でのヘゲモニー構築というスターリン主義的な政治を持ち込んだことが、今後の党建設にとって致命的な問題を突き付けてこのような闘争をしなければならなかった。6名の死以後も共産主義化の闘い---党建設の闘いはより高次な地平で永続的に発展することを問われており、6名の死によって、何かしら闘争が終わったということではない」
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)


 森は、「寺岡は分派主義だ」ということも強調した。指導部に意見を言う者、つまり、イエスマンでないと分派主義者ときめつけられてしまうようだ。


 この内容を理解できた者は1人も居なかったと思う。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)


 私は、指導部の寺岡氏の死刑の総括になるほどと思ったが、総括要求が更に続いていくというのには、いささかげんなりする思いだった。その頃は、なにかというと行われる会議そのものが苦痛になり出した時だったので、この思いは大きかった。しかし、そのように思っても、共産主義化を必要な闘いとみなす考えには変わりはなかった。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


■「みんなバラバラになっていたし、バラバラにされてしまった」(青砥幹夫)

 メンバーは、理由がよくわからないまま寺岡を殴り、死刑判決に「異議なし!」といわされた。「いわされた」 というのは、総括に対する態度が断固としていないと、次の総括のまな板にのせられるを知っていたから、同意するしかなかったのだ。


 組織がここまで暴走してしまうと、もはや個人の力ではどうすることもできない。


 あの場には横のつながりが一切ないのです。いかに革命兵士として充分ではないかを自己批判要求され、それを乗り越えよということを言われた。みんな一人一人になってしまっていた。総括を要求されるときも一人だし、総括を要求するから集れと言われて集っても、一人一人がバラバラに言われるから集っているに過ぎない。

 何らかの共通の認識を持って追求するということはなかった。みんなバラバラになっていたし、バラバラにされてしまった。

(「情況2008年6月号」 『36年を経て連赤事件を思う』・青砥幹夫インタビュー)


 これは、独裁者の支配体制そのままである。

 逃れる手はただひとつ、独裁者がいなくなることであろう。



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(寺岡は、坂東を刺して逃げようと思ったというが・・・・・)
  連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-連合赤軍・寺岡恒一顔写真


 森は、寺岡を総括にかける際、永田にアジ演説させたが、それは寺岡が革命左派の幹部だから、メンバーを同意させるには、永田のほうがよいと思ったのであろう。


 さて今回は、いよいよ森の追求である。


■「坂東さんをナイフで刺して逃げようと思った」(寺岡恒一)

森  「おまえは新しい組織をつくろうとしたようだが、新しい組織づくりができると思ったのか」
寺岡 「できるとは思わなかった」
森  「できなかったら、どうするつもりだったのか」
寺岡 「逃げるつもりだった」
森  「いつ逃げようと思った」
寺岡 「坂東さんと調査に行っていた時です」
坂東 「どうやって逃げようと思った」
寺岡 「テントで寝ている時に坂東さんをナイフで刺して逃げようと思った」
森  「どうして坂東を刺して逃げなかったんや」
寺岡 「坂東さんにはそういうスキはなかった」
(永田洋子・「十六の墓標(下)」より抜粋編集)


 (私たちは)さらに激しく怒り、寺岡をめちゃくちゃに殴った。あまりに激しく殴るため、寺岡氏が倒れないよう胸倉をつかんでいた私まで殴られる有り様だった。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


■「『おや?』と思った」(坂東国男)

(坂東は寺岡がウソの告白をしていることに気づき「おや?」と思った)
  連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-連合赤軍 坂東国男 顔写真

 ここで思い出さなければならないのは、1月16日(山岳調査の最終日) に、寺岡が坂東に、「総括ということがよくわからないんだよね」と打ち明けたときのことである。再掲載すると、、、


 その日は、1日中調査したため疲れたのと、思いがけないかたちで、私自身をとらえかえさざるをえなくなったため、肉体的にも精神的にもすっかり疲れてしまい、ぐっすりと寝込んでしまいました。彼のほうは一晩中考えこんでいた様子で、次の日、私のために朝食の準備までして起こしてくれたのです。
(坂東国男・「永田洋子さんへの手紙」)


 だから寺岡は、逃げようと思えば、逃げられたし、坂東を刺そうと思えば刺せたのである。それを一番よく知っていたのは坂東本人であった。


「私を殺そうとした」というのを聞いて、逆に、「おや?」と私は思ったのです。(だから思わず、「どうして逃げようとした」と聞いたのです)そんなことはないはずと思うと、なぜか怒りよりもシラーという風が心の中をとうりぬけていったのです。
(坂東国男・「永田洋子さんへの手紙」)


■「宮殿をつくって、女をはべらかせるつもりだった」(寺岡恒一)

森  「組織を乗っ取ったらどうするつもりやったんや」
寺岡 「植垣君を使ってM作戦をやり、その金を取るつもりだった」
森  「M作戦をやっても金額はたかが知れてるぞ」
寺岡 「商社から金を取るつもりだった」
森  「いくら取るつもりだった」
寺岡 「数千万円取るつもりだった」
森  「そんなに金をとってどうするつもりだったんだ」
寺岡 「宮殿をつくって、女を沢山はべらかせて王様のような生活をするつもりだった」
森  「今まで女性同志にそうしたことがあるんか?」
寺岡 「そうしたことはないが、いろいろな女性と寝ることを夢想する」
森  「誰と寝ることを夢想する?」
寺岡 「大槻さんです」
(永田洋子・「十六の墓標(下)」より抜粋編集)


 M作戦とは、赤軍派時代に行った銀行強盗 のこと。

 森に「他にはだれか」といわれて、金子、伊藤、中村、寺林、永田の名前をあげたが、寺岡はそのたびに本人たちから殴られた。


森  「お前はいったいなんのために闘争に参加してきたんや」
寺岡 「革命左派は小さな組織だったので、すぐ幹部になれると思ったからです」
森  「それなら、おまえにとっては、どの組織でもよかったのとちゃうか」
寺岡 「はい、そうです。どの組織でもよかったんです」
(永田洋子・「十六の墓標(下)」より抜粋編集)


■「ナイフを刺して追求するぞ。いいな」(森恒夫) 「うん」(永田洋子)

森  「おまえは情報を売って助かる道を確保するつもりだったといっていたが、今までに権力に情報を売ったことはなかったのか」
寺岡 「ありません」
森  「本当にないのか」
寺岡 「本当にありません」
森  「本当にないのか!」
(永田洋子・「十六の墓標(下)」より抜粋編集)


 皆も「どうなんだ!」「隠すな!本当のことをいえ!」と追求しだしたとき、森は、皆の輪の後ろのほうにいた永田に小走りに来て、「寺岡の足にナイフを刺して追求するぞ。いいな」と確認した。永田は、「うん」とうなずいた。


森  「おまえが逮捕された時(69年の9・3、4 愛知外相訪ソ訪米阻止闘争 で逮捕された時)、おまえだけが執行猶予になったなー。これはどういうことや」
寺岡 「判らない」
森  「どうなんや」
寺岡 「叔父さんに父が手を回したのかも知れないが、そのことを僕は知らない」
(永田洋子・「十六の墓標(下)」より抜粋編集)


 この追及の過程で、森は正座した寺岡の足にナイフを突き立てた。


 すると、森氏は、私に、「後ろで寺岡の手を持って押さえてろ」と指示した。私は、寺岡氏の後ろに回り、寺岡氏の両手を後ろ手に持ち、押さえた。森氏は、寺岡氏の前に正座すると、再び権力との関係を追及したが、その際、いきなり寺岡氏の左腿に細身のナイフを刺した。寺岡氏は、「ううっ」とうめいき声をあげて状態をよじらせた。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


 突然、寺岡君の表情が苦痛に歪んだ。何事が起きたのか、と思って彼の全身を見回すと、森君が左大腿部の上で、ナイフの柄を握っていた。ナイフを突き刺したのだ!息を呑んだ。ナイフを突き刺す状況ではないし、事前に相談があった訳でもない。不意打ちである。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)


 森君は、握った柄を時々ゆすったりした。残酷だった。寺岡君は「ううっ」と呻いたり、体を捩ったりして堪えた。こんなにされても、彼は権力との関係を否定した。私は見ていないが、この後、森君はナイフを抜いたらしい。彼の供述調書によると、ナイフの先が3センチほど曲がっていたという。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)


■「少しも彼への憎しみがわいてこなかった」(坂東国男)

森  「おまえ、一度東京へ1人でいったことがあったなあ。あれ、何しにいったんや」
寺岡 「学生時代のサークルの友だちの所にカンパをもらいに行きました」
森  「本当にそうか」
寺岡 「そうです」
永田 「あんた、あの時、帰りがばかに遅かったじゃないの?どうしてあんなに遅かったの?」
寺岡 「慎重を期して遠回りの電車で帰ったから、遅くなったのです」
永田 「ちゃんといいなさいよ。本当にそうなの」
寺岡 「本当にそうです」
(永田洋子・「十六の墓標(下)」より抜粋編集)


 寺岡は、権力との関係についてはきっぱりと否定した。


 その時、森氏は、ナイフを抜き、坂東氏に耳打ちした。坂東氏は、寺岡氏のそばに坐ると、「この野郎、本当のことをいえ」といって、ナイフを寺岡氏の左腕の付け根に差した。それでも寺岡氏は、権力との関係を否認した。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


 それは名誉を大きく傷つけられた彼の自己尊厳を守る最後の踏ん張りであった。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)


 こうした追求のため、寺岡氏の足の下から血がしみ出して来たばかりか、腕からも血が流れて来て、私の手や袖口が真っ赤になった。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


 森同志が足を刺したと同時に、決意して腕を刺しました。しかし、決意してやってみても、少しも彼への憎しみがわいてこなかったのです。非常に矛盾していることではあるんですが。死刑を宣告したことに対しても、敵対矛盾だからやむをえないと思いつつ、同志達がナイフやアイスピックでで刺すのを外から眺めていたのです。
(坂東国男・「永田洋子さんへの手紙」)


 坂東は、「おや?」とか「シラー」と思ったり、憎しみがわいてこなかった、とふりかえっているが、やってることは冷酷そのものである。彼はどんな状況にあっても、常に森の命令を忠実に実行した。


■判断は森の専権事項になっていた

 森の追求に寺岡はありもしない露悪をした。これまでも、厳しい追求を受けると、ありもしない露悪をするメンバーがいたが、寺岡も例外ではなかった。


 森がナイフを刺したのは、寺岡になにがなんでも権力との関係を「自白」させようとしたものだが、そんなことをしてまで「自白」を引き出すことに意味があるとしたら、それはあらかじめ予定している「判決」を正当化するためとしか考えられない。


 森はナイフで足を刺して「自白」させることに失敗すると、次は坂東に腕を刺させることぐらいしか思いつかなかった。うまくいかないと、立ち戻って考え直すのではなくて、より苛酷な手段をとるのは、これまでの公式どおりである。


 寺岡が権力との関係を「自白」すれば「反革命」と断罪されるだろう。しかし、寺岡はきっぱり否定した。決して自暴自棄になっていたわけではないのである。


 では「自白」しないとどうなるかというと、これまでの公式では、「総括する態度ではない」と批判され、やはり「反革命」と断罪されるのである。事実も公式どおりとなる。


 こんなヘンテコな論理がやすやすとまかり通るのは、指導部もメンバーも思考停止し、すべての判断を森にゆだねるようになっていたからである。すでに判断は森の専権事項になっていたのだ。

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(メンバーは寺岡の何が問題なのかわからなかった)
  連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-連合赤軍・寺岡恒一顔写真


 今回掲載するの内容は、前回 から続いているが、すでに日付は18日になっていた。

 寺岡が死刑にいたる過程は詳しくみていくので、何回かに分割して掲載する。


■「永田さんの見事なアジ演説にも拘らず、みんな黙っていた」(坂口弘)


 被指導部の人たちが全体会議のため集った頃は、もう18日の午前1時頃になっていた。皆は急に起こされ、一体なんだろうという様にボンヤリとしていた。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 森君に指示された永田さんが、経過報告を兼ねてアジ演説をぶった。それを聞いて、森君への”乗り移り”(これこそ本当の”乗り移り”だろう)の鮮やかさに驚いた。寺岡君の胸中は知るべくも無いが、抵抗が無かったとは到底言えまい。
 永田さんの見事なアジ演説にも拘らず、みんな黙っていた。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)


 寺岡の「乗り移り」とは、赤軍派の理論を受け入れたとき、革命左派のメンバーに対し得意げに語ったことから、森に「乗り移り」と批判されていたことをさす。


 しかし、皆はよくわからない様子をして少しも盛り上がれず、そのため、私の話は空回りしているようだった。私は、「どうして、こんな重大な問題にみんな黙っているの」といったが、やはり皆はぼんやりとして黙っていた。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 ここで吉野が、けしかけるが、やはりメンバーはピンとこない様子で黙ったままだった。


 そこで私は、「みんな判らないような顔をしているけど、考えてごらん。思い当たることがあるでしょう。みんな今まで寺岡に指導されてきたと思ったらだめよ。彼のは指導じゃないんだから」といったが、それでも誰も積極的に語ろうとしなかった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


■「寺岡の何が問題なのかよくわからなかった」(植垣康博)


 私は、寺岡氏が永田さんや坂口氏が逮捕されればよいと考えていたことを大変なことだと思ったものの、寺岡氏の指導が他の指導者たちのそれと特に変わっていたわけではなかったので、一体彼の指導の何が問題なのかよくわからなかった。だから、発言しなかったのではなく、発言できなかったのである。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


 そうしたなかで、坂東氏が、大きな声で、「お前らひとごとのような顔をしているがなー、寺岡はなー、革命を売ろうとしたんだぞ!永田さんや坂口さんを敵に売ろうとしたんだぞ!黙っていてもしょうがない、何とかいえ!」と怒鳴った。これに、皆はびっくりし、寺岡氏を批判し始めた。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


 しかし、その批判の内容は、寺岡氏の指導が自分勝手で個人主義だったとか、被指導部の者への口のきき方が乱暴で官僚主義的だったというもので、寺岡氏に固有のものとはいえなかった。それは、中央委員への指導への不満を寺岡氏に集中したものであった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


■「寺岡を真ん中に引き出して追求すべきだ」(大槻節子)


 批判が活発になっていった時、大槻さんが、立ち上がり寺岡氏を指をさして、「寺岡をそんなすみに置かないで、真ん中に引き出して追求すべきだ」といった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 すると、寺岡氏の両脇に坐っていた坂口氏と吉野氏が寺岡氏を私たちの方へ突き出した。寺岡氏は皆に引っ張られるようにして真ん中に引き出され、私の前に正座させられた。そのまわりを皆が取り囲んだ。私は、寺岡氏の胸倉をつかむと、寺岡氏のメガネをはずしてそばにいた山崎氏に渡し、「この野郎!ふざけた野郎だ!」といいながら、顔面と腹部を1発ずつ殴った。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


 植垣が殴ったのをきっかけに、被指導部のメンバーが寺岡を殴りだした。


■永田は寺岡を擁護しないばかりか、森の側に立って寺岡を攻撃した


 寺岡への批判の根回し は、森が指導部に行ったもので、メンバーには知らされていなかったし、そもそも悪意を持って決めつけるものでしかなかったから、急に言われても、メンバーは寺岡の何が問題なのかわからなかった。


 坂東の恫喝によって、ようやく批判を口にしたが、「自分勝手」「口のきき方が乱暴」「官僚的」と、指導部全員にあてはまることをいっただけで、特に寺岡の問題ではなかった。


 寺岡は、革命差派時代、永田を格下げする改組案を出した ことは確かではあるが、すぐに撤回している。


 当時、革命左派は、反永田機運が漂っていた。改組案撤回後は、寺岡が永田支持に回って永田を支え、協力してきたこともまた確かなのである。


 また、連合赤軍になる直前、森の革命左派批判に、永田への援護射撃を行ったのは寺岡だけであった。坂口と吉野は黙っているばかりだったのである。


 寺岡は、森に批判されるだけならともかく、永田によって、革命差派時代の全活動と人格を否定されてしまったのだから、その悔しさたるや察するに余りある。


 メンバーは、6名の死によって、「総括」は一区切りついたと思っていたので、また始まったのかとうんざりした。だが、「総括」ではすまなかった。「死刑」という「新たな地平」に連れて行かれるとは、誰も予想していなかったのである・・・・・唯一、森恒夫を除いては。

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■1972年1月18日 真岡銃砲店襲撃事件 尾崎康夫・中島衝平に懲役12年を求刑


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  連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-1972-01-18 真岡銃砲店襲撃尾崎・中島に求刑12年


 革命左派による真岡銃砲店襲撃事件で逮捕された尾崎康夫・中島衝平に懲役12年が求刑された。


 真岡銃砲店襲撃事件は、革命左派が山岳ベースへ後退することを余儀なくされた事件である。


1971年2月17日 真岡銃砲店襲撃事件・その1(革命左派)

1971年2月17日 真岡銃砲店襲撃事件・その2(革命左派) 永田・坂口指名手配

1971年2月17日 真岡銃砲店襲撃事件・その3(革命左派) 逃避行


 奪った銃は、連合赤軍に引き継がれ、後にあさま山荘事件で実際に使われることになる。


 2人は、逮捕されていなければ間違いなく榛名ベースにいただろうし、もしかしたら、「敗北死」していたかもしれない。逮捕されるかされないかは運命の分かれ道だったのである。

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 手記を読んでいると、森恒夫の発言として、「上からの党建設」とか「赤軍派は上から主義」とか「永田さんは下から主義」というような言葉がたびたび出てくる。


 「上」とか「下」とか、いったい何のことだろうか。


■森恒夫が提唱した「上からの党建設」

 「上からの党建設」という言葉は、森の造語だが、基本的な説明はみあたらない。おそらく背景となっている理論は、レーニンの組織論で、それを踏襲しているからだと思われる。


 筆者は、革命理論について無知なのをお断りしておくが、レーニンの組織論をもとに、森の「上からの党建設」をまとめてみると、こんな感じになるのではないだろうか。


 プロレタリアート大衆(労働者階級)は、政治意識はそれほど高くなく、せいぜい、無秩序な労働組合を乱立する程度のものである。したがって、プロレタリアート大衆に革命を期待することはできない。


 革命を担うのは、プロレタリアートの中の一握りの革命エリートである。党建設は、革命エリートである我々が、中央委員会を結成し、「上から下へ」と整然と組織しなければならない。だから、党に対して民主的な権利(選挙、具申、異議申し立てなど)を与える必要はない。


 すなわち、我々革命エリートで構成される党が前衛となって、プロレタリアート大衆を目覚めさせ、プロレタリアート革命を達成しなければならない。


 ずいぶん傲慢な感じがすると思うが、わざとそう書いてみたのだ(笑)


 というのは、当時の大学生は、実際、世間からエリートとみられていたし、大学生側にもエリート意識があった。だからアジ演説は、「労働者諸君!」という上から目線の呼びかけで始まっていた。


 中でも、過激派と呼ばれたセクトは、大衆を解放するために革命を担っているという先鋭的かつ犠牲的意識が高かったので、「人民やシンパの人々を後方化し、自分たちの闘いに奉仕させていくものであった」(坂東国男・「永田洋子さんへの手紙」)のである。


 森恒夫は、永田洋子を共産主義化の観点から高い評価をする一方で、「上からの党建設」という観点からは、「自然発生的」「下から主義」と批判的にみていた。


 「自然発生的」というのは目的意識がないという意味で、「下から主義」というのは、上意下達でないという意味だ。こうした批判から、森は極めて官僚的な組織を理想としていたことがわかる。


 さて、プロレタリアートを、エリートと大衆に区分したのは、エリートが大衆を引っぱっていくためであった。しかし、実際に起こったことは、2段ロケットのように、エリートの部分だけが切り離されて、はるかかなたへ飛んでいってしまったのである。


 以下に、これまでのコラムから、「上からの党建設」に関連する証言を抜粋しておく。


1971年12月18日 12・18集会(柴野春彦追悼集会)

 集会の内容について、森は次のような批判を行っている。


 (森は)永田さんから渡された12.18集会に宛てた革命左派獄中アピールに目を通し、しばらくしてから次のようにいった。
「12・18集会は、銃による攻撃的な殲滅線や上からの党建設をあいまいにして爆弾闘争を主体にした武闘派の結集を呼びかけており、集会の眼目も逮捕されたメンバーの救済を目指したものに過ぎない。また、革命左派獄中メンバーは、教条的な反米愛国路線や一般的な政治第一の原則の強調に終始していて、革命戦争のリアリズムを否定し、党組織を政治宣伝の組織に低めている。何よりも獄中における革命戦士化(共産主義化)の闘いの放棄という致命的な誤りを含んでいる」
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)


1971年12月23日 「上からの党建設」

 この時の話の中で、森君は、”上からの党建設”ということを強調している。これは彼の造語で、指導部による路線闘争を軸とした党建設を強調するものであり、上部による指導制を重視するものであった。
 赤軍派は、路線闘争の一貫した堅持によって、”上からの党建設”を追及してきたが、革命左派は、自然発生的であるが故に、”下からの党建設”にとどまっている。だからその共産主義化の闘いは自然発生的なものに留まり、赤軍派により目的意識的なものに発展させられた」と説明した。この”上からの党建設”の強調によって、彼は、共産主義化の戦いをさらに意識的に進めてゆくことになる。
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)


 私は、たしかに、革命左派は自然発生的で、「下からの党建設」であり、それは路線闘争を回避してきたからだと思い、「最も路線闘争を回避した革命左派と階級闘争を組織してきた赤軍派が、それぞれ武装闘争を追及し銃の地平で共産主義化の獲得を問われる中で出会ったといえるんじゃないの。だから、それまでの新左翼内で繰り返し起こった野合と違い、日本の階級闘争史上初めての革命組織の統合ができるといえるじゃないの」
といった。
 革命左派の欠点が共産主義化によって克服されると思った私は、当時このように思い込み自分で感激してしまった。私は、赤軍派の「上からの党建設」がどういうことなのか考えないままそれを受け入れたのである。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


1971年12月28日 尾崎充男への総括要求

 すると、森氏は、「前から永田さんは被指導部の者のところに行って指導部会議の内容を伝えているが、それは永田さんの自然発生性であり、皆と仲良くやろうというものであり、指導者としては正しくない。新党を確認した以上、そういうことはもはや許されない」と私を批判した。
 (中略)
 そのため、私は、被指導部の人たちの様子にますます疎くなり、被指導部の人たちは新党の内容が分からないまま一層自己批判のみを課せられていくことになってしまったのである。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 これは「上からの党建設」 に基づく批判である。もともと革命左派は、永田がメンバーによく情報を伝えていて、下部メンバーの意見も聞き、風通しは悪くなかった。森は永田のスタイルを踏襲し、理論化することが多かったが、この点については批判的だった。


1972年1月8日 メンバーが活動に出発、金子が会計から外される

(森氏は)「金子君は、土間の近くの板の間にデンと座り、下部の者にやかましくあれこれ指図しているではないか」と説明し、さらに、「大槻君は60年安保闘争の敗北の文学が好きだといったが、これは問題だ」と大いに怒った。
(中略)
 森氏はそのあとも、「金子君は下部の者に命令的に指示しているが、これも大いに問題だ」と批判していたが、そのうち、ハタと気づいたような顔をして、「今の今まで、金子君に会計を任せていたのが問題なのだ。永田さんがこのことに気づかずにいたのは下から主義だからだ。直ちに、会計の任務を解くべきだ」といった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


1972年1月14日 不在中の寺岡恒一への批判

 森氏は、しばらく黙っていたが、「それは大いに問題だ。改組案を出したのは、寺岡君の分派主義である。この分派主義と闘わずにきたのは、永田さんが下から主義だったからだ。分派主義と闘う必要がある」と断定的にいった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


(理論編)「総括」と「敗北死」- 内なる革命か、私刑か -


 「新党」が「共産主義化」によって諸個人の個性を欠いた意思排除しようとしたのは、それを当時の革命戦争の遂行にとって障害とみなしたからである。「新党」は諸個人の個性を解体し排除することによって、「上からの指導」と称する激しい官僚的な統制の下に全面的に従属させ、党の指示や決定を忠実に実行させようとしたのである。
(永田洋子・「続十六の墓標」)


(理論編)「共産主義化」 - 死をも恐れぬ革命戦士となること -

 云うまでもなく革命戦士の共産主義化の問題がこれ程迄に重要な問題としてとりあげなければならなかったのは、単に従来の闘争で多くの脱落兵士、逮捕-自供-逮捕の悪循環が産み出された為ではない。革命戦争がロシア型の機動戦ー蜂起による権力奪取の革命闘争の攻撃性の内実を継承しつつ、現代帝国主義世界体制との闘争に於てプロレタリア人民を世界党-世界赤軍-世界革命戦線に組織化してゆく持久的な革命闘争として創出されていった事実と、その中で文字通り「革命とは大量の共産主義者の排出である」ように不断の産主義的変革への目的意識的実戦が「人の要素第一」の実戦として確立されなければならない事、その端緒として党-軍の不断の共産主義化がまず要求されるという事である。


 60年第一次ブンド後の小ブル急進主義運動は、日本プロレタリア主体の未成熟という歴史的限界に規制されつつも、味方の前萌的武装-暴力闘争の恒常化によって内なる小ブル急進主義との闘争を推し進め(第二次ブンドによる上からの党建設)蜂起の党-蜂起の軍隊としてその内在的矛盾を全面開花させることによって小ブル急進主義との最終的な決着をつける萌芽を産み出した。大菩薩闘争こそ、こうした日本階級闘争の転換を画する闘いであったと云わねばならない。


 この69年前段階武装蜂起闘争(筆者注・赤軍派の大菩薩峠での軍事訓練)の敗北はH・J闘争(筆者注・赤軍派によるよど号ハイジャック事件)による上からの世界革命等建設の再提起と12/18闘争(筆者注・革命左派による上赤塚交番襲撃事件)による銃奪取-味方の武装-敵殲滅戦の開始を告げる実践的な革命戦争の開始によってはじめて日本に於るプロレタリア革命戦争へ止揚される道を歩んだ。


 旧赤軍派と旧革命左派の連合赤軍結成→合同軍事訓練の歩みは、従ってその出発当初からこうした日本革命闘争の矛盾を止揚する事を問われたし、とりわけ69年当時の「党の軍人化」-実は蜂起の軍隊建設-を自ら解体し、遊撃隊としての自己の組織化から党への発展をめざさなくてはならなかったし、そのためにこそ軍の共産主義化の実践的解決を要求されたのである。


 従って、遠山批判のみならず、相互批判-自己批判の同志的な組織化による共産主義化の過程は、すべての中央軍、人民革命兵士-連合赤軍兵士に対してこうした日本革命戦争の歴史的発展に対する自己の主体的内在的な関わり方の再点検を要求したし、かつ24時間生活と密着した闘争の中に於るその実践的な止揚を要求した。
(森恒夫・「自己批判書」)

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(寺岡恒一に出口はなかった)
  連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-連合赤軍・寺岡恒一顔写真


今回も寺岡の話である。1月14日から続いている。


1972年1月14日 不在中の寺岡恒一への批判
1972年1月15日~17日 寺岡恒一への総括要求の根回し


 寺岡は山岳ベース調査に行っていて、坂東と一緒に戻ってきたものの、すぐに指導部(CC)のコタツのところには行けなかった。厳しい雰囲気を察して足が向かなかったのである。


■「永田さんと坂口さんが逮捕されればよいと思った」(寺岡恒一)

 寺岡氏はなかなか中央委員のこたつの所に来なかった。私たちから総括を課せられ冷たい態度をされていたため、来にくかったのであろう。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 森は冷たい口調で追求を始めた。寺岡は総括要求された3つの問題 について、共産主義化を理解していなかったこと、女性蔑視だったことを認めたが、それ以上はよくわからなかったと答えた。


「そんなことで総括したとはいえない。そんなことは許されない。一体、総括要求ををどう考えているんだ」
森氏の追及は非常に長いもので、それまで問題としてあげてきたことをやつぎばやに追求していくものだった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 寺岡君は、そうした批判を認め、他のメンバーに対して、弱点を掴み、それによって自分を精神的上位に置こうとしたとか、組織の歩みに従いていけないメンバーや権力に屈服する恐れのあるメンバーいついては殺してもよいと思っていたとか、さらに真岡銃奪取闘争を1人でやったかのように言ったこともスターリン主義的傾向の表れだった、と言った。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)


 寺岡君が認め、告白したことも、すべて森君の厳しい追求にあってしたものであり、自分から進んでしたものでないことも明らかである。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)


 こうしたやりとりの中で、寺岡君は、「永田さんと坂口さんが出かけたとき、逮捕されればよいと思った。組織の金を自由に出来ないことを苦々しく思っていたからだ」と答えた。
 永田さんは怒った。私はまずいことを言ったと思った。吉野君が寺岡君の顔面を一発殴った。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)


■「坂口さんは落ちた。永田さんは軽い。森さんは倒せると思っていた」(寺岡恒一)
 森は寺岡に、「おまえは、しのぎあいを競争と取り違えている」と批判したあと、「一人ひとりをどう思っていたかいってみろ」といった。


 寺岡氏は、吉野氏は自分より下だったので対象外だった、坂東氏は軍事の競争相手と見ていたといったあと、

「山田さんは当面の自分の競争相手であり、理論的にしっかりしているようだけど、尾崎らの死体を埋めに行くときにあわてたので、落ちたと思った」


「坂口さんは永田さんに追従しているけど、殴ったりする総括要求にたいして、人民内部の矛盾だからといって動揺する気持ちをもったので、落ちたと思った」


「永田さんについては、森さんが教師で永田さんが生徒のようだと思った。だから、競争相手として軽いと思った」


「森さんは倒すのが大変な奴だと思っていた。しかし、女性関係で弱みがあるから、これをつけば倒せるだろうと思っていた」


といった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 無論、無理に言わされたのであり、進んで告白したなどというものではない。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)


 私たちは、誰もこの寺岡氏による評価に苦笑しただけで、怒ったり批判したりする人はいなかった。これらの評価が一面で当たっていたからである。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


■「殴って欲しいんだよね」(寺岡恒一)

 そのあとも森氏は追及したが、寺岡氏が急に立ち上がって、「殴って欲しいんだよね。僕は殴られることを恐れる気持ちがあるから、殴られることによって克服し、そのことによって総括したい」といった。それは思い余っての発言だった。

 森氏は冷たく、「おまえに指示されて殴りはしない。我々はもっと追及する」といってさらに追及していった。しかし、それは同じことの繰り返しであった。それで私は、「寺岡への総括要求はもはやCCだけの問題ではないから、全体で追求しよう」といった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 森氏は、寺岡氏に、「いいか、我々はおまえのような傾向と最後まで徹底的に闘いぬくぞ!」と激しい口調でいった。寺岡氏は坂口氏と吉野氏の間で正座し黙っていた。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 全員が起こされた頃にはもう日が変わっていた。


■はじめから寺岡に出口はなかった
 寺岡に対する追求は、総括要求された3点の問題とは、まったく別の問題で行われていることに注意したい。森の根回しによって、そもそもフェアな場ではなくなっていた。


 「全活動を全面的に否定するメチャクチャな批判」(永田)を、寺岡は無理やり認めさせられたが、それを総括要求されるのではなく、「最後まで徹底的に闘いぬくぞ!」といわれた。はじめから寺岡に出口はなかったのである。


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(寺岡(左)は 「総括がよくわからないんだよね」 と打ち明けたが、坂東(右)は公式見解で逃げた)
  連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-連合赤軍・寺岡恒一顔写真      連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-連合赤軍 坂東国男 顔写真

■1月15日 「寺岡が僕を批判したことをおかしいと思っていたんだ」(山田孝)

 1月15日の夕方、山田孝氏が戻ってきた。森氏はさっそく山田氏に寺お菓子に対する厳しい総括要求の必要性を話した。山田氏はすぐ了解し、「尾崎ら4人の死体を埋めに行った時のことで、寺岡が僕を批判したことをおかしいと思っていたんだ」といい、さらに、「小嶋の死体を皆に殴らせたことは、大いに問題だ」といった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


寺岡は「山田さんは非常に問題だ」と批判した ことがあった。


■1月16日 「寺岡氏の言動をすべて分派主義として否定的に解釈した」(永田洋子)

 森氏、私、坂口氏、山田氏で寺岡氏の問題をまとめることになったが、それは寺岡氏のそれまでの言動をすべて分派主義として批判的、否定的に解釈していくものであった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


■1月16日 「アラ探しをするが如く寺岡君の問題点を列挙した」(吉野雅邦)


(吉野は寺岡が批判されていることがわかると、寺岡の問題点を列挙した)
  連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-連合赤軍 吉野雅邦 顔写真

 16日の午後、吉野・寺林が帰ってきた。新たなベースに適当な場所は見つからないということだった。


 そのあと、森氏の指示で、私は吉野氏に寺岡氏への激しい総括要求の必要性について話した。続いて、森氏はさらに詳しく説明した。吉野氏は、寺岡氏への厳しい総括要求の必要に躊躇することなく同意した。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 私が赤木山の新ベース調査から戻ったとき、(中略)、突然永田から「ネエネエ、寺岡のことどう思う?」と寺岡君について意見を求められたのです。

 永田は興奮し、身を乗り出し私を立たせたまませき込むように聞いたのですが、何のことか判らずキョトンとしている私に永田は、さらにタタミかけるように「寺岡が、あなたから坂東さんに話し相手を変えてるでしょ。気がついてる?気がつかなきゃダメよ。あれ何でだと思う?」というようなことを説明ともなく質問をぶつけてくるので、私はなんとなく、これは寺岡君が批判されているのかもしれないという気がし、安堵しはじめたのです。

 はじめは、永田の質問をいわば私に対するテストではないかと思い内心ビクビクしていたのですが、次第に自分ではないようだと思いはじめるとともに、永田から寺岡君批判への同調を求められると完全にそれに迎合し、アラ探しをするが如く寺岡君についての「問題点」を列挙していったのです。
(大泉康雄・「あさま山荘銃撃戦の深層」1983年1月23日付 吉野雅邦の手紙)


 この吉野の証言は、多くのメンバーが総括にかかわったときの心境と同じである。なぜなら、総括に対する態度を観察されて、次に総括にかけられる者が選び出されるからだ。


 こうして寺岡氏への批判は、彼の全活動を全面的に否定するメチャクチャな批判に発展してしまったのである。この批判は、事実関係を少しでもまじめに検討すればたちまちひっくりかえってしまうものであった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 それなら、寺岡をよく知る永田が、擁護してもいいと思うが、永田は、「メチャクチャな批判」 をそのまま受け入れ、寺岡に怒りを感じていたのである。


■1月16日「総括ということがよくわからないんだよね」(寺岡恒一)
 そのとき、日光方面へ坂東と共に調査に行っていた寺岡は、どんな様子だったのか。


 寺岡同志は調査中、一貫して元気がありませんでした。山岳での調査活動をやっているときには比較的元気ではあったが、夕食後、テントの中で沈み込んでいることが多く、何か話しかけるのも悪い感じがするくらいでした。
(坂東国男・「永田洋子さんへの手紙」)


 寺岡は森から、「調査中に総括しておくように」といわれたため、考えこんでいたのである。


 しかし、いよいよ山岳へ戻るという日を明日にひかえる中で、どうしても話したいという感じで、彼のほうから質問されたのです。
 「S同志との離婚問題についてどう考えたらいいんだろうね。それから総括ということがよくわからないんだよね。坂東さんはどう考えていますか」といわれたのです。
 強気な人で、断固としてやっていたと思っていた同志のこの「弱気な」質問は、一瞬信じがたいものでした。

(坂東国男・「永田洋子さんへの手紙」)


 坂東は、女性差別の問題とか、個々人の革命化が必要とか、公式見解を述べ、意識的に問題を鮮明にすることを避けた。寺岡も「そうだよね」といったきり、それ以上何もいわなかった。


 その日は、1日中調査したため疲れたのと、思いがけないかたちで、私自身をとらえかえさざるをえなくなったため、肉体的にも精神的にもすっかり疲れてしまい、ぐっすりと寝込んでしまいました。彼のほうは一晩中考えこんでいた様子で、次の日、私のために朝食の準備までして起こしてくれたのです。
(坂東国男・「永田洋子さんへの手紙」)


 坂東がぐっすり寝込んでいるとき、寺岡が朝食の準備をしていた、という事実は、あとで重要な意味を持つので、記憶にとどめておきたい。


 坂東は、常にナンバー2として、リーダーの公式見解しかいわないようだ。榛名ベースにやってきたとき もそうだったし、赤軍派時代、ジョークを言い合っていた植垣に、「こんなことをやっていいのか」と聞かれたとき もそうだった。


 ちなみに、手記「永田洋子さんへの手紙」にしても、アラブへ行って、重信房子の配下になってから書いているため、総括内容も言葉づかいも、重信の公式見解を聞いているような印象である。


■1月17日 「坂東はやはり信頼できるな」(森恒夫)

 17日も、朝から午後にかけて寺岡氏への厳しい総括要求についての話が続いたが、森氏は、「あと、坂東をオルグしなければならん」といっていた。
 夕方、坂東氏、寺岡氏、植垣氏、杉崎さんが帰ってきた。山岳調査にいった人はこれですべて帰ってきたことになる。坂東氏はすぐ中央委員のこたつに来た。森氏は坂東氏に頭を寄せて何か言った。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 森が坂東に言ったことは、「永田洋子さんへの手紙」では「今日は、寺岡同志の厳しい総括要求を行う」となっていて、坂東はすぐに「いいよ」と答えた。ところが坂東の供述調書では、違っているらしい。


 さらに「供述調書」によると、(中略)、森君は、
「きょうは寺岡に厳しく総括要求する。すでに問題点は中央委員会で詰めてあるし、新党の中央委員は総括できなければ死刑もやむを得ないというぐらい厳しくやることについて意思一致している。場合によってはナイフをつきつけるぐらい厳しくやることが必要なのだ。問題はこれまで出されている官僚主義の問題であり、分派主義の問題だ」と言ったのだという。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)


 「分派主義」 については意見一致していたといっていいが、「死刑」や「ナイフ」は申し合わせた事実はなく、森の頭の中にあっただけである。


 すると、森氏は坂東氏に、「寺岡は調査中に逃げようとしなかったか?」と聞いた。坂東氏は、「常にそれに気をつけ2人でいるようにしていたから、そういうことはなかった。寺岡が駅のトイレに入った時には、出てくるまでその前に立って待っていた」と答えた。
 森氏は、「そうか」といって嬉しそうに笑い、まんまるい目をして私たちに、「坂東はやはり信頼できるな。何を任せても大丈夫だ」といった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 実は、坂東は、見張りをいいつけられたことさえ忘れていたという。


■寺岡はすぐに指導部のコタツのところには行けなかった
 森は、執拗に寺岡の活動に分派主義のレッテルを貼り、幹部に根回しを続けた。永田は森の解釈を聞くたびに感情的になるから、2人のコンビネーションはまことに始末が悪い。この間、坂口はどんな発言をしたのか、何を思っていたのかはよくわからない。


 寺岡は、出かける前に言い渡された3つの問題について悩んでいたが、留守中、状況はすっかり変わってしまっていた。まさか、分派主義のレッテルによって活動のすべてが否定されるとは思ってもいないだろう。


 総括を要求したときから、森の脳内ものさしが変化しているので、寺岡がどんなに頑張ったところで、総括を達成することなどできっこないのである。

 寺岡は、坂東と一緒に戻ってきたものの、すぐに指導部のコタツのところには行けなかった。厳しい雰囲気を察して足が向かなかったのである。

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(寺岡恒一の不在中に厳しい総括の準備がなされていた)
  連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-連合赤軍・寺岡恒一顔写真


■「寺岡の問題はCCに止まれるかどうかまで問われる大きな問題」(森恒夫)
 この日、指導部で残っているのは、森、永田、坂口の3人だけだった。森は、永田と坂口に、寺岡の問題を提起した。


 坂東と寺岡が日光方面へ新たなベースの調査に行っているとき、寺岡恒一に対する批判が本人不在のまま始まったのである。


 森君は、「寺岡君の総括の問題は、寺岡がC.Cとして止まるかどうかまで問われる大きな問題なので、寺岡の従来の活動を体系的に検討しよう」と永田さんと私に言った。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)


C.C(Central Committee)とは中央委員会、つまり指導部7名のこと。


寺岡の問題点として、表向きにあげられたのは、以下の3点である。

(1)小嶋和子の死を「反革命の死だ」といい、死体を埋めたとき、皆に死体を殴らせたこと
(2)杉崎ミサ子の離婚表明をまじめに受け止めなかったこと
(3)遠山美枝子を逆エビ型に縛ったとき、「男と寝たときみたいに足を広げろ」と言ったこと


それぞれについて擁護のコメントをしておく。

(1)小嶋和子の死を「反革命の死だ」といい、死体を埋めたとき 、皆に死体を殴らせたこと
 森は、これを「党建設の高次な矛盾を反革命として処理するのはスターリン主義だ」と批判した。「スターリン主義」とは、強権的独裁者というような意味である。

 しかし、寺岡が小嶋の死を「反革命の死だ」といったのは、この直前に東京から榛名ベースに戻ってきたばかりで、まだ、「敗北死」という言葉を知らなかったのだから無理もないことだった。


(2)杉崎ミサ子の離婚表明をまじめに受け止めなかったこと
 杉崎はさまざまな面で寺岡に依存していたことを反省し、革命戦士として自立するために寺岡との離婚を表明していた。だが、寺岡は本気とは思っていなかったようで、まじめに取り合わなかった。

 杉崎が離婚を表明したのは、「女の革命家から革命家の女へ」 という森の理論に沿ったものだったが、寺岡はこの理論も聞いていないので、離婚表明されたといっても、にわかには信じられなかったのである。


(3)遠山美枝子を逆エビ型に縛ったとき 、「男と寝たときみたいに足を広げろ」と言ったこと
 寺岡の発言に対して、男たちが笑っているのをみて、永田が「そういうのは矮小よ!」と、森を含めた男たち全員を批判したのである。森はその時は何も言わなかったが、その後の会議では、「女性蔑視だ」と寺岡個人に責任を転嫁したのである。


■「寺岡に対して体系的な批判を行う必要がある」(森恒夫)

 ところが、森の批判の矛先は、問題とされた3点ではなくて、別の方向へ向かっていった。「自己批判書」をみると、だんだん論理が飛躍していくことがわかる。

 森は、「我々」とは森と永田のこと、としているが、素直にそう読める人はいないだろう。


 こうした現実に起こった問題と共に我々はその頃から彼に対する体系的な批判を行う必要があると考えていった。
(森恒夫・「自己批判書」)


 それは彼が旧革命左派の古い政治理論を批判することを通り越して、旧赤軍派の政治理論に乗り移る様な傾向を示した事、(私から見れば一知半解と思われる)現状分析や理論を得意げに振り回し旧革命左派の同志があたかも自分よりはるかに遅れているかの様な態度をとった事、以前から旧革命左派の指導部間でそうした態度をとったことがあり、、乗り移り的路線変換やそれに伴うほかの指導メンバーのパージ等を策した事がある事、又、以前から直系的な人脈作りを行う傾向があり、概して他のメンバーに官僚的で厳しいことであった。
(森恒夫・「自己批判書」)


 こうした事から、我々は、真に同志的な”しのぎ合い”の場であるべきC.C.を競争のように彼が考えているのではないかと考え、更に軍事指導者として活動してきた彼の活動内容を検討することにした。
(森恒夫・「自己批判書」)


 我々はこうした批判を彼には12月3日頃任務で出かける前に話して、彼の政治的傾向が官僚主義的スターリン主義的であると批判したが、彼はそれを認めて自分は以前からそういう傾向があった、革命左派への参加も中核なら大きいが革命左派なら小さいしすぐ出世できるという政治的野心をもって入った、等を言った。
(森恒夫・「自己批判書」)


「12月3日頃」というのは「1月12日」の誤りだと思われる。


 その後、彼が任務から帰ってくるまでに我々は、彼のこうした問題は単なる政治的傾向というよりはもはや体質をなしている事、政治的野心競争-官僚主義-女性蔑視-等は、・・・(中略)・・・小ブルテロリズム的な冷酷さすら示しているとして彼を批判してC.C.を除名する必要があるのではないかと考え、その上で、一兵士としていわば0よりマイナスの地点から彼が実践的に総括することを進めるべきだと考えていた。
(森恒夫・「自己批判書」)


 ということは、森は、寺岡の批判を始める前の段階で、寺岡をC.Cから除外しようと考えていたわけだ。


■「それは大いに問題だ。分派主義の問題が寺岡の問題の輪だ」(森恒夫)

 森氏は、「2・17(71年2月17日の真岡銃奪取闘争)後の厳粛な総括が必要だ。そのなかに寺岡君の問題もあるにちがいない。闘争後のことを詳しく話せ」といった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 森君は、革命左派時代の寺岡君のことは知らないので、永田さんにいろいろ質問した。永田さんは躊躇する訳でもなく、積極的に答えた。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)


 永田は、寺岡が改組案を出したこと にふれた。寺岡を委員長とし、永田を機関誌の編集だけに格下げする改組案だった。しかし、寺岡は改組案をひっこめ、それ以降は永田に協力的になったので、永田は何も問題はないと思っていた、と語った。

 森氏は、しばらく黙っていたが、「それは大いに問題だ。改組案を出したのは、寺岡君の分派主義である。この分派主義と闘わずにきたのは、永田さんが下から主義だったからだ。分派主義と闘う必要がある」と断定的にいった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 (森氏は)「この分派主義の問題が寺岡の問題の輪だ。寺岡に厳しく総括要求する必要がある」といった。私も坂口氏もそれにうなずいた。この時から寺岡氏への森氏の呼びつけに、私は抵抗を感じなかった。

 森氏は、「寺岡への厳しい総括要求は、他のCCをオルグしなければできないぞ、山田君がもうすぐ戻って来るから、山田君をオルグしよう」といった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


■森は、はじめから寺岡を処刑するつもりでいた
 結果を先にいえば、数日後に寺岡は「死刑」になる。筆者の結論も先にいえば、森は最初から寺岡に殺意があったと考えている。


 まず、坂東と寺岡の山岳ベース調査が唐突に追加されたのが不自然だ。これはおそらく寺岡のいない状況を作りたかったからだ。森は、革命左派幹部で、寺岡と一緒にやってきた永田と坂口に、寺岡への処刑を納得させるための時間をつくりたかったのではないだろうか。


 寺岡が出発すると、森は、永田と坂口に、寺岡批判を開始し、たてまえ上、3つの問題点をあげたが、そんなことはどうでもよかった。すぐ、過去の活動に焦点を移し、寺岡の過去を聞きだすことによって、処刑の理由になりそうな問題をみつけだそうとした。


 改組案の話を聞いて、これだと思った森は、改組案をことさら大げさにとりあげ、寺岡を「分派主義」ときめつけた。永田が擁護する発言をすると、その擁護を「下から主義」と、永田に問題があったかのように批判した。


 こうして永田と坂口の説得に成功した森は、「寺岡への厳しい総括要求は、他のCCをオルグしなければできないぞ」と、思わず「オルグ」という言葉を使った。これは、永田と坂口に対しても「オルグ」であったことを露呈したものだ。


 もちろん、森は、永田や坂口に「処刑する」とはいっていないから、2人とも数日後に寺岡が「死刑」になるとは想像もできなかっただろう。 だが、森の頭の中では、寺岡の「死刑」について、この日、お墨付きを得たのである。


 以上は、筆者の推測であることを強調しておくが、坂口も、森にはじめから寺岡に対する殺意があったと証言している。


 坂口は、「森は、...寺岡君のことを自己の権力を脅かす危険人物とみなし、彼を除くために、彼を総括することにきめた。...森は、寺岡君を総括にかける前から、除くことを考えていた・・・」と述べており、この点で、植垣の主張と一致している。
(「インパクション18」(1982年)水戸巌・「連合赤軍における『総括』とは何か」)

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(前澤虎義は任務完了後、しばらく榛名ベースに戻らなかった。写真は1972年3月の出頭時)

  連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-連合赤軍・前沢虎義


 1月11日から14日午前中までは、さしたる事件はない。多くのメンバーが榛名ベースをはなれて活動していたためだ。しかし、その後の犠牲者の伏線となるような出来事があるので、駆け足でみていくことにする。


■メンバーの状況(1月14日・榛名ベース)
【中央委員会(CC:Central Committee】
森恒夫  (赤軍)独創的イデオロギーを繰り出す理論的リーダー。
永田洋子 (革左)学級委員長的にメンバーを摘発、鼓舞。
坂口弘  (革左)永田と夫婦関係。暴力に疑問を持つが言い出せない。
山田孝  (赤軍)東京へ。森と理論的に折り合わない。
坂東国男 (赤軍)日光方面の調査へ
寺岡恒一 (革左)日光方面の調査へ
吉野雅邦 (革左)赤木山方面調査へ


【被指導部】
金子みちよ(革左)吉野の子供を妊娠中。会計係を降ろさせる
大槻節子 (革左)「女まるだし」と批判される。
杉崎ミサ子(革左)迦葉山方面調査へ
前沢虎義 (革左)任務完了後、山に戻らず実家に戻る
岩田平治 (革左)小嶋和子の妹をオルグするために名古屋へ
山本順一 (革左)運転手役。森に毅然と意見をいう。
山本保子 (革左)井川ベースから戻る
中村愛子 (革左)井川ベースから戻る
寺林喜久江(革左)赤木山方面調査へ
伊藤和子 (革左)小嶋和子の妹をオルグするために名古屋へ

加藤倫教 (革左)次男。指導部に疑問もついていくしかないと決意
加藤三男 (革左)三男。兄の死に「誰も助からなかったじゃないか!」
植垣康博 (赤軍)迦葉山方面調査へ
山崎順  (赤軍)井川ベースから戻る
青砥幹夫 (赤軍)東京から戻る


【死亡者】
尾崎充男 (革左) 敗北死(12月31日・暴力による衰弱、凍死)
進藤隆三郎(赤軍) 敗北死(1月1日・内臓破裂)
小嶋和子 (革左) 敗北死(1月1日・凍死)
加藤能敬 (革左) 敗北死(1月4日・凍死or衰弱死)
遠山美枝子(赤軍) 敗北死(1月7日・凍死or衰弱死)
行方正時 (赤軍) 敗北死(1月9日・凍死or衰弱死)


■1月11日 「寺岡君は総括しているとは思えない。調査中に総括するように」(森恒夫)

 森氏は、「やはり、山岳調査をもう1ヵ所やろう」といって、坂東氏と寺岡氏の2人に日光方面の調査を指示した。
 その際、森氏は、「寺岡君はこれまで総括してこなかったが、これは問題だ。調査中に総括するよう要求する必要がある」といった。
 そのあと、森氏が寺岡氏に、「この間、君は総括していると思えない。調査中に必ず総括しておくように」といった。寺岡氏は、「僕も総括しなければならないと思っていた。調査中に総括を考える」といった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


■1月12日 「寺岡の逃亡を監視せよ」(森恒夫)
 坂東と寺岡が山岳ベース調査に出発した。森はこのとき坂東に、「寺岡が総括できなければ逃亡を考えるかもしれないから注意して欲しい」と監視役を命じている。


 森、永田、坂口は、レジュメ作成の為に毛沢東の本を読んでいた。その中で、疑問点について議論したが、都合の悪いところは毛沢東が間違っていると結論づけた。


 私たちは毛沢東思想を支持しながら、現実に自分たちのやっていることが毛沢東思想に反している事実に直面すると、毛沢東思想がその点では間違っていると解釈するまでにおかしくなっていたのである。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 おかしくなったというより、もともと当時の運動家は、マルクスや毛沢東の理論から、現実に自分たちのやっていることに都合の良いところだけをピックアップし、権威づけに利用していただけのような気がする。


 連合赤軍が共産主義化のモデルにした「三大規律・八頭注意」 にしても、はじめから守られていないし、単なる権威づけの為に掲げたものといっても差し支えないのではないだろうか。


■1月13日 「女房や子供をすぐに山に呼び寄せるわけには行かない」(森恒夫)

 山田は上京することになっていたが、しばらく森と何かを話し合っていた。


 しかし、山田氏はすぐ上京しようとせず、こたつに入って寝転んでにんにくを食べたりしながら何か考えていた。森氏が、「何をぐずぐずしてるんや」と上京を促してから、やっと上京の準備をノロノロ始めた。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 森と山田が話し合っていたのは、夫人や子供を山岳ベースに呼び寄せるかどうか、という問題のようである。森は当初、夫人と子供を結集させるべきだといい 、それを山田にも納得させていた。ところが、6名の死の過程で、「すぐに呼び寄せるわけには行かない」といいはじめた。今度は山田がそれを納得していなかったのである。


 山田は赤軍派の組織上は、森よりも立場が上だった から、連合赤軍で森の下で行動するようになってからも、、理論的には森に従順というわけではなかった。しかし、それもこの頃までの話で、後に屈服してしまうことになる。


 山田が上京した後、青砥が帰ってきた。黒ヘルグループのオルグに失敗したこと、森の夫人に会ってきたこと、前澤は他の任務で戻るのが遅れることが報告された。


 前澤は、黒ヘルグループをオルグしたとき、榛名ベースで死んだメンバーよりレベルの低そうなメンバーを、なぜ山岳ベースに連れてこなければならないのか疑問に思ったという。


 前澤は、このあと革命左派の組織の金200万円を受け取り、榛名ベースに戻ることになっていた。しかし、200万円を受け取ったあと、前澤が戻ったのは実家だった。同志殺害への疑問からすぐに山に戻る気がしなかったのだ。前澤はしばらく実家に滞在し、再び榛名ベースに戻ってくるのは1月18日のことである。


■1月14日 「森さんの指示は間違っている。僕の判断の方が正しかった」(山本順一)
 森が、名古屋にオルグに行っている岩田と連絡をとるため、山本順一の運転する車で出かけた。ところがなれない雪道での運転のため、途中で車が動かなくなってしまい、岩田との連絡がとれなくなってしまった。当時は電話が普及していなかったので、電話連絡をするのも大変だった時代である。


 森氏は、「山本君に総括を要求する」といって、山本順一氏を呼び、「高速道路で車を動かなくされたのは、君が僕の指示に従わなかったからや」と山本氏を批判した。
 山本氏は、「森さんの指示は間違っている。僕の判断のほうが正しかった。(後略)」と反論した。新党で後にも先にもこれほどはっきりと森氏に自分の意見をいった人はいないといえるほどの反論だった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 そのあと森は、大槻や金子がハミングしながら楽しそうに改造銃を作っているのをとがめ、永田がそれを注意したため、楽しそうな雰囲気はいっぺんになくなってしまった。


■誰もが疑問に感じていた
 1月9日の行方の死後、暴力的総括は途絶えているが、一息ついて考えてみると、誰もが、自分たちのやっていることに疑問を感じていた。森自身でさえも、夫人と子供を山岳ベースに呼ぶことをためらうようになったほどである。


 しかし、組織内部には、再検討する機会もなければ、それを是正するだけの力も残っていなかった。疑問を表明することは、弱さを露呈することに他ならなかったからだ。


 もはや、組織全体が共産主義化の理論 にがんじがらめになって、からめとられてしまったといえるだろう。たとえていえば、最初は自分たちでジェットコースターを運転していた人たちが、加速されるにしたがって、振り落とされないようにしがみついているのが精一杯となっている状態である。


 外部から目がとどかない閉鎖空間では、1つの方向に加速すると、ブレーキがかかることはない。それは、1990年代に起こったオウム真理教事件にも共通している構図である。

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(1972年当時の小嶋和子・尾崎充男・加藤能敬・進藤隆三郎の埋葬地)
  連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-連合赤軍リンチ殺人埋葬地


■新たな山岳ベース調査
 10日の午前中、中央委員会で、山岳調査の場所を群馬県の沼田市の迦葉山(かしょうざん)方面と赤城山(あかぎやま)に決まった。


(迦葉山方面調査へ)植垣康博・杉崎ミサ子
(赤木山方面調査へ)吉野雅邦・寺林喜久江


■「6人の死は回避することの出来なかった高次な矛盾」(森恒夫)


 夕食後、全体会議を開き、調査に行く人たちの決意表明が行われたが、こんなことにいちいち決意表明させる指導部の儀式ばったやり方も、私の肌には合わなかった。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


この時、森氏は、
「これまでの6名の死は、政治的に孤立し軍事的に劣勢の我々が、政治治安警察に対する銃による殲滅戦をおし進め、その波及力によって、自然発生的な反米反軍国主義の闘争を目的意識的な革命戦争に発展させ、沖縄の最前線基地化を解体する遊撃戦を創出し、日本革命戦争の基礎をつくっていく上でどうしても回避できなかった高次な矛盾である」
と6名の死を総括した。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 「沖縄の最前線基地化」というのは、ベトナム戦争で、米軍の爆撃機が沖縄から出撃していたことを批判したもの。ベトナム戦争は、テレビ中継された最初の戦争だったため、多くの反戦運動を生み出していた。連合赤軍もその流れの中にある。


 永田は「高次な矛盾」がどういうものなのかよくわからなかったが、次のように解釈した。


私はそれをこれで暴力的総括要求は終わり、これからは殲滅戦に向けて前進していくのだという風に受けとったし、皆もそのような感じで受けとっており、明るい雰囲気になっていた。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 ところが植垣によれば、明るい雰囲気になったのは、森の総括によってではなく、永田のレジュメ作成の表明によるものだったという。


 この森氏の総括はわかりにくかったが、永田さんが新党の路線や共産主義化の内容に関するレジュメを書くといったことに対し、私たち全員が、「異議なし!」と元気よく答えた。
 共産主義化による党建設といっても、あまりに漠然としていてその内容がわからず、従って、総括の必要を理解しても、自分の問題をどう総括していいのかよくわからなかっただけに、レジュメへの要求は、私たちにとっては切実だったのである。
 レジュメ作成の表明は、共産主義化の闘いに一区切りをつけ、銃による殲滅戦の実践に集中していくことを感じさせるものだったので、全体を明るい雰囲気にすることにもなったのである。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


■被害者と加害者の間には何の違いもなかった
 「高次な矛盾」というのがよくわらない。森はたびたび「高次」という言葉を使う。山田孝が「死をつきつけても革命戦士にはなれない」と異議申し立てをしたとき も、「精神と肉体の高次な結合」という言葉で押し切っているが、大した意味はないから口ぐせなのかもしれない。


 「矛盾」のほうも、何と何が矛盾しているのかよくわからないので、結局ちんぷんかんぷんなのだが、森に、暴力的総括要求は終わりという考えがなかったことだけは確かだ。


 さて、これまで死亡したメンバーは、以下の6名である。


尾崎充男 (革命左派)
進藤隆三郎(赤軍派)
小嶋和子 (革命左派)
加藤能敬 (革命左派)
遠山美枝子(赤軍派)
行方正時 (赤軍派)


 革命左派の3名は、多かれ少なかれ新党結成に疑問を持っていたメンバーで、赤軍派の3名は2軍扱いされていたメンバーだった。


 こうした特長から、「指導部に疑問を持つものを先制攻撃した」(坂口)とか、「赤軍派の弱い部分を取り除いた」(植垣)、という解釈がある。


 残念ながら、逮捕後に、「どうしても回避できなかった高次な矛盾」 を口にする者は、森を含めて誰一人いなかったようだ。


 われわれは、普通こう考える。生き残った者は加害者だから糾弾されるべき存在で、死亡した者は被害者だから同情すべき存在である、と。 ここまでに死亡した6人については、そうした見方も成り立つかもしれない。


 しかし、リンチ殺人が後半にはいると、そうとばかりもいっていられなくなる。今日の加害者は、明日には被害者であり、今日の被害者は、昨日まで加害者だったのである。


 するとわれわれは、加害者と被害者をどのように区分したらいいのだろうか。そもそも加害者と被害者に区分することが、この事件にはふさわしくないように思える。


 被害者と加害者の間には、何の違いもなかったのである。

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