1971年12月27日 赤軍派メンバーを榛名ベースへ召集せよ |   連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)

 加藤・小嶋への殴打を紹介してきたが、特筆すべきは森の暴力の導入が、革命左派の榛名ベースで行われたことだ。赤軍派は、森と坂東と山田の3名だけで、いわば完全アウェーの中、革命左派メンバーの加藤能敬と小嶋和子を殴打したのである。


 そこには、森の強い意志が感じられるが、いざ、「高い地平」(森)に到達してみると、森は、新倉ベースに残してきた赤軍派メンバーの遅れが気にかかった。そして森の心は揺れ動くのである。


 南アルプスの新倉ベースでの赤軍派メンバーの出来事は、1971年12月 遠山・進藤・行方への総括要求(赤軍派・新倉ベース) を復習しておいてほしい。


 今回は、12月27日の夜の指導部会議の様子である。


■「南アルプスにいる旧赤軍派の者をどうするか?」(森恒夫)

 

 (森は)「南アルプス(赤軍派の新倉ベース)にいる旧赤軍派の者をどうするか?」と問うてきた。(中略)


 森氏は、さらに、「僕は加藤、小嶋をい殴ったあとだから、ここを離れることはできない。それにしても、南アルプスにいる者はここにいる者よりはるかに遅れてしまった。この差はかなりのものだ」といった。私は、これに対し実に簡単に、「それなら、榛名ベースに結集させ、共に共産主義化を獲ち取っていこう」と答えた。


 「遠山(美枝子さん)ら3名は総括できた」という森氏の発言を信じていたからである。私は、遠山さんらに厳しい総括要求が課せられていることをまったく知らなかった。そのため彼女らを榛名ベースに連れてくれば、暴力的総括要求にかけられるかもしれないという予測をすることはできなかった。私の発言に皆が同意した。

(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 そもそも、赤軍派の幹部(森・坂東・山田)が革命左派の榛名ベースにきたのは、新党結成のためのミーティングをするためであった。それが、とんとん拍子で、12月21日に新党に合意 したので、森が革命左派メンバーに対しても指導権を発揮するようになったのである。


 だから新倉ベースの赤軍派メンバーは、幹部の帰りを待っている状態だった。そこで、彼らをどうするか相談を持ちかけたわけだが、新党が結成されたのだから、合流されるのが当然である。


■「どこまで話すか?」(森恒夫)


 しかし、森の心は揺れ動いた。


 (森は)続いて、「どこまで話して結集させるか?」と問うてきた。私はすべて話すのが当然だと思い、「新倉ベースの人には、加藤、小嶋を殴ったことやその総括のすべてを話し、『共産主義化』による党建設」の同意を得て結集させるべきだ」と答えた。私は、すべてを話して同意を得ればおくれの差を生めることが出来ると思った。ところが森氏は、「そうか、すべてを話すのか」といって少し考え込み、「うん、そうしよう。すべてをそのまま話す」といった。


(中略・そのあと、具体的な段取りなどを打ち合わせたことが書かれている)


 この時、森氏は、私に、「遠山、行方、進藤をどうするか?」と聞いてきた。私は、意味が分からず、「どうして?」と聞いた。森氏は、強い口調で、「だってそうだろう。南アルプスの者ははるかにおくれてしまったのに、この3人は南アルプスの他の者より問題を抱えているのだ。榛名ベースの者からみれば総括できたといえないじゃんか」といった。この時、「遠山らは総括した」といったことが実は違うことを森氏はいわなかった。

(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 おそらく森が心配していたことは2つある。


 ひとつは、暴力のことまで話すと、総括中の3人(遠山・行方・進藤)が逃亡するのではないかと疑っていたことである。だから、「遠山、行方、進藤をどうするか?」ときいたのは、「3人の逃亡を防ぐにはどうするか」という意味だったと思われる。結局、3人については車で移動させることにした。


 もうひとつは、総括中の3人が榛名ベースに合流すると、3人とも暴力的総括要求を行わざるを得ないと憂慮したことだろう。加藤・小嶋への殴打を正当化し、理論化してしまった以上、3人に対しても断固とした対応をとらなければならない。


 森の歯切れが悪いのは、この時点では、さらなる暴力に対し、いくらか躊躇があったからであろう。だから永田に相談を持ちかけたのである。


 ところが、12月20日に森は永田に「遠山ら総括した」とウソをついていた ので、永田は森の躊躇にまったく気づかなかった。


 だから当然の如く、総括中の3人も含めて召集することに決まってしまう。坂東と寺岡が迎えに行くことにし、山本順一が車の運転をしていくことになった。


 そして、坂東たちが彼らを連れてくる頃には、森は、断固とした態度で臨むことを決意しているのである。




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