1971年12月20日 森恒夫・坂東国男が榛名ベースへ |   連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)

 森と坂東が、指導部会議のため、完成したばかりの革命左派の榛名ベースにやってきた。イラストは植垣がボールペンで描いたものである。


 (山の斜面に建てられた榛名ベース 「十六の墓標(下)」 植垣の作品)
連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-榛名ベース・外観


■「遠山らは総括した」(森恒夫)
 再会した森と永田は、互いに宿題の報告を交わした。永田は正直に「共産主義化の観点から革命左派の党史の総括をやってみたけど、できなかった」といったが、森は「遠山らは総括した」といった。森がいったことはウソである。遠山、進藤、行方の3名は総括できていないどころか、2軍扱いされるまでになっていた。


 雑談のあと、赤軍派からの状況を森同志が報告しました。12・18集会を皆で祝ったことなどを。しかし、このとき、進藤同志、行方同志、遠山同志達を「2軍」とし、この集会に参加させずに、銃の訓練を科していたことは報告しませんでした。いろりのまわりで私たちが集会を祝い、酒を飲んでいるとき小屋の片すみの土間で、銃をかまえていた同志達の姿が今も目に浮かびます。自分たちを「1軍」として祝うことのうちろめたさから、彼らのほうをそっと見ました。ときどきこちらをみては、頑張らねばという建前と、しかし納得できないという晴れ晴れしない表情で、再び銃を構えるというような情景にこれでいいのかと思いました。

 しかし、そんな弱音をはいてはだめだ。これに耐えていかねばならない、そんなことでは共産主義化もできないと自分にムチうつという感じでした。
(坂東国男・「永田洋子さんへの手紙」)


■坂東のアジテーション 「支離滅裂な内容だった」(坂口弘)
 革命左派のメンバーは歓迎の気持ちや決意を表明した。このとき、小嶋和子は「私の中にブルジョア思想が入ってくることと闘わなければならないと思っています」と述べたが、これがあとで問題になる。赤軍派の番になると、森は挨拶程度ですまし、坂東に代表発言を促した。


 坂東氏は身を乗り出すようにしてアジテーション調で相当長く発言したが、何をいっているのかよくわからなかった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 支離滅裂な内容で、何を喋ればいいのかわかってないようだった。
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)

 そのあと私が赤軍派を代表することになったわけですが、これは、「銃-共産主義化論」を未消化のまま、森同志のうけうりで、いいカッコしてアジテーション調にやったため、みんなわかりにくいなあという表情でしたね。素直に自分の感情を言うことは、何か価値の低いものでもあるかのように思っていたものですから、人間蔑視もいいところですよね。
(坂東国男・「永田洋子さんへの手紙」)

 ずっと森の傍らにいた坂東でさえ、 「銃-共産主義化論」 をわかっていなかったのである。


■森恒夫の個人批判 「私はますます不愉快になった」(永田洋子)
 夜になると指導部会議が始まった。指導部は赤軍派が森恒夫・坂東国男、革命左派は、永田洋子・坂口弘・寺岡恒一・吉野雅邦である。指導部が会議を行う場所は、土間とカーテンで仕切られ、コタツが備え付けられていた。


 (榛名ベースでの指導部会議 「十六の墓標(下)」 植垣の作品)

連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-榛名ベース・指導部会議


 森はまず小嶋発言を問題にし、「ブルジョア思想とは闘うべきなのに、自分の中に入ってくるというのはこの闘いを放棄したものであり、自己合理化だ」と批判した。このときから森は革命左派のメンバー個人個人を批判するようになっていたのだった。


 (森氏は)今度は他の革命左派の1人ひとりの評価を始めた。小嶋さんへの批判でいやな思いをした私は、驚き、ますます不愉快になり下を向いて目をつぶり、どうして森氏がこのようにいうのか考えながら聞いていた。森氏は金子さんを全面評価したが、それ以外の人、特に尾崎氏を軍人らしくないといって細かいことまで批判した。

 私は、革命左派の皆は頑張っており赤軍派にあれこれいわれることはないと思っていたので、腹が立った。しかし、森氏の批判に断固拒否することはできなかった。坂口氏らはどう思っているのだろうと思って、私は彼らのほうを見たが、彼らは姿勢正しくおとなしく聞いているだけだった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 共同軍事訓練のときからずっとそうだったが、森の批判に反論するのは、常に永田と寺岡の2人だった。坂口と吉野はただ黙って聞いていた。


 私は革命左派内における個々人の評価を表明することで、森氏の批判に反対した。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 これでは、森の土俵に乗ってしまっただけである。もし永田が本気で個人批判をやめさせようとするなら、「革命左派内部のことに口をださないでよ」とピシャリと門を閉ざしておくべきだった。


■「今後は女性の問題についても関心を持つことにした」(森恒夫)


 個人批判の問題がひとまず終わったあと、森氏は、それの延長のようにして、「今後は女性の問題についても関心を持つことにした。これまで、関心を持たなかったのは自己批判的に考えているが、生理のときの出血なんか気持ち悪いじゃん。だから、そういうこともあったのだ。もうそれではやっていけないことがわかった」といい出した。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 革命左派のメンバーには女性が多かった。そこで森は「今後は女性の問題についても関心を持つことにした」という。だが、生理のときの出血が気持ち悪いというように、森の「女性の問題の関心」とは、ちょっとズレているようなのだ。


 森の「女性の問題の関心」とは、どんなものだったのか。永田の冴えない反論も編集して紹介する。


森「女はなんでブラジャーやガードルなんてするんや。あんなもん必要ないじゃないか」
永田「ブラジャーやガードルが必要ないとはいい切れない。私もするときがある」


森「それに、非合法の女の変装で若い女の格好をし、化粧をしたり、都会の女の装いをするのはおかしい。農家の主婦の格好をすべきや。前々から僕はそうおもっていた。山を当面の拠点にする以上はこれは大原則だ」
永田「農家の主婦や娘の格好といっても、わからないのだからすぐにはできない」


森「どうして生理帯が必要なんや。あんなものいらないのではないか」
永田「出血量は人によるけど、どの人も必要だと思う」


森「今後、トイレで使うチリ紙は新聞紙の切ったものでいいんじゃないのか。チリ紙などもったいない」
永田「生理のときは必要だし、新聞紙では困ることもある」

(永田洋子・「十六の墓標(下)」 より編集)


 どうやら森は、女性の 「母なる身体」 に対し異物感を持っていることがわかる。ブラジャーや生理帯やチリ紙を排除したところで、何か問題が解決するのだろうか? 永田はどう思っていたのか。


 「今後は女性の問題についても関心を持つことにした」という森氏の発言は、明らかに女性の性そのものを否定した女性蔑視の観点を女性の革命戦士化の問題として持ち込むというものであった。しかし、それは、まず人間として生きることを掲げて、女性としての独自の要求をもとうとしなかった私の婦人解放の志向を徹底化させたものであったため、私は極端なことをいうと思っただけで、女性蔑視の観点そのものを批判していくことができなかった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 永田のいっていることもよくわからない。「女性の性そのものを否定」=「婦人解放の志向を徹底化させたもの」と解釈してしまうのは理解に苦しむところだ。


■毛沢東の評価 「森氏の展開を目の覚めるような思いで聞いた」(永田洋子)
 森は、「会議は徹夜でやろう」と張り切っていた。森は、中国の革命戦争と文化大革命の歴史的評価を通して、共産主義化の闘いを新たな次元に位置づけた。


 私は森氏の展開を目の覚めるような思いで聞いた。寺岡氏もほーうという感じでいたし、坂口氏、吉野氏も強い関心を持って聞いていた。私は、森氏が毛沢東思想を私たち以上にしっかりと理解していると思い、理論的指導者としての信頼の気持ちを深めた。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 革命左派は毛沢東主義であった。この日、森が毛沢東思想を持ち出して、共産主義化を正当化してみせたのは、革命左派に影響されたともとれるし、そうすることによって、革命左派と取り込んでしまおうという意図があったともとれる。


 森の意図はともかく、直前まで森に対して不愉快だったり、何かおかしいと思っていた永田は、これでコロっとイカれてしまうのである。というより、それを望んでいたといった方がいいだろう。


私は睡魔に勝てず、うつらうつらしていたが、森君は相変わらず、独りで延々と喋りまくった。
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)

雑談はその後も続いていたようであるが、私はいつの間にか眠ってしまった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 共同軍事訓練 のときもそうだったが森はタフなのであり、それが自分の意見を通す武器にもなっているようだ。


 初日の指導部会議は森のペースで終わった。この日のポイントは、ひとつは森が革命左派メンバーに対する個人批判を持ち込み、永田がそれを許してしまったことで、もうひとつは、赤軍派が毛沢東を評価したことで、革命左派に歩み寄ったことである。


 そして2日目の指導部会議で、いよいよ「われわれ」になるのである。