森と坂東が、指導部会議のため、完成したばかりの革命左派の榛名ベースにやってきた。イラストは植垣がボールペンで描いたものである。
(山の斜面に建てられた榛名ベース 「十六の墓標(下)」 植垣の作品)
■「遠山らは総括した」(森恒夫)
再会した森と永田は、互いに宿題の報告を交わした。永田は正直に「共産主義化の観点から革命左派の党史の総括をやってみたけど、できなかった」といったが、森は「遠山らは総括した」といった。森がいったことはウソである。遠山、進藤、行方の3名は総括できていないどころか、2軍扱いされるまでになっていた。
しかし、そんな弱音をはいてはだめだ。これに耐えていかねばならない、そんなことでは共産主義化もできないと自分にムチうつという感じでした。
(坂東国男・「永田洋子さんへの手紙」)
■坂東のアジテーション 「支離滅裂な内容だった」(坂口弘)
革命左派のメンバーは歓迎の気持ちや決意を表明した。このとき、小嶋和子は「私の中にブルジョア思想が入ってくることと闘わなければならないと思っています」と述べたが、これがあとで問題になる。赤軍派の番になると、森は挨拶程度ですまし、坂東に代表発言を促した。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)
(坂東国男・「永田洋子さんへの手紙」)
ずっと森の傍らにいた坂東でさえ、 「銃-共産主義化論」 をわかっていなかったのである。
■森恒夫の個人批判 「私はますます不愉快になった」(永田洋子)
夜になると指導部会議が始まった。指導部は赤軍派が森恒夫・坂東国男、革命左派は、永田洋子・坂口弘・寺岡恒一・吉野雅邦である。指導部が会議を行う場所は、土間とカーテンで仕切られ、コタツが備え付けられていた。
(榛名ベースでの指導部会議 「十六の墓標(下)」 植垣の作品)
森はまず小嶋発言を問題にし、「ブルジョア思想とは闘うべきなのに、自分の中に入ってくるというのはこの闘いを放棄したものであり、自己合理化だ」と批判した。このときから森は革命左派のメンバー個人個人を批判するようになっていたのだった。
私は、革命左派の皆は頑張っており赤軍派にあれこれいわれることはないと思っていたので、腹が立った。しかし、森氏の批判に断固拒否することはできなかった。坂口氏らはどう思っているのだろうと思って、私は彼らのほうを見たが、彼らは姿勢正しくおとなしく聞いているだけだった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)
共同軍事訓練のときからずっとそうだったが、森の批判に反論するのは、常に永田と寺岡の2人だった。坂口と吉野はただ黙って聞いていた。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)
これでは、森の土俵に乗ってしまっただけである。もし永田が本気で個人批判をやめさせようとするなら、「革命左派内部のことに口をださないでよ」とピシャリと門を閉ざしておくべきだった。
■「今後は女性の問題についても関心を持つことにした」(森恒夫)
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)
革命左派のメンバーには女性が多かった。そこで森は「今後は女性の問題についても関心を持つことにした」という。だが、生理のときの出血が気持ち悪いというように、森の「女性の問題の関心」とは、ちょっとズレているようなのだ。
森の「女性の問題の関心」とは、どんなものだったのか。永田の冴えない反論も編集して紹介する。
森「女はなんでブラジャーやガードルなんてするんや。あんなもん必要ないじゃないか」
永田「ブラジャーやガードルが必要ないとはいい切れない。私もするときがある」
森「それに、非合法の女の変装で若い女の格好をし、化粧をしたり、都会の女の装いをするのはおかしい。農家の主婦の格好をすべきや。前々から僕はそうおもっていた。山を当面の拠点にする以上はこれは大原則だ」
永田「農家の主婦や娘の格好といっても、わからないのだからすぐにはできない」
森「どうして生理帯が必要なんや。あんなものいらないのではないか」
永田「出血量は人によるけど、どの人も必要だと思う」
森「今後、トイレで使うチリ紙は新聞紙の切ったものでいいんじゃないのか。チリ紙などもったいない」
永田「生理のときは必要だし、新聞紙では困ることもある」
(永田洋子・「十六の墓標(下)」 より編集)
どうやら森は、女性の 「母なる身体」 に対し異物感を持っていることがわかる。ブラジャーや生理帯やチリ紙を排除したところで、何か問題が解決するのだろうか? 永田はどう思っていたのか。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)
永田のいっていることもよくわからない。「女性の性そのものを否定」=「婦人解放の志向を徹底化させたもの」と解釈してしまうのは理解に苦しむところだ。
■毛沢東の評価 「森氏の展開を目の覚めるような思いで聞いた」(永田洋子)
森は、「会議は徹夜でやろう」と張り切っていた。森は、中国の革命戦争と文化大革命の歴史的評価を通して、共産主義化の闘いを新たな次元に位置づけた。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)
革命左派は毛沢東主義であった。この日、森が毛沢東思想を持ち出して、共産主義化を正当化してみせたのは、革命左派に影響されたともとれるし、そうすることによって、革命左派と取り込んでしまおうという意図があったともとれる。
森の意図はともかく、直前まで森に対して不愉快だったり、何かおかしいと思っていた永田は、これでコロっとイカれてしまうのである。というより、それを望んでいたといった方がいいだろう。
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)
共同軍事訓練 のときもそうだったが森はタフなのであり、それが自分の意見を通す武器にもなっているようだ。
初日の指導部会議は森のペースで終わった。この日のポイントは、ひとつは森が革命左派メンバーに対する個人批判を持ち込み、永田がそれを許してしまったことで、もうひとつは、赤軍派が毛沢東を評価したことで、革命左派に歩み寄ったことである。
そして2日目の指導部会議で、いよいよ「われわれ」になるのである。