1971年12月18日 12・18集会(柴野春彦追悼集会) |   連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)

 革命左派は、永田と獄中メンバーの間がしっくりいっていなかった。それが表面化したのが12・18集会である。そして、そのやりかたに疑問を持ったメンバーが、指導部へ「意見書」をつきつける決意をした。


■12・18集会とは
 正式名は 「日本赤色救援会復権・柴野虐殺弾劾追悼一周年集会」 である。革命左派の柴野春彦は1年前の上赤塚交番襲撃事件 で警官に撃たれて亡くなっていた。左翼運動をやる人たちは記念日を大切にする傾向にあり、亡くなった人をシンボルにして団結を深めたり、結集を呼びかけたりした。


■集会の準備
 革命左派も赤軍派も、旧幹部は獄中に捕われの身であり、獄外の幹部は山岳ベースにいたから、この集会は、合法の救援対策のメンバーが中心となって準備した。


 合法組織(表の組織)は、革命左派の場合「京浜安保共闘」で、赤軍派の場合「革命戦線」であり、主に獄中メンバーの救援活動を行っていた。したがって獄中幹部とは連絡をとりあっていた。


 山岳ベースの赤軍派は、闘争の歴史を森が総括し、それを山田孝がアピール文としてまとめた。これまでの闘争の失敗を振り返り、「銃-共産主義化論」 の必要性を訴えたものである。この「12・18アピール 殲滅する銃を!」は山田が書いているが、森が書いたものより大分わかりやすい。


 山岳ベースの革命左派は、大槻節子と岩田平治がアピール文を持って上京した。永田は、12・18集会の主催が、「京浜安保共闘と革命戦線の共催」でなく、「赤軍派と革命左派の共催」となっていることに疑問を持ち、段取りをしていた京谷と連絡を取ろうとするが、京谷が避けているようにみえたため、永田が怒りを爆発させた。そこで、前澤虎義と伊藤和子を12・18集会へ乱入させることにした。


■集会当日に前澤と伊藤が乱入
 集会は無事開催された。この集会には、是政アジトで逮捕 され、不起訴処分で釈放となった加藤能敬(3兄弟の長男)と中村愛子も参加していた。


 ところが舞台裏でひと悶着おきていた。前澤と伊藤の2人がやってきて、12・18集会の主催名から革命左派の名前を降ろし、さらに集会での発言を求めたのである。


 そして、それに反対した合法メンバーに、「分派活動」といって非難した。「分派活動」の意味は、合法部は、獄中幹部とグルになって無断で12・18集会を開催した、という意味である。ここまでは前澤と伊藤は任務を忠実に果たした。だが、それ以上、発言をごり押しすることまではしなかった。


 集会の内容について、森は次のような批判を行っている。


 (森は)永田さんから渡された12.18集会に宛てた革命左派獄中アピールに目を通し、しばらくしてから次のようにいった。

「12・18集会は、銃による攻撃的な殲滅線や上からの党建設をあいまいにして爆弾闘争を主体にした武闘派の結集を呼びかけており、集会の眼目も逮捕されたメンバーの救済を目指したものに過ぎない。また、革命左派獄中メンバーは、教条的な反米愛国路線や一般的な政治第一の原則の強調に終始していて、革命戦争のリアリズムを否定し、党組織を政治宣伝の組織に低めている。何よりも獄中における革命戦士化(共産主義化)の闘いの放棄という致命的な誤りを含んでいる」
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)


 12・18集会に参加した革命左派のメンバーは、アピール文を持って上京していた大槻節子、岩田平治。そして、是政アジトで逮捕されたが不起訴処分で釈放となった加藤能敬(3兄弟の長男)、中村愛子。そして乱入して抗議を行った前澤虎義、伊藤和子の6名であった。


■指導部への「意見書」
 大槻節子、岩田平治、加藤能敬、中村愛子の4人は、前澤と伊藤の乱入を快く思わなかった。彼らは集会を混乱させた指導部を批判する「意見書」をしたためて持ち帰ることにした。

 「意見書」は、およそ以下のような内容である。


 大槻・岩田は指導部に絶対的な信頼を置くものである。

 革命左派が集会の主催者になっているのは、柴野同志が革左党員であったので当然である。さらに、集会は予め合法部が指導部と連絡を取りつつ準備したものであり、合法部に手落ちがあったとは思われない。


 今こそ獄中、合法、非合法の団結を強化しなければならない。


 前澤・伊藤両名を集会に派遣して集会を混乱させ、「分派」ときめつけたことを自己批判すべきである。建党・建軍のさらなる発展を願って。


 なお、この意見書は、加藤・中村の同意を得ている。


 この「意見書」を携えて、加藤能敬と岩田は、一足先に榛名ベースへ向かった。そこで加藤は「意見書」を読み上げることになる。しかし、榛名ベースは、以前の革命左派ではなかった。戻った先には「総括」が待っていたのである。