2011年5月29日 【号外】日本赤軍・丸岡修受刑者死去(60才)-新聞報道 |   連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)

 日本赤軍の丸岡修受刑者(無期懲役)死亡のニュースを号外でお伝えする。日本赤軍といっても連合赤軍と区別のつかない人も多いと思うので、次回のコラムで組織の関連をまとめることにする。


■2011年5月29日 元日本赤軍幹部・丸岡受刑者が死去

  ドバイ、ダッカ事件関与 遺書で認め謝罪(産経)

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連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-2011-05-30 日本赤軍・丸岡修死去


 ドバイ事件やダッカ事件に関与した丸岡修が八王子医療刑務所で死亡した。丸岡は元日本赤軍の活動家で1987年に日本に入国したところを逮捕され、無期懲役で服役中だった。ずっと心臓が悪かったということだ。


 産経に注目すべき見出しが躍る。「ドバイ、ダッカ事件関与 遺書で認め謝罪」というのである。しかし、この見出しは誤解を招く。あたかも、事件について謝罪しているような印象を受けるが、読んでみるとそうではなくて、 「無実を信じて応援してくださった人々」 に対して 「欺いてしまい深くお詫び」 しているだけなのであった。


 謝罪はともかくとしても、事件について何も語らないまま亡くなってしまったのは残念なことだ。関与を否定していたため、事件の経緯や心情的な部分は、墓場へ持っていってしまったのである。もし遺稿を残しているのならぜひ公開していただきたい。


■ドバイハイジャック事件(1973年)

 日航機をハイジャックし、最終地リビアのベンガジ空港で爆破した。


連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-1973-07 日本赤軍・ドバイ事件1 連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-1973-07 日本赤軍・ドバイ事件2


■ダッカハイジャック事件(1977年)

 日航機をハイジャックし、服役または拘留中の9名の釈放を要求した。当時の福田赳夫首相は「一人の命は地球より重い」といって超法規措置で釈放に応じた。


連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-1977-09 日本赤軍・ダッカ事件1 連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-1977-09 日本赤軍・ダッカ事件2

 以下に、丸岡が関与した可能性のある事件について、簡単にコメントしておく。


■テルアビブ空港乱射事件(1972年)
 当初、実行予定だった山田修が水死し、檜森孝雄が遺体を日本に持ち帰ることになったため、欠員補充として、岡本公三と丸岡修に声がかかった。2人はベイルートで、それが決死作戦であることを初めて聞いた。岡本は受け入れたが、丸岡は「日本で聞いていなかった」ことを理由に断った。


 そのため、テルアビブ空港乱射事件は、予定より1人少ない3名(奥平剛士・安田安之・岡本公三)で行われた。その後、日本赤軍では、3人を美化して模範としたため、丸岡は常に負い目を感じていたという。


■クアラルンプール事件(1975年)
 丸岡も犯人グループの1人とみられたが、この事件では起訴されなかった。


■若王子さん誘拐事件(1986年)
 1991年に逮捕された犯人達は、「日本赤軍の協力があった」との供述を行ったらしいが詳細は明らかでない。ところが、2002年1月27日の読売新聞に丸岡が関与したという記事が掲載された。


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連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-2002-01-27 日本赤軍が若王子さん事件に関与


 丸岡は読売の記事に関して名誉毀損で民事訴訟を起こした。一審では東京地裁は読売新聞社に105万円の賠償支払いを命じた。だが、東京高裁は、新聞記事を真実と認めた。最高裁も上告を却下し、丸岡の敗訴となった。


 記事中、「彼は、レバノンのベカー高原に戻った際、精算をするため、航空券を一枚一枚コピーしていた」とある。日本赤軍は経費をしっかり管理していたようだが、これで足取りが割れてしまった。北朝鮮入国はよど号メンバーとの接触と思われる。


■我が闘争、いまは「病」 元赤軍の獄中死、治療相次ぐ(産経)


産経新聞は2011年2月22日付けで、多くの活動家が高齢化し、闘病生活を送っていることを報じていた。


我が闘争、いまは「病」 元赤軍の獄中死、治療相次ぐ

 かつて「赤軍」などを名乗り、国内外でテロ事件を起こした活動家たちが今、獄中で「病」と闘っている。今月初めには元連合赤軍幹部の永田洋子(ひろこ)死刑囚(65)が長期の闘病の末に死去。40年前にレバノンに向けて出国した元日本赤軍最高幹部、重信房子受刑者(65)=懲役20年=も八王子医療刑務所で抗がん剤治療中だ。ほかにも重い病に苦しむ死刑囚や長期受刑者も少なくない。


 「元気ですが、副作用がかなりつらかったようです」。支援者は重信受刑者の最近の様子を明かす。

 重信受刑者は平成20年末に大腸がんが見つかり手術、小腸に転移したがんも切除した。再発はないものの、腫瘍(しゅよう)マーカー検査の数値が下がらず、転移の恐れがあるため、昨年末から抗がん剤治療を始めた。


 支援組織の機関誌では重信受刑者の日記を掲載。その中で「副作用の吐き気で予定作業をやめて寝てしまいました」(1月10日)と苦しみをつづっている。


 「予断を許さない病状」と支援者が訴えているのが、元日本赤軍メンバーの丸岡修受刑者(61)。昭和48年と52年に日航機が乗っ取られたドバイ、ダッカ両事件でハイジャック防止法違反罪などに問われ無期懲役が確定。宮城刑務所に収監された。


 しかし、心臓発作を複数回起こし、平成16年に突然死の恐れもある拡張型心筋症と診断された。現在は八王子医療刑務所で車いす生活を送っているという。


 投薬治療は受けているが、専門治療が必要として、弁護団は平成19~22年に計4回、刑の執行停止を東京高検に申し立てたが、いずれも却下された。


 病に冒された活動家はほかにもいる。支援組織「救援連絡センター」によると、昭和49~50年の連続企業爆破事件で死刑が確定した東アジア反日武装戦線の大道寺将司(62)と益永利明(62)=旧姓・片岡=の両死刑囚はそれぞれ、血液がんの一種と脳梗塞を発病しているという。


 また、アメリカの刑務所で服役中の元日本赤軍メンバーの城崎勉受刑者(63)=懲役30年=は白内障と緑内障を併発。手術を受けて失明は免れたという。


 同センターの山中幸男事務局長(61)は「私たちも含めて年をとり、まさに命の際(きわ)の活動になっている」としたうえで、「獄中では適切な治療を受けられないのが実情。刑の執行停止や医療の改善を求めていく」と訴えている。
(2011年2月22日・産経)



 日本赤軍は現在も逃亡中のメンバーがいるためか、事実関係を隠蔽したり、曲げたりりする傾向がある。しかしその戦術は、成果をあげているとは思えない。無罪放免になることは決してないし、逆にボロがでて、検察側の弱い証拠にもとづく主張がそのまま通り、重刑判決につながっている。


 こうした事実関係の不明確さが、われわれの社会的検証や、彼ら自身の総括を阻んでいる。これはわれわれにとっても、日本赤軍メンバーにとっても大変不幸なことである。丸岡は死を覚悟したとき、生身の個人として、その点をどう総括したのだろうか。