1972年1月2日 遠山美枝子に遺体埋葬を強要 |   連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)

(遠山美枝子は 「女らしさ」 を批判された)
連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-遠山美枝子顔写真


 今回は1月2日の続きである。


 遠山美枝子が総括要求されるのであるが、遠山への批判は、過去のものと全く変わりがない。そこで、まずは、遠山美枝子について、これまでの経緯をまとめておく。


■遠山美枝子が榛名ベースへやってくるまで

 遠山は明治大学時代、重信房子の親友になり、赤軍派で主に後方支援や救援活動を行ってきた。


 重信がパレスチナへ 旅立ってからは、『赤軍‐PFLP 世界戦争宣言』というプロパガンダ映画の上映会を行っていた。後の「テルアビブ空港乱射事件」の岡本公三がこの映画の影響を受け、事件を起こすことになる。


 遠山は、当時の赤軍派の幹部・高原浩之と結婚していたため、周りが幹部夫人として一定の敬意をはらい、特別扱いされていた。これは、遠山に限らず、赤軍派伝統の慣習的なものだった。


 その遠山が、1971年11月に、革命左派との共同軍事訓練 に参加した。軍の闘争や非合法活動に縁の遠かった彼女が、なぜいきなり共同軍事訓練に参加したのかは、はっきりしていない。森が人数合わせのために呼び寄せたという説や、救援活動に役立てるための見学のつもりだったという説がある。

(後に紹介するが、総括では、別の理由だと、決めつけられてしまう)


 遠山は、訓練にもついていけなかったし、服装や訓練に対する姿勢なども、それらしくなかった。それを革命左派メンバーに厳しく批判された。これを 「遠山批判」 という。遠山批判は、その前日に 「水筒問題」 で赤軍派に批判された革命左派が、赤軍派に対してカウンターパンチを放ったものだった。党派的な争いの手段としての批判だったのである。


 ところが、森は、遠山をかばうことなく批判をじっと聞いていた。森は、革命左派の吊るし上げともいえる集団的批判こそ 「共産主義化」 の実現方法であると考え、翌日には、森のほうから、遠山に対して、赤軍派時代の闘争へのかかわり方を糾弾 しはじめた。


 森の批判が、革命左派のそれと違っていたのは、過去の活動への批判だったことだ。これが、いわゆる 「総括」 の始まりであった。


 革命左派の批判は、指輪をしている、会議中髪の毛をとかした、服装が派手、男に指示だけして自分は動かない、といったことが、戦士としてふさわしくないということであった。


 一方、森の批判は、遠山が女を売りにして男を利用していると決めつけ、過去の活動をひとつひとつそれに結びつけていくものだった。どちらの批判も、いきつくところは、遠山の 「女らしさ」 が批判の対象だったのである。


 共同軍事訓練が終わり、森が榛名ベースへ行った後も、遠山はずっと批判され続けていた 。ただし、このときまでは 「銃-共産主義化論」 に基づき、銃の構え方の訓練をえんえんとやらされるだけですんでいた。


 森は、榛名ベースに来てから、共産主義化に、 「殴ることは指導である」 「殴ることは援助である」 という理論を組み立て、総括に暴力を取り入れた。そこへ遠山たちが榛名ベースに呼び寄せられたのである。


 遠山が、榛名ベースについてみると、すでに死者が出るほどの殴打や緊縛が行われているのを目にした。そして、遠山と一緒に榛名ベースにやってきた進藤隆三郎が、その日のうちに殴打によって死亡 してしまった。


 遠山の緊張は極限まで達し、落ち着きがなくなった。ちなみに遠山とともに榛名ベースに合流した行方正時も、革命左派による批判こそなかったものの、ほぼ遠山と同じ経緯をたどっている。


 赤軍派で2軍扱いされていたメンバー3人(遠山・進藤・行方)は、何も変わっていないのだが、森のほうが変わってしまっていたのである。


■「小嶋のようになりたくない。・・・・・死にたくない」(遠山美枝子)

 森氏は、「遠山にはちゃんと批判しなければならない」といって、遠山さんを批判していった。
  「小嶋の死を自分が総括する立場からどうとらえているんや」
  「革命戦士になろうとしなかった者の敗北死だ。私は革命戦士になって頑張る」
  「革命戦士になって頑張るというだけでは総括にならん。どう革命戦士になろうとするのか」
 遠山さんは革命戦士になることに決めているとか、革命戦士になるつもりで榛名ベースに来たなどといったことを答えたが、森氏はそう答える度に強い口調で、「違う!」「そんなのは総括じゃない!」と批判した。
 そのため、遠山さんは答えることができなくなって黙ってしまった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 そこで、森君は、彼女が榛名ベースに来てから初めて所持金を提出したこと、髪の毛を短くカットしてこなかったこと、従来の彼女の組織活動に対する関わり方が、闘争と組織のためというより、個人的な関心によってなされていた要素が大きいこと、合法活動のなかで権力との接触によって、精神的、肉体的に大きな負担を負うようになり、とても殲滅戦を闘い抜ける力を持っていないこと、さらに合同軍事訓練のとき、腹部に衝撃を受けたと言って訓練を中止し、ずる休みをしたことなどの点を列挙して詰問した。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)


 すると、被指導部の人たちが、口々に、「黙っていないでなんとかいえ!」「総括する気があるのか!」などといいたてた。遠山さんは、落ち着かない様子でそのようにいう被指導部の人の方をキョロキョロと見ていたが、そのうち思いつめた表情で、「小嶋のようになりたくない。・・・・・とにかく生きたい。・・・・・死にたくない。・・・・・どう総括したらいいのかわからない」といい出した。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


■「遠山さんには、小嶋の死体を埋めさせ総括させよう」(永田洋子)

 森氏は、遠山さんの発言に強い調子で、「我々にとって生きることは、革命戦士になって生きぬくことでしかない。『死にたくない』というのは、死にたいしてのブルジョア的な恐怖心であり、そのことをいうこと自体すでに敗北死の始まりだ。柴野君のように死ぬ ことが革命戦士として生きることなのだ」と批判した。


 私はその通りだと思った。森氏はこのあともさらに追求していったが、遠山さんは、顔面を蒼白にさせて、「死にたくない」「生きたい」と答えることしか出来なくなってしまった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 私は、森氏の追及は、遠山さんを追い詰めるだけで総括させることにならない。これではまた暴力を持ち込むことになるだけだ。実践によって総括させるのが一番よいと思い、指導部の人たちにいう感じで、「遠山さんには、小嶋の死体を埋めさせる実践によって死に対する恐怖を克服させ、そうして総括させよう」といった。森氏は、「それはいい」と答えた。(中略)


 遠山さんは、それまでの追い詰められた様子とはいくらか違って、しっかりした声で、「総括できないときの敗北は死だ。これを乗り越えるために、小嶋の死体は私が埋めに行きます」と表明した。私は、これを聞いて既に半分総括できたと思い、「死体を埋める実践によって総括しなさい」といった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 これは、小嶋さんの敗北死を直視させて決してこういう道を選ばないという決意をさせる事によって、敗北的な傾向を払拭させる目的でそうしたのだが、(中略)彼女を本当に革命戦士にするような方法では全くなく1つの制裁にすぎなかったのである。
(森恒夫・「自己批判書」)


■「僕もやります。僕もそうして総括します」(行方正時)

 遠山さんが立ち上がりかけると、行方氏が、「僕もやります。僕もそうして総括します」といって立ち上がった。(中略)
 この時、寺岡氏が、「その実践が真に総括しているものかどうかを皆で確認しよう。皆で行ったほうがいい。そうして、遠山さん、行方君の総括を援助しよう」といった。すると、森氏がすかさず、「死体を埋めるのは遠山がやり、行方はそれを手伝え。他の者は手をだすな」と指示した。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 皆が出かけていったときには、もう3日の午前一時になっていた。


■「恣意的にさまざまな決め付けを行っていった」(森恒夫)
  被指導部のメンバーも、遠山の沈黙を、「総括する態度ではない」とみなし、口々に彼女を批判した。では、何といえばよかったのかというと、おそらく誰にもわからなかった。


 なにせ、森は、「自己批判書」において、遠山に対して、「恣意的にさまざまな決め付けを行っていった」と書いている。さまざまな決め付けとは、男を手段化した、親への依存心が組織では官僚的な態度になる、男性にこびを売る、などである。


 そして、「心理的な問題を拾い上げては恣意的な判断に組みたて、精神的に彼女を縛り上げる残酷な詰問を何時間も行った」と証言しているのである。


 はじめから、「恣意的な決め付け」なのだから、何をいえばいいのかわかるはずがない。遠山は一生懸命言葉を探すが、何をいっても詰問を繰り返される運命だったのである。


 永田は、遠山への総括要求が行き詰ったと見るや、機転を利かして新たな展開に持ち込んだ。だが、小嶋の死体を埋めたからといって問題が解決するわけではない。助け舟を出したのだが、それは向こう岸まで渡れるものではなかったため、追求を一時中断させるものでしかなかった。


 そして、遠山が、小嶋の死体を埋めて戻ってきたあと、遠山を待っていたのは、目をそむけたくなるような制裁だった。


 否! 目をそむけることさえ、遠山は許されなかったのである。