足るを知るという言葉を知ったのは、継母が大津の出身で、高学年になって、京阪電車で京都をひとりぶらつくようになって、龍安寺の茶室の入り口の手水の石、つくばいの石に書かれた言葉からです。吾唯知足と書かれています。哲学の道や嵯峨野などを好んで歩きました。

 

わたくしが中年にもなると、格差社会が歴然となりました。そんな中で、足るを知る生き方をされている方に,何度も出会い、そして、その生き様、生き方の立派さ,素晴らしさを教えていただきました。

 

養育費が滞り、家族3人、十万で生活する。それが当たり前の社会の現実なのです。

 

掛け持ちで働く人、決して少ないわけではありません。

早期退職後、わたくしが出会った人の大半が掛け持ちでした。そうでしか、生活が成り立たないからです。あるいは、それでも厳しい状況なのです。ローン地獄、借金地獄に陥ってしまって脱け出せないからです。

原因は不安定な雇用形態にあります。パートでは上限で区切られたりする例が多いのです。それで、男でも女でも、風俗に走りやすいのです。最近は、不況で、相当減りましたが、風俗でも風俗同士の掛け持ちはざらでした。好きでやっているわけではもちろんありません。

正社員と派遣社員とがほぼ同じ仕事をしているのが現実なのです。

そして、まず派遣社員がそして正社員がリストラされ、高給な役員はそのままなのです。その現実を否応なく見させられてきました。

 

 

 

 

パートで生活する若い人の生活の不安ももちろん察するに余りあるものがあります。

一方、わたくしのような年金生活者にもそれなりの不安はあります。

それは、所謂終活あるいは終末への不安と呼んでよいものです。

それ以上に、子どもや孫の将来をわたくしたちは心配してしまうのです。

 

そして、ずっと思い続けていることは、人間の社会そのものの見直し、人間の社会そのものの変革を図ろうというのです。そこには、わたくしたちの思い描く人間の社会像が問われるのです.。わたくしたちが今ある人間の社会そのものの問い直す営みとともに、今を真摯に生きているのかを、わたくしたちに問うている今日だと思うのです。

どういう社会がわたくしたちのこれからに、そして、未来にあるのでしょう。

 

 

母が亡くなったその年に、壷井栄の小説「二十四の瞳」が映画化され公開された。

小学校1年生のわたくしは、5月に母を失い、喪主を務めた。白衣に裸足に藁草履を履き、焼き場のある墓地までひたすら歩いたのだ。このことは、60歳を過ぎても、行政書士会などの会合でも話題になった。

わたくしが、その作品を読み、また映画を観たのは、翌年、転校した地域の夏祭りの時で、その小説に触れたのは、その小学校で、母から教育実習で指導を受けたという後に担任なった先生からだった。母は、戦場に教え子を送ったことを悔やんでいたという。わたくしも、戦争のない平和な世界、平等な社会の実現するという母の願いを子どもながらに何度も聞かされたことを思い出す。

 

高学年になって、大岡昇平の「俘虜記」に触れた。忘れられない小説だった。

 

卒業の年、伊勢湾台風が襲った。ある日曜日に、当時の首相が来町というので、出校日となり、歓迎に参加した。戦争は、正しいものであったというのが、その首相のあいさつの言葉だった。しばらくして、天皇陛下の行幸列車が通るというので、わたくしに「天皇皇后両陛下に最敬礼」という号令をかける番が回ってきた。私は、号令をかけることに精一杯で、自ら最敬礼するのを忘れてしまった。そこで、初めて、御用列車の両陛下のお姿を拝したのだ。

両陛下は直立不動のお姿勢で、わたくしどもに、お辞儀し、お手を振り続けられるお姿だった。

わたくしは、先日の首相と両陛下のお姿の余りの違いに、しばらく身を震わせていた。

それを見た何人もの先生方から、心配のお声を掛けていただいたのだった。

 

 

 

 

戦争に関わった人の戦争に対する思い・捉え方は実に様々です。

 

戦争に兵として参加した方のほとんどは、もう二度と戦争をしてはならないという思いの

方がほとんどといってよいと思うのですが・・・・。

 

その一方、自分が敗残兵として帰還したことに納得がいかず、なんとかして、自分の果たしたその意味やその正当性を見出そうとされている方か何人かおみえでした。

 

また、その中には、戦地の慰安所で遊んだ慰安婦さんとの思い出しか語らない方もいましたが。

 

わたくしは、小学生の頃から、図書館などで、戦争の写真や記録を手にして、読んでおりましたことが知られるようになり、将兵として戦った方や元軍医・従軍看護婦などの方々などから、いろんな戦争の思い出やその思いをお聞きしました.。中には、ご子息も軍医で、ご自身だけが生き残ってしまったんだという方もおみえでした。先日、その方から、いただいた顕微鏡が出てきました。

また、元軍医の町立病院の院長さんは、わたくしをかわいがってくださり、栄まで連れ出し、いつも、丸善書店と食品の店である明治屋で、わたくしにも買って下さるという幸せもくださいました。

 

わたくしには、そんな、みなさんから、戦争体験の壮絶さ、戦争の虚しさ、戦争への怒りが伝わりました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

5歳の頃、母が何度目かの転院をしました。

近くの鶴舞公園の中に、米軍のキャンプが出来、その家族で公園にあふれ、遊具や砂場もその子どもたちに占拠されていました。日本人は、そこを見てみぬように通り過ぎていました。

わたくしがその光景を眺めていると、ひとりが、こっちへ来いと呼びました。迷っていると、走ってきて、一緒に遊ぼうと言っているようです。

その日から、彼らとは、片言で遊ぶようになりました。親御さんからは、キャンディやチョコレート、缶詰を当たり前にいただくようになりました。

病院の木造の廊下の軋む音と、挨拶を交わし合うときの彼らの笑顔を忘れません。

 

転居した国府宮は、野菜なの生産の盛んな地でした。治郎丸という地域には特産の法蓮草がありました。

引っ越しの翌日、賑やかな音と声がするので、国府宮神社の杜に接する家の外に出てみると、子どもを中心に囲んでいる集団の中に米軍兵の車列がありました。

車やトラックから出ると、米軍兵は、お菓子などを集団に投げ入れるのでした。わたくしは、その集団から離れて茫然として見ておりました。

すると、ひとり、黒人兵がわたくしのところまで近寄り、笑顔で、わたしにも子どもがいると身振り手振りを加えて話し掛けてきました。そして、缶詰の入った袋を渡すとともに、手を握りしめました。わたくしも、その手のぬくもりの残った手を振り、彼らの車列が消えるまで見送っていました。

こんな休校時には、お子さんの能力や個性の発見の機会になるかもしれません。

今までにない場面であるからです。

また、親子の関係もいろんな意味で新たなものになる可能性があります。

忙しさの中で、大変なご家庭が多いのが実情でしょうが・・・・・・・・・・・・・・。

家の前の神社で遊んでいると姉から呼ばれ、引っ越しのトラックの助手席に手を取られ座った。姉たちは荷台に上がった。3歳の3月の末の暖かい日だった。

引っ越し先に近づくと、運転手さんは、わたくしに、町の案内を始めた。ここが、操車場で、駅はここという具合にだ。川岸の道では、国司の開いた用水と、焼け爛れた工場の跡の横では、空襲の跡と、畦道を渡れば、田の中の池のようなものを焼夷弾の作った穴と、幼いわたくしにも解る説明でひとつひとつ教えていただいた。

 

 

 

 

わたくし同様、インターネットで、口座のバランス(残高)を覗いて改めて溜息をつくしかなかった人は少なくないだろうと思います。

 

NISAの設定も断り、損得ではなく、応援している企業だからこその投資なんだと、高値での買いにはなったが、、どんなに上がっても下がっても、売りはしないと決めて、購入はしたものの、いかほど遺せられるものかと不安はあります。マイナスにはならないように、今まで以上に質素倹約の工夫を重ねて、残りの人生を全うしようと思うばかりです。

 

いつも質素倹約を信条に言うので皆に笑われてきましたが、自らの思いで早期退職をし、ほぼ病気治療中心の生活をし、ここまで凌いだわたくしにはその対応策しか見つかり得ません。

 

しかし、わたくし同様、厳しい生活を強いられている人は、世代を問わず、まじめに働いて頑張っている方々の中にも、沢山いらっしゃるのです。悲しい限りです。

 

現役の教員時代にも、行政書士の時にも、そうした多くの方々と、そのご家族に接してまいりました。