母が亡くなったその年に、壷井栄の小説「二十四の瞳」が映画化され公開された。

小学校1年生のわたくしは、5月に母を失い、喪主を務めた。白衣に裸足に藁草履を履き、焼き場のある墓地までひたすら歩いたのだ。このことは、60歳を過ぎても、行政書士会などの会合でも話題になった。

わたくしが、その作品を読み、また映画を観たのは、翌年、転校した地域の夏祭りの時で、その小説に触れたのは、その小学校で、母から教育実習で指導を受けたという後に担任なった先生からだった。母は、戦場に教え子を送ったことを悔やんでいたという。わたくしも、戦争のない平和な世界、平等な社会の実現するという母の願いを子どもながらに何度も聞かされたことを思い出す。

 

高学年になって、大岡昇平の「俘虜記」に触れた。忘れられない小説だった。

 

卒業の年、伊勢湾台風が襲った。ある日曜日に、当時の首相が来町というので、出校日となり、歓迎に参加した。戦争は、正しいものであったというのが、その首相のあいさつの言葉だった。しばらくして、天皇陛下の行幸列車が通るというので、わたくしに「天皇皇后両陛下に最敬礼」という号令をかける番が回ってきた。私は、号令をかけることに精一杯で、自ら最敬礼するのを忘れてしまった。そこで、初めて、御用列車の両陛下のお姿を拝したのだ。

両陛下は直立不動のお姿勢で、わたくしどもに、お辞儀し、お手を振り続けられるお姿だった。

わたくしは、先日の首相と両陛下のお姿の余りの違いに、しばらく身を震わせていた。

それを見た何人もの先生方から、心配のお声を掛けていただいたのだった。