照葉樹林帯はヒマラヤ山脈に遮られた気流が南から北東に伸びる温暖・多雨な豊穣な地域であり、この地域に定住した民は水稲の稲作の恵みにより、西はインドのタミル地方から東は日本列島、朝鮮半島に進出している。
ところで、お釈迦様の一族、釈迦(シャカ)族はアーリア人と言うより、水稲の稲作を生業とするモンゴロイドであろうとする説が有力であり、照葉樹林帯の近辺に定住した民であった。
すなわち、彼らが日本の水稲稲作農業の基礎を築いた揚子江中下流域から来た弥生人と同族であり、日本の弥生時代の銅剣・銅鐸文化圏の人々であり、Y染色体ハプログループO2(旧分類)を持ち、彼らの日本語への寄与が大野晋の日本語の起源として報告されていた。
また、現在の中国南部のミャオ族が彼らと同族である(参考)。
参考
① シャカ族について~(宮城顗)
大江広のつぶやき(参考)
シャカ族は人種的に何人種に属していたのか?
アーリア人の聖典であるヴェーダの権威を全く認めていないのですから、アーリア人ではなく、ネパール人と同様、モンゴロイド(蒙古系人種)だったのかもしれません。かつて、イギリスの歴史学者ヴィンセント・スミスが、「釈尊は生まれは蒙古人であったらしい。すなわち蒙古人の特徴をそなえチベット人に似たグールカのような山岳民であったらしい」と発表して、議論を巻き起こしたことがありました。また、インドの著名な歴史学者チャクラヴァルティも、「(シャカ族は)多分ネパール地域のモンゴル人であった」と言っていますから、歴史学畑では、シャカ族はモンゴロイドだったと考えられているのかもしれません。実際、インドの古い文献には、シャカ族はアーリア人種ではなく、キラータ(山の民)だと書かれているといいます。キラータというのは、ヒマラヤ東部からアッサム、雲南にかけての山岳地帯に住むモンゴロイド(蒙古系人種)のことです。インドに稲作を伝えたのは、このキラータだといいます。釈尊の頃のインドでは、麦や粟や稗が主食で、米はまだ珍しかったはずですが、シャカ族だけは、ちゃんと米を食べていたのです。ですから、シャカ族がキラータだという説には信憑性があるようにも思えます。-著者宮城顗・仏弟子群像(8)-
② 照葉樹林帯と日本人(参考)
横山 智によると、アジアの照葉樹林帯に沿って存在する文化の特徴として、
⑴ 野生のイモ類やカシの実などの堅果類を水にさらしてアク抜きする技法
⑵ 茶の葉を穴の中で発酵させ、それを、加工して飲用する慣行
⑶ 蚕をはじめとする絹糸虫(カイコガ)の繭から糸を引いて絹をつくる技術
⑷ ウルシノキの樹液を用いて漆器をつくる技法
⑸ 柑橘とシソ類の栽培とその利用
⑹ 雑穀や米を粒のまま麹を用いて発酵させて酒を醸造する方法
⑺ 最近までイモ類の他、雑穀類(アワ・ヒエ・モロコシ・ソバ・陸稲)を栽培する焼畑耕作がひろく分布し生活を支えてきた
⑻ 雑穀類や稲の中から、粘性の高いモチ澱粉を有する品種(モチ種)をつくり出し、粘性に富む特殊な食品を数多くつくり出した
⑼ 味噌や納豆などのような大豆の発酵食品がひろく分布し利用されてきた
⑽ モチ米と魚肉を交互に桶の中に漬け込んで発酵させたナレズシが少数民族の間に点々と分布
11 河川で鵜を使って漁労を行う鵜飼の習慣が中国西南部・長江流域・日本でみられること
などを挙げている。
この照葉樹林帯はヒマラヤ山脈に遮られた気流が南から北東に伸びる温暖・多雨な豊穣な地域であった。この地域に定住した民は水稲の稲作の恵みにより、西はインドのタミル地方から東は日本列島、朝鮮半島に進出した。
彼らが日本の水稲稲作農業の基礎を築いた揚子江中下流域から来た弥生人となった。彼らが日本の弥生時代の銅剣・銅鐸文化圏の人々である。彼らの日本語への寄与が大野晋の日本語の起源として報告されている。
同時期、照葉樹林帯より北の民、すなわち縄文人が日本列島のみならず古代中国大陸にも存在し、農耕や遊牧を行い、殷の時代に漢字を作ったりして日本文化と日本語の大枠を造った(参考)が、彼らと交流して互いに切磋琢磨した結果が現在の日本文化になったと考えられる。