お釈迦様と日本に水稲稲作をもたらした弥生人が同族であった | 日本の歴史と日本人のルーツ

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照葉樹林帯はヒマラヤ山脈に遮られた気流が南から北東に伸びる温暖・多雨な豊穣な地域であり、この地域に定住した民は水稲の稲作の恵みにより、西はインドのタミル地方から東は日本列島、朝鮮半島に進出している。

ところで、お釈迦様の一族、釈迦(シャカ)族はアーリア人と言うより、水稲の稲作を生業とするモンゴロイドであろうとする説が有力であり、照葉樹林帯の近辺に定住した民であった。

すなわち、彼らが日本の水稲稲作農業の基礎を築いた揚子江中下流域から来た弥生人と同族であり、日本の弥生時代の銅剣・銅鐸文化圏の人々であり、Y染色体ハプログループO2(旧分類)を持ち、彼らの日本語への寄与が大野晋の日本語の起源として報告されていた。

また、現在の中国南部のミャオ族が彼らと同族である(参考)。


参考

① シャカ族について~(宮城顗)

大江広のつぶやき(参考)

 シャカ族は、現在のインドとネパールにまたがった東西約80キロ、南北約60キロほどの比較的狭い地域(京都府より少し広い地域)に住み、稲田と家畜の生産物で生活していました。タラーイ盆地の一部をなすその領地は、北方はヒマラヤ連山、東方はローヒニー河、西と南はラプチ河を境とする極めて肥沃な低地で、沙羅樹の高く茂り聳える森林の間には魚類の豊かな湖沼が点在していました。村々が黄金色に実る稲田の周りに散在し、あちこちに池を囲んでマンゴウやタマリンドが茂り、牛が叢林を徘徊していました。シャカ族は、経典に「繁栄と大いなる快楽とを恵まれた種族」とあるように、豊かな種族でした。ガンジス河流域諸国と山地とを媒介する地理的条件にも恵まれていましたが、その富の源泉は、疑いもなく稲作にありました。釈尊の父親の名前はスッドーダナといいます。漢訳経典では「浄飯王」と訳されていますが、スッドーダナとは「浄い米飯」「白米の御飯」という意味です。また、スッドーダナの3人の弟たちの名前も、スッコーダナ(白飯)、ドートーダナ(斛飯)、アミドーダナ(甘露飯)というように、みな「オーダナ」(飯)という語を含んでいます。こういう名前から見ても、当時、シャカ族ではすでに稲作が行われていて、白米が珍重されていたことが分かります。

シャカ族は人種的に何人種に属していたのか?

アーリア人の聖典であるヴェーダの権威を全く認めていないのですから、アーリア人ではなく、ネパール人と同様、モンゴロイド(蒙古系人種)だったのかもしれません。かつて、イギリスの歴史学者ヴィンセント・スミスが、「釈尊は生まれは蒙古人であったらしい。すなわち蒙古人の特徴をそなえチベット人に似たグールカのような山岳民であったらしい」と発表して、議論を巻き起こしたことがありました。また、インドの著名な歴史学者チャクラヴァルティも、「(シャカ族は)多分ネパール地域のモンゴル人であった」と言っていますから、歴史学畑では、シャカ族はモンゴロイドだったと考えられているのかもしれません。実際、インドの古い文献には、シャカ族はアーリア人種ではなく、キラータ(山の民)だと書かれているといいます。キラータというのは、ヒマラヤ東部からアッサム、雲南にかけての山岳地帯に住むモンゴロイド(蒙古系人種)のことです。インドに稲作を伝えたのは、このキラータだといいます。釈尊の頃のインドでは、麦や粟や稗が主食で、米はまだ珍しかったはずですが、シャカ族だけは、ちゃんと米を食べていたのです。ですから、シャカ族がキラータだという説には信憑性があるようにも思えます。-著者宮城顗・仏弟子群像(8)-


赤地域: 現在のネパール国ルンビニ(釈迦生誕地)


② 照葉樹林帯と日本人(参考)

横山 智によると、アジアの照葉樹林帯に沿って存在する文化の特徴として、
⑴ 野生のイモ類やカシの実などの堅果類を水にさらしてアク抜きする技法
⑵ 茶の葉を穴の中で発酵させ、それを、加工して飲用する慣行
⑶ 蚕をはじめとする絹糸虫(カイコガ)の繭から糸を引いて絹をつくる技術
⑷ ウルシノキの樹液を用いて漆器をつくる技法
⑸ 柑橘とシソ類の栽培とその利用
⑹ 雑穀やを粒のまま麹を用いて発酵させて酒を醸造する方法
⑺ 最近までイモ類の他、雑穀類(アワ・ヒエ・モロコシ・ソバ・陸稲)を栽培する焼畑耕作がひろく分布し生活を支えてきた
⑻ 雑穀類やの中から、粘性の高いモチ澱粉を有する品種(モチ種)をつくり出し、粘性に富む特殊な食品を数多くつくり出した
⑼ 味噌や納豆などのような大豆の発酵食品がひろく分布し利用されてきた
モチ米と魚肉を交互に桶の中に漬け込んで発酵させたナレズシが少数民族の間に点々と分布
11 河川で鵜を使って漁労を行う鵜飼の習慣が中国西南部・長江流域・日本でみられること
などを挙げている。

照葉樹林帯

この照葉樹林帯はヒマラヤ山脈に遮られた気流が南から北東に伸びる温暖・多雨な豊穣な地域であった。この地域に定住した民は水稲の稲作の恵みにより、西はインドのタミル地方から東は日本列島、朝鮮半島に進出した。

彼らが日本の水稲稲作農業の基礎を築いた揚子江中下流域から来た弥生人となった。彼らが日本の弥生時代の銅剣・銅鐸文化圏の人々である。彼らの日本語への寄与が大野晋の日本語の起源として報告されている。

同時期、照葉樹林帯より北の民、すなわち縄文人が日本列島のみならず古代中国大陸にも存在し、農耕や遊牧を行い、殷の時代に漢字を作ったりして日本文化と日本語の大枠を造った(参考)が、彼らと交流して互いに切磋琢磨した結果が現在の日本文化になったと考えられる。


③ 弥生文化と渡来人の登場 〜タミル語とミッシングリンク〜(参考)



④ 大野晋の日本語の起源のタミール語説(参考)

日本語、韓国語とタミール語の間で文法などが共通し、稲作用語などが若干残存している。

注1: Y-染色体ハプログループO2(旧分類)から見たタミル語と日本語の関係(参考)

O2(旧分類)の分布図

注2: タミル語ゆかりの日本語は九州弁に相当するか!?(参考)

注3: 九州と東国の武士にゆかりの言葉に相当か!?(参考)

注4: 中国南部、九州そして朝鮮半島の犬肉食文化(参考)


⑤ 日本語の起源(参考)

日本語は縄文人と同族であった殷人の末裔、例えば秦、隋・唐の支配層が喋っていた。殷人の末裔は大陸では遊牧民族として活躍し、日本列島に渡来して来た。